Act30.「回帰」



 橙と時間くんの言葉を合図に、歯車の回転速度が上がった。風を巻き起こす程に早く、力強く、ガタガタガタガタと大きな音を立てて回る。あまりの轟音に頭が割れてしまいそうで、は目を瞑り両手で耳を抑えた。これは最早音ではなく痛みだ……けれど限界まで来た時、音は突然止む。閉じていた目を開けると――枯れていた花々は瑞々しく咲き誇り、彩り豊かな花畑が広がっていた。その美しい光景は、縁起でもないが天国を彷彿とさせる。二人が居た花畑は“花時計”だったらしく、止まっていた大きな針が回り始めたため、ぶつからないようにそこを退けた。

 変化があったのは花時計だけではない。工具箱をひっくり返したみたいな雑多な空間が、計算され尽くした機械の内部のように整然としている。規則正しく並び、噛み合う歯車。動く道――巨大な時計の針は姿を消し、動かない普通の通路ができていた。上や下に移動できる階段もある。元々はこうだったのだろうか? 振り子時計は穏やかに揺れ、2,221回目を表示していた電子の文字盤は、2,220、2,219……とカウントダウンを刻んでいる。

「……どうなったの、これ」
「時間が再び進み始めたんだ。あのカウントが0になったとき、2,221回の繰り返しは清算されて、外の世界の16月8日と合流する。橙が受ける筈だった負荷は、全世界の時間に少しずつ肩代わりさせて、均しておいたよ。全ての時計が少しずつ狂ったかもね? でもみんな一緒なら誰も気付かないさ」
 時間くんの説明に、は「ふうん」とぼんやり頷いた。隣の橙は理解した顔をしている。は、彼女と自分とでは知識量や経験、生まれ持った感覚の全てが違うのだろうと思った。の考えられることといえば(2,221回の繰り返しか……どうせなら2,222回の連番だったら良かったのに)ということくらいである。

「うん? 16月8日って……わたし達は17月21日に帰れないの?」
……アンタ達、未来から来たの?」
「ええと、まあ実は。話せば長くなるんだけど」
 二人はとりあえず落ち着こうと、近くの階段に腰掛けた。そしてはようやく橙に、自分の話をする。自分が新しい白ウサギであること、アリスを捕まえる役目を任されていること、バグに飲みこまれてセブンス領にやって来たこと……。異世界人であることも明かした。ここまで来て、彼女に敵意を持たれることは無いと確信があったからだ。案の定、橙は「異世界なんて本当にあったのね」と驚きはするものの、それだけ。を見る目は変わらなかった。

も色々大変だったのね。アタシに協力できることがあればするわ。まずは、元の時間軸に戻る方法よね……」
 うーん。と考え込む橙の上で、逆さまに宙に浮いた時間くんが軽い調子で言う。

「それなら多分何とかなるよ。カウントが0になった時、ここは独立した時空間じゃなくなる。同じ時間軸に人は複数存在できない。居るべきじゃない存在は、ちゃんと排除される筈だよ」
「は、排除って……物騒な言葉を使ってるけど、そんな危険なことにならないよね? 無事に帰れるんだよね?」
 時間くんの口が弧を描く。はハラハラする気持ちもあったが、人をからかって楽しむこの少年の悪い癖が出ているだけだろう、と思うようにした。何だかんだ時間くんは協力的なのだから。

 カウントダウンが進んでいく。それを眺める橙は、どこかすっきりした顔をしていた。は、彼女の手に握られているオレンジ色のリボンに気付き――自分の中で薄れかけていた存在を思い出した。紗幕の向こうに見え隠れする……朧げな女の姿。まだ間に合う。駆け寄って幕を引けば、そこに実態を捕まえることが出来る。

「橙! そのリボンのこと、まだ覚えてるよね?」
 その問いに、橙は空虚な顔で何も答えない。は嫌な予感でいっぱいになる。が……橙はすぐに、くしゃりと泣きそうに顔を歪め、

