Act29.「清算の時」



 時間(とき)の狭間を落ちながら、は必死で橙の名を呼んだ。時計の文字盤に浮かび上がる橙の過去の幻想が、今の彼女を隠そうとしていたが、見失わないようにただ自分の知る橙だけを追いかける。何度目かの呼びかけに、ようやく橙は目を覚まし、はその冷たい手を捕まえることが出来たのだった。
 はしっかりと自分の胸に橙を閉じ込める。……しかし落ち続けている状況は変わらない。どこに向かうのか、どこにも行けないのか――

「時間くんっ!」
 は大声で叫んだ。すると、二人の体がガクンと揺れ、宙で止まる。橙を捕まえたを、時間くんがクレーンキャッチャーのようにキャッチしたのだ。

は“時間使い”が荒いなあ」
「……助かった。有難う」
 時間くんに運ばれて、二人はどこかに下ろされる。そこはセピア色の花畑で、どの花も生気なくカサカサに枯れていた。は戦闘と落下という緊張のオンパレードから開放され、ぐったりと仰向けに倒れこむ。隣で同じく花畑に埋もれた橙は、途方もない天井をぼうっと眺めた。
 それから暫くは互いの息遣いしか聞こえなかったが、やがてぽつり、ぽつりと橙が話し始める。

「どうしてアタシだけ、いつも助かるのかしら。アタシの周りはみんな、居なくなってしまうのに」
 は顔だけを彼女の方に向けた。橙は片腕で目元を覆っている。泣いているのかもしれない。

「訳の分からない頓珍漢な名前なんて、要らなかったのに。みんなと同じ、ただの人間で良かったのに」
 橙の嘆きを聞いて、の中に少し前の時間くんの言葉が蘇る。『君がこの世界の“駒”――キャラクターである以上、無駄な偶然なんて存在しない。全てが物語の展開のためにある必然さ』と、時間くんは言っていた。偶然が無いというのは、自由が無いということではないだろうか。キャラクターは、数奇な人生を歩まざるを得ない運命なのだろうか。

「アタシはきっと世界に呪われてる。周りを不幸にする。……だから、アタシと一緒に居たら、だってきっと」
 橙はそこで言葉を区切り、一つしゃくり上げた。は聞き捨てならないとばかりに体を起こし、彼女の上に覆いかぶさると、その腕を強引にどけて目を合わせる。やはりその目は赤く腫れ、悲しみに濡れていた。

「わたしが、何?」
「それは……だから」
「わたしが、橙の所為でどうにかなってしまうってこと? 死んじゃうって?」
「だって」
 橙が視線を泳がせる。溢れた涙が目の横を流れていった。

 ……見た目は中学生くらいにしか見えない橙。もしの世界に彼女が居たなら、その涙は友達との些細な喧嘩や部活動、青春に捧げられていた筈だ。恋や勉強に悩み、女子高生に憧れて、プリクラにタピオカドリンク。しかしそんな普通の幸せを、この世界は許さない。
 時間の狭間で見て来た彼女の過去は、壮絶なものだった。恐らく彼女は自分よりも遥かに長い時間を生きている。個々に流れる時間の違う不思議の国で、彼女はずっと少女のまま、普通の少女らしからぬ人生を歩んできた。人ならざる悪魔のような存在に魅入られ、悪魔のような人間に利用され、大切な人々を次々に失い、そして今ここで、また失うことを恐れている。

 ……これが不思議の国の描いた物語の一つだというなら、センスがない。悲劇で感動を得ようだなんて、なんて安直なストーリーなのか。

「わたしは、大丈夫だよ。絶対。橙には殺されないから」
 の言葉に橙が目を見開いた。その濡れた飴色は、琥珀みたいに光を集めている。

「何を根拠にそんなこと」
「今まで“こんなところ”まで付いてこれた人、他に居なかったんじゃない?」
 それにわたしも一応、今はキャラクターだから。と言うと、橙は純粋な驚きで目を丸くした。……その話は後で、ゆっくりしよう。

