Act12.「終わらないお茶会」



 目が覚めた瞬間、はすぐにここが慣れ親しんだ自分の部屋ではないと気付き、昨日の後半に起こった一連の出来事を思い出して、ろくにまどろんでいる事も出来なかった。子供の頃のクリスマスか遠足の朝みたいな寝起きの良さでベッドから飛び起きる。それからまず最初に時計を探したものの見当たらず、代わりに窓のカーテンを開けた。するとピカピカのガラス越しに眩しい朝日が差し込んで、思わず目を閉じる――なんて事にはならなかった。

「……夜、だ」

 外は眠りについた時と同じ、夜闇に包まれたままだ。窓を開けると、紺色に澄んだ空気が肺の中を洗っていく。森の向こうには、星明りよりも確かな街灯りが瞬いていた。
 は想定外の時間帯に呆然とし、抜け出したベッドに戻って腰掛け、考える。昨日眠ったのも夜。今も夜。浅い眠りで夜明け前に起きてしまったのだろうか? だがそれにしては、体も頭も随分すっきりしている……。

 もしかして……もしかすると……今は次の日の夜なのかもしれない。自分は殆ど一日、寝て過ごしたのではないだろうか。会ったばかりの他人様の家、厄介になっている身で。

(どうしよう)
 もしそうだとしたら、かなり図々しい。なんてことだ。

 すぐにでも部屋を出て時間を確認しに行きたかったが、流石に寝起き姿のままという訳にはいかない。鏡を探すが、ドレッサーの上にもクローゼットの内側にもどこにも見当たらず、仕方がないと窓ガラスに自分を映す。そこに居る左右逆のが「うわ」としかめっ面をした。

 顔全体に寝癖が付いた、寝起きの顔。目は腫れぼったく髪はぼさぼさだ。は自分の姿に絶望しながら、ドレッサーに助けを求める。引き出しを探ると、ブラシ、コットン、化粧水……何でも出てくるわけではないが“あっておかしくない、あるべきもの”が出てきた。はそれらを使ってできるだけ見栄えを整えようとする。

 制服に着替えるか、クローゼットにある数着の服から選ぶかを考えていると――コンコン。ドアが控えめにノックされた。追って「、僕だよ」と抑揚のない少年の声。は小さく咳払いをして声を整えると、そっとドアを開けた。

「はい」
「おはよう。起きた?」
「おはよう。ようやく起きました」
 黄櫨が“おはよう”を言いに来るということは、やはり今は昨日の深夜ではないということだ。次の日の夜まで起きてこないなんて、さぞ呆れられただろう……。
 は申し訳なさそうに黄櫨の様子を窺うが、少年の顔からはどんな感情も見当たらなかった。陶器の人形の如く清らかな顔だ。黄櫨は華奢な腕に抱えていた箱を、の前に掲げる。は反射的にそれを受け取った。

の服だよ。これに着替えて」
「え?」
 服なら他にもあったが、どういうことだろう? しかし断る理由もなく「有難う」と感謝を述べる。黄櫨は頷くと「着替えたら下でお茶にしよう。待ってるよ」と言い残して、トコトコ去っていってしまった。その歩き姿はふわふわ軽そうで、重力は小さな体を引き留めておくのがやっとに見えた。

 は部屋の中に戻り、べッドの上に箱を置くと、まじまじそれを眺める。しっかりした作りの紙製の洒落た箱。中にはどんな服が入っているのだろう。常盤が用意したのだろうか? 親以外から服を贈られた経験など殆ど無く、照れくささと嬉しさでくすぐったくなる。我ながら現金だなと思った。開けてしまうのが勿体無く思えたが、待っていると言われた以上は急いだ方がいいだろう。はわくわく箱を開ける。

 しかし開けてみて……素直には喜べなかった。

 箱の中。良い匂いのする薄紙に包まれていたのは、緑色の半袖ブラウスに、明るい橙色のネクタイ。それから黒のサスペンダーと、同色のショートパンツ。ブラウスはパフスリーブが可愛らしく、ハイウエストのショートパンツは脚が長く見えそうで好みだった。……が、それらはどこか見覚えのあるものである。デザインや色味は多少違うが、元白ウサギのピーターが着ていた服に、全体的に似ているのだ。

