Act2.「修理屋」



 コンコン。は常盤の部屋のドアをノックする。まさにこれがノック音、というお手本の音が鳴った。しかし中からは何の反応も無い。はもう一度、今度はもう少し強めに多めに鳴らしてみる。コンコンコンコン。………。それでもやはり反応は無い。もしかすると部屋に居ないのではないか? と、そっと扉に耳を寄せてみる。何も聞こえないが、何となく気配を感じるような気がした。
 は数秒ほど躊躇ってから、思い切って中に声を掛ける。

「あのー……」
 それは思い切ったものにしてはあまりに控えめで、ボリュームはノック音の半分も無かった。しかし今度はすぐに反応がある。ガタッ、ドサッ、バサバサと、中で色々な何かが落ちる音がした。……驚かせてしまっただろうか? は悪いことをしてしまったかもしれないと思い咄嗟に「すみません!」と謝った。
 すぐに物音と気配が近付いて扉が開く。瞬間、近所の書店を思い出した。紙とインクが入り混じった、どこか懐かしい匂いがふわりと漂う。

「……、起きたのか。体調はどうだ?」
「え……あ、はい、眠ったら大分良くなりました」
 部屋から出てきた常盤を見て、は少しだけ驚いた。彼の格好が普段と違ったからだ。まず眼鏡を掛けていたし、いつも跳ねていた毛先は重力に従っていて元気がない。(やっぱりいつものあれはセットしてたんだな……)
 やや着崩されている服を見て、は自分がどんな顔をしていたのか知らないが、常盤が視線に気付いて慌ててボタンを留めたので、恥ずかしくなった。誤魔化すようにブランケットを差し出す。

「これ、有難うございました」
「ああ。ソファは寝心地が悪かっただろう? 本当は君の部屋に寝かせておいた方が良いと思ったんだが……『ここで寝る』と言って聞かなかったからな」
「……誰がですか?」
 彼は答えず、何とも言えない目でを見る。は朧気にだが、眠る直前のことをようやく思い出した。多分恐らくきっと、自分は馬車から家の中までは自分の足で歩いていた。謎の眠気に襲われて不明瞭な意識と、覚束ない足取りで、彼に支えながらフラフラと。そして談話室で力尽きて、ソファにしがみつき――落ちた。は顔が赤くなるような青くなるような思いだった。まるで酔っ払いの醜態ではないか。どうして自分は部屋に戻らなかったのだろう。そんなに面倒だったのだろうか。

「本当にご迷惑をお掛けしました……。えっと、あ、そうそう! 黄櫨くんがお茶にするから来てって、言ってますよ」
 は自分の精神衛生上のためにも、さっさと本題に移ろうと思った。常盤はの言葉に、心の内で密かに溜息を吐く。
 自分を呼ぶための使いに彼女を寄越すなんて、黄櫨もやってくれるな、と思ったのだ。溜まっている仕事を片付け終えるまで、まだ暫くこの部屋から出るつもりは無かったというのに。

「分かった。一区切りつけたら行くから、先に始めていてくれ」
「うーん……。ここで待っていてもいいですか?」
 の返答に、常盤が「え」と驚く。

「わたし、“お邪魔”するように言われて来たんですよ」
 はいたずらを仕掛ける顔で、無邪気に笑った。

 出会った当初は距離感が掴めず、ジャックの一件で更にギクシャクしてしまった彼との関係も、今回の異変で二日間行動を共にしている内に、良い方向に変化していた。知って知られることで互いの言動がある程度予測できるようになり、どこまでなら踏み込んで良いのか分かってきたのだ。軽い冗談も言えるし、通じる。
 得意げな様子のに、常盤は諦めたように小さく笑った。

「分かった。中に入って、適当な場所に掛けてくれ。急いで終わらせるから」
 は「はい!」と元気に返事をして、初めて入る彼の部屋に少しわくわくしながら踏み入った。しかし部屋に入った瞬間、その場に呆然と立ち尽くす。部屋中に積み上げられた本や紙束の存在に、圧倒されたのだ。奥に机は見える。ベッドもかろうじて無事だ……が、他の家具は埋もれていて分からない。
 机の下でうつ伏せになっている本と、床に転がったペンが、先程の落下音の正体だろうか。常盤が慣れた様子で部屋の中を進み、それらを拾って机の上に置いた。

