Act3.「READ ME」



 この世界に来て、幾度目かのお茶会が始まる。
 自身も含め、常盤も黄櫨も基本的には一人で行動することを好む性質のようだったが、タイミングが合えば共に食事をする。彼らとの食事は毎回“お茶会”という形式だった。

 暑くも寒くもない快適な中庭。テーブルの上には数々のフィンガーフード。華やかな少量多品には夢や憧れが詰まっている。サクサクしっとりほうれん草のキッシュ、ふわふわのスフレオムレツ、トロトロのポタージュ。一口サイズのサンドウィッチやタルトは精巧なフェイクフードのようで、食べてしまうのが勿体なく思えた。

 好きなものを好きなように好きなだけ食べ、満足したら終わる自由なお茶会。はこの時間がとても好きだ。しかし敢えて言うなら一つだけ不満……とまではいかないが、疑問がある。お茶会だというのに、自分に出されるのは必ずココアだという点だ。

 この国には、お茶会ではココアを飲むという決まりでもあるのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。何故なら自分以外の二人は紅茶(黄櫨は時々ココアだったが)を飲んでいるのだから。それも常盤は紅茶に対してかなり強い拘りを持っていて、茶葉は上等なものを使用しているらしかった。何種類もの茶葉をその時の気分で飲み分けている。

「あの……どうして、わたしにはいつもココアなんですか」
 は甘いココアの味が残る口で、ようやく尋ねた。手元のティーカップに丁度紅茶を注ぎ終えた常盤が、意外そうな顔をする。黄櫨はかぼちゃプリンを黙々と頬張っていたが、大きな丸い耳はピクピク動いていた。

「好きだろう?」
「いえ、まあ好きですが……食事には紅茶の方が合うかな、なんて」
 確かにココアは美味しい。しかし食事の時の飲み物としてはどうかと思う。特に、常盤の淹れるココアはかなり甘い味付けで、デザート級なのだ。

「そうか……君は紅茶が飲めるのか。ではミルクティーを用意しよう。砂糖はいくつ入れる?」
「無糖のストレートでお願いします」
「えっ」
「えっ?」
 常盤の反応に、は首を傾げる。彼は新しいカップを用意する手を止めて、戸惑うような疑うような目でを見た。

「無糖だと甘くないが、大丈夫か? 無理して私達に合わせる必要はないぞ」
 無糖なら甘くないのは当然だろうな、とはおかしくなって微かに笑った。

「大丈夫ですよ、普段から結構飲みます。コーヒーもブラックで飲めますよ」
 そう言ったに、彼の目が遠い色を帯びる。の発言は彼に何らかの衝撃をもたらしたようだった。彼は何か思い耽るような、若干心あらずな様子ではあったが、それでもできるだけ飲みやすい茶葉を選んで紅茶を淹れてくれた。

 ティーポットが傾く。は自分の為に注がれるそれをうっとりと眺めた。透き通る飴色が、白磁のカップの中に煌めく水面を作っていく。湯気と共に果物を思わせる瑞々しい香りが漂った。

 コト、と紅茶の入ったカップが目の前に置かれると、は「ありがとうございます」と礼を言い、静かな二人の視線を感じながらカップの端に口を付けた。

 甘い口の中に、爽やかな清流が注がれる。砂糖の甘さとは違う紅茶本来の甘味。舌に馴染むまろやかで優しい味わい。すっきりとしたのど越し。渋味と癖が控えめな、とても飲みやすい紅茶だった。はその美味しさを、目を閉じてじっくり堪能する。今まで自分が飲んできた安物のティーパックの紅茶に戻れる気がしない。(あれはあれで美味しいけど)

「すごく美味しいです。香りも味も好きです」
 とが心からの感想を述べても、常盤はまだどこか微妙な顔をしている。は彼の様子に、初めて珈琲を口にさせてくれた時の親戚の反応を思い出した。大人の真似をしたくて背伸びした自分が、苦いのを我慢して美味しいと言った時の、あの顔。微笑ましさを内包しつつ、心配するような目。

