【宝石の瞳】(後編)



城から遠ざかるにつれて、肌をかすめる風が強く感じる。植物を枯らす死の風や、晴れない空の原因は、国を囲む岩山に魔法使いや魔女が住み着いており、その呪いからだと言われている。しかし彼らは姿を見せず、その不思議な術の仕組みを公にはしないため、真実かどうかを確認する方法はない。

城下街を出た二人は、灰色の湖に沿って歩いていた。湖に映り込む空も淀んだ色をしていて、その灰色が水の色なのか空の色なのかは定かではなかったが、おそらくどちらも同じような色をしているのだろう。天も地も濁ったこの場所は、美を好む国民からは嫌われていた。だからこそ、ここでは何者にも邪魔されず、エスメラルドは彼女と過ごすことが出来た。

エスメラルドと彼女がこうして会うのは、今日で五回目になる。
数日前まで遠くから見ていた彼女は、物静かで少し暗い印象だったが、実際に話してみるとそうでもない。ごく普通の明るく可憐な少女だった。だがその穏やかな口調は年不相応に大人びており、また間近で見る黒の瞳と、あまり見かけない烏の濡れ羽色の髪はミステリアスで、今もなおエスメラルドの心を惹きつけてやまない。寧ろ、知り合う前よりも彼女に強く惹かれていた。城下の街娘、他国の姫君、貴族の娘。彼女は、エスメラルドの今まで出会って来たどの女たちとも違う、不思議な少女だった。

「今日は、少し寒いね」
エスメラルドはそう口にしてから、後悔した。天気や気温の話など、明らかに話題に困っている証拠だ。もっと気の利いたことは言えないのか。

しかし少女はそれがとても面白い話題であるかのように、体ごと振り返ってエスメラルドの目をまっすぐに見つめ、

「ええ、ラル。本当に、そうね」
と言った。

ラルと言うのは、エスメラルドが彼女に名乗っている偽名だ。そして肝心な彼女の名前については、初めて会った日に彼女自身から教えてもらったが、まだ一度も呼ぶことが出来ないでいた。この国では珍しくもない、一般的な名前。簡単な音の組み合わせであるそれは、まるで難しい異国の言葉のように、口にすることが躊躇われた。例え口にできたとしても、彼女のように自然に呼ぶことのできる自信は無い。
何故なら彼女の名前は、呪文であるに違いないからだ。口にすればきっと心臓が破裂する。血が沸騰する。そうに決まっている!!

エスメラルドは、隣で揺れる華奢な肩をチラリと盗み見た。自分より頭一つ分小さい彼女は、歩幅も狭い。ペースを合わせて歩いていると、自然と彼女の方が歩数が多くなる。ちょこちょこと懸命に歩くその姿は、小動物のようだと思った。

ふと、少女の肩を見つめていたエスメラルドの視界を、黒が奪う。視線に気が付いた少女が、エスメラルドの瞳を覗き込んできたのだ。さらりと、彼女の髪が、その肩を滑り落ちる。間近で感じる、息遣い。心を透かす、その、黒。

「どうかした?」
「えっ、あっ、いや」
彼女は時々、エスメラルドには予想できないような大胆な行動に出る。エスメラルドは真っすぐに自分を見つめるその色の深さに、思わず一歩後退した。彼女から逃げたかったのではなく、逆の感情が溢れて、それに怖気づいたのだ。
彼女の行動は面白く、魅力的だったが、それに対してしどろもどろになる自分が情けなく、彼女と比べてひどく子供のようで、居心地が悪かった。年齢は変わらないというのに、彼女ばかり大人びているのだ。

「きょ、今日は上手く焼けたのかなって。瞳パイ」
誤魔化すように話題を繕う。だが、気にはなっていたことだ。初めて出会った日、拾ったパイを自分の手から取り上げた彼女は「これはダメ!ちゃんと美味しい、最高のパイを食べてもらいたい!」などと言ったが、あれから今日まで、まだ一口も食べさせてもらっていないのだ。そして案の定、今日も彼女は、決まり文句を口にする。

「ごめんなさい。今日のは、自信がないの」
彼女曰く、自分に食べさせようと頑張れば頑張るほど、上手くいかないらしい。そんなことを恥ずかしげもなく告げてくる彼女とこうして二人で過ごせるのも、売り物にならない失敗作のおかげだと思えば幸運かもしれないが、彼女はそれで仕事になっているのだろうか。いや、元から殆ど売れていなかったのだから、変わらないのかもしれない。

前に、何故パイを売っているのか訊いたことがあるが、単純にお菓子作りが好きなのだという。城下街には掃除婦として働きに来ているらしく、その仕事の後で、ああしてパイを売っているということだ。街では稀にしか売れないが、自身の村に帰るまでの道では小銭を稼ぐことが出来ているらしい。