「橙、帰ろう。一緒に明日に行こう」
「でも時間が進んだら……完全にオレンジが消えちゃう」
 はポケットから、林で橙に受け取ってもらえなかったリボンを取り出すと、彼女の手にそっと握らせた。今、確かに自分の中にオレンジの存在はあるが、それはこのループを抜ければ本当に消えてしまうのだろうか? 世界の進みと共に無いものになってしまうのだろうか? 実のところ分からない。でも、

「橙が忘れても、わたしが思い出させてあげるよ。約束する」
 この不確かな願いを、約束を、橙に信じて欲しいと思った。信じる者が二人になれば、それはきっと強さを増す。橙は唇を震わせ、何度か空白を紡いでいたが……無言で小さく頷いた。その時目を伏せた橙が、一瞬だけ自分よりもずっと大人の女性に見えて、は見入る。そんなを橙は優しく押し戻し、起き上がった。

「ええ、信じる。時間も正常に戻すわ。でも……一緒には帰れないかもしれない」
「え? なんで」
「アタシには未払いの大きな負債があるのよ。ね、そうでしょ? 時間くん」
 今の今まで存在感を薄めていた時間くんに橙が声を掛けた。はその時初めて、まともに二人の視線が合ったように感じた。どちらも互いをどう思っているのか分からない、不思議な見つめ合いだった。

「そうだね。その通り」
「何? どういうこと? 負債って?」
「ループを繰り返してきたこの時空間には、外界の時間との間に摩擦が生じている筈なのよ。時間を進めた瞬間、それは負荷となり一気に押し寄せる。耐えられずに街ごと壊れるかもしれないわ。でも、人より少しは容量の大きいアタシなら受け止められるかもしれない」
「言ってる意味が分からないんだけど……」
 つまり時間を進めると、危険だということだろうか? 時間そのものである時間くんが否定しないということは、橙が言っていることは正しいのだろう。は焦った。

「アタシの時間の全てを使って、負荷を相殺してみせるわ。どう? 時間くん。足りないかしら?」
「ちょうどいいんじゃないかな」
「それは良かった」
「え、待って、橙の時間を使うって……それってつまり」
 橙に与えられた人より長い人生の時間、“寿命”を使うということだろうか。それを使い切るとはつまり、彼女は、

「大丈夫よ。もう充分過ぎるくらい生きてきた気がするもの。思っていたより良い終わりだしね」
 橙の言葉に淀みはない。しかし先程から一向にと目を合わせないようにしていることが、何よりの心の表れだった。

。アタシは自分の都合で、勝手に時間をループさせてきた。本来なら時間をどうこうする力なんてないアタシが、借り物の力で調子に乗ったんだから、仕方のないことよ。代償は支払わなくちゃ」
「ちょっと、なにその展開、やめてよ」

「ありがとう」
 橙はようやく振り返り、柔らかく笑った。無意識だった時の狂気じみた公爵夫人の顔より、今の妙に穏やかな諦めきった顔の方がよほど恐ろしい。その時カチリと、何かが音を立てる。カチカチカチ。それは、ゼンマイを巻く音だった。

「時間を、進めるわ」
 カタカタカタ。歯車が騒がしくなる。止まっていた歯車もその音で目を覚まし、回り出した。
 橙が、には付いていけない超展開を進めていく。それに取り残されたら悲しい結末しか待っていないだろう。進み始めた時間の中で一人ぼっちで「橙、ありがとう。さようなら」なんて寂しく笑って終わりにしたくはない!

