学び舎の天辺で、なんとなく楽しくなってくるりと回ってみた。
夜の二歩手前の中学の校舎は、春休みだと言うのに部活動に勤しむ学生でさわさわと音が耐えることが無い。先程までは陸上部の元気の良い声が響いていたのだけれど、彼らはもう帰ったのだろうか。今は吹奏楽部の奏でる楽器の音色が鳴っては途切れ、鳴っては途切れを繰り返しているのがひたすら響いていた。不器用なピアノの音が聞こえる。それはが三年間この学校で聞いてきたピアノの音とはあまりにも違いすぎて、本当に同じ楽器で演奏しているのかと疑いたくなるようなものだった。壊れたんじゃないだろうか。彼女が弾いていたときにはもっと。もっと、


「遂に、やったわね」


深い青色と桃色の混ざる春の夕空の下、が背後からかけられた声に振り返ると、貯水タンクの紺色の陰を浴びた紫が笑っていた。彼女の手の上では、が随分と長い間やきもきしていた黄朽葉色が金属特有の鈍い光を放っている。それは長い間この場所への侵入を防いでいた錠だったが、今はもうその役目を果たすことなど出来ない姿に変えられていた。が誇らしげに握ったペンチを前に突き出す。

「まあ、わたしにかかればこんなもんでしょ!」
「あら、言っておくけど私は褒めてるんじゃないわ。呆れているのよ」
あらら。しかしどうやら、紫の笑顔は彼女の功績を称えるものではなかったようだ。は困ったように眉尻を下げて、極控えめに笑みを返す。

「凄過ぎて、呆気に取られているってことか!」
「……あなた、表情と言葉が上手く適合されていないわ」
コンクリートに背を凭れて、紫は大きな溜息を吐く。カラン。力を抜いたその手から、壊れた錠が音を立てて滑り落ち、彼女の足がそれをそのまま屋上の端の方まで蹴り飛ばした。足癖悪いなあ。が楽しそうに笑う。紫が苦虫を噛み潰したような顔で、そして噛み潰した苦虫を吐き出すように、言った。

「全く。とんでもないわね、あなた」
「何言ってるの。わたしには立ち入り禁止の屋上なんてものの方がとんでもないと思うんだけど」
事故防止。自殺防止。それがなに。危険な場所だったら、どうせなら壊してなくしてしまえばいい。そうすれば抱く疑問なんてないし、夢も幻想も抱かない。そう、残しておいたのが悪いのだ。鍵をかけて忠告をしておけば大丈夫だとでも思ったのだろうか。駄目と言われれば言われるほど、欲しくなるのに。ね!そう言っては青い空気を体いっぱいに吸い込んで、両手で空を抱く。紫は少し彼女が羨ましくなった。

「それは何回も聞いたわ。でも、卒業式の日には何も行動を起こさなかったじゃない」
「だって人がたくさん居たでしょうに」
「だからってねえ」
「春休みももうすぐ終わるし、今日は最後にやり残したことを遣っておこうと思って、舞い戻ってきたってところかな。あ、それにもうここの生徒じゃないから、校則違反にもならないし!」
「言っておくけど、校則どころか不法侵入じゃないかしら」
少しの沈黙の後で、「そういう紫はなんで学校に居るのさ」というの問いに、紫は恥ずかしそうに俯いて、部活よ、と言った。

「……じゃあさっきピアノ弾いてたのって紫?なんか下手になってない?」
「違うわよ!それは私じゃなくて後輩。来月にコンサートがあるっていうのに全然出来てないみたいだから、教えに来てあげてるの」
全く、私は春休みだって言うのにね。そんな風に口で入っていても、紫の顔はどこか嬉しそうだった。人との付き合いが極端に苦手な紫だけれど、可愛い後輩に頼られて悪い気はしないのだろう。優しげな目でたどたどしい音色に耳を済ませている親友を見ていてあまり良い気がしないのは、(わたしだけど何か?)

