Act25.「時計塔へ」



 木々に月明りを遮られた薄暗い林。月より星より眩い赤髪の少女が姿を消しただけで、そこは一気に暗さを増した。あまりの出来事に誰も何も言えないでいる中、不気味な静寂を破ったのは時間くんの声である。

『あーあ。逃げたみたいだよ』
 間延びした声ではあるが、常の時間くんよりもどこか硬いと、には感じられた。

「ど、どこに? どうやって?」
『時間を管理している、バックグラウンドへ。橙もアリスと同じく……という程でもないけど、バックグラウンドにアクセスできる一人だからね。橙の場合は意識がある内は裏世界を認知できないんだけど、意識から開放されることで世界の理に近づくことが出来る――話に付いてこれてる?』
「いや、全然。気絶したってこと? 無事なの? どうすれば連れ戻せるの?」
「おい! 何を一人でごちゃごちゃ言っている! 橙は一体どこへ消えたんだ!」
 顔を青くしたアドルフがピーターを振り切って、に詰め寄った。その太い腕に胸倉を掴まれ、は小さく呻く。

「うっ、落ち着いてください……今それを訊いているところじゃないですか」
「一体誰にだ!」
「時間くんに、ですけど」
 が口にした名前を聞くと、アドルフは息を呑み……爆発する寸前の怒りを一気に萎ませた。力なく項垂れたその肩を、ピーターがから引き離す。は、その猛々しい獣をしっかり押さえつけておいてくれよ……と恨みがましく思ったが、思ったより心配そうに「大丈夫?」と訊かれたことでその気持ちは霧散した。

「時間……時間くんが、ここに居るというのか」
「はい。もしかして、侯爵様には時間くんの声が聞こえないのですか?」
『当たり前だよ。僕、そいつに話しかけてないから』
 どうやら、時間くんは任意の相手にだけ語り掛けることが出来るらしい。刺々しく物を言うその声は、嫌悪感……というよりは敵意を剥き出しにしている。どうやらアドルフは相当時間くんに嫌われているみたいだ。対してアドルフは、時間くんを恐れているように見える。

「とりあえず橙を追いかけなくちゃ。時間くん、どうすればいいの?」
はバックグラウンドを感じ取れる? この世界の裏側を感じ取れるなら、アクセスできると思うよ』
「感じ取るって……」
 平然と言う時間くんに、困った顔をする。そんな二人にピーターが口を挟んだ。

「無茶だよ。表世界を認識したまま、その裏側を認識するなんて普通はできない。下手したら混在して、どちらにも居られなくなる」
 ピーターはそう言ったが“普通は”ということは特殊な場合があるということだ。アリスも橙も……この世界の修理屋である常盤も、一部に介入できると言っていた。つまり無茶ではあるが不可能ではない。しかしにはまだその存在、感覚が理解できなかった。

 バックグラウンド。この表世界と表裏一体の、世界を構築するための裏世界。 それを表から知るということは、コンピュータゲームをプレイしながらプログラムを読むみたいなものなのだろうか。

『君にはまだ無理かー。仕方ない、じゃあ時計塔に行こう。あれは橙が意識下でも時間を管理するために作ったもの。時計が時間と繋がっているのはもう知ってるでしょ? あの巨大な時計は、橙の管理する時間空間へのゲートになってくれるよ』
 先にそれを言え! とは思った。何故こんな回りくどい言い方をするのか……時間くんだって悠長に構えていたい状況ではない筈なのだ――というの思考を読み取ったのか、時間くんが『なにそれ、別に僕は』と言い訳がましい声を上げる。はそれを無視した。

「とりあえず、時計塔に行けばいいのね。行こう!」
 の言葉に、ピーターが頷いた。



 *



 達は数時間ぶりに時計塔の前に立つ。先程は観光名所にでもありそうな建造物に見えていたそれが、今は最終決戦の魔王城に見えた。月を刺す塔の天辺を見上げて、は「よし!」と覚悟を決める。

