Act3.「路地裏の白ウサギ」



 擦れるようなブレーキ音。タイヤがアスファルトを削る音。攻撃的なクラクション音。響く悲鳴と、混乱の怒声。小さな子供でもない女子高生が突然道路に飛び出すなんて、自殺志願者かよほど頭がどうかしているかだと思われただろう。そして正解は、後者である。

 その時のは、正気ではなかった。

 ただ彼女は、見つけた影を追わなければならなかったのだ。それが昔から決められた世界のルールであるように、ようやく自分の役割を思い出したかのように、ただただ正体不明の義務感、衝動に突き動かされる。

 は滑稽な踊りみたいに車と車の間をすり抜け、暗い細道に飛び込んだ。走る、走る、路地の裏。そこに彼は居た。再び赤い瞳に取り込まれる。もう気怠さなんてどこかへ吹き飛んでしまっていた。

「どうして僕を追ってきたの?」
「……え?」

 低い声に問われ、はハッと我に返る。それと同時に体中から冷や汗が噴出した。……なんて危険な真似をしてしまったのだろう。スカートの裾を掠めていった車のボンネット。衝突すれすれの車同士。すれ違った死の恐怖が、今になって追いかけてきた。心臓がドクドク暴れているのに、血管は空っぽみたいで、体中から血の気がサッと引いていく。

(一体、わたしは何をしているんだろう!)

 視界がぐらりと暗くなりかけた。全身に余韻を残す、憑りつかれたような感覚。瞬間的で鮮明な夢遊病。最近よく夢を見ていたのは、やはり病気の兆候だったのだろうか。紫はそれを察知して心配していたのかもしれない。

「ねえ、聞いてる?」
 聞き慣れない声が、を目の前の現実に引き戻す。
 彼は、見知らぬ他人に突然追いかけられた不幸な被害者だ。加害者たる自分がどんな顔を向ければいいか分からなかったが、は恐る恐る申し訳なさそうな顔で彼を見る。しかしそこにあるのは……夢遊病の延長。夢まぼろしの姿だった。

 は息を呑む。その目は驚きと、抑えきれない好奇心で揺らいでいた。

 彼は、普通の人間ではない。

 飾り鎖の付いた片眼鏡。その奥の気怠げなガーネットの瞳は、赤という色に似つかわしくないほど冷たく無機質だ。くるくるフワフワと柔らかい癖のある真っ白な髪は、路地の影を吸って青みを帯びている。真っ白。真っ赤。そしてなにより――の目は、彼の頭上から伸びる二本の白いものに釘付けになった。それは確かに血の通った、長い長い耳である。

 の中で、過程を飛び越えた結論が出た。

「あなた、不思議の国の白ウサギでしょう」

 白く長い耳が、の言葉にピクリと動く。どこか眠たそうな瞳が僅かに見開かれた。しかしすぐに訝しむように細められ、その鋭い視線には視線を泳がせる。それから、わたしは何を言っているんだ……と、自分の発言を恥じて後悔した。彼ももっと愉快な反応をしてくれればいいものを。言動だけを見ればの方がまともではない。

(本当に……いい年して得意げに、何を言っているんだか)
 居た堪れなくなり足元に入り込める穴を探すだったが……彼を見て真っ先に浮かんだ“それ”を否定できるだけの現実が、今はまだ無いのも確かだと思い直した。だって追いかけられる服を着たウサギなんて、それしかない。

 そうなのだ。ああ、もしかするとこれは……幼い頃に読んだあの本の、あの夢物語なのかもしれない。は高鳴る胸を押さえて“待て、現実がそんなに面白い展開になるとは思えない、期待するな”と自分に言い聞かせた。けれど、あの真っ白な耳は血の通った本物にしか見えない。そうだったら良いと思っているから、そう見えるのだろうか。

「ご名答。僕は君の言うように白ウサギだよ」
「えっ。まさかそれって、本当に?」
 が驚いて彼を凝視すると、彼はその視線を煩わしそうにあしらって、突然歩きはじめた。逃げてしまう!と、まるでそれこそ本物のウサギでも相手にしているかのように、は早足で彼の背を追いかける。

 その時、片方の足が痛いということに気が付いた。走ってここまで来る時に、片方の靴を落としてしまったらしい。小石を踏む度チクチクして歩きにくかったが、今はそんなことはどうでもよかった。寧ろ、人魚姫が慣れない地上を歩いた感覚を体験しているようで、その痛みすら面白いと感じる。落とした靴は王子様が拾っているかもしれない。

 はこの非日常的な出会いに、すっかり舞い上がっていた。

 だから『知らない人について行っちゃいけません』と言い聞かされ続けてきた耳にタコの忠告を無視する。だって彼は“人”じゃないそうなのだから。 彼は、自分を白ウサギだと言うのだから!と言い訳をして。(知らないウサギに付いていっちゃいけないとは、誰も言わなかったもんね)

「あの〜……それであなたは本当に、アリスに追いかけられる、不思議の国の白ウサギさん?」
「まあ、状況は違うけど、概ねそんな感じ」
 どうでもよさそうに肯定した彼は、一定の歩調で、人気のない暗い道を進んで行く。は軽い足取りでその後に付いていった。

 返ってきたその返事がいかに濁っていようとも、否定でないならば、にはどうだって良かった。否定でないことが重要で、可能性にこそ意味がある。例え彼がウサギの耳を付けたコスプレイヤーであろうと、幻覚であろうと、今この瞬間に少しでも非日常を楽しませてくれるのなら、何だっていい。できれば自分が満足するまでの間、冗談に付き合ってくれればそれで良いのだ。

