Act16.「BAD END」



 透き通る夜気が髪の隙間をくぐり、熱を濯いでいく。深く息を吸うとヒンヤリした喉越しが心地良かった。

「わあ、綺麗!」
 はジャックに案内された庭園に感嘆の声を上げる。正門を入ったところにあった庭園も美しかったが、館の裏に広がるそこは目を瞠る程だ。生け花のように計算された多種多様な花々が、ガーデンライトに照らされ艶やかに輝いている。青く澄んだ香り。植物を引き立てる洒落た小物。石畳の道には一枚の葉も落ちておらず、手入れが行き届いているのが分かる。

 咲き誇る花の中で目立つのは、やはり薔薇だ。豪奢に重なる花弁は庭園の主役だった。色や形の違う数種類の薔薇たちには、植物園みたいにネームプレートがない。にはそれぞれの名前が分からなかった。しかし美しいということが分かっていれば、それ以上に知ることなどあるだろうか?
 と、思ったが……ジャックが自慢げに語る花の品種や花言葉を聞くと、やはり知ることは知ることで素晴らしいと思うのだった。

「へえ。色だけじゃなくて、本数でも花言葉って変わるんですね」
「ああ。あとは色の組み合わせでも意味が変わるから、贈る時には気を付けろよ。……そうそう、知ってるか? 薔薇は棘や枝にも花言葉があるんだぜ」
「えっ、そうなんですか? まあ、棘や枝だけ貰ったら何かしら勘繰るとは思いますが。……そういえば、青バラにも花言葉はあるんですか?」
「“花の方”にはあるな。自然界の薔薇には青の色素がない。それが由来になって青薔薇の花言葉は“不可能”、“存在しないもの”だ」

 自然に青を発色しないなら、やはり幽霊騒ぎを起こしている青バラは植物の薔薇とは全くの別物なのだろう。……不可能、存在しないもの。は何かを思い出しかける。青薔薇の花言葉を、元の世界で見聞きしたことがある気がしたのだ。それに確か元の世界では青薔薇は存在していた。遺伝子組み換えで開発が成功したとかなんとか……

「あ! “奇跡”です」
 ポンと手を打ちスッキリした様子のに、ジャックは何の事か分からないといった顔をする。

「何がだ?」
「青薔薇の花言葉です。わたしの世界では青薔薇の開発に成功してから、花言葉が“奇跡”に変わったそうですよ」
「へえ……君の世界には本当に青い薔薇があるのか。羨ましいな」
 ジャックはそう言いながら、近くの赤い薔薇を愛でた。夜にしっとり濡れている花弁。薔薇は大人しく彼の手に頬ずりしている。
 少しの間、ジャックはに背を向けたまま黙って薔薇を見つめていた。はどうかしたのかと声を掛けようとしたが、ジャックがそれを遮る。

「君の世界は、どんな世界なんだ?」
 薔薇を見つめたままのその表情は分からない。何度か見た気取り屋のにやけ顔だろうか? しかし何故かそうではないと、は見ずとも分かっていた。

「わたしの世界は……」
 上手く説明できる言葉が見つからない。寧ろこの世界のことの方が説明しやすいくらいだ。説明すべき特徴が見つからないのは、それが自分の中で取り立てる程のこともない普通のことになっているからだろう。

「平和で、便利で、住みやすい場所……ですかね」
「とてもそうは思えない顔だな。自分の世界が好きじゃないのか?」
「……好き嫌いで、選べるものでもないですから」
 は苦笑する。

 ――住みやすさと、生きやすさは違う。は物心ついた頃からずっと、自分の世界に生き辛さを感じていた。
 この世界と違って決まった役など無いのに、出来る事とすべき事が決まっているような。明日がどんな日なのか、明後日がどんな日なのか分かってしまうような。おかしなところの何もない想定内の世界に、は退屈しきっていた。……そう、きっと多くの少年少女と同じように。思春期によく見られる自意識過剰な思想、自分が特別だという自己愛……いつか黒歴史として刻まれるアレが、人より早く長いだけ。だから自分も結局は、ありふれたつまらないテンプレート人間の血を引いているのだろう。はそれがたまらなく嫌だった。

 何も言わないジャックに、は少し後悔した。我ながら面倒な返答をしてしまったと思う。別に彼に本音で語る必要などないのだ。ジャックが聞きたかったのはもっと客観的で表面的な異世界の話だろう。例えば娯楽、食文化……学校や会社などは珍しいかもしれない。そう、語るべきはこの世界にとって目新しい、異文化的な部分。

 はそれらを話して場を取り繕おうとした。が――振り向いたジャックの纏う冷たい空気に口を閉ざす。ジャックの口元は、確かに笑みの形になっている。が、目が笑っていないとはこういうことなのだろう。彼はどこか無機質にを見ていた。

「そうだな。生まれる場所も生きていく世界も、選べない。決まっているべきだ」
 は出来るだけ柔和な笑みで、よく分からないまま同意を装う。何か彼の気に障ってしまったのだろうか?
 ジャックはふっと遠い目で庭を眺めた。