「片付いていないから、あまり見回すな」
 きまりが悪そうに常盤が言う。はそれを否定できず、苦笑するしかない。他の部屋が綺麗すぎるくらい整頓されているだけに、これは予想していなかったのだ。もう自分の居場所などどこにも残されていないのではないかと思ったが、常盤に発掘してもらった椅子を借りて、作業机の横に何とか居場所をもらう。そこで静かに彼の仕事を見守ることにした。


 ――カリカリとペンを走らせる音がする。淀みない滑らかな動きは見ていて心地良い。は邪魔にならないよう、出来るだけ息を潜めて眺めていた。分厚い冊子の白紙ページが文字で黒々と埋まっていく。文字は整った形に見えるが、いくら目を凝らしても読み解くことはできない。一見ローマ字の筆記体に似ているが、見れば見るほど違うもののように見える。それはの知らない文字、言語だった。

 先日の異変でバグを修復する際も、彼はこうして手元の本に何かを書き記していた。規則に基づいた記述をすることで、バックグラウンドで意図した処理を行うことができるらしい。今もまた、世界のどこかを直しているのだろうか。
 この世界がどういう仕組みの基に成り立っているのか、にはさっぱり分からなかったが、それは今に始まったことではない。

 は机の上で山積みになっている書類に目をやる。それらに書かれているのは、も慣れ親しんだ日本語だ。この世界の公用語が日本語なのか、自分にとっての言語が日本語であるから日本語として見聞き出来るのかは分からない。もしかすると脳が追い付く範囲のことは日本語で、範囲外のことは常盤が書き記しているような知らない言語になるのかもしれない。

 書類には様々な異変情報が記されている。
『透明な壁があり先に進めない場所がある』『毎日同じ時間に同じ電話がかかってくる』『突然市街地と連絡が取れなくなった』『ある場所に旅行に行った団体が戻ってこない』……などなどだ。色々な異変があるのだなと、はオカルト情報誌を見る気持ちで、流し読んだ。明らかに胡散臭いものもあるが、この中のいくつが本物で、アリス起因の異変なのだろう。

 は目に付く文章を読み終えてしまい、暇になり、作業を続ける常盤をじっくり観察し始めた。自分の邪魔する能力が低いのか、彼は先程から変わらず、真剣な眼差しを紙面に這わせている。はその横顔をまじまじと見つめ、改めて彼が整った顔立ちをしていることに気付かされた。見慣れない眼鏡がまた特別感を醸し出していて、は少し得した気分になる。そのままじっと見続けていると、ひたすら文字を追っていたその視線が突然こちらに向けられた。顔を上げた彼はちょっと息苦しそうな、困った顔をしている。

「……見られていると、上手くいかないものだな」
 常盤はそう言って、今書いたばかりの一文に横線を引いた。

「ごめんなさい」
「いや、君はここに来た目的を充分に果たしているのだから、堂々と喜んでいれば良い」
「それもそうですね」
 ふふ、と気の抜けた顔で笑うに、常盤も表情を和らげる。彼のあまりに優しい目に、今度はが息苦しく困る番だった。

 常盤はペンをペン立てに挿すと、机の上を片付け始める。ひとまず作業を終えることにしたらしい。トントンと紙束の端を揃えるその顔には、隠しきれない疲れが滲み出ている。は、黄櫨が邪魔をして来いと言った理由が分かった。

「お仕事、すごく大変そうですね」
「アリスの異変で面倒なバグも増えたからな。正直、全てに手が回っていない……君ももしバグだと思われる妙な事象を見かけたら、くれぐれも近付かないように」
 それは小さな子供に注意するような口調だった。はもう、大人の注意に意味もなく反発する子供でもなく「はい、気を付けます」と素直に頷く。“ただの”危険に向かっていきたい願望は、今のところなかった。

 それにしても先日街で見たバグ……異空間へ繋がる穴のようなものが、その辺に放置されているかもしれないというのは、かなりまずいのではないだろうか。

「確か、常盤さんの他にバグを修理する人は居ないんでしたよね。他に出来る人は居ないんですか?」
「居るかもしれないが、居ないのが現状だな。この世界が始まった時から、この仕事をしているのは私だけだ」
「世界が始まった時って……この世界はそんな最近に出来たんですか?」
「最近といえば最近だが、昔といえば昔になる」
 謎かけみたいな常盤の回答に、はこの世界の時間が、自分の世界の時間とは異なるものだということを思い出した。本で読んだところによると……この世界の時間には、世界に流れている時間と、人に流れている時間の二種類があり、人に流れている時間はそれぞれ別々の速度で進むらしい。だから世界の始まりは、誰かにとっては最近であり、誰かにとっては大昔なのかもしれない。

