Act27.「公爵夫人の仕掛け時計」



 時間のスキップとはまるで瞬間移動だ。は奇妙な感覚にどこかぼんやりしながら、足元を確かめるように踏みしめる。……そこは、そろそろ嫌になって来た階段だった。階数を示すものが無く、外が見える窓も無い塔の中では、ここが全体のどの辺りなのか知ることは出来ない。だがもう、水や虫の気配はどこにも無かった。そしてあと数段上がったところには一風変わった扉がある。

 それは一見引き戸なのか開き戸なのかよく分からない。無骨で無機質な長方形の表面には、様々な金属の部品が入り組んでいる。それは機械の内部構造を彷彿とさせる複雑さだ。真ん中には、大きな歯車。それがハンドルになっているのだろう。

「この先に、橙が居るみたいだよ」と時間くんが言った。

(なんか、いかにもラスボスの部屋って感じがする)
 冗談みたいな思考は、現実逃避である。は僅かに足が震えるのを自覚した。しかしすぐ後ろには自分を見守っている――監視している時間くんが居る。なんとか余裕そうな顔を取り繕うが、やはり時間くんには無意味だった。

「震えてるよ。水に濡れたから寒いのかな?」
 分かっているだろうに、わざとらしい。

「大丈夫。これは、ほら……武者震いだから」
 一度言ってみたかったこの台詞。時間くんが吹き出した。は覚悟を決めて歯車を回す。

 ――扉の向こうは平衡感覚を失うような球状の、異質な空間だった。上下左右に、大小様々な歯車がカタカタカタと回っている。一番大きな歯車の直径は、体育館の天井程はあった。その回転に巻き込まれでもすればひとたまりもないだろう。
 が立っている場所は崖の淵、もしくはバンジージャンプの飛び込み台みたいに、続く道がない。どこにも行き場が無く思えたが、そうではなかった。道はじっとしていないだけ。よく見れば塔の中心から伸びた複数の細長い道が、ぐるりと空間内を回っていた。それはまるで……というより時計の針そのものだ。針はどれも秒針とも分針ともつかない速度でに近付いてくる。あれに上手く乗ることが出来れば、空間内を一周できそうだ。

 は目の前の光景に、横スクロールのアクションゲームを思い出した。ゲームの定番ギミック“動く足場”は、彼女の苦手とするものである。しかしいくら苦手でも失敗は許されない。これはリセットできない一回限りの勝負だ。

 針の道が近付いてくるタイミングを慎重に計り、はその内の一本に飛び乗る。回転速度は見かけより実感の方がずっと早い。遠心力が膝にガクンと圧し掛かり、態勢が崩れた。振り落とされないよう四つん這いになって針にしがみ付く。時間くんは余裕顔で宙に浮いていた。は一瞬、時間くんの力を借りている今なら自分も宙に浮けるのだろうかと思ったが、それを試す勇気はなかった。

 針に乗って巡りながら、あたらめて周囲を観察する。この空間には歯車以外にも、振り子や数字を表示する文字盤があった。文字盤には「16/7」そしてその横に「2,221」という数字。の中で朧な記憶が蘇る。確か自分達がループに巻き込まれた時点で、既に2,200何回目かだった筈だ。今日が2,221回目なのだろう。

 人の気配のない機械仕掛けの間。このどこかに橙が居るのだろうか? ……こういう時物語の主人公なら、目を閉じて探し人のことを強く想えば見つけられるのかもしれない。体に不思議な力がみなぎっている今なら、そんな奇跡も信じられる気がした。

(橙……橙! どこ?)
 は心の中で彼女の名を呼ぶ。ヒュウと口笛を拭いた時間くんに、馬鹿にしているのか? と思ったが――そうではなかった。針の向かう先。同じ場所を繰り返し巡る振り子時計。揺れるその先に、見慣れた後ろ姿。水平に浮いている止まった歯車の中心で、少女はこちらに背を向けて立っていた。鮮やかな夕焼け色の髪は風も無いのに靡いている。

「橙! 良かった。見つからないかと思った!」
 少女はの声に鈍く反応し、ゆっくりと振り返った。いつもキラキラ輝いていた茶色の瞳は、今は沈んだ暗色に濁っている。
 天に祈るように掲げられたその両手には、何か細く鋭いものが握られており……その先端は彼女自身の胸を貫いていた。血液こそ流れていないが、それは目を覆いたくなる痛ましい光景だった。

「何してるの!?」
 の叫びに橙は動じず、それを更に自らの中へ押し込む。刃先が彼女の背から飛び出した。その口が苦し気な呻きを漏らす。(このままじゃまずい! 止めないと!)

