Act26.「時間くんとの駆け引き」



「……おかえり」
 ピーターは二匹の機械昆虫に目を配りながら、フラフラ駆け寄ってくるに声を掛けた。はなけなしの気力で強がり「た、ただいま」と答える。

「まさか二匹も居るなんてね」
「それはどうかな〜?」
 うんざりした様子のピーターに、時間くんが歌うみたいに言った。は、一人だけ悠々と見物しているこの少年が敵に思えてきて、ジトリと睨む。時間くんはその視線に「ほら、よそ見はダメだよ」とある方向を指差した。がその先を追うと……三匹目。は全身がびしょ濡れにも関わらず、背中を冷たい汗が伝うのがはっきりと分かった。

「もう嫌だ……」
 絶望的な声を上げる。ピーターはそんな彼女を邪魔だ、と思った。守り切れる自信は無いが、守らない訳にはいかない。……ピーターは難しい顔をして、空いている方の手でおもむろに“白ウサギの懐中時計”を取り出すと、それをに向かって放り投げた。

「受け取って」
「え、なに、わ!」
 時計は宙で綺麗な弧を描き、ちょうどの手の中に収まる。時間くんが「何してんの、もっと丁重に扱ってよ!」と憤慨した。

「何でわたしにこれを?」
「その時計は、時間くんにとって特別なものだから。時間くんは何が何でも守ろうとする筈……首からかけて、盾にでもしておけばいいよ」
(つまりこれを持っていれば、時間くんがわたしを守ってくれるってこと?)
 は確かめるように時間くんを見た。その顔は不機嫌なものから、すっと無表情に変わる。ぎこちなく硬い表情は違和感まみれで、言葉よりも雄弁に肯定を告げていた。どうやらこの時計が時間くんにとって大切なものであるということは事実らしい。でもそれなら……

「わたしより、戦ってくれてるあなたが持ってた方が良いんじゃない?」
「僕は自分の身くらい自分で守れるよ。でも君までは守り切れない」
 ピーターの視線の先では、三匹の虫がいつ飛びかかってきてもおかしくない態勢に入る。は自分だけ身を守ることに後ろめたさがあったが、自分の危険が彼を危険に晒すのならば、そうするしかない。急いでおもちゃの時計のネックレスを首にかけた。

「わっ……」
 身に着けた瞬間、何か得体の知れない力が体に巡る。思わず「なにこれ」と呟いたの声を聞いて、ピーターはそれを渡して本当に良かったのか、早計な選択だったのではないかと思った。

 ――時間くんの依り代である白ウサギの懐中時計を所持する者は、時間くんの強い力を直に感じることが出来る。そして多くの者は、その力に魅入られる。
 所有者はその力を自らの意志で使うことはできないが、時間くんが力を貸せば別だ。そして時間くんは時々……その力を餌に契約を持ち掛けてくる。力と引き換えに代償を要求するそれは、まるで悪魔の契約だった。ピーターにはそこまでして力を手に入れたい理由が無く、時間くんも交渉を諦めていたが、過去に懐中時計がまだ人々の手を転々としていた頃、多くの者が願いと引き換えに身を滅ぼしたという。
 争いで滅びた村の廃屋から発見された時計は、王の手によってピーターに預けられた。王曰く『懐中時計は白ウサギが持つものだ。それに、野望とは無縁なお前なら安心できる』とのこと。王は『金輪際、絶対に私の前に出すな』とも言っていた。貪欲な彼は自らの破滅を恐れて、ピーターに託したのだ。

(この子は、どうするだろう)
 その強い力に目を眩ませるだろうか。……いや、そう思っていないから渡したのだ。
 ピーターがに白ウサギの役を譲ってからも時計を渡さず、つい最近までは存在を教えることもしなかったのは、彼女を信頼していなかったからである。ただでさえ問題を起こしがちな異世界人が、万が一にも時間くんの力を手に入れたらどうなるか。その危険は未知数で、避けるべきだと考えていたのだ。しかし彼女を知る内に、考えは変わった。

(謎は多いし、何考えてるか分からないし、突拍子のないところがあるけど……悪い子じゃない)
 は分かりやすい善人ではないが、決して悪人ではない。こちらが敵意を向けさえしなければ、基本的には素直で親切である。油断できないと思わせぶりな飄々としたところは、彼女特有の穏やかさだと感じるようになった。慣れればそれほど嫌じゃない。意外と弱いところも抜けたところもあるが、どんな場面でもぶれない芯を持っている……気のする彼女。になら、時計を預けても問題ないだろうと思ったのだ。――が、時間くんはそうは思っていないようで、付け入る隙を見出している。

「ねえ、。僕の力を感じてるでしょ? 僕が君に力を貸して、橙のところまで行く手助けをしてあげようか?」
「え?」
「僕の力があれば、何でもできるよ。ほら――また地震だ。急がないと時間が止まっちゃうかもしれないし。手遅れにはなりたくないよね?」
、時間くんの話は無視して、」
 二人の話を止めようとしたピーターだったが、一斉に動きを見せた三匹の虫に邪魔される。ピーターは虫たちを威嚇するように、時間を稼ぐように、ライフルを連射した。フルオートで放たれる激しい弾丸の嵐。大袈裟な音は威力の高さを感じさせるが、連射の反動で命中率は下がっている。どれも決定打にはなっていなかった。弾切れになり、ピーターは苛々した様子で舌打ちして、空の弾倉を予備の弾倉と差し替える。
 はちらりと見えた彼の横顔に余裕の無さを感じ取り、自分の無力さが悔しくなった。そして不思議な力を秘めた時計を見る。

