Act21.「女王と騎士(後)」



 異世界から来たその男は、ロザリアの慈悲と異世界の研究のため、城に滞在を許された。学も武術の心得も無く、雑用すらまともにこなせない不器用さ。接する者を不快にさせる陰険さと、時折爆発する癇癪持ちのその男は、人々の厄介者でしかなかった。

 無知なのか意図して隠しているのか、彼からは異世界の情報もさして得られず、尋問や解剖は女王が許可しない。何の役にも立たない男は、周囲からは女王の気まぐれで飼われているペットとして認識されていた。ロザリアの対応も、その認識を助長するようなものだったのである。名乗る名前を持っていないという男を、ロザリアは自らの好物である焼き菓子の名前で“タルト”と呼び、たまに自分の話し相手にするくらいで、あとは男に好きにさせていたのだ。

 ジャックはその男、タルトが嫌いだった。なよなよと非力そうなところも、粘つく視線も、女王の責務以外に興味を示さなかったロザリアが、個人的な感情で彼に興味を持ち始め、日に日に親しくなっていたことも。タルトがロザリアの前では多少穏やかに見えることも、全てが気に入らなかった。しかしそれはタルトも同じらしく、彼はジャックと顔を合わせる度、仄暗い井戸のような目で睨みつけてきた。否、彼はジャックだけでなく、世の中の何もかもが気に食わなかったに違いない。徐々に暴力的な本性を露にしていった。

 それは彼が、世話役の使用人が自分に手を上げたと騒ぎ立てるところから始まった。稚拙な証拠までこさえ、糾弾し、憐れな使用人を城から追い出してしまったのだ。ロザリアに忠誠を誓う使用人がそのような真似をする筈がない。タルトのでっち上げであることは誰の目にも明らかだったが、何事にも公平だったロザリアは、何故か彼の望むままにさせてしまった。

 その一件で調子に乗ったのか、タルトの傍若無人ぶりは勢いを増していく。衛兵が自分を馬鹿にしたから解雇だ、料理人が食事に毒を盛ろうとしたから死刑だ、自分より背の高い女の使用人は気分が悪くなるから脚を切り詰めてしまえ……といった具合に、どれも聞くに堪えないものだった。

 勿論、ロザリアが実際に使用人達を傷付けることはなかったが、彼女はタルトが名を挙げた者達を端から全員、解雇していった。解雇された者にはその後の生活に困らないよう手厚い施しがされたが、信じた女王から切り捨てられた彼らの顔には、一様に絶望と憎しみが浮かんでいた。

 タルトの暴挙はそれだけに留まらず、彼はロザリアに金を無心しては豪遊していた。酒に煙草に賭け事に、国で禁じられている薬物、最も趣味の悪いとされる遊びまで、ありとあらゆるものに手を出し溺れた。彼の影響を受けて堕落した者も少なくはない。

 悪を分かりやすく凝縮したその男を側に置いていることで、人々のロザリアに対する評判も落ちていった。“女王は異世界人に狂わされている”という噂が広まるのはあっという間だった。それは城から城下の街へ、街から街、国の端にまで広まり、タルトの存在はロザリアの積み重ねてきたものをいとも簡単に壊していった。

 そのような状況になる前に、ジャックや家臣達が何もしなかった訳ではない。大勢がロザリアに諫言した。何とかして、タルトを彼女と城から遠ざけようとした。しかしロザリアは誰の言葉も聞き入れず、一人の男の言いなりになる愚かな女王として、臣下からも嘲笑われるようになっていった。彼女がタルト如きに弱みを握られる弱い女王ではない以上、国民たちの噂通り、彼女はまさしく狂わされているに他ならないのだ。

 正義を失うも強大な力を持ったハートの女王には誰も逆らうことが出来ず、一人、また一人、諦め顔で彼女の元を去っていく。ジャックは去っていく人々を羨ましく思いながら、無責任だと蔑んだ。

 ジャックはロザリアとタルトの間に、実際何があったのかは詳しく知らない。知りたくもなかった。昼夜問わず男の部屋を訪ねていくロザリアに、彼女への忠誠を捨てきれない自分に、苛まれながら日々を過ごしていた。

 そんなある日、ロザリアに何度目かの諫言を拒否され苛々していたジャックに、タルトが声を掛けて来た。タルトは口を開けば人の神経を逆撫ですることしか言わない男で、関わるだけ時間の無駄だと、普段なら無視するところだった。が、その時のジャックは虫の居所が悪く、つい相手にしてしまったのだ。

「あんたも懲りないな。またロザリアに余計な事言ったんだろ」
「……俺に関わるな」
「何言っても無駄だって。ロザリアには俺が居ないとダメなんだから。国より民より、俺が大事なんだから」
「黙れ」
「憐れな女だよな。周りから勝手に期待されて、落胆されて。慰めてやれるのは俺くらいだよ、ほんと」
「聞こえないのか? その汚い口を閉じろって言ってんだ」
 ジャックの反応に、タルトは満足そうな笑みを浮かべる。