 彼のシャツはもっと暗い深緑色であったし、パンツはスラックスであったが、サスペンダーという特徴的なアイテムと緑・橙のにんじんカラーコーディネートという共通点だけで、お揃いと称するには充分過ぎるだろう。一体この服の選定には、どういった意図があるのか。

 仕方なく袖を通しながら、は考える。
 もしかするとこの服装の理由は、不思議の国の複雑なルールにあるのかもしれない。これが白ウサギの服として相応しいものなのかもしれない。この世界の人々の中にある白ウサギのイメージを、ピーターが培ってきたのなら、彼を真似するのが白ウサギらしく振る舞うということになるのかもしれない。

 はこの世界に染まりかけている自分の思考に、うっすらと笑った。臨機応変と言えば聞こえはいいが、その場しのぎで不誠実にも思える。

 ――ただ、元の世界のことを忘れた訳ではなかった。学校、バイト、友達、家族。元の世界は今頃どうなっているのか……。一晩の不在なら、放任主義(という名の、自由奔放なわたしに対する諦め)の我が家ではまだ大きな問題にはなっていないかもしれない。問題は今日だ。一日帰ってこないとなると、流石に母も警察に行くだろう。学校でも噂になって、紫は登校もせずにわたしのことを探し回るかもしれない。

 一体何日見つからなければ、行方不明者は死者として弔われるのだろう? わたしの部屋はいつ片付けられてしまうのだろう? わたしはいつ、忘れられてしまうのだろう?

 は思ったより悲観的な自分に驚き、溢れそうな感情に慌てて蓋をした。今それを考えてもどうしようもない。この場所で歩きにくくなるだけだ。

(とにかく今は、この世界ともっと向き合おう)
 見て聞いて知って、自分がここに来た理由を理解し、納得したいと思った。

 着替え終わると、窓ガラスに映る自分の姿は中々、様になっていると思う。正直なところ上下共にサイズがちょうど良くて、僅かに困惑した。

 は脱いだワンピースをクローゼットにしまう。その中ではいつも着ていた制服が静かに眠っていた。元の世界から持ってきたのはこれだけなんだなよなあ……と、その慣れ親しんだ布地を撫でる。
 せめて、携帯電話をポケットの中に入れておけばよかった。普段、制服のポケットに入れている確率は割と高かったが、紫とカフェに行った時に、レジでクーポンを使って……そのまま財布と共に鞄に入れてしまったのだ。そして鞄は路地裏かどこかで落としてしまった。例え今ここに携帯電話があったとしても電波は通じないに違いないが、それでも試してみたかった。でも充電が切れたら悲しく思うだろうから、無くてよかったのかもしれない。
 携帯電話、レジ、クーポン……それこそ、遠い世界の魔法の言葉みたいに感じる時が来るのだろうか? は深く息を吐いて、クローゼットを閉める。自分の感情も暫くはここに隠しておこう。

 パリパリと新しい匂いのする服を纏って、ピカピカの革靴を履いたは、自分を奮い立たせて勢いよく部屋を出た。

 昨日の記憶を遡るように廊下を歩き、階段を下りる。館は広かったが案内図が必要なほどではない。一階に行くと、暖炉の部屋のカーテンが開いていた。露わになった大きな窓からは、ガーデンライトに照らされた中庭の様子が見える。テラスには常盤と黄櫨の姿があった。窓からも出ることは出来そうだが、それが正規のルートか分からず、遠回りして心の準備をしたい気持ちもあり、は玄関の方から向かうことにした。

 玄関を出て庭に向かうと、暖かい食事の香りが鼻孔を擽る。テラスの白いテーブルにはホテルのアフタヌーンティーのような豪華な支度がしてあり、それを囲んだ二人は何かを話していた。念入りに気配を消していたせいで、彼らはまだの存在に気付いていない。はゆっくりと歩み寄った。

 背を向けて座っていた常盤よりも先に、黄櫨がに気付く。黄櫨が「来た」と呟くと常盤はハッと振り返って、少しぎこちなく「おはよう」と言った。は丁寧に「おはようございます。遅くなってしまって、すみません」と返す。
 空いている席はあと三つもあったが、常盤が自身の隣の椅子を引いた為、はそこに座るしかなくなった。黄櫨は居心地の悪そうなの姿をまじまじと見る。

