愛情を抱いては自己を嫌悪し、恋情にも似た思いに自嘲する。敬愛しながら軽蔑し、侮蔑しされながら、安堵し、赫怒し、苦痛を生じた暗鬱さには嫌気が差すというのに、歓喜した。そしてそんな自身に、動揺するのだ。

それが、彼女と出会ってからの私だった。



「……こんなに、小さな場所だったのね」
あなたとの廃れた城に足を踏み入れる。最後にここに来たのは一体いつだっただろうか。多分まだあなたが、お気に入りの公園のガーベラが雨で全部萎れてしまったと大きな声で泣いていた頃のこと。私があなたを慰める為にここに植えた種は、結局ろくに世話もせずに芽を出すことはなかった。今となっては、どこに植えたかさえ思い出せない。

(ここは、幼き日のあなたと私の秘密の隠れ家)

横を畑とマンションに囲まれたただ広すぎる空き地は、今も昔も変わらず誰の手入れも行き届かない無法地帯だった。伸びっぱなしの雑草が腹の辺りにちくちくと刺さる。成る程、幼い頃、この中ではぐれると中々出会えなかったわけだ。足場には何やらよく分からない木材が散らかり放題になっていて、あちらこちらに学校から処分された行き場の無い学生机が置かれている。

「本当に、良くこんなところで遊んでいられたわね」
今見ればただの汚いガラクタ置き場にしか見えないそこも、子供の目にはどれほど魅力的に映ったのだろう。あなたに連れられてここに来た日のことを、今でもぼんやりと覚えている。

『今日からここが、わたしと紫の秘密基地ね!』

そう言ったあなたは、とても眩しかった。当時、彼女は私と同い年なのだから小学校にも上がる前の小さな子供であった筈なのに、私とは全然違う、凄く頼りがいのある存在だった。私はいつも彼女に付いて回った。

小学校に上がってからも私たちは度々そこを訪れ、身体中に虫刺されをこさえながら遊んだ。何をして遊んでいたかは覚えていない。二人で居れば、なんだって楽しかった。
秘密基地と呼ぶのに最適なこの場所を、近所の子供たちが同じように拠点として使っていることには気が付いていたが、子供同士の暗黙の了解でお互いに気付かないフリをし続けていた。そういう点で、子供は時に大人よりも利口だろう。私たちは器用に、ここは二人だけの秘密基地だと、思っていた。

しかし、結局この場所が必要であったのは私だけだったように思えた。
私は何か嫌なことがある度に、幾度となくこの場所に逃げ込んだ。『なにかあったらこの場所に来れば良いよ』と言ったのは彼女で、私は何度も何度も、この場所で夜空を眺め続けた。けれど彼女が夜にその場所を訪れることは無かった。子供が夜に一人で出歩くことなど良いことではないから、彼女を責めるのは間違っていると分かっている。けれど星空の下で独り泣く私は、来ない彼女を恨んだりもした。一緒に居てくれないのならば、こんな逃げ場所なんて作ってくれない方が良かったのに、と。そんなことだけは昨日のことのように鮮明に覚えているものだから、困ったものだ。

「子供だったのね、本当に」
紫は埃を被った机に指を滑らす。灰色に汚れた指の腹を制服のスカートの裾で拭いて、移った汚れにも顔を顰めた。

いつからか私たちの遊びは形態を変え、自然とこの場所からも足が遠のいてしまった。逃げることのできる場所も歳を重ねるにつれて増えてきて、私にもこの場所は不要になった。だから今日この場所を訪れたのは、単なる気まぐれだ。先日この場所に建物が建つのだという話を聞いたのが直接的な原因ではあったが、感傷に浸りにきた訳でもない。未練などないのだ。

彼女の居ないこの場所に、私を縛り付けておくだけの力は無い。私が依存するのは、彼女そのものだ。けれどまさかまだ、このままの状態だとは思っていなかった。建物が建つ予定、だなんて、どれくらい後の話なんだろう。もっと閑散とした状態だと、思っていたのに。



いつも夢の中では、あなたと私は全く同じ一つのものであった。私たち以外のその他の濁流が渦巻いていくのを見下ろしながら、変化の乏しい平穏に穏やかに微笑むことが出来た。私と彼女が同じものだなんて、なんて短絡的で馬鹿げた思考だろうか。彼女が私なら、彼女が私を嫌うことはなかったけれど、それでは私は彼女を愛せない。愛してもらえない。

「……気持ち悪い」
思わず口から零れた自己を批判する言葉に、溜息を付いた。

私はこのように彼女に依存している自分が、嫌いだった。幼い頃、歌うことが好きな彼女のためにピアノを習い始めた。口を利くのも嫌な親だったが、彼女の歌いたい曲を奏でたいがために懸命にご機嫌取りをしたのを覚えている。学校での部活や委員会は、どれも彼女とは別の、けれど彼女が興味を持っているところに所属した。彼女は共に居る相手に自分と同じものを求めないと分かっていたから、私は彼女の世界を広げるために敢えて彼女とは別の道を選んできた。彼女と居るために。