「ふうん。まあ、手間が省けたけどね。ちょうど紫も呼ぼうと思っていたところだったんだ」
言った途端、紫の咎めるような態度や視線が見るからに柔らかくなった。ああ、やっぱりそういうことだったのか。

「へへ、勝手に一人で開けちゃってごめんね」
「……あら、ようやく気付いたの?」
あなたは本当に、ずるいんだから。紫の指がの片頬をぐりぐり潰しにかかる。その指を退けようと頬を膨らませてみたら、今度は両方の頬をぐりぐりされて、中に溜まっていた空気がぽひゅっと抜けた。くすくすくす。紫の笑い方は、本当に綺麗だ。

「だって、今まで何をするのも二人でやってきたでしょう?こんなの、ひどいわよ」
「ごめんってば、ね。どうしてもわたし一人でやりたかったの。それで、紫を驚かせたかったんだ」
ほら、こっちおいでよ。は紫の手を引いて、青い陰の下から連れ出す。空の色は涼やかで、眩しくて目を細めるなんてことはなかったけれど、それでも紫は少し、目を細めた。その目は空を見ていたのではなかったけれど。無邪気な笑顔のが、屋上のフェンスのところまで走っていく。

「見て見て、綺麗でしょこの空の色!わたしから紫への卒業祝い、なんてね!」
太陽はすっかり見えないのに、橙色の光が雲を縁取っている。青、桃色、橙、薄い黄色。薄っすらと姿を見せ始めた白い星。光の魔法を見ているみたいだと、すっかり目を奪われていた紫の横でが言う。

「ねえ、すごいでしょ?群青色の絵の具を水でたくさん薄めたみたいな海に、桃味の飴細工のイルカが泳いでいるみたいじゃない?ほら、星が砕けてる!」
紫はを見た。ああ。この子の前では、「光の魔法」だなんて陳腐な感動はピントのずれた埃の下の写真くらいでしかない。きっとこの子には、には、私よりも何十何百も多くの色が見えているのだ。多分、風にだって空気にだって時間にだって、なんだって鮮やかな色が見えている。の瞳に映る世界と、私が見ている世界の決定的な違いは、それだ。虹を四色ぐらいにしか思えない私に対して、は一体何十色の光を知っているのだろう。もしかしたらミツバチみたいに、紫外線だって見えているのかも。彼女を理解できない自分が疎ましくて、そんな自分に気付く由もない彼女が恨めしくて、愛しくて、



「好きよ」

良かった!紫なら気に入ってくれると思ったんだ。わたしもこういう色、大好きだよ。……と、言おうとして、は紫が空ではなく自分を見ていることに気付く。気付いてしまったからにはその視線を無視することも出来ず、恐る恐る彼女と視線を重ねると、そこには今まで見たことも無いくらいに優しい顔の紫が居た。は何を言うことも出来ずに、ただ彼女に視線を囚われていることしか出来ない。なに、なに、なにこれ、

「大好き」
本当に、見ているこっちが息が出来なくなるくらいに、切なく苦しそうに紫が笑う。何か、何か早く冗談の一つでも言わなくてはと思っているのに、声が出ない。


「愛しているわ、
心臓がどきりと鳴って、体の中が一気に冷えていった。突然の愛の告白に頬でも染めるべきなのかもしれないが、多分きっと、今のわたしの顔は青褪めているのではないだろうか。だって彼女は、紫はわたしの親友だ。憧れのサッカー部のキャプテンでもなんでもない(例えば、というよくありがちな設定というだけだけど)。言っておくがわたしは漫画の王道ヒロインみたいにその手の話に鈍くは無い(と思っている)。もうとっくに、彼女の言う言葉の意味が友達に向ける友愛ではないことくらい分かっていた。彼女の瞳の熱が女友達に向けるものではないということも、気付いていた。どうして、いつから紫は?なんで、なんで。なんのつもりで、こんなこと……!!

視界が滲んできた。どくん。どくん。心臓が冷たい手で鷲掴みにされているみたいだ。ああああ!視線を外せない。誤魔化せない。息が、出来ない。

(もう、友達では、いられなく、なる?)





