Act23.「白ウサギと不思議の国」



 ジャックの館で過ごす四回目の夜。今夜、はここを去ることになっている。体はもうすっかり全快しているものの、常盤からはまるで病人のように過度な心配をされ、帰りは馬車が手配された。は直に到着するという馬車を、エントランスホールのソファで待っている。

 ここに居ない常盤は今、ジャックとあの地下水路に居るらしい。それは彼の仕事の為だ。アリスの異変である青バラの棲み処となっていた地下には、世界の“バグ”……つまり何かしらの不具合が起きている可能性が高く、それを発見し修復するのが彼の仕事であるらしい。が、詳しいことを聞きそびれてしまったには、正直よく分からない。

(ジャックはもう、大丈夫なのかな)
 ピンピンしている自分より、彼の方がよほど気遣われるべき状態に見えた。もしかすると、部屋から出た自分と鉢合わせしないよう、常盤はジャックを連れ出したのかもしれない。結局あれからジャックの顔を見ることは一度も無かった。

 ジャックがを手にかけようとした件については、の意向によりここだけの話で終わらせることになった。しかし青バラの存在を隠していたことに対しての処罰は、然るべく下されるだろうとのことである。幸いにも青バラの被害者の中から死亡者が出ることはなく、意識不明だった者も、青バラの消滅と共に目覚めたらしい。原因の青バラが消えたことで、全てはただの悪夢だったかのように元通りになりつつある。
 国王から贔屓にされているジャックには、それほど重い処分は下らないだろう……と常盤が不満そうに言っていたのを、は思い出した。

(常盤さんがジャックに、何かしなければいいけど……)
 今回のことで改めて、は常盤が自分に対して過保護だと実感していた。だが客観的に見れば、自分に危機感が無さ過ぎるのが問題なのもしれない。……だから彼は、馬車だけではなく“お目付け役”まで用意していったのだ。
 はお目付け役とは名ばかりで、全くこちらを見ようともしない男をちらりと窺う。彼はの視線に気付き、鬱陶しそうに顔を顰めた。

「なに」
「なんでも」
 はあ、とピーターはこれ見よがしに溜息を吐く。

「どうして僕が、君のお守りなんて」
 心底面倒だという様子のピーターに、も溜息を返して、一人でエントランスを出た。外の空気を吸おうと思ったのだ。は一人になりたかったが、ピーターは常盤からの頼みを無碍には出来ないらしく、一応渋々付いてくる。

 外は静かだった。周囲には何人かの使用人がいたが、彼らは盤上に配置された駒の如く同じ場所に張り付いている。客人に丁寧なお辞儀をしただけで、必要以上に接してくることはなかった。
 広い庭園の真ん中では、大きな噴水が涼しげな飛沫をあげている。は服を濡らさないギリギリでその淵に腰かけた。深く息を吸うと、冷たいマイナスイオンの味が肺を満たす。

「君は大人しくしていられないの?子供じゃないんだから」
 ピーターに馬鹿にされ、はムッとした。しかし彼にだけは反論できない。出会った時に彼に見せた姿は、まさしく落ち着きのない子供だったのだから。

「すみませんね」
 は投げやりに返す。ピーターはそれを完全に無視して、少し離れた淵に座った。……離れてはいるが、会話には困らない距離だ。それが逆にを困らせる。こうして二人になると、彼とどう接していいか分からなかった。常盤やジャックもそれぞれ分かり難いところはあるが、にはピーターが一番分からない。最初に出会った時は普通に会話をしていた気がするが、その時の感覚がもう思い出せなかった。
 ピーターは隠すことなく、こちらに敵意や不信を向けてくる。関わり合いたくないという意志がヒシヒシと感じられた。

 は重苦しい空気を追い出すように、また深呼吸する。より上の方の空気が新鮮で美味しい気がして、自然と空を仰ぎ見た。澄み渡る夜空だったら良かったのだが、空は曇っていて、月も星もどこにも見当たらない。この間見た月はどのくらい満ちていただろうか。この世界に来てから、あっという間に時間が過ぎている。きっと何をしても何もしなくても、こうして時間は過ぎていくのだ。