少しでも、彼女に必要とされたかったのだ。けれど彼女と私の関係は、私が一方的に彼女を必要としていることだけでしか成り立たなかった。私はが必要だけれど、は私を必要としない。彼女が私に何かを求めることは無かった。

例えばあなたが瑞々しい果実で喉を潤したいと言うのならば、私は天まで届く林檎の木にでも登ってみせるのに。
例えばあなたが優しい光に包まれて眠りたいと言うのならば、私はあの、都会の夜空に囚われている月を盗んでみせるのに。
あなたがなよたけのかぐや姫ならきっと、私はあなたの出す試練を全て乗り越えて、あなたを手に入れてみせるのに。

でもあなたが私に何も望まないから、私は何も出来ない。

あなたに抱く、私のこの感情に名前をつけることは難しかった。友情というにはあまりにも見返りを求めすぎる。恋情の浮き沈みの表現が近いような気もしたが、私は彼女と恋人同士のように何かをしたいだとか、どうなりたいだとか、そういう意味で彼女を欲したことは無い。この気持ちは、もっと簡単なものだ。ただ、彼女と居られればそれでいいのだ。


「ゆーかーりー!お待たせ!」
能天気な彼女の声が私を呼ぶ。一気に現実へ引き戻されたような感覚だ。

「またなんでこんなところで待ち合わせを……。虫に刺されるよ」
私たちは今日、クラスの文化祭準備に駆り出される予定だ。夏休みとはいえまだ7月なのに、よくやるものだと感心する。その上自主制作映画だなんて、どれだけ面倒なことが好きなのだろう。

「あら、覚えてない?昔はよくここで待ち合わせたじゃない」
「覚えてるに決まってるでしょ。わたしたちの、秘密基地だったよね」

はそう言うと、積み重なる机の上に立って息を深く吸い込んだ。そして、「草の味がする」と大層難儀な顔をする。私が笑うと、もにこりと笑う。

「あー!やっぱり秘密基地ってわくわくするよね!この感じ、懐かしいなあ!!」
「……そうね」
確かには楽しそうだった。入る前は文句ありげな顔をしていたくせに、今はもう、そんなことも忘れてこの場所を昔のように楽しんでいる。
私は心の奥底で何か冷たくて重たいものが沈んでいくのを感じた。ああ。私と彼女は、こんなにも違う。私にはただの汚い空き地でも、彼女には昔と変わらない何かが見えているのだ。私には、彼女と同じものが見えない。

「ここは、私たちのお城だったものね」
「お城、ね」
は私の言った言葉を繰り返すと、机の上に膝をついて私に目線を合わせ、その手を童話の王子様さながらに差し伸べた。

「ほい。城っていうならダンスでもする?」
「―――誰が!……一人で盆踊りでもしてなさい」
「手厳しいねお嬢さん!」
へらりと笑うに、私は………これでいい。これが、彼女の冗談に友人として答える、正しい解答。

「あ………ちょっと待って。クラスの子から電話だ」
のポケットから鈍い振動音が響く。画面を見た彼女はそう言うと、割合真面目な顔になって机から飛び降りた。

「………そう」
私は、離れていったの代わりに机の上に立って辺りを見回してみる。これは楽しい、のだろうか。よく分からない。


の笑い声が聞こえて、少し離れた場所で楽しげに電話をしている彼女に視線をやった。どんな話をしているのだろう。クラスの子と言っていたから、準備に必要なものの調達願いだろうか?……あなたは、何がそんなに、楽しいの?


!」
私は、無意識の内に彼女の名前を呼んでいた。電話中のが少し驚いた顔でこちらを振り向く。私が今、どんな顔をしているのかなんて、考えたくもなかった。見ないで欲しい。なのに、視線を外せない。



*



突然名前を呼ばれて、わたしは驚いて紫を見た。彼女はいつの間にか先程までわたしがそうしていたように、机の上に立っている。この場所から見上げると、逆光でよく顔が見えない。

『ほらー!やっぱり、桃澤さんと一緒に居るんでしょ?今、声聞こえたよー』
特に仲が良い訳でもない浅い関係の相手から名前を呼び捨てにされる。そのことに嫌悪感を抱きながら、わたしはそれを悟られないよう、わざとらしいくらい楽しげに言葉に抑揚を付ける。