「その服、似合ってるね」
 は貰い物である以上「そうかな?」とも言えず、素直に「有難う」と受け止めることにした。

「なんだか見覚えのある感じの服だけど、可愛くて好きだよ」
「着心地も悪くないでしょ? 常盤が贔屓にしてる仕立て屋に頼んだんだ。昨晩の内に発注して、さっき届いたばかりなんだよ。早いよね」
 黄櫨が常盤の名前を出したのは、と彼に会話のきっかけを作る意図があったのだろう。黄櫨の視線でそれを察したは、隣に顔を向ける。

「あの、本当に色々と有難うございます。えっと……似合ってますか?」
 は自身のコミュニケーション能力の急激な低下を感じた。きっとその原因は、彼に対して持ってしまっている苦手意識にあるのだろう。

「ああ、とてもよく似合っている」
 常盤にあまりに真面目な顔で褒められ、は必死に平静を装った。しかし彼の手が、結び慣れていない所為で曲がっていたネクタイを直してくれようとした時、思わずビクリと過剰反応してしまう。は勝手な体がとても恨めしかった。やはりそれは尾を引いて、二人の間の空気はより重苦しいものとなってしまったのだから。黄櫨は無表情のまま肩を竦める。

「ねえ、お腹空いてるでしょ? なんでも好きなものを好きなだけ、好きなように食べて良いよ」
 そう言われて、は改めてテーブルの上に目をやった。

 野菜やチーズが挟まったサンドウィッチ。クルトン入りのコンソメスープ。フルーツたっぷりヨーグルト……白いテーブルクロスの上を飾り立てる、様々な食べ物や飲み物達。それらは夕食というより、朝食にありそうな品揃えに見える。そういえば黄櫨は「お茶にしよう」と言っていたから、これは夕食前の軽食なのだろうか。
 まだ何にも手を付けられていない様子は、彼らが自分を待ってくれていたことを教えてくれる。

「とっても美味しそう。ところで今は何時ですか?」
「今は“6時のお茶会”の時間だ」
 常盤がそう答えながら、新しいカップに熱々のココアを注いで、の前に置く。カップからは甘い湯気が立ち上った。

 ……またココアか。好きだけど。食事の時にはもっとさっぱりしたものの方が良いかもなあ。

「6時なんですね。あの、ずっと寝ていたので確認したいのですが、今はわたしがここへ来た“翌日の夜”ですよね?」
 まさか二日寝ていたなんてことは無いだろう、とが尋ねる。

「ああ。“今はまだ”君がここへ来てから一回目の夜だ」
 は常盤の言い方に少なからず引っ掛かりを覚えるが、とりあえず謝るのが先だと思った。

「本当に、長い間眠ってしまっていて、すみませんでした」  
「いや、丁度いい位じゃないか? 早起きな方だと思うが」
 え? とは首を傾げる。夜6時なのに、早起きとは。常盤が嫌味を言っているようにも見えない。だとすると……

 その時、ガーデンライトの光が弱まったのを感じた。だが実際はそうではない。周囲が明るくなりつつあるのだ。は空を仰ぐ。澄んだ夜色に、薄明るい光の靄がかかり始めていた。靄はゆっくりと広がり、赤、黄、緑…複雑な色に混ざり合って、闇を薄めていく。夜が明けようとしていた。はその光景に見入る。

「朝……」
「いや、夕方だ」
「……ここはやっぱり、わたしの世界とは、違うんですね」
 自分の世界――国では、夜の6時に夜が明けることはなかった。夜が明けて夕方になることもなかった。だから驚いた。しかしどんなに不思議なことでも、違うものと切り離して考えれば、さほど困惑することはない。とりあえず一日中寝過ごしていた訳ではなさそうで安心した。

