Act1.「高架下の魔女」



白雪姫、ヘンゼルとグレーテル、人魚姫、眠りの森の美女。どの童話でも、魔女は忌むべき悪として描かれている。おぞましき魔の女。シンデレラに出てくるような心優しき不思議な力の使い手は、魔女ではなく魔法使いと呼称されている。
しかし、わたしが憧れたのは魔女だった。

暗闇をマントのように身に纏い、妖艶な笑みと共に現れ、人々の運命を弄くり回す。圧倒的な力。それに、憧れた。


―――金曜日、午前0時の高架下。そこには、魔女の営む占い屋が現れるという。
女は小さなテントを広げ、手慣れた様子で簡易テーブルとイスを設置する。
テーブルの上には宇宙色の水晶玉。天井の骨組からぶら下げられたランプの光が、そこに小さな銀河を彩っていた。神話の神々が描かれた白磁の香炉からは、花の香りが立ち上る。匂いに敏感な者なら、眩暈を起こしそうなきつい匂いだ。
女は頭の先から全身を覆っていたビロードのマントを脱ぐ。都会の空より遙かに暗い漆黒の下から現れたのは、日の光を嫌う青白い肌。鋭いルビーの瞳。肩に流れる紫色の髪。薄紫色の紅を引いた薄い唇は、固く結ばれている。胸元の大きく開いたキャミソールに、ショートパンツ、ロングブーツ。身に着けているものは黒で統一されており、彼女の白さを引き立たせていた。細い肢体は中性的でありながら、露出の多い挑発的な服装が女の艶めかしさを醸し出している。胸元には、月をかたどったペンダント。彼女の出で立ちはどこか作りものめいていて、現実味がない。まるで、魔女のようだ。それもただの魔女ではない。彼女の頭にそびえ立つ二つの耳。彼女は、「猫の魔女」である。

彼女の白く細い指が、派手な星飾りのステッキを弄ぶ。骨董品屋に並ぶような本格的な品々に囲まれた彼女の世界で、そのステッキだけがあまりにチープで、100円均一ショップに売られている子供の玩具のようだった。

焚き始めた香がテント内に充満する頃、彼女のテントを誰かが訪ねる。すみれ・バイオレットは足音と気配を察するや否や、真っ直ぐな背筋をわざと猫背にして、顔の前で手を組み、胡乱な瞳と笑みで来訪者を迎えた。

「ようこそ、夜闇に迷える子羊さん……じゃなくてウサギさん。また来たのね」
すみれは来訪者が見知った少女であることを知ると、肩を落として溜息を吐く。彼女は期待していた客人ではない。この店に何の利益ももたらさないただの暇な放浪者で、冷やかしで、そしてこの店一番の常連だった。

「羊さんは迷っているのね。ねえ、じゃあ、私はどんなウサギさん?」
「差し詰め亀と競争する怠け者のウサギでしょう」
すみれがそう言うと、少女は頬を風船のように膨らませて「酷いわ」と言った。その動作は、わざとらしい。あざとい。しかし、彼女に良く似合っている。

少女は可憐だった。そして彼女の風貌もすみれ同様に、やはり浮き世離れしていた。
小さな顔。大きな瞳。鈴のような声で砂糖菓子のような言葉ばかりを紡ぐ、ぽってりとした唇。雪のように白い肌はすみれの不健康な青白さとは違い、愛らしい薄紅色に色づいている。腰まで伸びる桜色の髪は細く柔らかで、彼女の動きに合わせてクルクル、ふわふわ、空気と踊った。
まさに人形のような少女だが、身に纏う衣服が更にそれを際立たせていた。
桜色の髪に良く合う緑色のワンピースは、フリルとリボンがあしらわれている。その上から羽織っている青空色のカーディガンには、体温調節の意味は無いのだろう。白い肩が透けて見える程、それは薄い。すみれよりも肉付きのよい彼女だったが、可愛らしさを押し出した少女趣味な服装のせいか「女性」ではなく、どこまでも「少女」だった。

そして、彼女もまた、頭のてっぺんに獣の耳を生やしている。それは白く、長い。
彼女はさくら・クリーム・ラテ。彼女曰く、「絵本の国のウサギさん」だ。

すみれは、彼女の丸いガーネットの瞳を見た。人を疑うことを知らないような、澄んだ色。自身も彼女も同じ赤色であるのに、毒々しい自分の瞳とは違い、その色は熟れたベリーのように愛らしい。
フランス人形のように可愛らしい、さくら・クリーム・ラテ。作られたような愛らしさ。読みとれない思考。彼女はまさに、人形の少女。