「良かった……覚えてる、覚えてるわ、オレンジのこと」
 と言った。も泣きそうになりながら、その肩を優しく撫でる。時間くんだけが飄々とした顔で「うーん」と唸った。

「ヴォイドの虚無化に、例外は無い筈なんだけどなあ。あくまで事故死とみなされて、ヴォイドに消された判定にならなかったとか? 残留思念に変化した状態で、が受け取ったからかな? うーん分からない。いや、これも一時的で完全に8日になった時には……」
(ストップ! そういうこと、声に出して言わなくていいんだよ!)
 心は読めても空気の読めない時間くんに、は待ったをかける。だがしかしとて色々と考えない訳ではなかった。時間が戻ったとはどういうことなのか。襲撃してきたヴォイドがどうなったのか。……ピーターは無事だろうか?
「やっぱりが認識したからかな」という時間くんの小さな呟きは誰に聞かれることもなく、大きな声にかき消された。

「橙!」
 突然飛び込んできた声に、三人は驚いて顔を上げた。橙の顔は明るくなり、時間くんの顔は一気に沈む。開いたままの扉から入って来たのはアドルフとピーターだった。はほっとして一気に力が抜ける。時間くんの契約の効力が切れたのかもしれない。

(良かった、無事だったんだ……でもなんで二人が一緒に?)
「なんでアイツがここに居るんだよ。僕、置いてきた筈なのに。まさか自力で時計塔のパズルを解いてここまで来たっていうのか? ただのモブ風情が……」
 誰に言う訳でもなくブツブツとごちる時間くんの、あまりの物言いに、は少し怖くなった。橙がアドルフの元に向かったので、自分も時間くんから逃げるようにそれを追う。

「橙、無事か? 怪我は? ……泣いたのか?」
「大丈夫よ。と……時間くんがどうにかしてくれたから。ごめんなさい、色々」
 駆け寄った橙とアドルフはそのまま抱きしめ合いでもするのかと思えば、数メートルのぎこちない距離を保って立ち止まる。彼の腕は一瞬だけ橙に伸ばされたが、力なく下ろされた。その大きな手には生傷があり、衣服は汚れていてボロボロだ。ここまでの道中、彼は相当苦労してきたに違いない。アドルフは壊れかけのゴーグルを外し、その涼しい灰青の瞳を熱く燃やして、橙を見つめた。

「そうか、記憶が戻ったんだな。……すまなかった」
「な、何がよ。アンタが謝ることなんて」
「俺は、何もできなかった。お前を守っているつもりで、向き合うことから逃げていただけだ。俺はお前のように特別ではないから、これからも大した力になってやれないかもしれん」
 その声は、いつもの彼からは想像できない程はっきりしていた。橙は彼の謝罪に、まるで別れを切り出されたみたいな顔をしている。しかしは、アドルフが簡単に橙を手放すことは無いだろうと思った。――これから起こるのは、寧ろその逆なのである。
 は二人の邪魔にならないようピーターの隣に避難して、気まずそうに見守った。

(橙は、いつ代償のことを言うのだろう?)

「だが……例え無力でも不甲斐なくとも。お前が許してくれるなら、俺はお前の夫だ。次からはせめて一緒に背負わせてくれ」
 アドルフの事をよく知らないでさえ、その言葉には胸を打たれた。彼を深く知り、それを真っ直ぐに向けられている橙はその比ではないだろう。

「なっ、何よ改まって! 怖気づいて父親のふりしたのは、どこの誰よ!?」
「だからすまなかったと言ってるだろう! もう嘘はつかない、逃げない! 俺は夫で、俺達は夫婦だ!」
「ちがうよー」
 感動的な痴話喧嘩を、時間くんのニヤニヤ声が邪魔する。橙が肩を落とし、はそっと溜息を吐いた。アドルフが「は?」と時間くんと橙を交互に見る。