 そしてそのまま謎を残して、姿を消してくれるならば結構。ああ、結構!
 この世界に、少しでも不可解なところを残しておいてくれさえすればいい。それで自分は夢を見続けられる。

「チョッキは着てないんですね」
 目の前を行く彼の格好は、童話の白ウサギのイメージとは違っていた。暗い深緑色のシャツに橙色のネクタイ、黒のサスペンダーとスラックスである。ちょっと独特なセンスだ。
 彼はの方を見ずに、ぽつりと言う。

「緑とオレンジ」
「え?」
「ウサギってにんじんが好きなんじゃないの?」
「……なるほど?」
 は言葉だけは納得の形式をとり、突っ込みたい衝動を抑えた。とりあえず、彼の中のウサギのイメージがその色の組み合わせだということなのだろう。それが何だ。一体何なんだ。
 は話題を変えることにした。

「でも不思議の国って、本当にあったんですね。良かった!」
「ああ、うん」
「ようこそ世界の反対側。何一つ、不思議じゃない世界へ」
「どうも」
 白ウサギはどこまでも適当だ。しかしも大概に適当なので、人のことは言えない。

「あ、でも、不思議の国からしたら、こっちの世界の方が不思議なんでしょうか?」
「そうかもね」
「いいなあ。わたしはすっかり飽きてしまって……ああ、わたしも不思議の国へ行けたらなあ」

 不思議の国。もしもそんな場所がどこかに実在しているならば、人生は今の何倍楽しくなるのだろう。2Dから3Dくらいの変わりようはあるだろうか。行ってみたい。実感したい。不思議の国への入り口は、どこにある?

 アリスは穴に落ちて、不思議の国へと辿り着いた。だとすればこの足元に、ワンダーランドがあるのだろうか。ワンダーランドがアンダーランドだなんて、なんて面白いのだろう。

「不思議の国への入り口って、やっぱりウサギの巣穴とか、鏡の向こうとかにあるんですか?」
 お差し支えの無いようでしたら、是非教えていただきたい……という言葉が喉まで出掛かった時、突然、彼が歩みを止めた。すぐ後ろに居たはその背中に勢いよく鼻をぶつける。反射的に「すみません」と謝ってしまうが、痛いのは自分だけで、彼はびくともしていない。謝るべきは突然立ち止まった彼ではないだろうか?は不満そうに彼を見上げる。出会った時から思っていたが、彼はとても背が高い。近い距離ではよりそれを痛感する。そう、痛感。見上げる首が痛い。ちなみに打ってしまった鼻も痛い。あ、足も痛いんだったっけか。

「ここだよ」

「え?」

 何が、と問おうとしたその瞬間、彼の腕が見てもいない背後のの腕を捕らえて、そのまま彼女の体も引き連れ、前に引っ張り出した。

「……え?」
 は何事かと困惑する間もなく、すぐに一歩先の足元に深い闇が待ち構えていることに気付く。そこにあったのは、十二分に人が入り込める大きさの丸い穴だ。そして、これから何が起こるのか分かってしまった時には既に遅く、白ウサギの手がの背を闇に押し出していた。は形容し難い声を上げながら、何とかして穴の淵に留まろうとつま先に力を込めたのだが、それも無駄な抵抗に終わり、体は闇に誘われるように――落ちていった。

「わっ、」

 キャアー!とかヒャアー!とか。ジェットコースターでしか出した事の無い自分の悲鳴が、頭上に吸い込まれていく。違う。自分自身が穴に、吸い込まれている。落ちながら振り向いた“入口”には、丸く縁取られた路地裏の空。表情の無い白ウサギ。

(なんだ、これ。夢?)

 ああ、ちょっと路地裏に足を踏み入れただけでこんなに不思議なことがあるならば、もしかすると退屈でつまらなかったのは、凡庸な少女ただ一人だったのかもしれない。

 胃が浮かんで、脳が突き抜けていきそうで、叫び声も尽きた頃、はどこかで誰かの悲痛な声に呼ばれたような気がした。だがそれはきっと、風を切る音に騙されでもしたのだろう。



 *



 嫌な予感がした。否、していた。

 今日、彼女の様子がどこか変だと感じ始めてから。違う、本当はもっと前から。ここ最近ずっと感じていた。ただそれを認めてしまうことが怖くて、いつも通りの平和な日常が続くものだと信じていたかっただけ。
 けれど彼女と別れてから、小さな予感が胸騒ぎに変わり、頭の内側から割れるような警鐘が鳴り響いて、悠長に構えている暇は無いのだと悟った。だから追いかけたのに……一歩遅かった。

 そこに辿り着いた時、残っていたのは彼女の悲鳴の名残だけだった。そして、彼女を突き落とした男はこちらの存在に気付きもせずに、自身も穴へと飛び込んでいく。

 間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった!

 生きた心地がしない。よろよろと覚束ない足で縋るように、彼女を飲みこんでしまった穴に近付く。だが、それはもうただの蓋の開いたマンホールで、人があんなに簡単に落ちていく大きさでもなく、底には仄暗い水の気配があるだけだった。

 誰も居なくなった路地裏で、車や人の行き交う音を遠くに聞きながら、ただ目の前の現実に愕然とする。……日常が壊れる音がする。なぜ、どうして。
 強く噛みすぎた唇から鉄の味が滲んだ。どうして自分はこんなにも弱いのだろう。無力なのだろう。世界が温く滲んでいく。

 ――ああ、ずっと大切にしてきたものが、今再び奪われようとしている!

 桃澤紫は長い髪を振り乱し、懺悔するように地に伏して、彼女の名前を叫んだ。
 厚く重く息苦しい、怒りと悲しみと絶望。しかしそれは少女の声帯を通ると、高く細い悲鳴となって、灰色の空気に力なく消えていった。
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