Act6.「差しのべられた手」



 森に置き去りにされたは、座り込んだままぼんやりと地面を見つめていた。膝下の草はひんやり湿っていて不快だが、立ち上がる気力は湧いてこない。色々なことが一気に起き過ぎて心も体も疲弊している。

 しかしずっとここに居る気もない。この森の中に居ると、いつまたあのトランプ兵達に捕まってしまうか知れないからだ。だが彼らが一目で異世界人と判別したこの格好のまま、迂闊に行動していいものだろうか。森の外の人々が彼らより安全である保証はない。もしまた同じ状況に陥った際、今度は一人で切り抜けられるだろうか?
 槍に、銃。自分の手元にあるのは、飾りめいた手錠一つだけである。

 ――アリスを捕まえることが、わたしのすべき事。役目を果たさなければ、わたしは帰れない。

 不思議の国に盲目的な憧れを抱いていた先程までは、到着して早々に帰る心配をするなんて思ってもみなかった。いや……わたしは本当に心配しているのだろうか? あの現実に帰りたいと思っている? ……今はまだ何も分からない。まずはこの世界の事を知らなければならない。

 物語の主人公たちは、見知らぬ地でどのように一歩を踏み出していくのだろう。勇気と無謀。は、自分には前者が圧倒的に不足していると思えた。

 ザアア、と風が草を撫でる音が不安を煽る。孤独に追い立てる。はその静かなざわめきの中に違う音を拾った。それは自然の音ではなく、人が草を踏む足音だ。誰かがこちらに近付いてきている。の全身に緊張が走った。

(さっきのトランプ兵かもしれない!)
 は息を潜め、極力音を立てないようにして近くの木陰に隠れる。うるさい心臓とは反対に、頭の中がすーっと冷えていくのを感じた。人の一生の内の鼓動数は決まっているという。だとしたら今日一日だけで、どれだけ寿命を縮めてしまったのだろう。

 音と気配はすぐそこまで迫って来ていた。きっと向こうはこちらの存在に気付いている。鬼ごっこや隠れんぼで負けが確定した時みたいに、もう諦めてしまいたくなりながらも、は他に隠れる場所がないか探した。が、遅かった。心構えも何も出来ていない内に、誰かの目がを捉える。現れたのはハート柄のゼッケン軍団ではなく、まともな格好の若い男だった。

 ……トランプ兵ではないようだが、不審人物だと思われれば、彼らに通報されてしまうかもしれない。このままではアリスを捕まえる前に自分が捕まってしまう。はいつでも逃げ出せるよう腰を浮かした。

「何故、ここに……」
(え?)
 男はまるで信じられない、という様子での姿に目を瞠っている。彼が何に対してそれほど驚いているのかは分からないが、の予想に反してその声は柔らかく、敵意を含んではいなかった。それを感じ取ったは多少警戒を解く。味方でなくても敵でなければ、何でも良かった。

 は改めてちゃんと、その人物を見る。
 男はベストにジャケットという、かっちりとした装いをしていた。派手ではないが整った顔立ちで……年齢は二十代半ばといったところだろうか。もっと若いようにも、歳を重ねているようにも見える。安っぽく染めたのとは違うブラウンの髪は“整えられたくせ毛感”があり洒落ていた。一見すると短髪に見えるが、首に沿って伸ばされた長い襟足がちらりと覗いている。胸元に結ばれた深紅のリボンが、きちんとした着こなしの中でほどよく遊んでいた。

 男は野生の鳥にでも近付くみたいに、慎重にゆっくりと歩み寄ってきて、草むらのに目線に合わせるよう片膝をつく。は彼のその動作に、童話の王子様めいたものを感じた。

(わたしにお姫様になれる要素はないけど。……あるとしたら、靴を片方落としてきたことくらいかな)

「こんな場所で、一体何をしているんだ?」
「あ、わたしは……」
 は声は出せるが言葉が出なかった。何から話せばいいのだろう。まずどこから来たのかを話すべきだろうか?