「人の手でもたらされた外来種が、生態系のバランスを崩し、在来種の脅威となることがある。元々別の場所にいた種は共生できない」
 なんだ植物の話か。と、は多少強引に自分を納得させようとした。しかしそれは許されない。ジャックの目が再びを見た時、そこには明確な敵意が存在していた。

「在来種を守るためにはどうすればいいか、分かるか? 簡単な話だ。外来種を排除すればいい」
(この人は、植物のことを話してるんじゃない。わたしの……)

「もう分かってるだろ? 君の……お前のことだよ、異世界人」
 ジャックはに一本の薔薇を差し出した。言葉や声色にそぐわないその行動は不気味でしかない。彼の無骨な手に握られた薔薇は、深く暗い深紅色をしている。棘が処理されていない、生えていたままの薔薇。いつ手折ったのだろう? あんなに大切そうにしていたのに。こんなおかしな空気になる前だったら、少し棘があるだけの、素敵な贈り物だと思えただろうか?

 戸惑うの目の前で、ジャックはその花を毟り取った。それは目に見える行動以上に、異様に攻撃的で残忍な所業に思え、は顔を顰める。彼はその行動で何を表しているのだろう。

 ジャックの手には、首のない棘だらけの枝だけが残る。彼はに向ってそれを投げつけた。枝はの胸元にぶつかって、地面に落ちる。

 “薔薇の枝”の花言葉は――『あなたの不快さが私を悩ませる』
 それを、は知らない。

「お前は自分の世界で生きて、死ねば良かったのにな」

 研ぎ澄まされた鋭い音が、スラリと抜かれる。そういえば……彼は騎士だと言っていた。帯刀しているようには見えなかったが、物が突然現れるのはこの世界ではよくあること。ジャックは一メートルを優に超えそうな両刃の剣を、に突き付けていた。

「危険な異世界人は排除する」
「い、いや、ちょっと……わたしは危険なんかじゃ、」
「万が一そうだとしても、異世界人には“個人的な恨み”があるんだ。悪いな」

 ああ、これは駄目だ、とは悟った。何を言ったところで彼に聞く耳などない。もう彼の中では結論が出ているのだ。一体いつから? 今夜散歩に誘った時か、それとも街で初めに会った時か、もしくはもっと前からか。他の二人は気付いているのだろうか? ピーターはどうだか知らないが……少なくとも常盤が、ジャックの真意に気付いていたとは思えない。には彼に大切にされている自覚が、流石にあった。

(気付いて、助けに来てくれるかな……?)
 この世界の住人である常盤やピーターの言葉なら、ジャックは聞き入れるかもしれない。彼らが事態に気付き、ここに来てくれるまでどのくらい時間がかかるだろう。それまで逃げ切れるだろうか?
 は後退る。背を向けると一気に斬られてしまいそうだった。ただ真正面で向き合っていても、アニメや漫画のキャラクターみたいに攻撃を躱せるとは思えない。しかしジャックは剣先で威嚇するだけで、斬りかかってくる様子は無かった。

 彼が一歩前進し、が一歩後退する。何度かそれを繰り返すと、は靴の下で踏み心地が変わるのを感じた。硬い石の感覚から、柔らかい土と草へ。先程まで居た場所は庭園の奥だったから、ここは庭園を抜けた外なのだろう。確か庭の先にあったものは、館の後ろに構える森だったはずだ。振り向かずとも鬱蒼とした木々のざわめきと暗い匂いが感じられる。それから……不思議な肌寒さ。慎重に横目で後ろを伺うと、そこには大きな暗闇が見えた。

 にはそれの全容が見えていなかったが、彼女の後ろには草の這う古びた石のトンネルが大きく口を開いている。ジャックはをトンネルの前まで追い立てると、ようやく剣を下ろした。そして誰かに合図するようにパチンと指を鳴らす。

「食事の時間だ」

 瞬間。の背後で、ドッと何かが湧き上がった。反射的にが振り返ると、そこには闇を纏いながら蠢く――青い、巨大な塊。動き続けているためか、暗闇に溶け込んでいるからか、その姿を上手く捉えることはできない。トンネルから現れたそれは無数の長い手足をに絡ませ、巻きつく。の視界はあっという間に埋め尽くされ、

 彼女はそのまま、奥に引きずり込まれていった。



 “青バラ”がと共にトンネルの奥に消えると、その場はシンと静まり返る。ジャックは一仕事終えた、と溜息を吐いて剣を鞘に収めた。さて、これから自分がすべきことは何か。
 平静を装って館に戻り、夜が明けた頃にの失踪に気付くフリをする。そして、彼女が好奇心から夜に出歩き、偶然にも地下水路の入口に近付いてしまい、青バラに遭遇してしまったという無理矢理なシナリオを完成させなければならない。とにかく、これが不幸な事故だと悲しんだフリをしなければならないのだ。

