それはとある晩のことだった。ここは真っ暗で寒くて寂しくて。目の前に広がる暗闇も自分を取り巻いている暗闇も同じ筈なのにここから離れれば離れるほどその闇が深くなっていく気がして怖くて、留まる事しか出来ない。膝を抱えて嗚咽を堪えて、わたしは一人。一体全体世界はどうしてしまったのだろうか。終わってしまったのだろうか。

終わってしまったのだとしたら、それはわたしの世界のことだろうか。彼らの世界のことだろうか。

―――幼い夢で模られた、現実的な不思議の国。わたしにだけ救うことの出来た筈の、不思議の国。

結局不思議の国はアリスに忘れ去られて消えてしまったのだろうか。わたしはやっぱり間に合わなかったのだろうか?分からない。ここではそれが分からない。
もしかすると、わたしが終わってしまったのかもしれない。だとしたらここは死後の世界?……どうなのだろう、分からない。ここには答えを与えてくれる人も、誰も、居ない。



誰でも無い、わたし自身がその名を呼ぶ。ずっと口にし続けていなければ、忘れてしまいそうだったから。わたしが誰なのか、わたしが何なのか。

……」
声が闇に吸い込まれて余韻が残らない。怖い。存在が消されていくようで、怖い。闇が、怖い。闇と混じれない浮き出た異物のわたしが、怖い。このままわたしが消えてなくなって闇と同化してしまえば、恐れなどなくなるのだろうか。
それはとても怖い事だけれど、もしかすると痛くないかもしれないし、苦しくもないかもしれない。闇を受け入れて、闇に受け入れられればきっと、寂しくなくなるかもしれない。あくまで“かもしれない”だけれど、なんだか、もう、疲れてしまった。怖い怖いと思うことに、疲れてしまった。

わたしがわたしじゃなくなればひとり孤独を感じるわたしはいなくなる。留まるか進むかの選択に悩まされることもない。ああ、それはとっても、―――怖い。
消えてなくなってしまったわたしが見えない世界のどこかで寂しいと思うことも何かを悩むこともせず、ただただ溶けていくなんてそれこそ怖い。痛いし、苦しい。

……ところでわたしは、誰だっけ?



そう、それよ、わたしの名前!不自然な程に静かなのに耳鳴り一つも聞こえないこの静寂の中で、わたしの声じゃない他の誰かの声がわたしの名を呼ぶ。響きの無い世界で、甘く余韻を残す声がわたしを呼ぶ。そうだ、わたしの名前はだ、もう少しで、わたしがわたしじゃなくなってしまうところだった。帰れなくなるところだった。(どこへ?)


また、だ。不思議に何回も何回も木霊する声が、またわたしを、呼ぶ。一回目は聞き覚えのある声のような気がして、二回目では随分と聞き慣れた声のような気がした。

『……、』
すぐ、近くでわたしを呼ぶ声。ああほらね、わたしはこの声を知っている。わたしの名前を、誰よりも綺麗に呼ぶ人。誰よりも自然に呼ぶ人。わたしが彼を認識すると共に、一気に闇が薄らいで微かな光が霧のように漂い、世界が灰色になった。

「……ときわさん?」
ときわさん。常盤さん、常盤さん。覚えたての言葉を何回も繰り返す子供のようにわたしが呼べば、灰色の何も無い空間からぼんやりと浮かび上がるように彼の輪郭が姿を現した。彼が居るということは、まだ満月の夜は来ていない。不思議の国もまだ消えては居ないということだろう。けれどここが夢で無いとするならば、どうしてこんな状況なのか分からない。皆はどこ?どうしてしまったの?