 は何とか橙の元に行けないか道を探した。比較的ゆっくり動いている歯車なら、上に乗れるかもしれない。それを上手く伝って、彼女の元に行けるかもしれない。が覚悟を決めてそこに飛び乗ろうとした時、また塔全体が大きく揺れた。はしゃがんで針にしがみ付き、なんとか持ちこたえる。揺れはほどなくして収まったが、何か違和感を感じた。揺れの前と後で変わっているもの――そう、歯車のいくつかが回転を止めているのだ。

「時間くん、説明して」
「……今、この時計塔の時間を動かしているのは、橙。橙の内側に、時間の動力源であるゼンマイがある。橙は自分を――ゼンマイを壊す気だ」
「そうすると、どうなるの?」
「動力源を失った時間はもう動かない。橙は力が及ぶ範囲の、全ての時間を完全に止めようとしてる」
「止まるとどうなるの? 繰り返すとは違うの?」
「静かな永遠が訪れるよ。それは君たちの言う“死”に近いかもしれないね」
 時間くんのその言葉を聞いて、は黙り込んだ。時間くんは動かなくなった歯車をじっと見つめ、溜息を吐く。

(橙は、なんてつまらないことを考えるんだろう)
 彼女が行おうとしていることは、自分が嫌いな相手の時間を止める時のように……ただ誕生日を来なくさせたり、常時特定の時間としか認識できなくする“悪戯”ではない。全てを永遠に屠ろうとしているのだ。不変の永遠は、死である。そこに愉悦はない。実につまらない。退屈で退屈で吐き気がする。何とかしてもらわないと、とに発破をかけようとした時間くんだが、それは不要だった。
 
「そんなの、嫌だよ」
 はポツリと呟き、近くの動きを止めた歯車に降り立つ。そして橙の方に歩みを進めた。

「来るな!」
 は聞いたこともない彼女の声に、足を止める。
 体に針――そう、それはよく見れば時計の長針である。長針を突き刺したままの橙が、を睨んでいた。橙の猫みたいな愛嬌のある吊り目は、今は冷たく鋭いナイフに変貌している。張り詰めた空気がピリピリと肌の上で弾けた。には目の前に居るその人が、とても橙だとは思えない。それともこれが彼女の深層心理……本性だったのだろうか。

「橙、だよね?」
「うるさい」
 答えの替わりに殺気を放たれ、は金縛りにあったように身が竦む。圧倒的な存在感……これが、この空間を支配する者の貫禄だろうか。橙を貫いていた針が彼女の中に溶けて消え、またその手には新たな針が現れる。消えたといっても無くなったのではない。その傷が癒える訳でもない。顔色の悪さと、一瞬ふらついた足元がそれを物語っていた。

「もうやめて。橙は何がしたいの? こんなことに何の意味があるの?」
 時間を繰り返すという行為は、オレンジの運命をやり直そうとしていたものであると理解できる。しかし時間を止める意味が分からない。そんなことをして何になるというのか。

「オレンジさんはもう、」
「うるさいうるさい! 分かってる! あの人がもう戻ってこないこと。何度繰り返しても過去の事実には介入できないこと。それをアタシは、ずっとここから見てきた!」
 橙はの言葉を遮り、喚き散らす。の知る橙はループのことに気付いてもいない様子だったが、深層意識下では、全てを知っていたのだろうか。最初からずっと見ていたのだろうか。どうにもならない悲劇をひたすら、繰り返し、独りきりで。