 の後ろには、先程よりは少し勢いを取り戻した様子のアドルフ。機械犬の姿はない。はこの先に彼を連れて行くべきかどうか迷った。彼が橙に近い人物で、橙のことを大切に想っていることは間違いない。であれば、彼女を連れ戻すために必要な役者なのではないか……だがきっと彼はこちらの邪魔をして来るだろう……。しかし考えても無駄だった。案内人である時間くんにその気はないのである。

 時計塔の中に入った途端、時間くんは『行くよー!』と大きな声を上げ、は足元が盛大にぐらつくのを感じた。……そして次の瞬間には、足は強固な石の床ではなく、柔らかな砂地になっている。乾いた匂い。顔を上げた先には、三階建ての家ほどありそうな大きな砂時計。割れた隙間から砂が零れ砂漠を作っていた。

「ここは?」と辺りを見回した先に、世にも恐ろしい怪物の姿を見つけ、は思わず悲鳴を上げる。丸みを帯びた、ダンゴムシみたいな蛇腹の体。先端には小さな頭と二本の鎌。体中にびっしりと生えている細かな針状の毛は、見ているだけでぞわりとした。それは巨大な虫である。

「大丈夫、もう壊れてるよ」
「こ、壊れてるって?」
 ピーターは死んでいる、という言い方はしなかった。いつも通りの彼に多少は冷静さを取り戻し、もう一度その虫をよく観察してみる。すると、それは赤い錆に塗れた機械の虫だということが分かった。

「なに、あれ……それよりここはどこ?」
「ここが橙の、本当の時計塔の中だよ。バックグラウンドへようこそ、
 聞き慣れた時間くんの声が、どこかいつもと違って聞こえた。は無い筈のその姿を探し、宙に浮かぶ少年の姿を見つける。その声は、実体のある肉声だったのだ。時間くんがそこに居る。

 ……『大人とも子供ともつかない、中性的な見た目』という本の記述はまさに的を射ていた。骨の張ったところが無いするりと丸い輪郭。透き通った無味な顔立ちと、襟足の長い麦藁色の髪。時間くんではなく“時間ちゃん”と呼ばれていたなら、少女だと思ったかもしれない。を見て、ニコリと綺麗な弧を描く薄い唇。灰色でも茶色でもない不思議なセピア色の瞳は、何を考えているか分からなかった。笑っているのに笑っていないというのは、こういう顔のことを言うのだろう。
 目を離した瞬間に記憶から消えてしまいそうな、朧な印象の少年だったが、そのファッションは中々に癖が強い。小さな耳に所狭しと刺さるピアス。黒のチョーカーに時計柄のネクタイ。白いシャツの袖はボロボロに破けたダメージデザインで、裾は短くその平らな腹をさらけ出していた。左右色の違う縦縞の入ったズボン。腰にジャラジャラと巻き付けられた鎖。……刺激的なファッションに憧れる時期は、多くの青少年に訪れるものだ。は自身の中学時代を思い出し、少し恥ずかしい記憶が蘇りかけ、やめた。時間くんは思考を読めるのだから。案の定、時間くんは「ちぇっ」と残念そうにした。

「ようやく会えたね」
「うん……それで、ここがバックグラウンドなの?」
 不思議な空間であることは見て取れたが、表世界との明確な違いは分からない。――いや、確かに違う。言い表す言葉を持っていないだけで、何かは違っていた。

「どうやってここまで? いつの間に?」
「君達自身が階段を上って、今の間に。僕が二人の時間をスキップしてあげたんだよ。ここまでの道のりは覚えてるでしょ?」
 時間くんがそう言った瞬間、は足がガクンとなった。体が疲労を思い出したのだ。……記憶を辿れば確かに、自分の足でここまで進んで来ている。ここまでの道のりはとても覚えていられるものではなく、物理法則を無視した迷路だった。