「いや、唯の夢だ。いつものようにアリスを探し疲れて、暖炉の前で毛布もかけずに寝てしまった君の見る、悪夢だ」
またいつものように勝手に心の中を読んだかのような彼が、言う。

「夢、ならば……夢の中でこれが夢だと教えてくれるあなたも、わたしの夢の一部なんですか?だったらこれも結局はわたしの独り言ってことになるの?」
「…いや、ここは確かに君の夢の中だが、私は固有の意思を持ってここに居るよ」
「どうして?だってここは、わたしの夢なのに、そんなのっておかしい」
「そうだ。これは君の夢だ。だからこそ、私は君じゃない」
「わたしの夢、だから?」
「そうだ。だって、そうだろう?君がもしこの世界で―――夢の中で寂しさを覚えたなら、欲しがるのは間違いなく他の誰か、だ。もう一人の自分なんかじゃない。―――違うか?」
「……そう、ですね。わたしは虚しい独白なんて望まないもの。でも、だったらあなたは酷く悪趣味ですね。人の弱みに付け込んで、夢の中に勝手に踏み込んでくるなんて。年頃の娘の日記を隠れて読む父親くらい無神経ですよ」
「……嫌な例えだな。君と私はそこまで歳が離れていないだろう」
「まあ親子ほどではないですけど、一回り近くは離れてますよね」
まあ、そうだな、うん、と常盤さんはわたしから視線を外して濁った言い方をする。わたしはさっきまで黙っていたのに突然おしゃべりになった所為かどっと疲れが出て、大きな溜息を吐く。

「結局、この夢は何なんですか?いつまで続くんですか?何の意味があるんですか?」
「君は今まで見た全ての夢に意味があったのか?」
はて、どうだったか。思い出す限りの楽しい夢も悲しい夢も、その後のわたしに何か意味を与えてくれたものはあっただろうか。予知夢なんて見たことも無いし。一富士二鷹三茄子だって、無い。単純な思考を適当に組み合わせて捻ったような今までの夢は、どれもこれも、一時の楽しさと、悲しさだけを残していっただけだった。夢は深層心理の表れだとよく言うが、わたしの“深層”なんて底が知れている、ということだろうか。

「夢に、意味なんてないさ」
答えることを殆ど放棄しかけていたわたしに、常盤さんははっきりとそう言った。


「だから私は、君をここから連れ出しに来た。意味のない夢の中に閉じこもっていたってどうしようもない」
「わたしを、ここから連れ出す為に?」
「そうだ。。いつまでもこんなところに居てはいけない。さぁ、」



ここから出るんだ。



ここから、出る……?わたしは後退り、彼の手から逃れた。わたしのその拒絶に心なしか彼の影が薄くなった気がする。やはりここはわたしの世界なのか。ここではわたしが全権を握っている。わたしの箱庭。彼だって、わたしの認識無しにはここに存在し得ない。

ここは、わたしの夢の世界。

「嫌、」
嫌、嫌、嫌!ここから動きたくない。ここを出たら何が待っているの?そこに色や音はあるの?そこにあなたは、居るの?嫌だ、怖い。怖い。怖い。本当はわたし、知っているの。あなたが嘘を吐いているっていうこと。思い出した。今、思い出した。思い出してしまった。わたしはあの世界で満月を見てしまった。終わりの音を聞いてしまった。もう、全てが終わってしまった後だってこと!わたしは何も出来なかったってこと!

このままここから出てしまったら、少しも彼らのことを覚えていない、元の平凡なわたしが居るのだろうか。きっとこの夢すら覚えてはいられない、わたしが居るのではないだろうか。そんなのって、無い!!

「さぁ、、この夢から目を醒ますんだ」
まるで駄々をこねる幼い子を諫めるように彼が柔らかに言う。膝を曲げて、座り込んだままのわたしの目を覗き込んで。

わたしは目を閉じて両手で耳を塞ぐ。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!!忘れたくないのに、消したくないのに、後悔することすら許してもらえない世界になんて戻りたくは無いの!!


