Act13.「暮れの街」



 暮れの街は忙しない。仕事を終えて帰路につく者、夕食の買い出しをする者。徐々に降りる夜の帳に追い立てられているのか、家々から漂う温かな香りに急かされているのか、人々は足早だった。

 その様子を冷めた目で眺めながらのんびり歩いている男は、どうにも人目を引く存在だ。人々の中から抜き出た長身、真っ白な髪、夕焼けより濃い赤色の瞳……そしてやはり何と言っても天に向かってピンと立つ二本の長い耳は、誰もが目を留めずにはいられないのだろう。しかし殆どの者は、ちらっと見てはすぐに、さっと逸らした。
 それは、男が白ウサギの役を持つ者だからである。強い力を持つ“キャラクター”には下手に関わるべきではない。睨まれでもしたら取り返しのつかないことになる。それがこの世界の“その他大多数”の生存本能だった。(加えて、男の愛想の無さが有名だからである)

 故に、どんな人混みの中でも男の前の道は自然と開き、いつも歩きやすい。彼自身はもうすっかりその感覚に慣れ親しんでいるものの、それが今の自分には相応しくないものだと分かっていた。何故なら彼はもう、畏怖を向けられる存在ではない。“白ウサギ”という異端な枠から抜け出た彼は、もう世界に関与する大それた力は持っていないのだ。

 ――ピーターが異世界の少女を連れ帰ってから、既に数回、夜と夕方が入れ替わっていた。何も知らない少女に白ウサギの役を強引に押し付けた彼だったが、それを自分の役目を果たしただけだと、都合よく解釈している。
 白ウサギの本来の役目はただの“案内人”であると、彼は考えているのだ。好奇心旺盛で後先省みない少女を不思議の国へ招き入れる。それ以上に何をすることがあるというのか。自分にアリスを捕まえるよう命じたのは、世界の終焉を恐れたこの国の王であるが、彼は白ウサギに対する認識を誤っているとしか思えない。白ウサギがアリスに追われるのではなく、アリスを追いかけるなど、てんでおかしな話だ。(この世界では起きがちであるが)

 新しい白ウサギの少女は、恐らく自分とは相容れないタイプの――無鉄砲な夢想家。このおかしな世界にはぴったりのおかしな娘だ。すっと順応して、割と上手くやっているんじゃないだろうか。と、ピーターは完全に他人事のように、忘れかけの少女の顔をぼんやり思い浮かべた。

 ピーターが彼女を選んだのは、そこに彼女が居て、彼女が追いかけてしまったからという偶然のことであったが、果たして偶然などというものが本当に存在するのか。いっそのこと全て必然だと言われた方が、納得できるというものだ。何故なら――彼女のことを指名し、自分を異世界に向かわせた存在がいるのだから。

 ピーターは宵始めの空を見上げ、深く呼吸した。吐いた息は、蜜柑色の灯りと藍色の空に吸い込まれていく。何故か気分が晴れなかった。

 彼が物憂げな視線を地上に戻した時、人の波間で、視線を逸らすことなく自分を見ている二つの目に気が付き……既視感を覚えた気がしたのだが、それはデジャヴなんてロマンスではない。ただ数日前の記憶と紐付いただけだ。
 ああ、あの少女はこんな顔をしていたな、とピーターは思い出す。

「お久しぶりですね。その節はどうも、お世話になりました」
 記憶の中の少女よりも落ち着いた口調で、何故か友好的に、しかしどこか挑戦的な笑みを携えて歩み寄ってくる彼女は、面倒事の再来にしか思えない。そのまま無視して雑踏に紛れてしまっても良かったのだが、わざとらしくニッコリ微笑む彼女に、そのまま立ち去ってしまうことが悔しく思え、結局顔を合わせることとなる。

 ああ、もう自分の中にある感情さえ面倒だ。と、ピーターはうんざりした。



 *



 が不思議の国に来てから、既に五日が経過していた。五日の間、は黄櫨からこの国の話を聞いたり、本を読んで学んだり、少しだけ街に出て買い物をしたりという日々を送っていた。
 世界が無くなってしまうかもしれないというのに随分悠長なものだ……という自覚はある。だからと言って見知らぬ地で一人で出来ることなどない。常盤はアリスの手掛かりになるという“異変”の情報を探しに、殆ど外出していた。何か手伝う事はないかと申し出たに、まずはこの国の基礎知識を学んでおくようにと、彼は言った。つまり手伝える事は無いということである。彼がそう言う以上、黄櫨も同じ考えでに接した。は彼らの意志に従うほかなかった。

