Act2.「望んではならないもの」



「なにボーっとしてるの?」

 席に座ったままのを覗き込み、紫が優しい呆れ顔で笑う。切り揃えられた長い髪が彼女の動作に合わせてパラリと揺れた。その黒く茂るまつ毛が瞬きをすると、窓を少しだけ開けたように、清涼な風が吹き込んで温さを洗っていく。涼やかで洗練された雰囲気を持つ少女。他の誰でもない彼女らしいところが、は好きだった。

 気付けば教師の姿は消えていて、解き放たれた空間は放課後のざわめきで満たされている。いつ授業が終わったのだろう? 帰りのショートホームルームは? まるで目を開けたまま眠っていたようだ。

「ああ、うん」と返事も曖昧なに、紫はぴしゃりとした口調で衝撃の発言をする。

「さっきの居眠り中、あなたイビキかいてたわよ」
「えっ! う、嘘でしょ!?」
「さあ、どうかしら」
 紫の笑みは、恥ずかしい親友を許容する優しい笑みにも、哀れな親友を騙してからかう悪戯な笑みにも見えた。は授業中にイビキをかいて眠っている自分の姿を、そしてそれを見聞きしたクラスメイトがどう思ったのかを想像して、恥ずかしさに居た堪れなくなる。

「ねえ本当に? 嘘だよね? ねえ」
「ふふ、目が覚めたみたいね。嘘よ、嘘」
 ようやく紫からその言葉を引き出すと、は安心したように脱力した。ああ、確かに一気に目が覚めた。

「なんかさ、最近よく夢を見るんだよね。だから寝ても寝た気がしなくて、昼でも眠くて」
「へえ」
「夢の内容はすぐ忘れちゃうんだけど……目覚めた時の気分がすごく……アンニュイって感じで」
「ふうん」
「なんかね〜アンニュイなんだよ……アンニュイってなんだ? アンニュイ。ねえ、アンニュイって、」
「もはや言いたいだけでしょ、それ。別に可愛くもなんともないわよ」
「なんともニュイわよ?」
「はいはいニュイニュイ。それより帰りましょ」
 ほら、と背中を叩かれ、はのろのろ立ち上がる。

「ねえ。今日はバイト無いんでしょう? どこかに寄り道していかない?」
 紫の提案を受け、は短く思案した。……彼女との寄り道は好きだ。カラオケに、ゲームセンターに、ショッピング。しかし、いつもならば魅力的に感じるその誘いに、今日はあまり乗る気がしなかった。そこで「喉が渇いたから、何か飲んで帰ろうか」と返す。紫はの返答に、彼女が遊びに積極的な気分ではないことを察したようだった。

「いいわね。は何が飲みたいの?」
 そうして連れ立って教室を出る時、入り口付近で溜まっていたクラスメイトの女子達とは一言二言交わす。特に内容はない。ただの「また明日ね」の前振りである。人が人の社会で生きていく上で、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返すこと。それ自体に意味がある行為だ。
 ちら、と隣の紫を伺うと、いつものことながらその顔に表情は無く、瞳には彼女らを映してもいない。中でも愛想の良い一人が紫にも声をかけると、紫はようやく彼女らの存在に気付いた素振りで「ええ、さようなら」と小さく会釈し、またどこか別の方を向いてしまった。クラスメイト達は、そんな彼女の様子に顔を見合わせて苦笑する。

 紫は極度の人見知りだ。というより、他人への興味が極端に薄いというのだろうか。自分から人と交流をはかろうとすることは殆ど無く、話しかけられれば当たり障りのない程度に返事はするものの、その返事でさりげなく会話に終止符を打つものだから、会話が続かない。加えて少年的な凛とした声と涼やかな瞳が、周囲に近寄りがたい印象を与えていた。

 は廊下を歩きながら、会釈の名残の残る横顔を見つめる。高すぎない鼻と薄い唇がとても上品に見える、その横顔。……しかし、すぐに視線に気付いた紫がこちらを向いてしまったため、じっくり見ていることは許されなかった。