、」
彼の口が、わたしの名前をなぞる。ふわりと頭に乗せられた手に、寸でのところで堪えていた涙が、遂に大きな粒となって落ちてしまった。その冷たい手はそのままするりと下りてきて、わたしの輪郭をなぞる。そして音を固く遮っていた手を解き、指を絡ませる。

「どうして……わたしの夢なのに、そんな酷いことを言うんですか?わたしの夢だったら、もっと一緒に居てよ。もっと優しく騙してよ。どうして現実を思い出させるの!?わたしが目を醒ましたらあなたもここも全部全部、本当にどこにも無かったことになっちゃうんですよ?それでもいいんですか!?わたしは嫌!絶対に帰らない!!」
わたしは幼い子供のようにあられもなく泣きじゃくる。けれど不思議と、頬を滑り落ちる涙や顔の熱を感じない。感覚が、熱が感じられなくなってきている。何故?わたしがこれを、夢だと認めはじめているから……?
………そうか。やっぱり、やっぱり夢、なんだ。一枚のベールで囲ったような、本当に浅い夢。彼は先程の自分の嘘を認めることもせず、わたしの言葉を否定することもせず、ただ困ったような顔をして、空いている手の指でそっと涙を掬ってくれた。

「やっぱり、これはわたしの深層心理の夢だったんだわ。わたしの、途方に暮れるほどの後悔の夢。思ったより底が深くて、深すぎて、きっともう潜ることは出来ないんでしょうね。でもそんな嫌。思い出すことも、ちゃんと泣くことも、想うことの出来ないわたしなんて、もう嫌」
わたしは夢中で彼に縋った。どうかこのまま、この夢が永遠に終わることの無いようにと、願った。常盤さんはわたしの頭を撫でて、諭す。

「怯えることは無いんだよ。何も怖いことなんて無い。大丈夫だ、ここを出ても、私がこうして君の手を握っていてあげるから」

「約束……してくれる?」

彼は頷いた。



灰色の世界が揺らいで、彼が揺らいで、わたしが揺らぐ。悪夢が消えていく。彼の言葉を信じた訳じゃあないけど、熱の無い筈の世界で、その冷たい手を何故か温かく感じてしまったから、握り返してしまった。するとそのまま彼は笑って、わたしをそこから引き摺り出すのだ。酷い人!!


待っているのは、皓然たる夢の出口。






とある朝のことだった。目覚めると目の前に広がっていたのは見慣れた木の色で、染みの数まで覚えてしまったわたしの部屋の天井だった。それに、嗅ぎ慣れたオレンジの芳香剤の香り。電気は一番小さな灯篭の色が一つ点いているだけで、窓の外はまだ暗い。そうだった、思い出した。帰ってきたんだわたしは。帰らせられてしまったんだ。後悔の夢から。彼の居ないこの世界へ帰って来てしまってからもう何十回時計の針が回ったのだろう。

しかし彼を想って泣く前に、まどろんでいられた時間は終わってしまった。寝ぼけていた頭が序所に冷えていくと同時に、わたしの悲しみは虚しさに変わっていく。一体どうしてこんなに切ないのかさえ、分からない。どんな夢をみていたのだっけ?不思議と思い出せなくなっていく。どうして、こんなに寂しいのだっけ?何がこんなに、恋しいの?



「……嘘吐き」
何の感触も残らない手を天井に掲げると、虚しさがこみ上げてきて涙が滲んだ。わたし自身の言葉なのに、その意味が分からない。ただ誰かに、優しくて残酷な嘘を吐かれたような気がするのだ。しかしわたしは最初からそれが嘘だと知っていて、それでも全部わたしのための嘘だったから信じるしか出来なかった。そんな悲しいお話が、今まで読んだ本のどこかにあったのかな。わたしは誰も想えずに、自分の虚しさから流れ出た涙をひたすら溢れさせる。

「嘘吐き!嘘吐き!約束破り!!―――大っ嫌い!!」



「確かに私は嘘くらい吐くが、君との約束を破ったことは無いだろう。それでその言われは流石に酷いんじゃないか」
しゅるり、掲げた手をひんやりとした長い指が捕らえる。得体の知れない男の空耳に涙を流して、悲しい幻覚から目を瞑るとその目蓋に温かい唇がそっと寄せられた。そのやけにハッキリとした幻覚はわたしを抱きしめ、君をここから攫いに来たと言った。










「おはようございます」
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