(ピーターが余計なことを言わなければいいが)
 立場は違えど、二人は王に仕える身としてある程度互いのことは知っていた。これまでジャックが王の命令で幾人の異世界人を手に掛けてきたことを、王の補佐であるピーターが知らない筈がない。
 ただ、もしピーターにシナリオの真相を悟られたところで、ジャックには彼が異世界人などの為に、自分との間に波風を立てる真似をするとは思えなかった。しかし、本当に想定外にも……常盤がを気に掛けていることで、彼と親しいピーターの行動も変わるかもしれない。

 それでも。ジャックは彼らを敵に回そうが恨まれようが、やめる訳には行かなかった。異世界人は野放しにできない危険な存在なのだから。

 ――異世界人は稀な存在だが、その出現は伝説的な確率ではない。忘れた頃、時には忘れる前にやってくる。ただ殆どの異世界人は、ロールネームを持たないことで世界に適合出来ず、すぐに消滅してしまうため、記録に残らないと言うだけだ。しかし少数の適合性がある者は、すぐには消滅せず、世界に悪影響を与える疫病神になった。
 彼らは呪いとしか思えない災禍を呼び寄せるのだ。関わった者が気を狂わせてしまったり、訪れた地では前代未聞の病が流行ったり、豊作の地が不毛の地になるなど、異世界人は様々な形で世界のバランスを崩してきた。異世界人はこの世界にとって危険因子でしかないのである。

 そんな異世界人を、この世界の事情に精通している筈の常盤が保護しているのは何故か。ピーターが自らのアリスネームを移譲したのは何故か。何故王は、アリスを捕まえるという命を放棄したピーターを咎めず、それどころか……面白そうにしていたのか。

 今回は理解の及ばない事が多すぎた。

 ジャックは、数日前の王城でのやりとりを思い出す。ジャックはトランプ兵から異世界人の情報を得て、取り逃がした彼らの尻拭いをしようと王の元に向かったのだ。だが王は、ジャックに異世界人の抹消を命じなかった。それだけではない。そこでジャックが王から知らされたのは――異世界人が白ウサギになったという驚きの事実だった。

 ジャックは、ピーターが王からアリスの件を任されたと聞いた時、心底彼を羨んだ。そんな大役を任せられるなどどれだけ光栄なことか。しかし自分はハートのジャックで、彼は白ウサギ。白ウサギの方が今回の役目に適していることは、不思議の国の一員である以上本能的に知っていた。物語でアリスに追われた白ウサギが、今度はアリスを追う……この世界にピッタリのヘンテコな話である。だから仕方ないと、自分は別の方向からピーターをサポートしようと、思っていたのだ。
 それが、どうだ、白ウサギが、異世界人……? ただでさえ不穏な力を持つ異世界人に、強力なアリスネームを与えたというのか。

「異世界人にそんな重要な役目を任せるなんて、気が狂ってる!」
 頭に血が上ったジャックに、王はハハ、と笑った。

「全くだ。だが役が移譲できたということは“適性”があったのだろう。面白いじゃないか。アリスもこの世界ではイレギュラーな存在だ。アリスと異世界人、イレギュラー同士がどのような化学反応を起こすか、見ものだと思わないか?」
 それはつい最近まで絶望的な表情を浮かべ、鬱々としていた王とは思えないほど、愉快な口ぶりだった。ジャックはいくらそれが己が仕える主の意志だとしても、心から受け入れることはできない、と目で訴える。だが王が彼に強制することはなかった。

「殺したいなら殺せばいい。お前が異世界人を恨んでいるのは知っている。好きにしろ」
 与えられた選択権は、ジャックにとって何より重い。信じ付き従っている王からの自由は、不要と切り捨てられたと同義に感じられた。命じてくれた方が、自分は自分を信じられるのだ。

「良いのですか? 陛下は、新しい白ウサギに期待されているのでは」
「ああ、だからだ。簡単に死ぬ白ウサギはいらない」

 王から許しを得たジャックは、すぐに新しい白ウサギについて調べた。騎士団を使って調査すると、ほどなくして少女の特徴と、常盤と黄櫨の元に身を寄せているということが分かる。二人との関係を悪くしたくはなく、厄介だと思ったが――事故に見せかけて殺そうと思った。自分の手元には丁度、おあつらえ向きの“異変”がある。

 そうして異変を餌におびき寄せた少女の第一印象は……不気味でもおぞましいでもなく“掴みどころがない”だった。礼儀正しくはあるが、冗談も通じる。言葉は円く、無害を上手く装っている。お喋りではないが無口でもない。しかし言葉以上にその目には何かが潜んでいる。これまでに関わった誰とも似ていない、独特の雰囲気の少女だった。
 最初は甘い言葉で油断させようともしてみたが、いまいち手応えがない。まだ子供だということだろうか。それにしては大人びた表情をしていた……。

 ジャックはの顔を思い出し、頭を振る。
 もう無駄に思い出すのはやめよう。自分が手にかけたのは一人の少女ではなく異世界人でしかないのだから。


 異世界人の少女は青バラに、何を見るのだろうか。 inserted by FC2 system