 そうこうしている内に日々は過ぎ、新しい部屋には新しい私物が増えていき、不思議でならなかったことが日常の一部に溶け込んでいく。朝も昼も無ければ無いで、さほど困らない。夜と夕方の割合は日によって多少変わるものの大体が2:1。一日の三分の一の夕方に、人々は仕事をしたり出かけることが多いようだ。

 の一日といえば、夜が明ける前に起床して、読書や近所の探索でこの世界のことを学び、空腹になったら食事を摂り、入浴、就寝。その繰り返しである。同居人の黄櫨とは程よい距離感で、常盤は不在がちの為、人間関係で気を揉むことは無く快適な日々だった。

 勿論慣れない点も多々ある。例えば、この世界には普通の鏡がない。それは鏡が不思議な力を持ち、人を惑わす危険な存在とされているからだ。その為人々が生活で使用するものは、歪めたり、濁らせたり、濃く色付けすることで封印を施した鏡であり、の部屋にも濁った鏡を用意してもらったが……これが非常に使い難い。未だに毎日の小さなストレスになっている。また物語に展開がないことも、日々積み重なっているストレスの一つだった。

 しかしようやく今日、物語は動きを見せる。

 が本と睨めっこしながらこの世界のへんてこな歴史を辿っていると、黄櫨が迎えに来たのだ。黄櫨は常盤から、とある場所にを連れてくるようにと連絡を受けたらしい。……ちなみにここ数日でが学んだ事の一つだが……この国の連絡手段には、見た感じかなり現代的な携帯電話が存在している。それだけでなく便利な家電製品もある。しかし黄櫨や街の人々は、それを見て見ぬふりをしながら使っていた。世界観を守っているのだと、黄櫨は言う。昔ながらの馬車やランプは、あくまで世界を演出する小道具としての意味合いが大きいらしい。

 真面目な顔の黄櫨(つまり彼の通常だが)に連れられ、は既に探索で訪れたことのある近くの街に来ていた。ここは常盤の家から、徒歩で半刻程の距離にある街だ。常盤との待ち合わせ場所に二人で向かっている途中、は雑踏の中に白い頭を見つけて足を止める。

 赤い瞳と目が合えば、ほら、また――逸らせなくなる。

 黄櫨に「ちょっと待ってて」と言い残して、はその白ウサギに近付いていった。


「……お久しぶりですね。その節はどうも、お世話になりました」
 はどういう感情で彼に近付いて行ったのか、自分でも理解しきれていない。もう“白ウサギだから追いかけた”という、おとぎ話的な理由ではなかった。勿論再会を喜ぶ間柄でもない。ただそもそもの発端となった彼を無視できなかったのだ。

 圧倒的な身長差で上から突き刺さる視線。こうして改めて見ると、恐ろしく冷たい顔の男だと思った。気怠げな中に確かな不機嫌があり、近付き難い雰囲気を醸し出している。

「別に、世話を焼いたつもりは無いよ。用件はそれだけ?」
 跳ね除けるような言葉に、はたじろぐ。いくら何でもこんな人通りの多い場所で、また発砲なんて真似はしないだろうが……話しかけたのは間違いだっただろうか? 答えに窮するを軽く睨みながら「じゃあ僕は急ぐから」とピーターは立ち去ろうとする。

「急がなくちゃ、なんて。白ウサギみたいなことを言うんですね?」
 は言ってから後悔した。これではまるで喧嘩を売っているみたいだ。ただのユーモアのつもりだったのだが。(何か言ってやりたい気持ちが、無かったわけではない)
 口は災いの下。三寸の舌に五尺の身を亡ぼす。雉も鳴かねばなんとやら。それでも黙っていられないのは何故なのか。口にするにしても他にあった筈だ。例えば、何故自分を白ウサギにしたのか。白ウサギの役割やアリスについて、何か知っていることはないか。そういうことを尋ねる方が、よほど生産的で平和だ。

 しかし彼はの喧嘩もどきを買うことはなかった。相手をすること自体が時間の無駄だとでもいうように、肩を竦めただけである。は彼のどこまでも冷たい対応に新鮮さを覚えた。常盤や黄櫨があまりに良くしてくれていたからだろう。両極端だな、と思った。