「分かってるなら、どうして」
「それでも……あの人の居ない時間を進めるわけにはいかない。それなのに、お前の所為で――!」
 憎しみ、殺意。橙から感じられる明確な敵意に、は背筋が凍った。アドルフよりもよほどこの少女は恐ろしい。口の中が乾いて、喉が貼り付き、苦しかった。

「わ、わたしが、何をしたっていうの?」
「お前の存在が、アタシに変化をもたらした。永遠に眠っていたアタシの時間を進めてしまった。閉じ込めて、隠しておいたものを、暴いてしまった」
 辛いことを忘れて穏やかに生きていた橙。その平穏な日常を壊されたことに対する怒りなのだろうか? ……いや、そうではない。彼女は時間を進めることそのものを防ごうとしている。

「どうして時間を進めちゃいけないの?」
「……時間が、あの人を無かったことにしてしまう。時間が、あの人を完全に殺してしまう」
 は橙の言っている意味が分からず「時間くん、」と助けを求めた。時間くんがの背後で身じろぎする。橙はの影に隠れていた時間くんを一瞥して「あんたも居たのね」と冷めた声で言った。時間くんが元気のない声で、の背中に向かってぼそぼそ話す。

「オレンジっていう人は、ヴォイドに殺されたんでしょ? 虚無の怪物に屠られた者がどうなるかは、君も知ってるんじゃない?」
(ヴォイドに殺されたらどうなるか?)
 ……は時間くんの言わんとしていることに気付き、橙の目的に気付き……胸が詰まる思いだった。

 ヴォイドの存在は、この世界を否定するアリスの意志が具現化したもの。それは地を、人を、ありとあらゆる存在を虚無に帰す存在であるという。の中にいつかのピーターの言葉が蘇った。『アリスの虚無化で存在を否定されたものは“無かった”ことになるんだ』という無情な事実。

 つまり、ヴォイドに殺されたオレンジの存在は、無かったことになってしまうということだ。彼女の妹、マーマレードが姉の存在を忘れていたのもそういうことなのだろう。しかしその忘却は完全ではなかった。それが橙が同じ一日を繰り返すことで、時間という変化の影響を最小限に抑えた結果だとしたら――橙はオレンジを死の結末から救うことではなく、ただ彼女の存在を消したくなかっただけなのではないか。

 彼女を忘れたくないという想いが時間のループを生み出し、変化を拒絶した。その結果、オレンジが助かるというパラドックスが発生しないよう、橙がオレンジを忘れてしまったというのは……なんて皮肉だろう。

(今の橙は、もうオレンジさんを助けられないと分かってる。それでも……彼女を無かったことにしないために、時間を進められないんだ)
 橙の切実な願いに気付いてしまったは、彼女を説得する言葉が見つからなかった。

「もう、過去も今も未来も、全部要らないわ。時間なんて要らない。……邪魔者も、要らないわ」
 橙が手にしていた針を、すっとに向ける。刃先が鋭く光り――次の瞬間、それはのすぐ真上から振り下ろされようとしていた。状況が掴めず、ただ本能的に“あ、死んだかも”と思ったの体がぐっと引っ張られ、飛び、離れた場所の歯車に着地する。時間くんに二の腕を掴まれていた。は時間くんが橙の攻撃から助けてくれたのだと理解した。
 先程まで居た場所には、針を振り下ろした態勢の橙。橙は空振りに気付くと、ゆらりと上体を起こし……すぐに離れた場所に居るを見つけた。はその視線にドキリとする。

「橙はわたしを殺す気なの!?」
 は信じたくなかった。彼女とは良い友人関係を築くことが出来ていたと思っていたし、何より彼女がそんな風に誰かを攻撃する人間には思えなかったからだ。