(確かに、凄い力を感じる。これを自分で使えたら、わたしも守られてばかりじゃなくて、一人で戦えるようになるのかもしれない。誰かを守れるかもしれない)

「時間くんの力を借りるには、何か条件があるの?」
「はは、流石! 話が早いね。そうだなあ……寿命の半分、とか?」
 は恐ろしい提案を持ち掛けてくる無邪気な少年に、顔を強張らせた。話が聞こえていたのか、ピーターが“駄目だ”という目でを見る。しかし心配されずとも、は頷かなかった。どこか冷めた目で、時間くんをじっと見ている。

「それは無理かな。……でももっと、いい提案があるよ」
「……なに?」
 は、上手くいくだろうかという不安を、心を読める時間くんに悟られないよう、自分を信じて強気な口調で答えた。

「力を貸してくれたら、わたしが“橙を助けてあげる”よ」
 の言葉に時間くんは目を丸くし、少しの間を空けてから、馬鹿にしたように笑った。

「あははは、それのどこが良い提案? 僕にメリットないじゃない」
「何言ってるの。時間くんにとっては、何よりの条件でしょ?」
 の口ぶりは、確信を得ている様子である。ピーターにはの言葉の意味が分からなかったが、それにリアクションをしている暇はない。時間くんはぐっと言葉を詰まらせた。

 ――そう。時間くんは、橙を特別に想っているのだ。
 は時間くんの言葉の端々から、それを感じていた。……時間くんはループを解決することではなく、橙の問題を解決するために、わたしを導いているのだと。

 事情を知っている筈の時間くんが何も教えてくれなかったのは、それでは意味がないからだ。時間くんは図書館で『君がこの数回の夜を過ごした橙が、橙の正体だよ』と言っていた。彼は橙が公爵夫人というキャラクターではなく、一人の少女であるということを、わたしの真実にしたがっていた。わたしの目的を、ループを引き起こしている公爵夫人を止めることではなく、友人を救う事へと仕向けたのだ。

 それだけではない。ピーターの橙を排除するという思考に怒り、橙の結婚相手であるアドルフの時間を止め、先程時計塔の入口に置き去りにしたこと。それらは全て、時間くんの橙に対する想いの裏付けになっている。今だってわたしを急かすのは、この街の時間を心配しているからではない。橙が心配なのだ、きっと。

 そして時間くんは……自分では橙を救えないと思っている。だから回りくどいことをしてでも、わたしをここまで連れて来た。わたしに橙を救わせるために。

 時間くんは「なにそれ、なんで僕が」と無駄な抵抗をしている。

「だって時間くんは橙の事が好、」
「あー! はいはい! もういいよ、それでいい、貸すから」
 時間くんは少しの赤みも差さない、いつも通りの青白い頬を少し引き攣らせ、眉をピクピクさせながら了承した。全く納得していない顔でぶっきらぼうに差出されたその手を、は取る。交渉成功である。その様子をちらりと振り返ったピーターは、二人の話に全く付いていけていない。

「さて。力の先払いはいいけど、もし条件が履行されなかったら、どうしてくれるのかな?」
「絶対に助けるよ」
 の言葉に、時間くんは微かに表情を和らげ、目を閉じる。その瞬間、は内側から迸る熱を感じた。湧き上がるエネルギーに体中が活性化して、一種の多幸感に包まれる。心臓は全力疾走の後みたいにうるさかったが、心はやけに穏やかだった。(これが、時間くんの力?)

「君自身の支払うものが少ない分、貸せる力もちょっとだけど、まあ充分でしょ。さあ上に急ごう。今の一人ならスキップしてあげるよ」
「な、なんで一人? わたし達二人をスキップしてくれたらいいじゃない」
「いや。僕は、不確かな時間はスキップしないようにしてるんだ」
「不確かって……」
 は心配そうにピーターのことを見る。この戦いの行く末が不確かだとでもいうのだろうか? と目が合ったピーターは、ふっと逸らす。

「僕がここで足止めをしてるから、君は無事に上に行けるってことでしょ。ほら、早く行って」
 本当にその解釈でいいのだろうか? は時間くんに交渉を持ち掛ける時の数倍、数十倍は悩んだが――悩んでいる暇はなく、いくら力を借りたと言ってもあの虫たちと戦えるイメージも湧かなかった。そして、時間が止まってしまえば自分も彼も無事で居られる保証はないのだから、今は先に行くしかないのだと結論を出す。

「分かった。……またね」
 “どうか無事で”という祈りの言葉は、最悪の結末を引き寄せる言霊に思えて、言えなかった。時間くんがの手を引き、世界が途切れる。


 と時間くんの気配が消えたその場は、更に薄暗くなり色褪せた……ように、ピーターには見えた。強い力を持つ白ウサギと時間くんが居なくなったからだろう。この世界においてキャラクターとはそういうものである。ここは今、表舞台ではなくなったのだ。

 機械昆虫の六つの瞳が、感情なくこちらを睨んでいる。……白ウサギでもなければ懐中時計を持ってもいない自分が、どこまでこの世界で通用するだろうか。

「ほんと、めんどくさいな」
 ピーターは銃を構える。

 彼女が“また”というなら、きっとそうなるだろうと思った。 inserted by FC2 system