「どういう意味だ?」
「残念でしたー。君達はもう夫婦じゃないんですー」
「何を……橙、どういうことだ?」
「時間くんとの契約で、アンタとの婚姻関係を解消したのよ」
 アドルフは目と口をポカンと開けて放心していたが、ようやく話が飲みこめたのか、序所にその顔が青褪めていく。ピーターがにだけ聞こえる声で「何これ、どういうこと?」と言った。大きな事件が痴情の縺れになっていることが理解できないのだろう。「まあ、色々あって……」と応えるも概ね同じ気持ちだった。

「何故、そんなことを」
「ごめんなさい」
「おめでとー!」
 パチパチと拍手で茶化す時間くんは、かつてないほどニコニコしている。時間くんではなく悪魔くんだ。橙は愕然とするアドルフの前に歩み寄り、その手を取った。

「だから、もう一度結婚してくれる? 今度はアタシから申し込むわ」

(ええええええ!?)
 は恐らくアドルフに負けない程、驚いた。

(なに! それ! どういうこと? そんなの通用する訳ないでしょ。そもそも時間くんは心が読めるんだから、それくらい予想して、)
 ……いなかったらしい。は時間くんの顔を見ていられなくなり、遠くを見るふりをした。

「橙、どういうこと、かな?」
「この人に抱いていた“罪悪感”という感情が、時間くんに差し出した代償よ。これはそれとは違う、アタシの別の感情。とやかく言われる筋合いは無いわ」
 橙は時間くんより一枚上手だったらしい。時間くんは「フン」と鼻を鳴らして――姿も気配も消してしまう。はその強大な存在が消えたことに安心した。時間くんが彼らに何かしなくて、大事にならなくて、本当に良かった。
 今度こそ感動的に抱きしめ合う二人に、は慌てて視線を逸らす。気まずさを誤魔化すように、そっとピーターに話しかけた。

「どうして侯爵様と一緒に居たの?」
「ああ……君が時間くんと消えてから暫くして、彼がやってきて、加勢してくれたんだよ。まあ、上に行くっていう目的は一致してたから」
「そう。……怪我してない?」
「それほど。君は?」
「それほど」
「ちょっと目が赤いけど、また泣いたの?」
「あ、あなたに言われたくない」
「僕の目が赤いのは元からだよ」
 どうでもいい会話は単なる休息だ。二人は疲れていたのだ。ここまでの全てに。そしてこれからの、まだ解決していない自分達の問題を思うと、頭が痛くなる。

(でもまあ、良かった……かな)
 橙が幸せなら、今くらいは手放しで喜んでも良いのかもしれない。が遠慮がちに彼女を見ると、視線に気付いた橙が見られていたことに赤面しながら、アドルフを引き剥がしての元にやって来た。

、本当に有難う。全部のおかげだわ」
 は気の利いた言葉が思い浮かばず、ただ笑顔を返した。言葉は余計な気もした。橙の後ろで、アドルフが何か言いたげな顔をしている。が首を傾げると、逃げ場を失った彼はボソボソ言葉を紡いだ。

「結局、きさ――お前が橙を助けたんだな。感謝する。それから、すまなかった」
(今、貴様って言おうとしたよね?)
 彼の言葉は嘘には聞こえないが、額面通りにも思えなかった。その目はに対して未だ負の感情を抱いている。それは嫉妬なのかもしれない。――はそれを無視した。別に彼がどうだとかそう言う訳ではない。アドルフと橙の後ろに、見覚えのある黒い穴を見つけ、そこに意識が持っていかれたのだ。

 その穴は最初は手の平程もなく、見間違いかと思ったが……宙を食んで序所に広がっている。カウントダウンに比例するみたいに、見る間見る間に人を軽く飲みこむ大きさになった。先の見えないトンネルのようなそれは、とピーターがセブンス領に来ることになった原因の穴だ。

「あ、あれって……バグ?」
 の言葉に、橙もそれに気付く。そして穴ととを交互に見た。

「時間くんが言っていた“排除”って、これのことかしらね? 本来ここに居ない存在が居ることで、空間に生じる不具合。自動修復反応とでも言うのかしら。そこまで便利なものではないようだけど……」
 橙は興味津々に、研究者顔で穴の中を観察している。アドルフは心配で堪らなそうだ。はピーターと顔を見合わせる。

