ザアアと木々が立てる音は、川のせせらぎにも似ている。ひんやりとした湿度と独特の匂いの立ち込めるそこは、森であった。
何故歩道橋から落ちた(正確には落とされた)わたしが森の中にいるのかは分からないが、今朝から分からないことの連続なのだ。今さら不思議に思うことでもないような気がする。

賑やかな商店街とは違い、ここはとても静かだった。耳に届くのは自然の立てる音のみで、目に映る世界も草葉の緑と木の幹や地面の茶色ばかり。時間さえ、息を潜めて居るように感じた。

賑やかな商店街では、流れから逃れるように立ち止まっていたわたしだったが、ここでは逃げるように歩き出す。止まっていると、足が根を張って森に呑みこまれそうだった。

どこをどう行っても変わり映えの無さそうな森の中の景色に、気が滅入るまでに大した時間はかからないだろうと思っていたわたしだったが、10分歩いたか歩かないかの内に視界に変化か訪れた。木々の行列が途切れたそこは、広場のように開けている。そして、その中心には長細い人影があった。

水色とも灰色ともつかない褪せた色の長いコートを羽織り、同色のマウンテンハットを頭に乗せたその人は、背も手足もすらりと長い。こちらに背を向けているために顔は見えなかったが、何となく男性ではないかと感じた。小さな風呂敷一つを肩にかけているその姿は、あてのない流浪の旅人のように見える。

彼はまだこちらに気が付いていない。わたしは、その人物にこれ以上近付いて良いものか、考えた。先ほどの火曜日の反応と、手酷い仕打ちを思い出す。彼もこの不思議な空間の住人なら、彼女か彼女以上に危険でないとは言えない。
しかし、結局は声を掛けることにした。森に居る小鳥や虫より、話が通じることは間違いないという確信があったからだ。

「あの、すみません、こんにちは」
「いいや。こんにちはより、こんばんは、だね」
そう言って振り返る彼は、やはり男性だった。青白い肌に目立った皺は無いが、こけた頬と悟ったような穏やかな瞳が、壮年のような雰囲気を醸し出している。突然話しかけた相手への返答にしては少々おかしな気もするが、思ったより友好的なその態度に、わたしは胸を撫で下ろす。

「今は夕方なのですか?」
木々が鬱蒼と生い茂る森は薄暗く、時間帯が掴めなかったが、こうして歩いて来れたのだから完全な夜でないことは確かだった。

「ここはずっと夕暮れさ。夕日が沈んで、闇に落ちる前の、薄暗い青灰色の世界。水曜の夕暮れの世界さ」
「それではあなたは……水曜日さん?」
彼はゆっくりと、頷いた。彼、水曜日の動きは緩慢で、声は穏やかで、そのどちらも掴みどころがない。身に纏った色のように彼自身の印象も薄く、こうして相対している瞬間にも、少し目を離せば忘れてしまいそうな人だと思った。

「君は何をしに、ここへ来たんだい?」
わたしは、その問いに口をつぐむ。同じような問いに素直に答えた結果、とんでもない目に遭ったばかりなのだ。だが、嘘を吐こうにも意義のある嘘など思いつきもしない。進展を望むのであれば、真実を語るほかはないだろう。

「わたしにもよく分からないのですが、気が付いたら火曜日さんの世界に居て、火曜日さんに突き飛ばされて、そうしたら何故か……この森の中に居たんです。できれば元の世界に戻りたいのですが、どうすればいいか分からなくて」
「ほう。彼女に。それは、また」
その後に続く言葉は無い。濁った曖昧な反応だったが、そこにはわたしに対する同情や労りが感じられる。火曜日の名を聞いた水曜日は、わたしの言葉に滲み出る疲労感に何かを察したようだった。彼らは面識があるのかもしれない。

「火曜日さんには、月曜日さんを探したらいいと言われました」
「おや。おや。そうかいそうかい」
水曜日はこちらの理解を待たず、勝手に納得したように頷く。そして、話を進めている当人でありながら全く話についていけていないわたしに、彼は問いかける。

「君は、月曜日が好きかい?」
「え……っと」
月曜日。それが彼らのような人を指すのか、わたしの今まで培ってきた概念を指すのかは定かではなかったが、分けて考えるべきではないのかもしれない。月曜日。わたしは、月曜日をどう思っていただろうか?

日曜日に遊びすぎて、朝起きることが辛い日は多々あった。また忙しい一週間の始まりだ、と憂鬱になることもあった。けれど、どんなに嫌なことや悲しいことがあっても、いつも通りの日常に強制的に戻してくれる朝に、感謝することもあった。また今週も頑張ろう!と爽やかな気持ちになることもあった。

「わたしは、無ければいいと、思ったことはありません」
わたしのその返答に、水曜日はうっすらと微笑んだ。その笑みは、どこか嬉しそうなものに見えた。

「であれば、探してあげなさい。彼は、君を待っていることだろう」
意味深に聞こえるその言葉にわたしが意図を図りかねていると、水曜日はその場に座り込んで、風呂敷から水筒を取り出し、キュッキュッと蓋を回す。外した蓋をコップ替わりに、薄緑色の液体をなみなみ注いだ彼は、それをわたしに差し出した。

「まあ、一杯。気持ちが落ち着くよ」
「あ、有難うございます」
水曜日の態度にすっかり警戒心を損なっていたわたしは、彼の隣に腰を下ろすとそれを易々受け取り、何の疑いもなく縁に口を付ける。一口。二口。殆ど水のような薄いお茶を飲んだわたしは、唐突な眠気に襲われる。気持ちが落ち着くなんてものではない。意識が、落ちていく……。

「月曜のことは、頼んだよ」
水曜日は眠りにつくわたしの頭をその膝に乗せ、頭を撫でながら、そう言った。



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