 は気を取り直し「いただきます」と手を合わせてから、一番近くにあったサンドウィッチを、控えめにひと口迎え入れる。フワフワのパンに挟まれた、瑞々しいレタスと青々としたキュウリ、甘酸っぱいトマトが口の中で弾けた。ハムは塩気が効いていて、ソースがなくてもしっかり味がある。
「美味しい!」と顔を綻ばせたを見て、黄櫨はそのマイペースさに僅かばかり呆然とし、常盤は優しく微笑んだ。

「この世界にも、かつては朝・昼・夜が順番に訪れていたんだ。だが今は、夕方と夜しか無くなってしまった。夜が明ければ夕方、夕方の次にはまた夜が来る」
 常盤は説明しながら、にサラダを取り分けてくれる。

「どうして朝と昼が無くなってしまったのですか? もしかして、アリスが関係していたり?」
「いや、この件とアリスは無関係だ。この国には朝昼を統べる女王と、夕夜を統べる王が居て、二人のパワーバランスでその割合が決まるようになっている。以前はほぼ半々だったんだが……女王が罪人として地下牢に幽閉されて以来、朝も昼も無くなってしまった」
「女王様の罪状は何ですか?」
「王の暗殺と国家転覆を企てた謀反の罪だ」
「……罪というなら、数えきれないほどあるだろうけどね。女王は危ない人なんだ。少しでも気に食わなければ、誰彼構わず死刑にしたがるって話だよ」
 口を挟んだ黄櫨の言葉に、は「ああ」と妙に納得してしまった。

(『首をはねよ!』ってやつかな? 不思議の国のアリスの、ハートの女王様っぽい……)
 は『不思議の国のアリス』に出てくる、横暴で残酷な女王を思い浮かべる。遭遇したくないキャラクターナンバーワンだ。不謹慎かもしれないが、捕まっていてくれて良かったかもしれない。

 が思考の世界にいる間に、常盤は果物ナイフでリンゴを切り分けてくれる。どこまで世話を焼くつもりだ……と心配になったは、遠慮がちに「自分でやりますよ」と言った。

「でも、朝と昼が無いなんて、時間が分かり難いですね。いつも時計を持ち歩いていないといけないかも」
「そうだな。まあ、この家の敷地内はずっと6時のままだから、ここで時計は意味を持たないが。あるのは――あれだけだ」
 常盤がちょっと離れたところの柱にかけてある時計を指差す。その時計には針が二本あり、細い針は秒を、太い針は分を刻んでいる。時間を刻む短針は無い。おかしな時計だ。何時間経ったかではなく、6時が何回回ったかを数えなくてはならないのだろうか?

「ずっと6時だと、日付が進まないんだよね」
 黄櫨がぼそりと言った。よく見ればテーブルの端に卓上カレンダーがあるが、これもまたおかしなカレンダーで、日付が一つしかない。同じ日付の同じ曜日が連なっている。全然意味が分からない。

「流石に不便すぎませんか? どうして6時のままなんですか?」
「常盤はね、時間くんに嫌われてるんだよ。だから常盤の周りだけ、いつも6時のままなんだ」
 黄櫨の言葉に、常盤が苦い顔をした。
 ……時間(くん?)に好き嫌いがあったとは知らなかった。は目を瞬かせる。こんな不思議な世界も、慣れたら普通に感じるのだろうなと思いながら、はウサギ型に切られたリンゴをしゃくっ、とかじった。

 それからは緩やかにお茶会の時間が流れていった。色々と話していく中で、は自分が時計(元の世界で使われていた時間の分かる普通のもの)の短針半周分くらいしか眠っていなかったことを知る。

(6時のお茶会って、いつ始まっていつ終わるんだろう?)
 終わりがないのだから、いつ終わらせても良いのかもしれない。

 ……終わらないお茶会。眠りネズミと共に席に付いている彼。には既に常盤の“アリスネーム”に大方の見当が付いていたのだが、肝心の決め手となるものが彼の頭の上にないのは、やはり眠らない眠りネズミ同様に、この世界がどこか捻じ曲がっているからだろうか?

 そんな事をぼんやり考えていたら、に見向きもされなかったスコーンが、痺れを切らしたようにすこーんと何処かへ飛んでいった。まるで羽が生えたかのように。

(えっ……生きているっ!?)
 どうやらまだまだ驚く余地はあるらしい。 inserted by FC2 system