Act28.「時間の狭間で」



 回る、回る、歯車が回る。
 揺れる、揺れる、振り子時計が揺れる。
 針の音、鐘の音、今は何時? ここはどこ? ――アタシは誰?
 
 体が、意識が、どこまでもどこまでも落ちていく。ぼやける視界の中に時計の文字盤が見えた。そこに映し出される幻想は、過去と現在と未来、全てが入り混じっている。橙は時間の中を彷徨っていた。

(ああ、アタシは……橙。彼女とお揃いのお気に入りの名前。ただこの一つだけで良かったのに)
 もう一つの厄介な名前なんて、要らなかった。橙は込み上げる悲しみから目を閉ざした。

 ――“公爵夫人”。橙はこの世界に生を受けた瞬間から、自分の名と自分に与えられた役名の二つを知っていた。唯一無二のロールネーム、アリスネーム。それを持つキャラクターが“物語を進行する駒”だという法則は自分の奥に刻まれていたが、具体的に求められていることは分からず、使命感もない。きっと自分の好きに生きることが、公爵夫人らしい振る舞いになるのだろうと思うようにした。

 橙は、生まれた時は既に八歳。物事がある程度分かる年齢だったため、始めの頃の記憶もはっきりしている。身寄りのない非力な子供を世話してくれたのは、今は無き小さな国の小さな村。彼女は十歳になるまでをそこで過ごした。
 村の者が異様に優しかったこと。周囲の者が事故や病に見舞われても、何故か自分だけは無事だったこと。当時の橙はそれに対して、自分が特別強運の持ち主なのだろうという程度の認識だった。他者との違いを薄っすら感じつつも、まだ無邪気で居られたあの頃。不思議な夢を見始めたのはその頃からだ。

 夢の中には、何もなく全てがあり、そこに居るだけで世界の一切が分かる気がした。後に分かるがその空間こそバックグラウンドで、多くの者が認識できない世界の裏側である。橙は幼い頃より、夢という無意識のルートを通り、度々そこを訪れていたのだ。橙はその夢の中で一人の少年に出会う。

『誰?』
『わあ、久しぶりの新しいお客さんだ。すごいね、君には世界の理を解するセンスがあるんだね』
『だから、誰よ?』
『そんなこと、どうでもいいじゃない。それより一緒に遊ぼうよ。ここはあまり人が来ないから、退屈していたんだ』

 橙はその不思議な少年のことを、村の誰よりも身近に感じた。自分の見ている物、感じている物、今まで誰にも伝わらなかった物が、その少年には簡単に共有できる。彼は特別で、同時に自分も特別なのだと知った。
 二人は互いの暇を潰し合うように、孤独を埋めるように、幾度の夜を共に過ごした。橙と出会ったその少年が、時間くんである。しかし橙は夢から醒めると、少年のことを朧にしか思い出せなくなっていた。

 時々不思議なことはあれど、平和と言えなくもない村娘時代。それに終止符が打たれたのは、彼女が十歳になったばかりの頃である。ある日、村は異国の軍に攻め込まれた。その出来事は幼心に耐え難いものだったのだろう。記憶はかなり断片的だ。ただ一番覚えていたくないところだけが、鮮明に刻まれている。

 怒号、罵声、悲鳴が村中に響く中、橙は子供達と納屋の奥に潜んでいた。たまたまそこで遊んでいて、敵にすぐには見つからなかったのだ。橙は年下の子に「かくれんぼの続きよ」と言い聞かせ、何とかやり過ごそうとした。しかし子供のかくれんぼなど、高が知れていたのである。橙達はあっけなく見つかり、無情に剣が振り下ろされ――次の瞬間、目の前の屈強な男は枯れた老人になり、皮の張ったミイラになり……骨になっていた。橙が背中に庇っていた子供達も、皆同様にスカスカになっている。橙一人を置いて、一瞬で別物になってしまったのだ。
 それは後に、橙を守ろうとした時間くんの力が暴発した結果だと分かるが、その時の橙は自分に掛けられた呪いだと信じて疑わなかった。自分が何かをしたのだと。これはアリスネームという特別な名前が持つ、異様な力なのだと。村が襲われたのも自分の所為ではないか。自分は、物語に悲劇をもたらす死神なのではないか……。

 呪われた少女だけが生き残り、争いが鎮火した村。血の匂いで森から出てきた野犬の群れ。卑しく死体をしゃぶり尽くすその光景はまさしく悪夢で、橙の中で犬という存在が、その日の出来事を象徴するトラウマになるのだった。