「またあの中に入らなくちゃいけないの? 時間くん、道案内してくれるかな」
「どうだろう。相当機嫌を損ねていたみたいだけど」
「心の中で呼びかけても全然反応してくれない……どこかに辿り着くためには、座標軸とか時間軸とか、色々必要なんだよね?」
 の言葉に橙がピクリと反応を示した。そして「ちょっと待ってて!」と言うと……どこからともなく色々な道具を取り出しては「これじゃない」「これでもないわ」と言って放り投げていく。テレビのリモコンのようなもの。電子レンジのようなもの。様々な“何かに似ているがどこか違うもの”が、どこからか出てきてはどこかへ消えていく。彼女もこの世界の名物“物を取り出す手品”を使いこなせるらしい。

「あった! これだわ!」
 ようやく目当てのものを見つけたみたいだ。橙は手に収まる大きさの通信機っぽい何かをに渡すと、その画面に表示されている内容の説明を始めた。

「以前作った、空間位置計測機よ。そんなに使う機会は無いと思ってたけど、役立つこともあるものね。アンテナを伸ばして――ほら、ここに今の時間軸が表示されているわよね? あとこっちには座標軸。横のダイヤルを回して目的の位置を……どこから来たんだったかしら?」
「え、えっと」
 活き活きと語る橙に押され気味のは、答えに窮する。……何だっけ、何地区だっけ? 困惑するの後ろからピーターが画面を覗き込み、橙の質問に答える。は彼らに挟まれながら、ただ自分の手元で複雑な設定が終わるのを見ていた。

「目的地までの方向や距離はここで見るの。この二つの座標が一致するように進んでいけば目的地に辿り着けるわ! 多分」
「え? 今“多分”って言った?」
「あはは、言ってないわよ」
 軽快に笑う橙。妙に明るいのは、近付く別れへの寂しさを紛らわせる為か。その顔が一瞬寂しそうに歪むと、も心が痛む。「本当は達に付いて行きたいところなんだけどね……やることがあるから」と言う橙に、は不思議そうにした。そんな彼女をピーターが急かす。

「早く行こう。バグが繋がっている内に」
「え? あ、うん。じゃあ……帰るね。一緒にお祭りに行けないのは残念だけど」
「ええ、そうね。その埋め合わせはいつかちゃんとしてもらうわ」
「ふふ、そうだね」
「未来で、絶対会いに行くから」
 橙の言葉に、は頷いた。折角橙の記憶喪失が解消されて、普通の友人関係を築けると思ったところでの別れ。正直後ろ髪を引かれる思いはある。だが、どこかで安心もしていた。……これ以上彼女と仲良くなるのは、唯一の親友に対する不義理だと感じていたのだ。
 は躊躇いながら、闇の中に小さな一歩を踏み出す。最後、振り返った先に見えたのは、両手に大事そうにリボンを握りしめて笑う橙だった。



「行っちゃったわね……」
 口にすると実感が増して、橙は後悔した。カウントダウンは0になり16月8日が訪れたが、自分の心の中にはまだオレンジの姿が残っている。それは、が残してくれたものだ。

 異世界人。現白ウサギ。時間くんの力を借りて自分を救ってくれた、。彼女は一体何者なのだろう? その答えは決まっている。大切な友人だ。

 オレンジに初めて会った時、彼女のことをもっと知りたい、自分のことを知ってもらいたいと思った。二人で過ごしたいという想いは生きる活力を取り戻してくれた。それが失われて絶望していた時、現れた少女。

 ――まだ生きていたい、進みたいと思った。何が起きるか分からない未来へ踏み出してみたいと。

(時間とは、変化。は……アタシの時間になったのね)
 
「さあ、次は表世界のヴォイド達を何とかしないと。アタシ、ループ中に成長したのかしら? 不思議と力がみなぎってるわ。今なら負ける気がしない」
「無茶はするなよ」
「もちろん! 会いに行くって、約束しちゃったもの」 inserted by FC2 system