しかし自信がないと言いながらも、その腕にはいつもお馴染みの籠が提げられていた。木で編まれたその籠には木綿のクロスが掛けられており、中身はうかがえない。
エスメラルドは、パイを売っていた彼女の姿を思い出す。あの中には、きらきら光るジャムを載せた丸いパイが詰まっていたはずだ。そして実際に手に取ったパイは、しっかり焼かれていて、表面にはきつね色の焦げ目がついていた。きっと歯を立てればサクサク良い音を立てて、果肉の残っていたジャムは瑞々しさを感じさせてくれるに違いない。あのパイは城で出される菓子と比べれば見栄えは地味で、香りにも奥行きはなかったが、それらよりも何倍も、何十倍も美味しそうに思えた。
思い出せば思い出すほど、食べてみたいと思った。

(彼女の手作りのパイが、食べてみたい!)

本当に失敗したのだろうか。謙遜し過ぎているだけではないだろうか。本当はその籠には美味しいパイが詰まっており、彼女はすぐにでも自分に食べさせたいと思いつつ、最初に
『最高のパイ』などと大きなことを言ってしまったことで中々差し出せずにいるのではないか。

勝手な憶測は、考えれば考えるほど、真実のように思えた。だとすれば、彼女の為にも自分の為にも、必要なのは多少の強引さではないか。それが、男らしさというものではないか。

それは男女の駆け引きに疎いエスメラルドの、幼稚な発想だった。少女の前では優柔不断さばかりが目立っていたこの思春期の少年は、思春期の少年らしく、思い込みが激しい。

「ね、ちょっと味見させてよ」
そう言って少女の手から籠をかっさらう。が、穏やかな口調からのんびりした印象を抱いていた彼女が、驚くほど素早い反応でかごを持つ手に力をこめる。エスメラルドは彼女の機敏さに驚いた。

ぴたり、と、二人の間でかごが止まる。

「だめよ、ラル」
少女はいつも通りの柔らかい笑みに、少しだけ困ったように眉を下げてそう言った。それらは籠を引っ張り戻す力強さと、アンバランスだ。

エスメラルドは少女の頑なさに少しだけムキになり、籠を引っ張る力を強める。

「いいじゃん。ケチ」
「今度。とっておきのものをあげるから」
文句を言う自分はどこまでも子供で、それを諭す彼女は大人びている。面白くない。面白くない。面白くない!

エスメラルドは、城での武術の訓練を思い出す。精神の駆け引きに自信は無いが、物理的な駆け引きならば多少の心得があった。二つの力が均衡しているとき。拉致が明かない状況を打破する方法。

(こういう時には、一旦力を抜いて、相手の不意を衝く!)
この時エスメラルドには、周りが見えていなかった。二人のいる場所は湖沿い。足場は最悪だった。

一方に偏った力。少女は後ろによろけ、踏み留まろうとするもフラフラと傍らの湖へと足を踏み外す。エスメラルドは咄嗟に少女の手を掴み……

バシャ、と水飛沫をあげて、二人は湖へと落ちた。


プカプカと、水面にパイが浮かぶ。浅瀬に尻もちをついた二人は目を丸くして、互いを見ていた。咄嗟のことに驚いて、どちらも声が出せないようだった。

しかし、彼女を驚かせている原因は、湖に落ちたことだけでは無いだろう。
エスメラルドは、自身の感じている違和感にそれを悟っていた。

目が痛い。水が入ったことによる異物感……いや、正確には異物を喪失した感覚が、そこにはあった。ああ、どうしよう。コンタクトレンズが剥がれてしまった。彼女が自分を見ている。どうしよう。どうしよう。濡れた髪が、その奥の黒い瞳が、自分を見ている。暴かれた嘘を、その先を、見ている。見ている。

―――嫌われた、と、思った。

湖に落としてしまったこともそうだが、それ以上に、騙し続けていたことに対する罪悪感が圧し掛かる。これは、ただの嘘ではない。王子の嘘なのだ。王族が身分を偽り、程遠い身分の者に近付いた。興味本位で、遊びで、近づいた。そう思われていることだろう。エメラルド自身、それを否定するだけの理由は浮かばない。だが、そう思って欲しくないとは思っていた。けれど、もう遅い。許される嘘があるならば、それは告げる嘘だ。暴かれる嘘は、許されない。

彼女の黒い瞳から逃げるように視線を逸らすと、彼女が息をのむ音がした。空気が張り詰めたようなものに変わる。それから少しばかりの静寂の後、ザバザバと水をかき分けて、座り込んだままのエスメラルドの前まで少女がやってきた。顔を上げることが出来ず、揺れる水面を見ている彼の前で少女は屈みこみ、