 表世界では吹き抜けになっていた時計塔。壁に沿い上へと続いていた螺旋階段を上り、壁にある扉を開け、中を進み、扉を開け……を繰り返してやって来たバックグラウンドの時計塔は、表と構造が違っていた。螺旋階段はあるものの、吹き抜けではなく階層に分かれている。ここもその一つだ。ここに来るまでの各階はじっくり見ていなかったからか、よく思い出せない。が、この部屋と同様に何か恐ろしいものが居た気がした。

 ――時間のスキップ。事実だけが後追いで追加された感覚に、それを何でもない顔で成し遂げてしまう時間くんに、は寒気がした。

「いつもこうしてくれれば良いのに。僕だけの時はしてくれなかったよね」
「今日は邪魔者が居たから特別だよ。僕はね、結論より過程が大事だと思うんだ」
 ピーターは慣れた様子で時間くんと話をしている。彼は先程の機械の虫にも驚いていなかった。「あなたはここに来たことがあるの?」とが訊くと、ピーターは時間くんに「もう説明していい?」と確認し、時間くんは頷くのだった。

 話によると、この時計塔はキルクルスの街付近一帯の時間を管理しているものであり、最上階に“時間を操るゼンマイ”が保管されているとのことだ。そこに至るまでの各階には侵入者を拒む防衛システムがあるが、既に殆どはピーターが破壊しているらしい。この街に来てから彼がしていたことを、は初めて知るのだった。

 時計塔内の空間には、塔の支配者である橙の深層意識が反映されており、防衛システムも彼女の防衛本能の具現化だという。にはあの悍ましい機械の虫が橙から生まれたものだとは到底思えなかったが……いや、機械弄りの好きな彼女ならではのものだろうか。

(溢れた砂時計は彼女の悲しみ。赤い錆は涙の痕なのかもしれない) 
「うーん詩的だね。そういう解釈、センスいいよ」
(時間くん! 何でもかんでも読まないでよ!)
 できるだけ一緒に居たくない相手だな、とは思った。ピーターはずっと時間くんと居たのだろうか? よく気が狂わないものだ。

 その時、時計塔全体が大きく揺れた。地震かと思ったが、どうやらそうではないらしい。時間くんはほの暗い闇の漂う天井を見上げ、感情の読めない顔で「まずいかも」と言った。

「何が?」
「上から大きな力の乱れを感じる。橙が何かしようとしているのかもしれない」
「何かって?」
「さあ? 時間を進めたくないなら、繰り返すか……止めるしかないよね」
 時間くんの言葉はただの可能性の話ではなく、彼の中で何かしら確信があるものに聞こえた。……止める? そんな事をして何になるの? とが頭の中で疑問を浮かべると、時間くんは「さあ?」と両手を上げて肩を竦める。

「とにかく、橙は上に居るのね?」
がそう思うなら、そうなんじゃないかな」
「じゃあ早く行こう」
 は壊れているとはいえ不気味なその虫から、一刻も早く離れたかった。歩きにくい砂の上をざっざっと進み、階段を登っていく。砂時計の空間はかなり高さがあり、次の階に辿り着くまでには、塔の外周に円を描く螺旋階段を数周しなくてはいけなかった。階段の先にはこの階の天井、次の階の床。それを突き抜けるように階段が続いている。

「折角なら最上階までスキップしてくれたら良かったのに」
 何故このような中途半端なところまでしか連れてきてくれなかったのか、と不満を漏らしたに、時間くんは目を細めた。

「だって、物語には試練が必要だからね」
「試練?」
 ようやく次の階に辿り着こうという時、足元でぴちゃりと水音が鳴った。見れば階段の上から、水が小さな滝を作っている。は嫌な予感を抱えつつも戻る訳にはいかず、そのまま進むと――そこには青味を帯びた暗い空間が広がっていた。だだっ広く何もない空間の真ん中に、巨大な水瓶がある。水瓶の下の方には小さな穴が開いていて、そこから水が溢れているようだ。

