Act11.「プロローグのエピローグ」



 黄櫨が暖かな談話室に戻ると、テーブルの上に置きっぱなしにしていた本が、常盤の手の中でパラパラと羽ばたきしていた。

「相変わらず、可愛気のないものを読んでいるんだな」
 常盤はその文字ばかりが羅列するページに軽く視線を滑らせ、呆れとも感心ともつかない様子で言う。黄櫨がいつも好んで読むのは、幼い少年には似つかわしくない学術書や哲学書ばかりだった。専門的な知識がないと読み進めることができない、とっかかり難い本が良いのだという。

「余計なお世話だよ」
 黄櫨は常盤の正面のソファに腰掛ける。さっきまでそこには少女が座っていたが、今はもう温もりの名残さえ感じられない。常盤は本をパタンと閉じて傍らに置くと、躊躇いがちに、静かな声で黄櫨に問いかけた。

「……は大丈夫だったか?」
 問われた黄櫨は、何と答えるべきか考える。大丈夫とは何のことだろうか。身体的なことか、精神的なことか。

「僕たちに少し警戒してるみたいだったよ。対応がまずかったのかもね」
 彼が聞きたいのは恐らくこれだろう。と黄櫨が答えると、常盤はその回答を予想していたように「やはりそうか」と沈んだ顔をした。

「そんなに私は、不自然だったか?」
「うん、かなり。初対面にしてはね」
 黄櫨の遠慮ない指摘に、常盤は深く溜息を吐く。黄櫨は項垂れた彼が物珍しく、あまり見ていたくないなと思った。

「まあ僕が、のことを知ってるって言っちゃったのも、原因なんだけど」
 黄櫨がそう言うと、常盤は驚いて顔を上げる。非難めいたその目に、黄櫨は気まずそうにマフラーに口元を埋めて「だって、僕は嘘はつきたくないから」とモゴモゴした。常盤は何か言いたそうにしていたが、結果的に黄櫨を責めることはなかった。

「いや……お前にの話をした、私が悪い」
 常盤の言葉に、黄櫨は沁みるような寂しさを覚える。彼が自分にだけ教えてくれた少女の話。二人だけの秘密を、後悔して欲しくはない。

「そんなことないよ。でも本当にが、常盤の話に出てくるあの子なの? イメージとは大分違うんだけど。なんていうか……思ったより、普通というか」
 実際に目の前に現れたは、黄櫨が常盤の話からイメージしていた人物像とは異なっていた。しかしそれを適切に表す言葉が見つからず、黄櫨の声は萎んでいく。
 “普通”という言葉は使いどころが難しい。ポジティブにもネガティブにも、勿論そのどちらにもならない場合がある。常盤が気を悪くしていなければいいが……とその様子を窺うと、彼はどこかぼんやりとした様子でこちらを見ていた。その目に黄櫨は映っていない。

「ああ、あの子がだ。私が彼女を間違えるはずがない」
 常盤の目は、先程までそこに座っていた少女を見ていた。
 彼の知る“彼女”はまだ幼い子供だったが、再会した姿はすっかり成長し、女性らしくなっていた。なだらかな肩、細い手首、艶やかな髪。心地よい声で言葉を紡ぐ、形の良い唇。知性とあどけなさが入り混じる瞳。……咲いた花のような彼女に、常盤は戸惑いを抱きもした。しかし彼女の持つ変わらない雰囲気、面影を残した顔が、彼女は彼女のままなのだと物語っている。

(へえ、そう)
 黄櫨は常盤の熱の籠った視線に、心の中でそっと不貞腐れた。他人にあまり関心を抱かない彼がそんな顔をしていることが、面白くない。
 黄櫨は頭をソファに凭れさせて、一層体を沈み込ませる。それから何となくを真似して室内を見回してみたが、見慣れた部屋に新たな発見は無かった。すぐに飽きて、伸びをして立ち上がるとマフラーを巻き直す。

「また今日も、寝ずに書斎に篭るのか」
「うん、眠くないからね。第一、眠っている時間が勿体無い」
 全くお前は……と常盤が小言を言い始める前に、黄櫨は素早く部屋を出ていった。常盤はその後ろ姿をやれやれ、と見送る。

 廊下に響いていた小さな足音が消えると、暖炉で火が燃える音が、静かな部屋の唯一の音になった。穏やかな橙色が、テーブルの上のカップを照らしている。
 先程まで彼女がここに居て、そのカップでココアを飲み、話をしていた。……彼女が、この世界に存在しているのだ。

 常盤は眩しそうに天井を見上げる。
 彼女はもう眠ってしまっただろうか? もしかすると今日のことは全て妄想か、何度も見た夢の一つで、覚めれば消えてしまうのではないだろうか。そう考え始めると、そうとしか思えなくなってくる。許されるならば、その寝顔を確認しに行きたいくらいだ……と考えたところで、常盤は浮ついた感情に自嘲的な笑みを浮かべた。

 彼女がこの世界に来ること。

 それは起きてはいけないことだった。特に今ここで起きている事を考えると、最悪な状況である。しかし森で彼女を見かけた時、初めに抱いたのは絶望ではない。寧ろ全く真逆の感情だったと、認めざるを得なかった。

 常盤は自分の手を見る。彼女の小さく冷たい手が、確かにこの中に存在していたのだ。

 姿、声、匂い、体温。
 彼女はここにいる。彼女は帰ってきた。それは忌避すべき不幸な展開で……どうしようもなく、幸福なことである。

 これから自分がどう立ち回るべきかは、まだ決めかねていた。の意志を尊重するつもりだが、それが彼女にとって良くない結末に繋がるなら、果たしてそれでいいのか。

 ただ、何があっても彼女だけは守らなければならない。それだけは揺るがない。


 ――願わくば、彼女が真実に気付かないまま、全てを忘れて元の世界へ帰れるように。 inserted by FC2 system