 その後、どうやって村を出てきたのかは覚えていない。橙は行く当てもなく彷徨い続け、道中である国の軍に拾われる。それはアリスを神と崇めるリアス教国の軍だった。
 リアス教国には橙には理解できない思想や戒律が多数存在していたが、信仰対象はアリスのみでキャラクターの意義が薄いところに、彼女は好感を抱いた。唯一の神以外は皆等しい命である。ノンキャラクターの人々が活き活きと生きているその国でなら、自分のもう一つの、呪われた名前の影響も無いかもしれない。橙はそう期待したのだ。

 リアス教国で橙が身を寄せた先は、国の技術発展を支える研究員の元だった。そこで彼女は工学に触れ、才能を開花させる。0から1を作り出す発明家として、橙は数年で国中に名を馳せるようになった。ぽっと出の橙の活躍に、キャラクターという背景も作用したのか、彼女は一部の人々からは疎まれていたが……嫌がらせを仕掛けた者は悉く不幸に見舞われた。橙はここでも一定の呪いは持続しているのだと、落胆する。彼女を忌避する視線は日に日に増えていったが、それでも彼女を評価し認める者は多く居た。

 殆どの者より歳を重ねるスピードが遅い彼女が、十四歳を迎えた頃。信頼できる仲間達と研究の日々を送る橙はある時、人々の生活を守るためという名目で、ロボット兵の開発を命じられる。当時は、乱立していた小国がある程度まとまり、戦乱の世ではなくなっていたものの、まだ平和にはほど遠かった。もし自国を守るために戦わねばならなくなった時、人々が直接戦場に出る必要が無いならそれは何よりだと、橙は自衛のための兵器を生み出した。

 そしてロボット兵の完成後、立て続けに舞い込んだ次の仕事が――大きな事件を巻き起こす。人々が時間の力を意のままに利用すべく、巨大な時計を作る計画……『リューズ・プロジェクト』だ。
 時計は複雑な機構であればあるほど、強大な力を持つようになる。時計は時間くんとの繋がりであり、時間くんの力がいかに人智を超えたものであるか。まだ今よりずっと知られていなかった頃の悲劇だ。
 橙率いるプロジェクトチームが作り上げた時計は物理的なバックグラウンドへの入口となり、そこから漏れ出た膨大な時間エネルギーに空間が耐えられなくなり……その場の全員が、一瞬で時空の彼方の塵になった。今回もただ一人の少女を残して。

『人間が僕の力を使おうだなんて、烏滸がましいにもほどがあるね』
 橙はその時初めて、覚醒状態で少年と会った。夢の記憶は曖昧だったが、それでもその少年がずっと自分の傍にいた存在だということは分かった。そして少年の正体が、時間を意のままに操る時間くんだということを察し――橙は、自分にかけられていた呪いの正体にも気付くのだった。

『まさか……全部、アンタの所為だったの?』
『何のこと?』
『とぼけないで!』
『うーん。感謝はされても、責められる筋合いはないよ。僕はずっと君を助けてきてあげた。それだけなんだから』
『助けたですって? 今だってこんな……アタシの仲間にひどい事して、よくそんなことが言えるわね!?』
『仲間? 奴らは君の孤独に付け込んで利用していただけだよ。ロボットもこの時計も、全部軍事目的でしょ。君の作った道具で過剰な自衛……戦争を仕掛けようとしていたんだ。……気付かないフリはいいけど、事実を突きつけられてそんな顔をする位なら、やめておくべきだったね』

 時間くんは諭すように言った。声に人の温もりはないが、呪いというには優しい少年だった。しかし少年というには、恐ろし過ぎる存在だった。時間くんは研究所の一角全てを吹き飛ばし、巨大な時計を消失させ、また自らも姿を消してしまった。

 その晩、橙は騒動に紛れ国外へと亡命する。リアス教国の検問所は厳しいことで有名だったが、今その検閲を行っているのはロボット兵である。生みの親である橙には、その目を欺くことはそれ程難しい事でなかった。

 リアス教国を出て辿り着いた、セヴンス領。キルクルスの街。過去にも上手くリアスから逃れてきた者がいるのか、または隠れた繋がりでもあるのか、その街はリアス教国より劣るにしても機械技術が発展していた。生活のあらゆるところで様々な機械が活用されている。橙はここでなら自分の身に着けた技術を生かして、生計を立てていけると思った。ただ今回はもう、目立たず誰とも関わらず、一人でひっそり生きていこうと思った。

 橙は国から抜ける時に何とか持ち出せた心もとない所持金で、街外れの林にあるボロボロの空き家を買い、そこで暮らし始めた。そして時々街を訪れては、機械修理の仕事を引き受けた。人前に出る時は、顔の殆どが隠れるゴーグルを装着し、頭のてっぺんから足元までをマントで覆い、必要最低限の言葉しか交わさず、自分という存在が誰の心にも残らないよう努めた。