「常盤さん、わたしのことを小さな子供だと思ってませんか?」
 は冗談めいた顔でそう言った。しかしそれに応じる彼の顔は真面目そのもので、また、どこか神妙なものだ。

「いや……君はもう子供じゃないな。分かっている」
 それはまるで独り言のようだった。は彼のことを帽子屋らしからぬマトモな人物だと認識しているが、それも時々揺らぐことがあった。

(やっぱり、ちょっと変わった人だよね)

 は初めて会った時から、彼の自分に対する言動に違和感を抱いていたが、それに向き合おうとするとを謎の頭痛に見舞われるため、顔を背けることが大分上手くなっていた。きっとそのことを追及するのは、間のページを飛ばして最終章から読むような、してはいけないことなのだと本能で感じている。

 自分の中に芽生えた、アリスを捕まえることに対しての義務感もそうだが……この世界には自分の意志以外に、本能を突き動かす大きな何かが存在している。それに従順に従うは、自分がどんどんこの世界に染まっていることを感じていたが、抗いようもないのが事実である。

 美味しい紅茶、食事、素敵なお茶の時間を過ごせるなら、抗う必要なんてないのかもしれない。

 はまたひと口、紅茶を飲んだ。



 *



 終わらないお茶会もそろそろ終わる頃、突然庭に一陣の風が吹き込んだ……ような気がした。その風は風圧を伴わず何も揺らすことはなかったが、確かにの肌を撫で、ぞくりと嫌な気にさせる。そこはかとない悪寒に、は風邪の引き始めに近い感覚を覚えた。

「今、おかしな風が吹きませんでしたか?」と言って、少しも乱れていない髪を撫で付けるに、常盤も黄櫨も返事をしない。が不思議そうに二人を見ると、彼らは険しい顔を見合わせていた。

「黄櫨」
「うん。分かってるよ」
 常盤に名前を呼ばれた黄櫨は頷き、目を瞑る。そして、遠くの音を拾うように両手を耳の後ろで丸めた。は彼らのその様子に何かあったのかと訊ねたかったが、自然の音でさえ気を遣い黙り込むようなこの静寂を、壊すことが出来るはずもない。呼吸さえ憚られる程だった。

 少しの間を置いて、黄櫨が小さな口を開く。その口から出たのは数字の長い羅列で、呆然とするの右耳から左耳にそのまま抜けていった。は黄櫨が故障してしまったのではないかと不安になる。それを察したのか、黄櫨が「座標軸だよ」と言った。

(座標軸……?)

「ここから南東に12km、イレヴンス領十二番地区が襲撃を受けてる。多分、ヴォイドだよ」
 は少年が語る言葉に驚いた。襲撃という物々しいワードもそうだが、彼は12km先の音を聴いていたのだろうか?(もしそうだとしたら、自室に居る時も安心していられない……いや、今はそんなことはどうでもいい!)

 はここ数日でいっぱいになった知識の引き出しを探る。
 黄櫨のいう“ヴォイド”とは――確かアリスの意思が具現化した怪物で、表世界に現れる虚無化の象徴のような存在だった筈だ。大地や人々を蝕み、消滅させていくという恐ろしい怪物。それがたった12km先まで来ているということだろうか?

 は平和な時間からの急激な落差に、眩暈を覚える。このまま怪物が進行してきて、一気にクライマックスになったらどうしよう。そんな打ち切りみたいな投げやりな結末は受け入れられない。

 は自分で思っているより、強張った顔をしていたのだろう。常盤が彼女の頭にポンと手を置いて、安心させるように「大丈夫だ」と言った。やはり子供に言い聞かせるみたいな彼を、は不安げに見上げる。

「絶対に、ここまでは来させない。君は黄櫨と一緒に書斎にでも居ると良い。本を読んでいれば、少しは気が紛れるだろう。絶対に外に出るんじゃないぞ」
「常盤さんは……?」
「私は少し、出かけてくる」
 そう言った彼の目は、恐らく南東の空を見ていた。はアリスが関わっていることなら自分も出向くべきだろうと思ったが、口を開きかけたところで察した常盤に先手を打たれる。