「あの……残されている時間はどのくらいあるんでしょうか?」
 世界が消えてしまうまでに、どれほどの時間が残されているのか。自分はいつまでにアリスを捕まえなくてはならないのか。その問いに明確な答えがあるとは期待していなかった。ただ彼の考えが聞きたかっただけだ。
 ピーターは最初、は空に向かって話しかけていると思っていたが、その遠い目が自分の方に降りてくるのを見て、嫌そうに答える。

「ああ……最初に言わなかったっけ。次の満月までだよ。次の満月までにアリスを捕まえられなければ、この世界は終わる」
 想定外の具体的な回答に、は首を傾げる。言葉の意味がよく分からなかった。いや、分かっていたが、受け入れ難かった。

(え……今、この人、なんて言った?)

「いや、いやいや聞いてないですって。次の満月って!」
 もし雲に隠れている今夜の月が、欠け始めの月だったとしても、そこから約一ヶ月で満月になる。つまり最大であと一ヶ月しか猶予がないということになるのだ。

「それ、本当ですか?そもそも何でそんなことが分かるんですか?」
「本当だし、分かるんだよ……」
 食い気味のに、ピーターは手で追い払う仕草をした。

 ――この世界の期限は、ほぼ確実な予知をする予言士グリフォンが予言したものだったが、はまだそのことを知らなかったらしい。彼女にグリフォンの予言について一から説明することを考えると、ピーターはそれだけで疲れた。自分がここで説明しなくても、きっと後で常盤か黄櫨が教えるだろう。だから彼女にこれ以上訊かれても、無視するか彼らに訊けと返す気でいた。しかし予想外に何も言ってこないを不信に思い、彼女を見ると、その顔は……

(何を考えているか、さっぱり分からないな)
 戸惑っている、焦っている、不安を感じている。ように、見える。だがそれはどこから湧き出る感情なのだろう。たった数日間居ただけの世界、それも自身を危険にさらした世界に、どうして当事者みたいな顔ができるのだろうか。

 そんな彼女を見ていると、何故か「まあ、大丈夫だよ」という迂闊な言葉が口をついて出てしまった。の目に驚きが浮かぶ。言葉の意味に期待しているのか、唐突な慰めを訝しんでいるのか。
 ピーターはと目が合う度、難解な問題を突きつけられた気分になった。彼は考えるのを放棄し、先程ののように空を仰ぐ。雲は分厚く空を覆っていた。だが完全な暗闇ではない。空全体に薄明るい月の気配が漂っている。

「まだ当分、月は満ちない。月が満ちるのは月がそうしたい時だけで、いつその気になるのかは分からないけど……空気ぐらい読んでくれるでしょ」
 多分、次の満月はまだまだ先だ。そこに至るまでの物語が、充分に紡がれるまでは。世界が満足するまでは。

 この世界はそういうものなのだ。

「……なに、それ」
 呑気なピーターに、は気が抜けた。

「この世界の月には心があるんですか?」と訊けば「じゃあ君の世界の月に心はなかったの?」と訊き返される。は当たり前……と言いかけて、やめた。必ずしもそうとは言い切れない。自分が知らなかっただけで、本当はそういうものなのかもしれないのだ。

「期限が明確でないということは、ずっと先かもしれないし、明日かもしれないんですよね」
「明日ってことはないし、ずっと先ってこともないよ。虚無化の進行速度は上がってる……虚無化のことは知ってるよね?」
 流石にそれくらいは、というニュアンスで言われて、は少しムキになりながら「はい」と頷いた。それからまた思い詰めた顔をする。

「時間がないなら、急がなくちゃ……アリスを捕まえる方法は、彼女の起こす異変を追う以外にないんですか?」
「さあ。前例が無いから」
 王城ではアリスと虚無化について調査を進めている部隊があるが、まだ碌な成果は出せていない。残留思念に触れたの方が前進している程だ。やはり時間くんが選んだだけの何かが、彼女にはあるのだろう。ピーターは行き詰まる調査に苛々する城の面々を思い出した。