「ねえねえ、駅前の新しい喫茶店にする? それともやっぱり、いつものところにする?」

 紫は、にだけは本当に楽しそうな笑顔を向ける。

 友人ら曰く、七日町 は桃澤紫という少女に関して、例外的な存在であるらしい。にとって、紫はどこまでも優しい親友だった。そんな彼女が多くの人に“冷淡な人””面白味のない人”と誤解されたまま一線を引かれ、また彼女自身が引き続けるのは、親友としてはやはり悲しい。

 ――などと嘆いている程、はできた人間ではなかった。

 は、紫という人間が本当は情に深く、一度ツボに入ると笑い上戸で、辛いものが苦手で、小動物が大好きだということを知っていて、そんな彼女を知っているのは自分だけでいいと思っているのだ。
 その幼稚な独占欲に、紫は気付いているだろう。それでも拒まない紫が優しすぎるからいけない。などと言い訳をしながら、は彼女が、いつまでも自分だけの親友でいてくれるように祈っている。彼女が自分だけのものであればいいと願っている。唯一無二の存在は、に強い執着心を植え付けていた。

「うーん。わたしのオススメはね、いつものところ。ほら、クーポン来てたから」
「あら、流石ね、偉い偉い」
 自慢げに携帯画面にクーポンを映して見せるの頭を、身長のそう変わらない紫がよしよし、と撫でる。子ども扱いする紫に、は「バブウ」と口を尖らせた。

 帰り道にあるいつものカフェで、は期間限定のチーズケーキホイップフラッペを、紫はアイスカフェオレを購入し、歩きながら飲むことにした。いつも決まってカフェオレを頼む紫に、は呆れと感心を半々に浮かべる。

「本当に好きだよね。飽きないの?」
「飽きないわよ。冬はホットになるし。は期間限定モノに弱いわよね」
「だって、チーズケーキだよ、チーズケーキ! 絶対美味しいじゃん」
「飲み物なのに、ケーキね……」
「紫だってチーズケーキ、好きなくせに」
「ケーキはケーキでいいのよ、私は」
 紫がストローでカフェオレを吸い上げるのを見て、も自分のドリンクに取りかかった。

 チーズケーキホイップフラッペは、チーズケーキ味のフローズンドリンクに、マスカルポーネクリームがたっぷり乗っかった一品だ。ミルキーな甘さを、若干の塩気が絶妙に引き立てている。ドロドロシャリシャリのフローズンの中には、細かく砕かれたクッキーやスポンジが入っていて、食感が楽しい。底にははちみつレモンソースが敷かれていた。

 一口飲んでみる? と紫の感想も聞いてみたいところだが……紫はそのような距離感を嫌っているので、は諦める。同じ皿から食べるのはOK、ストローやスプーンなどの共有はNG、一緒に寝る、風呂に入るのはNG。彼女には彼女のパーソナルスペースがあるのだろう。少し寂しく感じる時もあるが、大抵の場合は、これくらいが調度いいとも思っていた。

 心地よいと感じる距離感、食べ物や飲み物、服装の好み、趣味や生活スタイル。二人の共通点は決して多くはない。にも関わらず、長年一番距離の近い友人として付き合っているのは、根本的な“気”が合うからなのだろう。自分たちは互いをよく知り、分かっているのだと、は自負している。

 だから、些細な変化でも気付かれてしまうのだろう。

「さっきから、ずっと変よ」
「え? 何が?」
 はとぼけたふりをするが、紫の指摘が何に対してのものなのか自覚はあった。実は、夢から覚めてからというものずっと、はどうにも世界が遠くに感じてしまっている。意識はあるが、まだ100%はここに無いような、若干心あらずの状態なのだ。

が、よ。なんだかずっと上の空で、ボーっとしちゃって。アンニュイにも程があるわ」
「そんなことニュイよ」とははぐらかす。……紫は“さっきから”というが、別に今に始まったことではない。最近ずっと、何かとボーッとしがちなのである。変な病気だったら困るな、とも思うが、多分そんなに大ごとでもないとは楽観視していた。ただよく夢を見るだけ。ずっと眠いような、それだけ。