 このまま彼と話を続ける自信が無くなったは、諦めて黄櫨の元に帰ろうとする。その時、誰かに名前を呼ばれた。ずっと以前から何度も口にしてきたみたいな自然な響き。を呼んだのは、常盤の声だ。
 振り返ったは、そこに早足でこちらに向かってくる常盤を見つけるが、彼とは目が合わない。常盤は鋭い目でピーターを一直線に射抜いている。激しい怒りを露わにしている彼には驚き、ピーターは「うわあ」と嫌そうな声を出した。しかしピーターは嫌がっているというよりは……意外にも困惑し弱った顔をしている。

 ――常盤はピーターに近付くと、左手で彼の胸ぐらを掴み、勢いよく右拳を振り上げた。
 ヒュッと空を切る音が、目の前を通り過ぎる。はとっさに目を瞑るが、いつまでたっても鈍い音は……しない。恐る恐る目を開けた。

 常盤の拳が、ピーターの手にしっかりと受け止められている。ピーターは楽々という様子では無かったが、辛そうにも見えない。

「ねえ、ちょっと。いきなりこれは無いでしょ……意味が分からない。僕が何かした?」
「何かしたか、だと?」
 ピーターの余裕そうな顔が気に障ったのか、常盤は舌打ちしてその手を払い退けると、胸ぐらをより強く掴み直し、自分より背の高い彼を睨み上げた。状況が把握出来ていないはオロオロすることすら出来ず、ただ口をポカンと開けてその様子を見守っている。そんなの背に静かな声が掛けられた。

、突然居なくなるのはやめて」
「……ごめん」
 それは黄櫨だった。黄櫨はの隣にやってきて、じっと彼ら二人の様子を見ている。何を考えているか分からない横顔だが、確かに何かを考えていそうだった。

「ピーター! お前は自分の責任を放棄して、無関係のを危険な状況に巻き込んだんだ。理解しているのか?」
「分かってるよ。でも、それで、なんで常盤が怒ってるの」
 ピーターは心底不可解だという顔をしている。

「僕があの子を君に押し付けていったから? そんなに面倒なら簡単な説明だけして、放っておけばいいのに。なんでまだ関わってるの?」
 ピーターは自覚なくどんどん火に油を注いでいく。が、にはピーターの言葉の方が理解できた。常盤がどうしてここまで、自分のことで感情を乱すのか分からない。居た堪れないのでやめて欲しい。

 人々はこの騒ぎに何事かと足を止め、騒動の当事者達を見るなり、そそくさと遠回りする。突然彼ら二人の周りにだけ見えない壁が出現したような、異様な光景だった。は自分が問題の中心になっている以上、仲裁すべきなのだろうかと、そっと挙手する。

「あの……すみません。巻き込まれたとは言い切れないかもしれず……最初にその人に付いて行ったのは、わたしの方なので……」
 語尾が小さく消え入りそうになる。自身の言葉の終着点が見つからない。“だから、わたしの為に争わないで!”なんて言える気もしないが、まさにそんな気分だ。
 常盤は口を挟んだの方に振り返る。どうやら忘れられてはいなかったらしい。彼は少しだけ表情を和らげて言った。

「そんなことは分かっている。白ウサギは追いかけるものだからな。問題は君の前に現れ、逃げ切ることもしなかったこいつにある。そうだろう、ピーター」
「どうだろう」
 そうだろう。どうだろう。あまりにふてぶてしいピーターを、は何故か少し愉快に感じてしまい、口元をにやけさせてしまう。そんな彼女を黄櫨が奇妙なものを見る目で見た。ピーターのふざけた返答に常盤が何か言いかけた時――

「ご両人、そこまでだ」

 聞き覚えのない低い声が、遮る。そこには流れる人々の中で唯一、ここに透明な壁など無いのだと知っている男が立っていた。

 まるで、夜のような男だ。
 髪も目も服も黒一色。青白い肌と、服の上からでも分かる逞しい体はアンバランスにも見えたが、それが妙に女好きしそうな雰囲気を漂わせていた。彫りの深い顔に切り込まれた双眸は、薄暗い色香を漂わせている。一見すると、彫刻じみた風格を感じなくもない男だったが――薄い唇に浮かべる軽薄な笑みと、締まりのない口元に似合う無精ひげが、彼を胡散臭くまとめていた。

 男は長いコートをマントの如く翻し、二人の間に割って入ると、ピーターに掴みかかっていた常盤の手を解かせる。まだ空気は最悪だが、とりあえず一時休戦に成功したみたいだ。が歩み寄ると男は「お」と声を上げた。