 それでもどこからか、優秀な機械技師だという噂は広まり、謎を深める出で立ちと住まいは余計に蔓延を早めてしまった。噂を聞き付けた侯爵はその技師を自分の工場に引き入れようと考え、交渉に使用人の一人を向かわせることにする。若い女の使用人を向かわせたのは、技師がどうやら少女らしいという話を聞き、警戒させないようにという彼なりの気遣いだった。女は街外れの橙の家を訪れ――そのドアの前で苦しそうに蹲っている橙に出会う。

『ちょっ、あなた大丈夫!? どうしたの!?』
『お腹が……』
『お腹が痛いのね!?』
『お腹が……空いた』
 マントで包まれた小柄な体から、グウと間抜けな音が鳴る。女は『はあ?』と呆気に取られた。聞けば二日間何も食べておらず、寝てもいないという。どうしてそんなことを、と問えば、趣味の機械いじりで時間を忘れていたとのこと。女は色々と思うところはあったが、ひとまず人命救助が優先だと、挨拶のために持ってきた菓子入りの籠を差し出した。橙は匂いを感知するなりガバッと籠にしがみつき、包みを開くと、無我夢中で中のオレンジタルトを貪り始める。一個、二個、三個……籠がすっかり空になると、橙は『……喉が渇いたわ』と言って、それから自分の方を呆れた目で見ている女に気付き、一気に顔を赤らめ慌てた。

『あっ、その、ごめんなさい! いただきます? ごちそうさまでした!』
 口元に食べカスを付けて忙しない様子の橙に、女が吹き出す。女の整った顔は、笑ってもくしゃりと皺にならない。橙は思わずゴーグルを外して彼女に見入った。人はこんなに綺麗に笑えるものなのかと、心底驚いた。

『あ、あの……えっと?』
『私はセブンス侯アドルフ様の使いで来ました。オレンジと申します。あなたを一度、侯爵邸にお招きしたいのですが……』
『オレンジ? オレンジって、オレンジ色のオレンジよね?』
 話を聞かず初対面の人の名を連呼する橙に、女――オレンジは若干眉を寄せて冷ややかに答える。

『それがどうかなさいましたか?』
『アタシ、橙っていうの。橙色の、橙よ』
 早口でそう言った橙の顔は、明るい声の割に楽し気ではない。戸惑いを浮かべている。しかしその瞳は、何かとてつもない秘密を見つけたみたいに輝きを放っていた。

『あら、あなたのお名前……私とお揃いなんですね』
 オレンジが愛想笑いを浮かべると、橙は不器用に、くしゃっと顔を歪ませた。

 オレンジとの出会いで、橙は人と関わらないことを一定“諦めた”。結局孤独には勝てず、それ以上に彼女のことをもっと知りたいと思ってしまったのだ。彼女を危険に巻き込まないよう、自分の行動にも慎重になった。しかし心配せずとも、侯爵であるアドルフの工場での仕事に、危ないことは何もなかった。彼は何も強要することなく、橙の意志を尊重した上で、力を貸してくれと誠実な対応で迎え入れたのだ。アドルフとオレンジは橙と接点を持つ中で、橙の存在の異質さに気付いていたが、だからといって態度を変えることはなかった。橙はキルクルスの街で、幼少期以来の……それ以上に、かつてない平穏を感じるのだった。

 その平穏に最初に危機が訪れるのは、橙とアドルフの関係性に変化が生じた時である。寡黙で頑固なところはあるが、小娘の口喧嘩に乗っては必ず負けてくれる優しさ。太く逞しいその腕が、偶然触れ合った時に小動物のようにびくっと跳ねるところ。年の離れた兄みたいに思っていた彼が、まさか自分に特別な想いを抱いていたと知った時、橙は吃驚したがー―嫌な気持ちは一切しなかった。
 彼はただの橙として、自分を見てくれている。彼の隣でなら、自分は自分らしく居られるかもしれない。しかし橙が彼の気持ちに応えようとした時、それを邪魔する者が現れた。時間くんだ。彼は二人を割くためにアドルフの時間を早め、逆上した橙は無意識を解放し、バックグラウンドに乗り込んで時間くんと対峙する。

『あの人の時間を戻してよ!』
『やだよ』
『どうして! どうしてアンタはいつもアタシの幸せを邪魔するの!? アンタにさえ関わらなければ……アンタさえいなければ!』
『僕のことが嫌い?』
『ええ、嫌いよ! 大嫌い!』
 感情を乱暴にぶつけたあの時、時間くんがどんな顔していたのか、橙はよく思い出せない。ただ自分の言葉を少し後悔した気はした。