「砂時計の次は水時計だね」
 時間くんが言った。水時計……目の前にあるのは、器の底に穴を開け、入れた水の減り具合で時間を計るという原始的な時計である。は見慣れないそれを「これが時計?」と不思議そうに眺めた。見れば穴だけでなく、所々に入った皹からも水が漏れ出ている。嫌な予感が強まり、ほぼ確信になった瞬間――水瓶は割れた。中の水が一気に溢れる。押し寄せる波に足を取られ、流されそうになるの手をピーターが取り、階段の手すりを掴ませた。ギリギリセーフである。心臓をバクバク言わせ呆然としているの頭上では、時間くんが口笛でも吹き出しそうな呑気な顔で浮遊していた。
 水は階下へと流れ落ち、引いていく。

「あ、有難う。助かった……」
「そうでもないみたいだよ」
 ピーターの言葉には「えっ」と顔を上げる。そこには――見た目は異なるものの、下の階と同じく巨大な機械昆虫。それも今回はまだ壊れていない。

 平べったい茶褐色の体。鉤爪のような太い前肢。体の横からはあと四本の足が生えていた。一見クワガタを思わせるフォルムだが、それより……ゴキブリに近い。はビクッと体を震わせ、慌ててピーターの後ろに隠れた。

「無理、ほんとああいうの無理! 何あれ!?」
「……タガメかな」
 冷静に観察しているピーターに、は「種類じゃなくて、」と言いかけるが……機械のタガメが二人の方に体を向けたため、言葉を失った。平らな頭が上下に動く。黒々とした大きな目が、侵入者の姿を捉える。

「あれがこの階層の門番、ってところか」
 ピーターの言葉に応えるように、タガメは薄い羽をパッと広げ、バタバタ震える音を立てて飛びかかって来た。は半泣きで叫び、ピーターはライフルを構える。一発、二発……立て続けに放たれた銃弾は肢の一本を打ち抜き、破壊音と共にタガメは地面に落ちた。ジジジという虫特有の嫌な音。無機質にも聞こえるそれ、無感情に見えるその顔は、まるで本物の虫だ。はしゃがみ込み「本当に、無理」と泣き言を漏らす。
 ……青バラの時のゴキブリの大群にも気が狂いそうだったが、今回もまた虫なのか。これならまだヴォイドみたいな化け物らしい化け物の方が幾らかマシに思えた。

「休むならもっと離れたところにしてくれる? また来るよ」
 ピーターの言葉通り、タガメは残った肢を前に後ろに、じりじり動かしている。それは獲物に襲い掛かる予備動作に違いない。は慌てて立ち上がると出来るだけ離れ、割れた瓶の大きな欠片の陰に隠れた。そしてそこから、あまり見たくはないが……タガメとピーターの攻防を見守る。

 戦闘慣れしていないに正しい戦況判断は出来ないが、それでもピーターが優勢に見えた。いくらか安心し、とりあえずこのままここに隠れていよう……と思ったの背後で、昆虫の振動音。サッと血の気の引いた彼女の顔に掛かる、巨大な影。の隠れ場所は選択ミスだったのだ。タガメは水瓶から出現し、そして一匹ではなかった。

 獰猛な前肢がに振り下ろされる。咄嗟に避けようとしたが、肢の先の爪が彼女の服を地面に縫い留めた。タガメに押し倒されたは衝撃で閉じていた目を開け……目前に迫る巨大な昆虫の顔に、呼吸を忘れた。顔の横に突き出す豆みたいな目。鋭く尖った口の先から、ストロー状の針が伸びている。それがの胸を突き刺す寸前、タガメのその大きな体が後方に退いた。ピーターが撃ったのだろう……と、は恐怖で朦朧としながら理解する。しかし貫いた音ではなく、弾いた音だった。きっとまた直ぐに襲い掛かってくるに違いない。
 隠れ場所を失ったは急いで立ち上がると、死にかけの顔で、何とかピーターの元に戻った。

 知りたくもないタガメの詳細な姿が、目に焼き付いている。一生忘れられないトラウマが出来てしまった。 inserted by FC2 system