「異変って今回みたいな幽霊騒ぎとか、色々あるんですよね。一つ一つ回っていくなんて、時間が足りなくないですか?」
「そうだね。でもまあ、虚無化が進めば、異変も探す場所も限られてくる」
「……なんで」
 何故彼はこんなにも他人事なのだろう?とは眉を寄せた。虚無化は場所も人も全てひっくるめて消滅させてしまう恐ろしいものだと聞いている。それは大災害のように取り返しの付かないことではないのか。それともそうではないのか。

「虚無化で消えてしまった人たちを、元に戻すことはできないんですか?」
「無理だよ。アリスの虚無化で存在を否定されたものは“無かった”ことになる。一部、間接的な記録は残る場合もあるけど、それが真実だと確かめることは難しい。誰も覚えていないから、再現できない」
 ピーターの言葉を、は信じられないと思った。いや、信じたくないと思った。無かったことになる。覚えていない。……昨日まで隣に居た誰かを、今日忘れているかもしれない。大切な何かが、自分の知らないところで奪われているかもしれない。考えるだけで悲しく恐ろしかった。

 何故ピーターは平気で居られるのだろう。何故、常盤も黄櫨も平然としていられるのだろう。……いや、彼らが平気だと決めつけるのはやめておこう。

「急がなくちゃ」
 は自分自身に言い聞かせるように、呟いた。
 少しでも被害が拡大する前に食い止めなくてはいけない。自分に優しく接してくれる常盤や黄櫨、良い関係とは言い難いが奇妙な縁が出来たジャック、それから目の前の彼も……消えてしまうのは嫌だった。今この時を目覚めの悪い夢にはしたくはない。

 急がなきゃ、急がなきゃ、と焦る新しい白ウサギ。ピーターはそんなを見て、彼女の方が自分よりよほど“白ウサギらしい”と思った。

 会話が途切れると、噴水の水音と森のざわめきが帰ってくる。そしてそこに新たな音が混じった。一定の規則で弾む、揺れる音。馴染みがなくてもすぐに分かる、馬車の音だ。馬車は使用人に誘導され門の付近で止まる。は自分の迎えが来たことを察して立ち上がった。

 艶やかに黒光りする二頭の馬。馬車は四輪で、香炉みたいな形の小さな部屋を乗せている。御者席に座るコートと帽子の紳士が丁寧に挨拶をした。
 は折角初めて馬車に乗るというのに、全くはしゃぐ気持ちが湧かず、タクシーかのように乗り込んだ。ピーターも続いての斜め前に座る。馬車は背の高い彼には窮屈そうだった。が常盤の家に戻る最後まで、監視は続くらしい。

 は硬い皮のカーテンを開け窓の外を眺めた。ほどなくして馬車が走り出すと、景色が流れる。暗い森を背負う厳めしい邸宅が、遠ざかっていく。
 数日前に訪れた時、ここで自分がどんな目に遭うかなど想像もしていなかった。これからもきっと、色々な出来事が待ち構えているのだろう。もっと危険なこともあるかもしれない。だが、不思議と逃げ出したい気持ちは無かった。
 進みたい。すべきことをしたい。アリスを止めたい。それがアリスの残留思念の影響か、白ウサギのアリスネームがもたらす義務感なのか、はたまたヒーロー気取りで舞い上がっているだけなのかは分からなかった。が、本心だ。

 ――マンホールを抜けた先にある不思議の国。アリスを追う白ウサギ。終わらないお茶会。人を喰らう青いバラ。奇妙で理不尽な世界。
 怖さもあるけれど、好奇心が疼く。心が魅了される。

(わたしはこの世界を守りたい。今を素敵な思い出にしたい)

 ……そう。いつかはただの思い出になるのだろう。ここですべき事が終われば、アリスが夢から目覚めたように、自分も元の世界に帰るのだ。退屈で温い、生きた心地のしないリアリティの中で、一人のキャラクターではなく有象無象に埋もれていく。

 酷くつまらないが、それが現実。

 どうして夢は、醒めなくてはいけないんだろう。



 ―― 第一章『白ウサギと不思議の国』完 ―― inserted by FC2 system