「橙にそんな気は無いと思うよ。あれはあくまで無意識下の橙。自我を失っているんだ。本当の橙は君が知っている女の子だよ。君がそう信じている限り」
「どうすれば橙の意識を取り戻せるの?」
「さあ? 僕に出来るのは、立ち向かう武器を授けるくらいだよ」
 時間くんがそう言った瞬間、の手に橙が持っているものと似たような長針が現れる。鍔のように出っ張ったところのある時計の針は、まるで剣だ。しかし剣とは違い扱いやすさが設計されていない。細長い金属板は、重みで手に食い込んだ。

「痛い……もっと、剣とか無いの?」
「僕を誰だと思ってるの? “時間くん”だよ」
 だから時計の針だというのか――と突っ込みを入れている暇はなかった。また橙が、突如目の前に現れたのだ。は間一髪、自分に向かってくる針を針で受け止める。時間くんの力を借りている今、橙が時間を操作して高速移動しているのだろうということは想像できた。自分にも出来るだろうか……? と考える間もなく、針が別の方向から打ち込まれる。カン! と甲高い音で、針と針がぶつかる。手が痺れる。

「橙、目を覚ましてっ!」
「黙れ!」
 の針が弾かれ、足元に転がった。丸腰になったに、容赦ない一撃が向かってくる――は瞬間、体が燃え上がるように熱くなるのを感じた。橙の動きがスローモーションみたいに遅くなっている。……違う、変わったのは自分の方だ。見えている時間、感じている時間の粒度が変わっている。は橙の攻撃を避け、彼女から離れると落とした針を拾い、構える。次の瞬間、力が抜ける感覚と同時に橙の動きが正常のスピードに戻った。彼女はいつの間にか移動し、態勢を整えているを見て、忌々し気に「お前も時間の力を使うのか」と吐き捨てた。

 橙は振り子時計にしがみ付き、遠心力を利用してに飛びかかる。力いっぱいの一撃を振り下ろす橙、それを何とか受け止める。打ち込まれては、受ける。跳ね返す度、別の方向から飛んでくる攻撃。少しでも気を抜けばその瞬間、体のどこかが無くなってしまう。そしてそうでもしない限り、この攻防は終わらない気がした。

 は戦い方など知らない。ただ死なないために、相手の攻撃を受けていなしているだけだ。橙の手元から武器だけを奪うような器用な真似など出来る筈もなく、決定打も持っていない。自分の中に燻る力を感じはするものの、それを使って相手を殺せるだけの意志が、には無いのだ。
 鍔迫り合いになり、押し合う二人。決意の差が現れたのか、橙の攻撃を受け止めていたの針に皹が入る。……折れる。

 駄目だ、間に合わない――は咄嗟に目を瞑った。どれくらい痛いのか、痛みなど感じないほど一瞬なのか、体から離れた頭にも暫く意識はあるのか、自分の首無し死体を見るのは嫌だな……と考えた所で、こんなに長々と思考していられることを不思議に思い、恐る恐る目を開ける。そして「ひっ」と息を呑んだ。針はの首のすぐ横で静止している。……正確には、こちらに進んで来はしないが小刻みに震えてはいた。

「だ、いだい……?」
「違う……こんな事がしたかった訳じゃない」
 はハッと彼女の目を見た。

(あ、橙だ)
そこには自分の知る少女が居る。彼女の意志がある。

「橙、目覚めてくれたんだね……良かった」
……ああ……ごめんなさい」
 それは何に対しての謝罪なのか。殺しかけたことに関してであれば許す気は更々ないが、恨みごとを言っても仕方が無い。何よりそんなに弱弱しい調子で謝られたら、怒ることなど出来はしない。は震える橙に手を差し伸べた。もう彼女が一人で苦しくならないように。一人では受け止められない真実を、二人で抱えるために。

「一緒に帰ろう」
 しかし、橙は首を横に振る。

「ごめんなさい。ごめんなさい。オレンジ、アタシは、アタシの所為で」
 橙の息が荒く、震えが大きくなる。塔全体が揺れ、軋んだ。足元の歯車が急速に錆び、赤く朽ちて、崩れる。橙の体が、風に吹かれる花のように揺れた。一瞬の宙に浮かぶ感覚の後、急速な引力。

 二人は歯車の回る異空間に、落ちていった。 inserted by FC2 system