 まだ追及してきそうな紫の気配を感じながら、気付かないふりをしてフラッペをストローでかき混ぜる。ドロドロ、ドロドロ。なめらかに溶けていくそれは、どこか見覚えのある情景の気がした。……すっと、手元に影が差す。隣を歩いていた紫が立ち塞がったのだ。

「さては、また変なことでも考えてるんでしょう」
 鋭く細められていく紫の瞳に、はドキリとした。以外の者に向ける冷たさとは違う、一種の熱を感じる、刺すような冷たさ。焼けつくような凍えるようなそれは、怒りなのか悲しみなのか。執着なのか依存なのか偏愛なのか。紫が時々見せるこの瞳が、は苦手だった。

「変なことって?」
「例えばそうね……教室の天井と床がひっくり返って逆さまになっちゃったら、電灯が邪魔で椅子が置けないんじゃないか、なんて心配をしてるんじゃない?」
「……はは。そんなことになったら、電灯は床に取り付けることになるんだから、大丈夫でしょ?」
 これは、いつかのと紫の会話の再現だ。ふと思い付きで仮想の世界を口にしたと、きっぱり鮮やかに否定する紫。今は互いにその時の役を取り替えて話していた。

 紫はの返事に満足げに頷く。はこっそり、やれやれと思った。

 紫がに対して唯一否定的になる時。それが、が現実にはありえないような空想の世界、夢物語を語る時だった。にとってそれらはとても魅力的で、とても楽しいものであるのに、どうやら紫にとっては嫌悪の対象であるらしい。が少しでもそれらを口にすれば、人が変わったように頑なに、それらを否定する。理不尽なまでに、が彼女の否定に同意するまで許さない。

 はそんな紫の一面を理解しがたいと思いつつも、自分なりの解釈はしていた。それは、彼女の育ってきた環境に起因しているのだろう、と。
 詳しい事情は、紫が聞けばいい気分にさせないからと言うので聞いていない。だが、どうやら紫の家はとても帰りたくなるような家庭環境ではないのだそうだ。高校三年の現在、両親が共に健在しているにも関わらず、彼女は小さなアパートで一人暮らしをしている。

 ああ、きっと彼女の視てきた世界には夢物語を描くだけの色が足りなかったのだろう。彼女にとって空想とは、無意味な嘘偽り。現実との落差を痛感させるものでしかない。歪んだ近道をして、大人になってしまったのだろう。

「変な空想をしていないなら……変な夢でも見たのかしら。がおかしくなったのは、居眠りから目覚めてからだものね」

 ……やっぱりわたしは、おかしいのかもしれない。とは思った。あんなに甘かったチーズケーキホイップフラッペが、突然甘さ控えめに感じられる。肌寒く感じるのは、秋の訪れが近いからだろうか。
 紫の白く細く冷たい指が、の手首を掴む。爪が食い込む。その瞳がじっと、入り込んでくる。

「もう、夢なんて見ては駄目よ。惑わされても、駄目」

 睡眠時の夢なんて自分の意思で見る見ないを決められるものじゃないと、そんなことはとても言えなかった。こういう時の紫はとても面倒で……少しだけ怖い。は紫が好きだったが、それは結果的に“まだ”好意の方が勝っているというだけでしかない。

 夢を見るから現実で生きていけるのだと、は思う。しかし、理解しようとせず一方的に価値観を押し付け強制する彼女に、今更何を言う気もない。言葉とは伝えるためのもの。聞く耳がなければ、意味はないのだ。
 が首を縦に振れば、ようやく紫はいつもの彼女を取り戻す。その手はするりと離れて、秋風に舞った。

「私は、今が好き。普通の毎日が特別なの。だから、ありもしない夢なんて要らないわ」
 紫の言葉は、与える愛の優しさに溢れながら、相手にも同等を求める強欲なものである。

 “ありもしない夢”
 はその言葉に息苦しさを覚えた。

 紫は昔から、夢や魔法やおとぎ話をから取り上げようとするが、きっと彼女は気付いていない。否定されればされるほど、禁じられれば禁じられるほど、が強くそれらに惹かれていくということを。