「君はここに居なさい」
 言葉よりも、その声は優しい。常盤はポンポンと何度か心地よいリズムでの頭を撫でてから、立ち上がると、もう彼女と目も合わせずにどこかへ行ってしまった。きっと彼は黄櫨の言っていた場所に行くのだろう。は置いて行かれたことに安堵している臆病な自分に気が付いて、暗い気持ちになる。

 その背を、ちょん、と小さな手がつついた。黄櫨だ。

「行こう」
「どこへ?」
「書斎。あそこには本がたくさんあるから、退屈しないよ」
「でも」
。言われたでしょ、僕と一緒に居ろって」
「……うん、そうだね」

 平和な世界に住んでいた自分には、想像も出来ないことが起きている。それはとても危険で恐ろしいことなのだろう。だが黄櫨はいつも通りの顔で至極落ち着いている様子だ。もしかするとそれほど危なくは無いのだろうか。そうであって欲しいと思った。

「本当に、大丈夫なの?」
「まあ、多分ね。ここに居れば大丈夫だよ」
「常盤さんは?」
「常盤は大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫」
 その口調は存外に軽い。黄櫨の言葉にしては軽すぎて違和感がある。は黄櫨の無表情に少しだけ張り詰めた何かを察して、その言葉は彼が自身に言い聞かせているものなのではないかと思った。



 *



 この家の書斎はもはや図書館だと、は訪れる度に思う。ずらりと並んだ背の高い本棚に隙間なく詰められた本。天井までひしめき合う本、本、本。それには独特の圧迫感があり、気を取られて部屋全体の大きさが掴めない。本棚の間を歩き回っている時はどこまでも続く巨大な迷路のようだったが、一冊取り出して読み始めると、途端に小さな小部屋に感じられるのだ。

 書斎にある何千何万の本は、本の虫である黄櫨が個人的に集めたものだという。そのジャンルは多岐に渡っていたが、物語性のある本は少ない。全てを読了するには、自分の一生をかけても足りないだろうな……と、は気の遠くなる思いで本棚を見上げた。黄櫨はこの全てを把握しているのだろうか?

 黄櫨を見ると、早速本を開いて椅子にちょこんと座っている。その姿はこの空間にとても馴染んでいた。それもその筈だ。この書斎は黄櫨が一日の大半を過ごす場所で、殆ど彼の自室なのだから。

「黄櫨くん、気になっていることがあるんだけど」
「なに?」
 読書中の黄櫨は紙の世界に集中しているように見え、話しかけてはいけない雰囲気があったが、共に時間を過ごす内にそこまで気を遣わなくてもいいのだとは学んでいた。真面目な顔で黙ってページをめくるその姿は少年の常であり、そこにバリアなど張られていない。黄櫨自身も、読書しながらと常盤の会話に入ってくることがあるくらいだ。

「黄櫨くんは遠くの音が聞こえるの?」
 先程のお茶会で黄櫨は、その小さなネズミの耳を澄ませ、12qも先を探知していた。いくらネズミの聴力が人間と違うと言っても、そのレベルの話で片付けられることとは思えない。の問いに、黄櫨は小さく首を横に振った。

「聞こえるんじゃないよ。感じるんだ」
「感じる?」
「五感じゃなく、いわゆる“第六感”を使うんだよ。特別なことじゃないんだけど……みんな自意識に囚われて、無意識に気付けないフリをしているだけ」
 “第六感”とは、霊感みたいなものだろうか? 理屈から離れた胡乱な響きに聞こえるが、黄櫨が言うと不思議と信じられる気がした。

「わたしにも感じられるのかな?」
「気付こうとすればね。コツは瞑想世界に入ること。感覚を研ぎ澄ますんだ」
「瞑想世界に入るコツは?」
「……自分を忘れてみること。……本を、読んだり」
 黄櫨の言葉が途切れ途切れになる。そろそろ本に意識が吸い込まれ始めているな、とは察し、会話をやめた。