 もし、自分が逆の立場だったら……とは考える。道にしゃがみこんだ人を心配して親切心で声を掛けたら、その人が突然『私は他の世界からやってきた異世界人です』なんて言い出す。そんな時自分だったら、その人の頭にもし触覚やウサギの耳なんかが生えていない限りは……その場から足早に立ち去るだろう。関わってはいけない類の人なのだと決めつけ、逃げ出すだろう。

 もしこの人が……童話の『不思議の国のアリス』に出てくるヘンテコな帽子屋や三月ウサギだったら、上手く口車に乗せてどうにか切り抜けられたかもしれない。しかし目の前でこちらの様子を見守っている男は、こんな格好でこんなところに座り込んでいる自分が恥ずかしくなるくらいにマトモだ。ここは注意深く言葉を選ばなくてはならない。けれどそう考えれば考える程、何も言葉にならなかった。

 困り顔で黙り込むを見かね、男が質問を変える。

「先程、この辺で銃声がしただろう。怪我はないか?」
「はい。わたしは大丈夫です」
「そうか、良かった」
 男はほっと息をつき、僅かに表情を和らげたが……の手にある“手錠”に気付くと、途端に険しい顔になる。

「君は……背の高いウサギ……いや、片眼鏡の男を見たか?」
「見ました、背の高いウサギ耳の片眼鏡の人。見たというより、わたしはその人にここまで連れて来られたんです。その人……ピーターさんが言うには、わたしが、」
 このまま話していいものだろうか? は一瞬迷ったが、彼がピーターの事を知っているのなら、話すべきかもしれない。今の自分の状況について何か教えてもらえるかもしれない、と思った。

「わたしが白ウサギになって、アリスを捕まえなくてはいけないのだと。そう言われました」
 男が息を呑むのが分かった。その顔は怒りか悲しみか、どちらにしろ酷く苦いものを噛んでいる。彼は自分の中に溢れる感情を抑えきれなかったのか、「くそ!」と力強く握り締めた拳で近くの木の幹を殴った。木も、手も、どちらもとても痛そうな音がする。は見た目から想像できない男の乱暴な様子に、びくりと身を縮こませた。
 男はそんなの様子に我に返ったようで、深く息を吐き「すまない、気にしないでくれ」と詫びる。それから一つ咳払いをして、仕切り直した。

「挨拶が遅れてしまったな。私は……この近くに住んでいる者で、名を常盤(ときわ)という」
「あ、はい。わたしは……といいます。初めまして」
「……ああ。突然こんなところに連れてこられて、大変だっただろう。何か酷いことはされなかったか?」
 常盤は労いの言葉をかけながら、遠慮がちにの体を見る。はこさえたばかりの切り傷や掠り傷をさりげなく手で隠した。怪我はないといった手前、恥ずかしい。

「大丈夫です。それよりもわたし……これからどうしたら良いのか、分からなくて」
「私なら君の抱える問題について、ある程度の説明ができる。だが話は後だ。とりあえず私の家に来なさい。夜風で体が冷えただろう? 話をするのは君が充分温まって――傷の手当てが済んでからだ」
 どうやら全てお見通しらしい。の努力は無駄だったようだ。強がりがばれて決まりが悪くなり、はぎこちない笑みで誤魔化す。常盤は笑みを返すどころか、どこか固い面持ちになり――静かにゆっくりと、に手を差し伸べた。

 呆然とその手と彼の顔を見比べるに、彼は「おいで」と、自分の手を取るように促す。それはまるで警戒する小動物を手懐けようとしているようで、彼も緊張しているのが分かった。空気が優しく張り詰める。

 彼を信じて付いて行っていいのだろうか? と思わなかった訳ではない。しかしの体は、自分でも驚くほど素直に彼の手を取っていた。ピーターとは違い優しく引いてくれる常盤の手。その手に助けられながら、は立ち上がる。

 自分の手より大きい彼の手は、硬くて暖かい。ごく控えめな力で遠慮がちに握られたその手は、が立ち上がるのを見届けて離れていった。


 夕空は今や、完全に夜が支配している。 inserted by FC2 system