「さあ、すみれ・バイオレット。今夜も楽しくお話しましょう?」
少女が微笑んだ。



*



すみれ・バイオレットは、早朝の路地にマントを靡かせる。まだ薄暗い街は、水商売風の男女や、酔い潰れたサラリーマンの姿がまばらにあるだけだった。
彼女は疲れきっていた。最近、土曜の朝はいつもこうだ。一週間の間に蓄積された疲労が、どっと押し寄せてくるかのように全身に圧し掛かる。数年前までは、金曜の夜から土曜の夜まで遊び回ることも出来た。カラオケからの、カフェからの、遊園地からの、またカラオケ。そんな気力が無くなったのは、彼女が成長したからか、老いたからか。いや、きっとそのどちらでもない。要領を得ないウサギ少女との不毛な会話の所為だ。

結局あの後、さくらはすみれのテントに居座りどうでもいいような話をして、話に疲れるとすみれの占い道具を弄り、それに飽きるとまた話をして、夜明けの閉店時間までそれを繰り返した。
彼女が来ると、客が来ない。すみれの占い屋は元から繁盛しているとは言い難かったが、彼女が来るようになってから、客足は更に遠のいた。さくら・クリーム・ラテは愛らしい顔をした疫病神である。

始発の時間まで、まだ少しある。全身マントの目立つ風貌のすみれは、通行人に絡まれる前に馴染みのネットカフェに駆け込む。角の個室に入るとマントを脱ぎ、大きな鞄を床の上に慎重に置いた。そして睡魔に身を任せ、泥のように眠りにつく。

―――午前8時。とっくに電車は動いている時間だ。
ネットカフェの個室から女が一人、出てきた。彼女の髪は紫ではない。頭に猫の耳は生えていない。充血した眼はルビーには程遠いダークブラウンだ。少しよれたスーツ、黒のパンプス。落ちかけを誤魔化す様に重ねられた化粧。そこに居るのは街によく馴染む、若い一人の女だ。誰が見ても、飲み会帰りのOLにしか見えないだろう。OLの通勤用にしては大きすぎるバッグの中身も、恋人の家に泊まりにいく時の為の着替えくらいにしか思われない。誰も、そこに詰められたものが秘密の魔法道具であるなどとは気が付かないし、そもそも、それ程の興味を持って彼女を見ていない。

女は眠そうな顔で電車に揺られる。車内にはジャージ姿の中学生が多かった。部活の大会でもあるのだろう。彼らの所為で席に座ることのできない女は、「若者は立て」と心の中で悪態を吐きながら、ドアのすぐ横の手すりに凭れ掛かった。少しばかり仮眠をとったとはいえ、まだ眠い。寧ろ、余計に眠くなったようにも感じた。しかし目的の駅までは数駅で、寝過ごしてしまっては自宅のベッドが遠のくだけである。何とか眠らないように、窓の外を流れる景色をつまらなそうに眺めた。電車がトンネルに入ると、そこには更につまらないものが映る。疲れ切った顔。ぼさぼさの髪。紛れもない、自分の顔だ。
……桜色のあの少女にも、このようなもう一つの顔があるのだろうか。星屑を砕いて散らしたような、少女漫画のヒロインのような瞳をしたさくら・クリーム・ラテ。彼女のカラーコンタクトの銘柄は何だろう。いつでも自然な柔らかさを保っているウィッグは、どこで購入し、どのように手入れをしているのだろうか。
女は数時間前まで一緒に過ごしていた少女の姿を思い浮かべる。毎週末を共に過ごしている彼女の事を、自分は何も知らない。彼女が学生か、社会人か、それすら分からない。しかし、知りたいかと言えば答えは否だ。自らを絵本の国からやってきたのだと言い張るさくら。彼女は絵本の国の白ウサギ。それで良いのだ。それで、良い。
夜の間はあんなにも疎ましかった彼女の事が、こちらの世界では恋しく思えた。

彼女は狸に復讐をするウサギでも、昼寝をして亀に負けるウサギでもない。想像したくもないが、ワニザメに毛皮をはがれる因幡のウサギでもない。彼女は、夢見がちな少女を不思議の国へ誘う、はじまりの白ウサギだ。

すみれはそれを、身を持って知っている。
猫の魔女の不思議な物語も、彼女によって幕を開けられたのだから。 inserted by FC2 system