(惑わしてくれるだけの夢があるなら、良いんだけど。かくもこの世は、彼女の望み通りに退屈だ)
 はもうずっと、自分を騙し騙し生きてきたような気がしていた。


 ――そして、彼女との帰路に平和が戻った。


 空になったカップをこっそりコンビニのゴミ箱に捨てて、身軽になったは、道路と歩道の間の平均台に乗り、少しだけ空に近付いた。橙が混じる薄藍色の空には、鬱屈な電線が走っている。教室の窓枠に飾られた空の方が、完璧で綺麗だと思った。綺麗な部分を切り抜いた、絵本の絵みたいで。

、危ないわよ。歩車道境界ブロックなんかに乗って」
「え、なに、もう一回言って」
「歩車道境界ブロック」
「これ、そういう名前だったんだ……」
 平均台の方が分かり易いのに。と、は心の内でぼやく。

「……日が落ちるのが早くなってきたわね」
「そうだね、秋だね。モンブランだ」

「ねえ、
 紫が、静かにの名を呼ぶ。紫は何気なさを装っているが、どこか弱弱しいその様子に、は黙って次の言葉を待った。しかし紫は「なんでもないわ」と言って、秋の味覚芋栗カボチャの話題に移ってしまった。

「じゃあ、またね」
 二人の分かれ道。お互い名残惜しそうに立ち止まって、もう少しだけ話をしてから「バイバイ」と手を振り背を向け歩き出す。時折振り返りながら、その行動にまた笑って、また前を向いて。それを繰り返し別々の道を進んでいく。まるで小さな子供みたいだ。……子供。いつまでこうしていられるのだろう。自分達は半年後には、高校を卒業する。生き方に期限はないと思っていても、それは何かの節目に感じられた。

 艶やかな黒髪が道の向こうに消えたのを見届けて、は大きな溜息を吐く。一人になると突然、頬の筋肉が疲労で引き攣った。紫にあれ以上追及されないよう、ぼやける意識をごまかして、意識的に笑うようにしていたのだ。頑張った頬を撫でて労わる。

 そうしている間にもはまた、意識が遠くに漂い始めていた。学校に居た時程ではないが、まだ心身の感覚が霞んでいる。

(もしかして、風邪でもひいたのかな?)
 帰ったらすぐに寝よう。そう思うのに帰ることさえ面倒で、慣性的に動かしていた足を止めてしまう。全身に巡る怠惰感。自分が消えていきそうな不安定さ。……こんな夢を、見たような気がする。

 立ち止まるの周りでは、見慣れた夕刻の景色が渦を巻いていた。ちょうど人通りの多い道に出たところだったからか、派手な色が多い。車のライトの黄色、街灯の黄緑、路地裏の赤。


 路地裏の、赤?


 は視界の端に流しかけたそこに目を戻す。それは道路の向こう、居酒屋とマンションに挟まれた狭い路地。その奥にちらつく赤色を、今度はしっかりと目に留める。それは何かの、誰かの、瞳だ。暗く全貌はぼやけているが、その真っ赤な双眸だけは闇に隠されることなく浮かび上がっていて、間違いなくを射ていた。こんなにも距離があるのに、瞳などという僅かな面積の色がハッキリ見えるのが不思議だった。

 ふっ、とその瞳が見えなくなって、はその人物がこちらに背を向けたのだと知った。ぼんやり見えていた影が、路地の奥へ吸い込まれていく。

「あっ、ま、ちょっと、待って!」
 はそんな風に慌てて声を荒げる自分が恥ずかしくて、不思議で仕方なかった。ただ本能だけが先走り、嘲笑を浮かべる冷静な自分を押し負かしてしまっている。ぼやぼやと遠ざかっていた世界が、急激に鮮明さを取り戻し始めた。色が、溢れる。ああ、ああ、世界が、世界が帰って来た。

 世界が一気に押し寄せてきた!

 赤い瞳はもうを見ない。
 追いかけなければ、追いかけなければ、追いかけなければ!
 は気付けば、車の行き交う道路へと身を投じていたのだった。


 無謀な自分を弁明できる理由はない。
 ただ、何かが起きるような、物語が始まるような予感がしたのだから仕方ないのだ。 inserted by FC2 system