「どうも。君が新しい白ウサギの子だろ?」
「はい。といいます」
「俺はジャックだ。よろしくな」
 ジャックはに握手を求めた。は彼の友好的な様子に安心し、手を差し出す――と、ジャックはその手を掴み、軽く自らの方に引き寄せる。胸元に飛び込む寸前の距離で、ジャックは彼女の顔を舐めるように見て、

「君みたいな子に追われるなんて、アリスが羨ましいな」
 と、台詞めいた口調で囁いた。彼の低く這う声には腰の辺りをぞくりとさせる響きがある。が反応に困っていると、常盤が慌ててジャックの肩を掴んでから遠ざけた。ジャックは意外そうに目を見開く。ピーターはやはり不可解だ、という顔で常盤を見た後、何故かを憎々し気に睨んだ。ピーターからこれまでにない敵意を感じて、はびくりとする。

「あー、悪かった悪かった。ちょっとからかっただけだろ」
 な? とウインクを飛ばして話しかけてくるジャックに、は「はは」と乾いた笑いをこぼした。彼の気取った態度からは、その気になれば小娘など思い通りにできるという自信を感じ……は敢えて全く気にしていない様子を振る舞う。

「……君の話は、常盤から聞いてる。異変を探してるんだろ? 俺は君を一つ目の異変に案内するために、迎えに来たんだ」
 ジャックの話によると、今この街ではある異変が起きているとのことだ。何故彼が来たのかというと……なんとジャックはこの辺りの領主で、住民の不安の声を受けて異変の調査を進めていたのだという。
 はこの時初めて知ったが、常盤は元々異変を調査し対処することを仕事にしており、彼ら二人は本件で行動を共にしていたらしい。そして調査の中で異変の原因に見当が付き、危険性が低いことが分かった上でを呼んだのだ。

「詳しい話は俺の屋敷で」と、ジャックは街の端に見える大きな建物を顎で示した。それから、解放された襟の皺を気にしているピーターをちらりと見る。

「ピーター、お前はここで何をしてたんだ?」
「僕は……君のところに行こうとしてたんだよ。今回の異変について、君の城への報告にちょっと気になるところがあってね」
 淡々と答えるピーターに、ジャックはぴくっと眉を動かした。

「まあ、些細な異変だからな……報告が雑だったのは認める。でもそんなことのために、補佐官様が直々に来て下さったのか? 陛下のお側にいないと駄目だろ」
「ハートのジャック。君を相手にできる人員なんて、そう居ないんだよ」
 どうやらジャックは“ハートのジャック”で、この世界でいうところのキャラクターの一人であるらしい。は不思議と納得した。存在の濃度とでもいうのだろうか。彼もまた、その他大勢とは一線を画すしっかりとした輪郭のある鮮明な人物なのだ。
 だが白ウサギの名前を失った筈のピーターにも、いまだ独特の存在感がある。それが単なる名残りなのか、もう一つのロールネームの所為なのか、または別の理由によるものなのかは分からない。ジャックの言葉の通りなら……彼はもしかすると国王の補佐官なのだろうか? アリスネームを手放した後でも重要な役職についていることで、強い力を得ることができるのだろうか。

(領主に、補佐官。凄そうな人達だな)
 ジャックとピーターの間には僅かに牽制し合う雰囲気はあるものの、仲が悪いとは違う。二人の間にはどこか気安さも感じた。常盤は双方と面識があるようだが、黄櫨はどうなのだろう? は黙ったままの少年を見るが、その顔は常の無表情のままで……はなく、しっかりと眉間に深い皺を刻んでいる。

「黄櫨、お前も来るか?」
 ジャックが軽く声をかけると、黄櫨は「げっ」と嫌そうな声を漏らした。は聞き間違いかと耳を疑う。

(え? 今、黄櫨くんが言ったの!?)

「行くわけない。常盤、、僕はもう帰る。ピーターもまたね」
 黄櫨はジャックと少しも目を合わせず、他の三人にだけ手を振って、小走りで去ってしまった。は唖然とする。ジャックは「振られちまったな」と落ち込んだ素振りをするが、大げさでわざとらしく、本当に傷付いた様子はない。

「黄櫨はジャックのことが嫌いなんだ」
 常盤がに教える。本人の目の前にも関わらずハッキリ言うのは、彼らにとってそれが周知の事実だからか。ジャックがまた演技じみた溜息を吐く。

「はあ。まあ……とりあえず、移動しようぜ」 inserted by FC2 system