「常盤さんは、どうしてこの仕事を始めたんですか?」
「……世界を出来る限り維持する。それが、自分のすべきことだと思ったからだ」
 それはあまりに規模の大きい、正義感に溢れた動機に聞こえる。彼をただ“真面目な人”とシンプルにカテゴライズするならば、それらしい回答ではあった。が、は腑に落ちない。そもそも彼は世界の消失には不思議なくらい無頓着に見える。それでも手の届く範囲、目の前の整備に熱心なところを見ると、それは単に無頓着なのではなく諦めなのかもしれなかった。

 机の整理が終わったのか(とてもそうは見えなかったが)椅子から立ち上がろうとした常盤に、も続く。その動きで近くにあった紙の塔が崩れそうになるが、二人で支えると、なんとかギリギリのところで持ちこたえた。は安堵の息を吐くが、既にあちこちに散らばっているものを見ると、それほど気にしなくても良かったのかもしれない。その考えが顔に出ていたのか、常盤が小さく笑った。

 彼の顔はいつも、深刻な何かを抱えているような険しさや、憂いの色を浮かべていることが多かったが、向き合えばこうして控えめな笑みを浮かべてくれる。最初こそ、生真面目で冗談の通じない、とっつきにくい人物に見えたが、接すれば接するほどそうではないのだとは知った。だがそれでも――彼は“まともすぎる”。
 は心のどこかでずっと思っていたことを口にした。

「常盤さんって、本当に“帽子屋”さんらしくないですよね」
 の唐突な言葉に常盤がぴたりと静止する。それから、ぎこちなく口を開いた。

「私は君に、自分の“役”について話したか?」
「いいえ。ただ何となく、そうかなって。違いましたか?」
「いや、違わない。……“いかれ帽子屋”なんて、自分では似合わない役だと思っていたんだがな」
 常盤は苦々しい顔でそう言った。『不思議の国のアリス』に出てくる帽子屋は、おかしな登場人物の中でも取り立てておかしく、気が狂っているキャラクターだ。そんないかれ帽子屋という役は、確かに人から予想されてあまり嬉しいものではないかもしれない。は急いで弁解する。

「それは、わたしもそう思いますよ! でも眠りネズミの黄櫨くんは眠らないし、アリスに追いかけられる白ウサギはアリスを追いかけなくちゃいけない。だとしたら、常盤さんはとっても帽子屋さんっぽいと思うんです」
 まともな人だからそう見える。そう、狂っているのは彼ではなく、この世界の方なのだ。

 常盤はの言葉に納得し、安心したようだった。

「でもこの世界ではロールネームに従って、それらしい行動をしなければならないんですよね? 設定を無視しちゃって大丈夫なんですか?」
 彼の帽子屋らしいところといえば、眠りネズミの黄櫨と共に居るところと、頻繁にお茶会をしているところくらいだ。三月ウサギは居ないし、トレードマークの帽子さえ被っていない。それでいいのだろうか?

 この世界におけるそれぞれの役割“ロールネーム”は個人の存在意義そのもので、生きている以上それを証明し続ける必要があると自分に教えたのは、目の前の彼自身だった筈だ。
 街で見かける人々やジャックの館の使用人はまさに自分の役に忠実な風に見えたが、身近に接している常盤や黄櫨は違う。自らに課せられた名前に、逆らっているようにさえ見えた。

「本人がそこに疑問を持たなければ、問題ない。明確な自己解釈があって、ブレなければ、それが一番“それらしい姿”になる。私たちがロールネームに飲まれる必要はないんだ」
「……難しいですね」
「君は君らしい、白ウサギになればいい」
 帽子を被らない帽子屋は、そう言った。
 眠りネズミと居るのも、お茶を嗜むのも、あくまで彼の意志だということなのだろう。

 パタパタパタパタ。可愛らしい足音が早足で近付いてきて、部屋の扉を開ける。黄櫨は両手にパッチワークキルトの鍋つかみをはめたまま「二人とも、遅いよ」と、若干不機嫌な声を出した。 inserted by FC2 system