「あいつ、少し優しくしてやると、いつも捨て犬みたいな顔で縋ってくるんだ。可哀想で可愛い、俺のロザリア」
「いい加減にしろ」
「……あは。笑えるよ? 女王サマが這いつくばって必死に尻尾振ってるところは。なあ、今度見にこいよ」

 ジャックは頭に血が上るままに、タルトに掴みかかっていた。タルトのコンプレックスである細い体を覆い隠す、布地のたっぷり余った服が、その拍子にめくれる。病的に白い肌にはいくつもの傷跡があった。新しいもの、古いもの……それは自傷の痕だった。ジャックはまるで汚いものでも見る目で、乱暴に手を放す。タルトは床に放り出され、強かに背を打った。みっともないその姿にジャックの怒りが冷えていく。

 手を出されたからか、見られたくないものを見られたからか、タルトは癇癪を起して言葉にならない言葉を喚き続けた。「馬鹿にするな」「無視するな」「殺してやる」……今度こそ耳に入れる価値もないと、ジャックはその場を後にしたが、今思えばその時に彼に手を下しておくべきだったのだろう。

 いや、もっと早く。戻れるならば始まりの雨の夜へ。

 彼を彼女と出会わせてはいけなかったのだ。



 *



 タルトの暴挙により人の減った城は、がらんとしている。ジャックはロザリアに呼び出され、玉座の間に来ていた。ようやく彼女と話ができるという喜びは束の間で、ジャックはロザリアの口から出てきた言葉に愕然とする。

「タルトがあなたを処刑しろと騒いでいます。彼と何かあったのですね? とても残念です」
「陛下! いい加減に目を覚まして下さい。あの男とこれ以上一緒に居てはいけない!」
「……城を発ちなさい、ジャック。これまで、長い間付いて来て下さり有難うございました」
 ロザリアは平常通りの氷のような顔と声で、ジャックに言い放つ。彼女の言葉はいつも自己完結しており、ジャックはその揺るぎなさに惹かれていた。しかしその時は、ただもどかしいだけだった。

「いえ、去りません。俺はあなたに忠誠を誓ったんだ」
 ジャックの言葉に彼女は僅かに目を見開き、それから悲し気に伏せる。それは女王らしくない、感情に塗れた人間らしい顔だった。

 ロザリアが小さな唇で、躊躇いがちに何かを言いかけた時、

「そう。去るなんてダメだ。俺は殺してって言ったんだから」

 悪党とはこういう顔をしているのだろう、とジャックは思った。姿を現したタルトは醜悪な笑みを浮かべ、その手には小ぶりな剣を握っている。

「タルト、何をしに来たのですか」
「ロザリア、あんたは本当に嘘吐きでずるい女だ。本当はあんたも俺のことを馬鹿にしてるんだろ?」
「何を言っているのですか」
「俺がひどい目に遭わされても、誰も殺してくれない。もうあんたには頼らないよ。自分でやる」
 ジャックはタルトの言葉を鼻で嗤った。騎士である自分が彼のような弱々しい男に、素人に負けるなどあり得ない。ジャックにとっては正当防衛で男を葬れる、絶好の機会でしかなかった。しかし……タルトの剣は、ジャックではなくロザリアに向けられた。

 タルトがロザリアを羽交い絞めにして、その首元に剣をあてている。不慣れで力の加減も出来ないのか、彼女の首筋にすっと赤い線が引かれ、滴った。「あれ、ごめん」とタルトはへらへらしている。ジャックは油断しきっていた自分を悔やんだ。

「女王サマを助けたいなら、自害しろよ。俺、見たいんだ」
 どこまで性根が腐っているのか。どうすればこのような人間が出来上がってしまうのか。異世界にはこんな悪魔ばかりいるのか。ジャックはタルトへの憎悪で手が震え、全身の血が沸騰しそうになる。タルトは楽し気に「早く、早く」と急かした。

 ジャックが腰の剣に手をかけた時――
 それを、ロザリアが止めた。

「やめなさい。……タルト、お遊びが過ぎますよ。お前如きが、私をどうにかできると思っているのですか」
 それは生きた心地のしない、ぞっとする声だった。他を圧倒する彼女の存在感。ジャックはその懐かしい感覚に安堵する。誰も彼もをひれ伏せさせる威厳と貫禄。これこそロザリア。これぞ女王。ようやく彼女の目が醒めたのだと思った。

 タルトは飼い犬に手を噛まれたみたいな顔で愕然としながら、彼女から離れる。そしてその目は、憎しみを持ってジャックに向けられた。ロザリアが自分を拒絶した理由がジャックにあると思ったのだろう。彼は狂ったように叫び声を上げ……ジャックに斬りかかった。
 ジャックはこれで終わりだ、全て元通りになる、と

 剣を振り下ろした。



 *



 何かを言い遺す間もなく、タルトは息絶えた。あんなにも自分を苦しめてきた男の、あまりにあっけない最期に、ジャックは拍子抜けする思いだった。もっと苦痛を味わわせてやれば良かったというのが本音だが、ロザリアの手前でそれは出来なかった。