「うーん……!彼女に、何か用でもあるの?」
『うん、あのね、前にが桃澤さんはピアノが弾けるって言ってたでしょ?映画でさ、今日ピアノのシーンを録画しようと思ってるんだけど、弾いてくれる筈だった谷口さんが風邪ひいて、今日来れなくなっちゃったらしいんだよね。今日もう音楽室の鍵も借りちゃったし、楽譜ならあるから、桃澤さんに頼もうかなーって。メアドも番号も知らないから、に電話してんのよ。桃澤さんがどの程度弾けるのか訊かないとね』

「………そう」

わたしは、見えない紫の顔を、見た。

『ほらほら、桃澤さんに代わって?』
「…………いや、」

風に流されてきた雲に太陽が隠されて、蒼い影の中で紫と視線が合う。紫は戸惑ったような、難しい顔をしていた。その表情はわたしも知らない大人びたもののように感じて、少しだけ寂しい。いつからこんな顔をするようになったのだろう。わたしは、笑みを崩さずに言った。


「居ないよ」


わたしはその時、どんな顔で笑っていたのだろう。きっとひどい顔をしていたに違いない。

『えっ!居ないの?本当に?でも声が……』
「うん、残念。何かの聞き間違いだよ。近くで子供が遊んでるから、その声じゃないかなあ」
ここには、わたしと紫しかいない。わたしは自分の嘘が紫にばれてしまわないよう、自然と自分の声が小さくなっていることに気が付いた。

『じゃあ、いいや。どうせ今日これから来るんだろうし、そのときに訊けばいいか。あ、でも弾けなかったらどうしよう?』 
紫に弾けない曲なんて、あるのだろうか。わたしは序所に“暑さの所為”で自分が苛々していくのを感じていた。

「別に、今日じゃなくてもいいんじゃない?何をそんなに急いでるのか知らないけど、谷口さんだって練習してるんだろうしさ、元気になるのを待ちなよ。少しくらい撮影が遅れたって、まだ7月でしょ?……それに彼女はわたしと同じ教室の装飾担当なんだから、突然出演なんて言われても困ると思うよ?」
随分と、勝手な言い草だとは自分でも分かっている。電話口の彼女も勝手だが、わたしの方がよっぽど勝手だ。当の本人を差し置いて、勝手なことばかりを言っている。
第一、クラスに馴染めない紫が少しでも溶け込めるようにと、あまり紫に良い印象の無かった彼女らに紫の話をしたのはわたしだ。そして今、彼女らは紫を必要としている。ならばわたしは、紫の背を押してやるべきだ。これをきっかけに閉鎖的な彼女の世界が広がるのならば、わたしは、そうするべきだった。

『あー、うん……、そうだよね。今日は他のシーンの撮影からやっちゃえばいいか……。確かに、谷口さんには失礼だよね』
気の強い、自己中心的な子だと思っていたが、珍しく素直だ。そういえば、わたしはこの子相手に、これほど真面目な声を出したことは無かったのだっけ。いつもへらへら笑っているこのわたしが、怒っているとでも思ったのだろうか。ああ、それは敏いこと。

「そうそう!それがいいよ。じゃあ、またあとで」
開いてしまった距離を無理やり修復するような明るい声を出すと、相手が安堵するのが分かった。それを確認してから、当たり障りの無いようにタイミングを見計らって、電話を切る。



(……気持ち悪い)

わたしが、気持ち悪い。紫を他から引き離して孤立させているのは、わたしの存在かもしれない。そしてそれに気付いていても、改められない。わたしは紫の世界に、唯一無二の存在として必要とされていたいのだ。わたしだけが特別だと、優越感を感じさせていて欲しい。

いつからこんな風に、破綻した友情を彼女に抱くようになってしまったのだろう。

紫はまだ、戸惑い顔のままでわたしを見ている。もしかすると、電話の内容が分かってしまったのかもしれない。ならば、それでいい。

「紫、どうしたの?」
嫌ってくれればいいんだ。わたしの抱える欲情に気持ちが悪いと嫌悪して、雑言を浴びせて。そしたらわたしは、もう少し普通にあんたと居られたのかもしれない。わたしのことなんかどうでもいいっていう風にしていてよ。笑って誤魔化しの台詞を吐けるようにしてよ。どうかこの気持ちを、冗談にさせて欲しい。差し障りの無い普通の友人を演じさせて。

手放してくれたら、手放すから。



これがわたし達の、破綻。



紫はどこかぎこちなく笑って、なんでもない、と首を横に振った。
遥か頭上を行く飛行機の鈍い音に、二人は空を仰ぐ。広がるのは、青すぎる真夏の空。何かを隠すように、一色で塗ったくったに違いない。風がやんだ。茹るような暑さだった。



「……気持ち悪い」

そう呟いたのはわたしか紫か、または二人とも、だったのかもしれない。
紫の後ろで、橙色の花が机の陰に隠れて咲いていた。 inserted by FC2 system