―――乾いた音がして、エスメラルドの頬へ痛みが走った。

エスメラルドが唖然として彼女を見上げると、その黒い瞳は、濡れてキラキラと輝いていた。

「大嫌い」

彼女はそう言って、ぐしょぐしょになったパイをかき集めると足早に去っていった。


取り残されたエメラルドは叩かれた頬を抑えながら、見えなくなった彼女の後姿をポカンと見つめ続けている。ああ、ああ……彼女の瞳のなんと美しかったことか!汚れていると、墨のようだと蔑まれた彼女の瞳は、今まで見てきたどんな宝石よりも、自分の瞳よりも、美しい。キラキラと輝くそれは、かつて見た異国の絵画の満天の星空のようで、目にした瞬間他の全てが吹き飛んだ。どうでも良くなってしまった。
コトリ、と何かが転がり、どこかへ落ちていくのを感じた。

ああ。ああ!

エメラルドは湖に体を投げ出して、仰向けで水に浮かぶ。

「……落ちた」

恋に、落ちてしまった。
彼女の瞳に。濡れて艷やかに輝く、彼女の黒曜石に。


汚い湖に落ちたこの日。

僕は何より綺麗な君の瞳に、恋に落ちた。



*



人の頬を叩いた手が痛い。気持ちが重い。体が重たく感じるのは、湖の水が衣服に染み込んでいるせいだ。少女は水をたっぷり吸い込んだスカートを絞る。周囲に人の姿はなかったので、手早くドロワーズも絞る。靴の中まで水浸しで、歩く度にぐしゃぐしゃと嫌な音がした。
少女はその不快感から逃げるように早足で、路地裏に駆け込む。そして八つ当たり気味に、石畳の上で靴を踏み鳴らした。

トン・トン・ト・タタン・タタタン・トン

それは、地団駄にしては随分リズミカルなものだった。実際それは、地団駄でもダンスでも無い。“合図”である。少女の心情とは裏腹に軽快な音が響き渡った後、不動に見える石壁が音もなく左右に開き、そこに扉が現れた。その様子はまるで魔法のようで―――否、紛れもなく、魔法である。

しかし少女は動じた様子も見せず、ズカズカと近付き、乱暴に扉を開けて中に入っていった。

カランカランと鳴るはずのドアベルが、ガシャンガシャンと騒ぎ立てる。
扉の奥では、小さな酒場が営まれていた。窓一つ無いその場所は薄暗く、淀んだ空気に満ちている。宙に浮かぶ煙草の紫煙は、蛇のようだった。
転々と置かれたランプの灯りに照らされて、いくつかのシルエットが浮かびあがる。痩身の女。肥え太った男。獣の耳を生やした女。ずんぐりした三頭身ほどの男。彼らは粗暴な客に一瞥くれただけで、すぐにまた何事もなかったかのように、静かに酒をあおりはじめた。

しかし一人だけ、歳若く軽薄そうな男が、少女にニヤニヤ顔を向ける。

「水遊びは楽しかったかい、お嬢ちゃん」
「冗談言わないで」
吐き捨てるように言う少女に、男が手をかざしていくつかの言葉を紡ぐ。すると、濡れていた衣服はたちまちに乾いた。これも、紛れもない魔法である。
少女は男に礼を言うこともなく、男の隣のカウンター席にドカリと腰掛けた。

「マスター、ブランデー」
「その姿で酒を呑むのか?」
そう言われて、少女は自分の身体を見る。恐らく、お手製の“若返りの薬”の効果はあと数時間は続くだろう。この体でいつものように強い酒を飲むのは、止めておいた方が懸命かもしれない。
マスターと呼ばれた緑色の肌の男は、少女の前に無言でレモネードを置いた。レモネードは甘かったが、少女はそれを酸っぱい顔で飲んだ。若い男はその様子を、呆れたような半目で見ている。

「お前、まだあの王子様の案件に関わっているのか。物好きだな」
「“物”好きなんかじゃないわ。わたしは“お金”が好きなのよ」

そう。全てはそこなのだ。

ならず者の集まるこの酒場には、社会の闇が集結している。密売人や、闇医者、魔族と、そして彼らに用のある者。

岩山出身の魔女である彼女は前者で、数か月前にここで一つの仕事を受けていた。それが第二王子の“懐柔”である。
不用心で、且つ外の世界に魅入られている第ニ王子を懐柔する。そして、用心深い第一王子に近付き、暗殺。第二王子を次期国王に仕立て、彼を操作し国を支配する……。
後半部分はあくまで彼女の妄想に過ぎないが、実際の目的とそう違わないことだろう。ここにはそういう分かりやすい悪意が渦巻いているのだ。
とにもかくにも、彼女がエメラルドに接触した目的は彼を誑かすことに他ならなかった。