『もう金輪際、アタシに関わらないで!』
『よく言うよ。僕が居ないとどこにも進めない人間のくせに』
『もう一度、リューズプロジェクトを立ち上げるわ。今度は一人で。アンタの力を奪って、アタシが時間を管理してみせる』
『……呆れた。そんなに僕の力が欲しいなら、一部だけ譲ってあげるよ。君の時間は君が動かせばいい』
 時間くんはそう言って、手を差し伸べた。そこに渦巻く力に橙は吸い寄せられる。
 
『……タダって訳じゃないんでしょう? 対価は?』
『きっと、力を受け取ることが君の代償になるよ』
『どういうことよ』
『強い力は、確かに何かを守れるかもしれない。けれど危険も呼び寄せるということさ。それでもいいんだね?』
『そんなの今も変わらないわ! どうせ平和で居られないなら、アタシは今、あの人を救える力が欲しい!』
 橙の言葉は、怒りと焦りの勢いに任せたものだった。しかし混じりけの無い本心である。余裕のない彼女に時間くんは付け込んだ。

『ああ、あともう一つ。対価に君の魂をもらうよ』
『えっ! 聞いてないわよ!』
『そりゃそうだよ。今言ったんだもの。……さあ、さっき僕に言った“大嫌い”を取り消して。それから“金輪際関わらないで”もね。今すぐに』
『へ……?』
 時間くんの言う“魂”とは、橙が彼に向けた意志と感情の事だった。橙は『分かった、分かったわよ』と、その意外と繊細な悪魔に魂を売り渡す。

 ……かくして契約は完了した。時間くんは橙に、自分のゼンマイの一部を授ける。橙はその時、自分の体内、精神が組み変わったのを感じた。

『君は後悔するかもしれないね。時間の力は、人間が持つには適さないんだ。時に変化を恐れ、不変を望む感情的な生き物には、きっと身に余るものだろうさ』


 時間くんの言葉が木霊する。チクタクチクタクと、規則正しい時計の音の中に消えていく。――橙は過ぎ去る過去の幻想に、自嘲を浮かべた。

 結局、時間くんの言った通りだった。
 時間の力はアタシには使いこなせなかった。誰も守れず、自分自身を、周りの人を傷付けるだけだった。あの夜ヴォイドが出てきたのは、時計塔から。明確な原因は分からないが、強い力が災禍を呼び寄せてしまったのだろう。この世界に、理由のない偶然は無いのだから。

 アタシは公爵夫人なんかじゃない。死神だ。疫病神だ。居るべきではない。オレンジと共に永遠に眠ってしまおう。もう二度と目覚めないように。誰も傷付けないように。……閉じた目蓋の向こうに、暗闇が降りる。暗い暗い夜。夕焼けの橙色を呑みこむ夜。なのに、何かが煌めいた。その光は強く、色とりどりで、祭りの電飾を思い出す。これは――

『こんにちは。わたし達はちょっと……道に迷ってしまって』
 沈みかけた意識の中で、誰かの声がした。もう回想はおしまいでいいのに。続きなんて要らないのに。

『怪しくないです、平和主義で人畜無害です』
 何を考えているかよく分からない、穏やかな暗い瞳が自分を見ている。自分でそういうことを言うところが怪しいのだが、結局は、その言葉通りの人物だったと思う。

『髪はちゃんと乾かさないと、風邪をひくよ』
 甘えたくなる大人びたところ。落ち着いていて、自分の芯をしっかり持っているように見える彼女は、どこかオレンジに似ているかもしれない。

『じゃあ、今から前夜祭に繰り出しちゃう……?』
 かと思えば、子供っぽいところ。これはオレンジとは違う。

『わたしも、橙とまたお祭りに来たいな』
 彼女はそういうことを、照れもせず平気で言う。けれど口先だけでなく全て本当の気持ちなのだと信じることが出来た。彼女の言葉の一つ一つには、独特の重みがある。
 
『ねえ……今日がもう一回来たらいいって、思う?』
 そうね。ずっと、それで良いと思っていた。時間なんて進まなくていいと思っていた。なのに、

『また明日ね』
 あなたがアタシにそんなことを言うから。見てみたくなってしまった。今日の先を。明日を。

『わたしは。よろしくね』
 あなたと一緒に、進んでみたくなってしまったのよ……


「橙!」
 彼女の声が鮮明になる。これはもう追憶ではない。目を開けるとそこには、必死にこちらに手を伸ばすの姿。たまに冷たく見えるその静かな顔が、酷く焦っている。取り乱している。ああ、アタシは――


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