 瞑想世界に入るかどうかは別として、不安や心配で落ち着かない心を鎮めるために、本を読むのは良い手段かもしれない。は本棚の迷路に足を踏み入れた。

(何か面白い本はないかな?)
 本の背をざっと流し見し、時々引き抜いてみて、また戻す。……興味を割く心の余裕が不足していた。頭が勝手に悩みたがってしまう。
 ヴォイドという怪物の襲撃に抗う術はあるのだろうか? 常盤は無事に戻ってくるだろうか? アリスの敵である自分もいずれ、その怪物と相対する時が来るのだろうか?

 考えても答えの出ないことに思考を支配されていると、いつの間にか書斎の一番奥まで歩いてきてしまっていたらしい。目の前にある本棚の向こうは壁で、行き止まりだった。は戻ろうとしたが――体が思うように動かない。足が、目が、自然とその本棚に吸い寄せられていく。

 耳鳴りに似た、近くて遠い何かが、自分を呼んでいる……。

 は自分の意志とは無関係に本棚に手を伸ばし、一冊の本を手に取った。本を手に取った瞬間に耳鳴りは止む。は直感で、この本が自分を呼んでいたのだと理解した。

 本は、他と比べて明らかな異彩を放っている。
 分厚い皮のカバーは長い時間の経過を感じさせる暗褐色をしており、手彫りで複雑な模様が描かれていた。ザラザラした表面に触れてみると湿っぽく吸い付くようで、人間の皮膚を想起してしまい、気味が悪くなる。僅かに脈打っているようにも感じたが、きっと自分の手の脈だろうと、は己に言い聞かせた。

 怖いもの見たさという感情が近いだろうか。はその本を手放せない。まじまじ見ていると、表紙に小さく掘られたタイトルらしきものを見つける。はそれを目で、声でなぞった。

「……READ ME?」

 “わたしを読んで”
 この本はそう言っているのだろうか? は本に誘われるまま、表紙を開く。

 ――ああ、思った通り。
 それはやはり、普通の本ではなかった。表紙を開いた先に広がっていたのは、文字でも絵でもなく、大きく開かれた口だったのだから。

 そしては飲み込まれた。文字通りばっくりと。ごっくりと。



「……?」
 書斎の妙な静けさに違和感を覚え、黄櫨はの姿を探した。一つ一つ本棚と本棚の間を見て回るが、どこにも彼女の姿は見つからない。それどころか、この家のどこにも自分以外の気配が無いことに、彼の並外れた感覚が気付いてしまった。

 黄櫨は無意味なことと知りながらも、小走りで書斎の中を回る。どこかに彼女を見つけなければいけなかった。そうでなければ自分は――を預けていった常盤の信用を裏切ることになってしまう。

 とうとう最後の本棚まで来てしまった黄櫨は、そこに開かれたままうつ伏せに落ちている本を見つけた。彼女がここで何かをしていたのかもしれない。本棚に戻そうと反射的に伸ばした手は、本に触れる寸前で、危険を察知してピタリと止まる。そして急いで引っ込められた。

 ……“本”は警戒心の強い少年に悔しそうに歯軋りして、バタバタ暴れ始める。黄櫨は見覚えの無い本(とは呼べないそれ)を、ただ目を丸くして見ていることしか出来ない。

 本はひとしきり暴れると気が済んだのか、獰猛な牙で絨毯を食い毟り、もぐらの如く床を掘り進め、消えていった。本が居なくなると絨毯は縫われたみたいに、何の痕跡も残さず元通りになる。……全てが白昼夢であったように、そこには何も残らない。

 これも一種の異変か、バグか。それとも何者かの仕業なのか。何にしても危険な侵入者が本に紛れて――きっと、多分、恐らく、を巻き込んでどうにかしてしまったのだろう。彼女は食べられてしまったのだろうか。もうどこにも居ないのだろうか。

 黄櫨は力が抜け、ストンとその場に座り込んだ。

 書斎はひたすら静かだった。 inserted by FC2 system