「嘘だけど!」

「………え?」
嘘、だけど。紫のたったその一言で、張り詰めた空気が針で穴でも開けられたみたいに破裂して萎んでいく。急いで瞬きして乾かした目で見た紫は、いつもの紫だった。切なそうでも、苦しそうでもない、それほど優しくない笑顔。いや、全然優しくない笑顔。まるで悪戯が成功した子供のような顔で、人の呆ける姿の味をしめている。わたしはといえば、そんな彼女への怒りよりも安堵が遥かに勝っていて、まずは胸を撫で下ろした。

「嫌だ!ったらなんて顔してるのよ!本気にしたのかしら?」
「……別にそんなんじゃないし。全く、たちの悪い嘘だこと」
「ふふ、いいじゃない。今日はエイプリルフールだもの。今日だけは、どんな嘘でも許されるのよ」
桃澤先輩、と、紫を探す可愛らしい声が中庭の方から聞こえる。恐らく吹奏楽部の後輩だろう。紫の言っていた、ピアノの子だろうか。歪な旋律の、ピアノの子。

「ほらほら、呼ばれてるよ桃澤先輩」
「あらあら、先輩はこの後どうするおつもりかしら?」
「そうだなあ。とりあえず、もう少しここに居るよ。その後で音楽室に部活見学にでもいこうかな」
「じゃあ私はあなたが来るまでにあの子をビシバシ扱いてくるかしらね」
手すりからほんの少しだけ名残惜しそうに紫の手が離れる。ふわりと、春の風を味方につけたみたいに前を通り過ぎた紫を、は咄嗟に呼び止めた。紫が振り返る。



「ねえ紫、知ってた?今日、4月2日だよ」

すると紫は彼女らしくも無く、不器用に微笑むのだ。

「ええ、知ってるわよ」



バタン。屋上の扉が閉まって紫の姿が完全に見えなくなると、は一気に体から力が抜けて、その場に膝を付いた。それからペタンと座り込んで、もうしばらくすると足を投げ出して、ようやくその体勢に落ち着く。空の青はもう大分濃くなっていた。隅々が黒くくすんでいる。頭がくらくらした。


紫は、知っていたのだという。今日がエイプリルフールではないということを。どんな嘘でも許される日ではないということを。本当にわたしは、余計なことを聞いてしまったと思う。わたしは何も気付かずにただとぼけた顔で笑っていれば、それが彼女にとっても一番良かっただろうに。ただたまに、彼女の中で膨らんだ何かが堪えきれずに顔を見せてしまう。そんな時、わたしは、どうしたらいいんだろう。ふと、閉められた扉の前で僅かな光を吸い込み弱々しく光るなにかが目に留まった。重い腰を持ち上げて近くによると、見覚えのある形の鍵がそこに落ちていた。“音楽室”と書かれたプレートと、ガラスの騎馬のキーホルダーが付いている。紫が落としていったのだろう。

は冷たいそれを暖めるように手に取り、握り締めた。

(わたしだって、白馬の王子様に憧れている夢見がちな乙女の一人なんだから、シンデレラを迎えになんて行けないんだよ)







もう、空はほとんど夜に支配されかけていた。吹奏楽部が、最後の合わせに入る準備をしている。はもう一度だけくるりと回り、丸い空を抱きしめてからその場を後にした。埃っぽい階段に戻ると、扉の鍵を近所のホームセンターで買った新しいものに取りかえて、解くのに時間のかかった長い鎖を来た時よりも頑丈にドアノブに巻きつけていった。また自分と同じように馬鹿なことをしでかす子が現れるのを楽しみに思って。後輩達よ、精々苦労すればいいさ!

制服の袖が少し錆臭くなっていた。


「この制服も今日が着収めか」


さて、シンデレラにガラスの靴を返しに行かないと。(迎え入れるお城は無いし、わたしは王子さまじゃないけど)
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