それにはまず、王子に近づく必要があった。しかし、いくら魔法を使ったとて、自分のような魔族が城に侵入することは容易ではない。何より彼女の得意とする魔法は、呪文を用いて物体や空間に働きかけるようなもの(先ほど彼女の隣の男が行ったようなもの)ではなく、煎じた薬草や動物の体液を用いて調合する“魔法薬”なのだ。
そこで彼女は若返りの薬で10歳程若返り、王子と同年代の貧しい菓子売りに扮装した。城下街に明らかに適さない格好で、わざと目立つようにし、彼をおびき寄せたのだのだ。

事前に得ていた王子の情報から、彼が珍しいものや危険なものに並々ならぬ好奇を抱いていることは分かっていた。だから、汚れ色と蔑まれる瞳の色を隠すこともなく、堂々と立っていたのだ。彼の気を引くにうってつけのこの黒い瞳は、魔族の中ではとりたてて珍しいものではなかったが、王都では非常に役に立ってくれた。

そして、作戦は予想より上手くいった。そう、あまりに上手く行き過ぎた。

後は徐々に距離を詰め、パイに忍ばせた惚れ薬(といっても恋心を抱かせるものでなく、判断力を鈍らせる程度のもの)を繰り返し与え続け、口車に乗せて依頼人に会わせる。それで依頼完了。自分は高額の報酬を手にする。今回の依頼は美味すぎる話だったが、既に得ている手付金から依頼人の金払いの良さは知り得ていたし、なにより魔族との契約違反には、呪いが生じる。騙されることもないだろう。つまりわたしにとって幸運な依頼で、わたしにとって幸福な結末になる筈だった。……筈だったのだ。

なのに、ああ、

何故、こうなった!!

王子が自らパイを口にしようとする願ってもない機会を、一度ならず幾度もふいにし、築きかけていた関係は、まさかの平手打ちでぶち壊しだ。

少女は頭を抱えて、唸った。まぶたを閉じると、そこに浮かぶのは輝く緑色の瞳。
そうだ。全てはあれが原因に違いない。

(きっと、王族の瞳とは、不思議な力のある魔石の一種なのだ)

先ほど見たあの瞳の、眩いエメラルドの輝きが、脳裏に焼き付いて離れない。あんなにも分かりやすい好意をぶつけておきながら、嘘がばれたと知った途端、絶望に落ちた瞳。イライラした。あの顔。わたしを諦めて、好意を捨てるかのような顔。わたしに嫌われたと、勝手に決めつけた顔!!身分に守られた生活を嫌っていながら、それに一番囚われているのは彼自身ではないか!

あの時わたしは、故意に落ちた。意図的に足を滑らせ、湖に落ちたのだ。二人して濡れ鼠になってしまえば、物陰に連れ込んで親密な関係を結ぶことも容易いと思ったのだ。そして彼を籠絡する。それが本日の作戦であった。当初の予定では至近距離への接近で彼に動揺をもたらし、隙を衝く予定であったが、彼と籠の引っ張り合いになってしまったのは想定外だった。しかし、過程などどうでも良い。結果、自然な流れで湖に落ちることができれば良いのだ。だから、わざと足を踏み外した。

そして少女の作戦は、また上手くいった。しかし、水で彼の変装道具らしい怪しげな目の膜が剥がれ落ちることは、予期していなかった。それにより、彼があそこまでの反応を見せるとも。

……だが、もう会うことは無い。あんなに酷い別れ方をしてしまったのだから、彼が二度と自分に近づくことは無いだろう。この顔も目も、すぐに忘れ去られるに違いない。もう、チャンスは無い。そう諦めている少女は、自身が心のどこかで安堵している様な気がして、それを誤魔化すように残りのレモネードを飲み干した。

少女は、知らない。いや、彼女は既に少女ではないからこそ、忘れてしまっているのだ。大人の喧嘩と子供の喧嘩の違いを。
相手との縁を切るものではなく、縁を固く結ぶ種類の喧嘩が、あることを。

年若い男はそんな彼女に「厄介な男に捕まったな」と言った。
彼女は「まだ男なんて呼べないようなガキよ」と文句を言ったが、彼はそれに曖昧に笑っただけだった。

―――そう、彼が言った“男”とは、王子のことではない。
彼女にこの依頼を持ちかけてきた、依頼人の男のことだった。彼女は魔女として優秀ではあるが、この業界でまださほどの功績を得ていない。名が通っていない。そんな彼女に、その見慣れない男はわざわざ依頼を持ってきたのだ。

あの日、彼女へ話を終えた男が店を出る際、自分とすれ違った時のことを思い出す。男の顔を隠していたフードがずれ、一瞬だけ目が合ったのだ。黒衣の奥の男は、口元には穏やかな笑みを浮かべつつ、血のような赤い瞳をギラつかせた―――底の知れない男だった。


若い魔法使いは、同郷の魔女の今後を憂いて酒をあおった。 inserted by FC2 system