 何はともあれ、これで全て元通り。悪の根源は断った。彼から解放されたロザリアは、また以前のように素晴らしい女王になり、自分はその隣で彼女を守り続ける。きっとまたやり直せるはずだ。と、ジャックが晴れ晴れした気持ちで彼女を見ると――

 ロザリアは泣いていた。子供みたいに泣きじゃくり、男の亡骸に縋りつく。息もままならない様子で激しく泣いては、心を失ったかのように暫く宙を見つめ、また思い出したように泣き出す。……ロザリアは一晩中、ずっと、泣き続けていた。
 ジャックは今にも壊れそうな彼女に触れることも出来ず、傍らに立ち尽くす。いつまでも見守り続ける。これなら殺されていた方が、いくらかマシだったと思った。



「あなたには、私のことがさぞ愚かに見えるでしょうね」
 悪名高いタルトを大々的に弔うことは出来なかった。もし葬式をしても悲しむ者は彼女以外に居なかっただろう。彼の亡骸は城の裏でひっそりと煙になった。夜空に上る煙を眺めながら、ロザリアがポツリと言ったのがそれだ。ジャックは憐れな女に、何と答えていいか分からなかった。

「タルトはあなたにも、多くの人にも、悪魔のように見えていたでしょう」
 ロザリアの手は胸の前で組まれ、祈りを捧げている。

「……私が女王に見えているように」
 無機質な声。彼女らしくない言葉に、ジャックは話の行く先に不安を抱いた。聞いてはいけない、聞かなくてはいけないものが、語られようとしているのだ。

「けれどタルトには、私がそうは見えていなかったのです。彼は初めて会った時から、私を女王ではなく一人のロザリアとして認識していた。そんなのは初めてでした」
 ロザリアの言葉は女王である自身の立場や、彼女を女王と信じたジャックや家臣達を恨むものではない。それよりももっと根底にある世界の理……アリスネームに捕らわれ、演じて生きなければならないこの世界の仕組みを、嘆いているように聞こえた。

「私と彼には、お互いにだけ見える姿があった。私は彼に囚われ、救われた。だから彼を救いたかったのです」
「あの男があなたを救った? 気を確かに持ってください、奴は、」
「いいのです。あなたには分からない。私も彼と会う前は分からなかった」
 
 私は女王でない私を知らなかった。と、ロザリアは呟く。

「タルトの身勝手な振る舞いには、私を女王の枷から解き放とうとしていたところもあったのでしょう。私の願望でしかないかもしれませんが、それが私の中の真実です」
 ジャックは彼女の言葉を否定したかったが、彼女の空虚な顔を見て、それ以上何を言うことも出来ない。

「彼は不器用でとても弱い、傷だらけの獣だったのです。彼を癒して、救ってあげたかった」
 煙が薄れていく。同時に、夜も薄れていく。ジャックは何を聞かされているのか分からず、ただ彼女を見ていた。湧き上がる嫌悪は彼女の妄言に対するものなのか、彼女を狂わせた亡者に対してのものなのか、無力な自分に対するものなのか。

「彼と話していると、私は初めてただの“ロザリア”として生を受けたように、思えたのです」

(……俺は彼女を、玉座に縛り付けていたのか)

 目の前の女王を一人の“ロザリア”として見た時、それは知らない女に見えた。思えばあの男のことも、自分は何も知らない。……分かろうともしなかった。


 以降のロザリアは、棘を抜かれた薔薇のようだった。女王としての職務を機械的にこなす日々。不当に解雇された家臣や使用人達は城に戻る機会を与えられたが、半分も戻ることはなかった。それは女王の力、国力の弱体化を表していた。

 タルトの悪い噂は彼の死後も続き、それは異世界人そのものの印象にも影響していった。人々が異世界人に対し反感を持てば持つほど、異世界人の存在は益々、この世界にとって悪いものになっていったのだった。

 暫くしてして、ロザリアは次なる“ハートの女王”を産み落とすと、まるで役目を終えたかのように体を悪くし息を引き取った。女王を演じられなくなったためか、異世界人の呪いか。それは突然の死だった。生まれた子は誰の子かと取り沙汰されたが、考えるまでもない。
 生まれたばかりの赤子に国を治めることなど出来る筈もなく、しかしいずれは女王たる力を発揮する存在になるだろうと、その子はロザリア同様に世界の統一化を図る“ハートの王”に奪われていった。芽は早い内に摘んでおく、ということである。将来王の傀儡として都合よく扱われるのかもしれない。が、ジャックにはどうでもよかった。その子供が利用されようが飼い殺しにされようが、知ったことではない。
 女王を失った国は、ハートの王が治めるトランプ王国に吸収された。仕える者の居なくなったジャックは王に拾われ、彼の騎士になる。その決断に、王の元にロザリアの娘が居ることは関係ないと、ジャックは思うようにしていた。


 それから月日は流れ、今に至る。 inserted by FC2 system