「あーあ。橙を助けられなかったら、にも負債を支払って貰わないとね」
 場違いに呑気なその声に、二人の少女がハッと少年を見る。橙は“の負債”が思いもよらない言葉だったのか、ギョッとして酷く狼狽えた。「ちょっと、どういうこと!?」と声を上げるが、はそれを無視して時間くんに歩み寄る。

「時間くん……あなたなら、橙の負債をどうにかできるんでしょ」
「どうにかって?」
「あなたなら橙を助けられるんでしょ。だから今だって、こんな余計な事言ったくせに」
 の言葉に、橙は「えっ」と声を上げた。彼女が完全に助かる可能性を諦めていたのだと思うと、は悲しくなる。
 橙はどうにもならないことのように言っているが、時間くんは元々の時間の支配者だ。というより、時間そのものだ。ならば街の時間を動かすくらいどうってことないんじゃないだろうか。そして、それが最良の道だと思えた。そうすれば彼女が犠牲になることはない。

「勿論、出来ないことは無いね」
「じゃあ――!」
 でもね、と時間くんは少し笑いを薄めて、低い声で言った。

「過ちっていうのは、本人が償わなきゃいけないんだよ。どこの世界でもそうだと思うんだけどさ。それが基本システムなんだよね。何事にも代償は必要ってこと。君達に見合う代償は支払えるの?」
「どんなものが代償になるの?」
「そうだなあ。大きな契約になると、血肉や寿命、感情、記憶……魂、かな」
 意地悪く口の端を釣り上げる時間くんに、やはり彼は人間らしく見えて人間ではないのだと、は思い知らされた。彼の表情と言葉の奥には、目の前の事象が自分にとって面白くあるべきだという、快楽主義の思想が見え隠れしている。ただ彼が橙に好意的で、彼女を救おうとしていることも真実だと思った。は彼の人間に似た部分に賭けることにする。

(それらしいこと言ってるけど、騙されないよ。結局代償なんて、なんでも良いんでしょ? 時間くんが納得できるものなら。最初わたしには、寿命の半分とか言ったくせに……橙に嫌われない為に自分の力の一部を譲ったり、橙を助ける為にわたしに力を貸したりしたもんね? 明確な基準なんて無いんでしょ?)
 言葉にすると色々と橙が考え込むかもしれない、時間くんが聞かれたくないかもしれないと思い、心の中で時間くんを詰める。時間くんは面白くなさそうな顔をした。

(もう……ほんと、そんな意地悪ばかりするから、橙に嫌われるんだよ。どっちみち助けるなら早く――)
「分かったわ!」
 突然大きな声を出した橙に、睨み合っていたと時間くんは弾かれたように彼女を見る。

(なに? 何が……)
「時間くん。アンタ、アタシの結婚に反対してたわよね。助けてくれたらあの人と離婚してあげる!」
 
 リ、コ、ン?
 は開いた口が塞がらなかった。この一大事に橙は何を言っているのだろう? 勿論当人同士にとってはかなり重要な事だろうが……。しかし橙は以上に時間くんを理解していたのか、ただ単に時間くんが橙に甘いだけなのか、少年はやけに嬉しそうにニンマリした後で腹を抱えて笑い出した。

「あは、あははは! いいよ、いいよ、それでいいよ! 君の、愚かな男への“罪悪感”を手放すというんだね。その感情は僕が貰おう!」
「ええ、どうぞ」
「それでいいの!?」
 の突っ込みは時間くんの判断に対するものだったが、橙は自分への反応だと思ったのか「いいのよ」と答える。

「アタシ一人の問題じゃないみたいだしね」
「それは、」
「二人とも、準備は良いね? じゃあほら、早く早く、いっくよー!」
 やけにテンションの高い時間くんが片腕を上げ、パチンと指を打ち鳴らした。橙は胸の前で手を固く結び、目を閉じる。

「“時間よ、進め”」
 橙と時間くんの声が重なった。


 ――悲しみに錆び付いた彼女の時間。
 
 砂時計の砂漠、水時計の海、花時計は枯れ果てる。
 からくり時計の踊り子は、同じ演目を繰り返すばかり。
 
 その永遠を終わらせるのは、たった一つの目覚まし時計。

 けたたましくも爽やかな音に誘われ

 複雑怪奇な彼女の仕掛け時計が今、再び、廻り始めた。 inserted by FC2 system