「黄櫨くん、好きだよ」
夕日の一筋も射し込まない四六時中薄暗い図書館で、が心底幸せそうに頬を綻ばせて言った。黄櫨は表情も変えずに、彼女の淹れてきた紅茶とともにそれを飲み下す。喉元に骨が引っかかったような錯覚を覚えたが、何事も無い様子でやり過ごした。

「黄櫨くん、大好き」
毎日毎日、彼女は図書館にやってきてはそのような言葉を口にする。最初こそ驚いたものの、今となっては受け流すのもお手の物、と言わんばかりに黄櫨はページを捲った。しかし勿論だって、受け流されるのはお手の物だった。

「黄櫨くん、愛してるよ」
遂に、愛してるときたものだ。黄櫨は内心で大きな溜息を吐く。今までは好きか、またはそれに大がついただけの幼い表現だったものの、遂に愛してるまできてしまった。こうなってはもう、彼女の指し示す感情が何であるのか、誤魔化しようが無い。


「君は、何を考えてそれを僕に言うの」
「黄櫨くんのことを考えて言ってるよ」
「そうじゃないんだよ!」
黄櫨は、彼にしては珍しく声を荒げてしまった。それは非常に僅かな変化で、けれども彼の事をよく知るはそれだけでたじろいでしまった。黄櫨は少し居心地が悪くなり、視線を本に戻す。

そう、彼女は大きな間違いをしているのだ。だから僕は彼女が自身でそのことに気付くまで、このことを存在しない事のように素知らぬ振りでやり過ごさなければならない。
好きだとか大好きだとか、愛しているだとか。彼女がその言葉を、それに伴った感情を向けるのは、自分では無い筈なのだから。

「君はもっとよく考えるべきだよ」
僕ははじめから言っていたじゃないか。君が頼りにすべきなのは、誰なのか。どんなときでも傍に居てくれるのは、誰なのか。
一緒に居るようになってから少しだけ心を開いてくれるようになった友人は、君がこの世界に現れるよりずっと前から、君の事を話して聞かせてくれた。彼は本当に君を大切に思っていて、君だけを見てきたというのに、君がそれに応えず今ここにこうして居ることは、彼の気持ちを誰よりも知る僕にとって、とてもいい気のするものではなかった。
彼女にそれをさせている原因が僕自身であるということも、また頭を痛ませる要因の一つだった。


「ちゃんと考えてるよ。わたしは、黄櫨くんが好きで好きで堪らない」
「そう」
「本当だよ」
「そう」
こうなれば持久戦。彼女が諦めてくれるのを待つしかないのだと、黄櫨は単調な返事を繰り返す。それを数回繰り返すと、途端にが静かになった。流石に気になり、黄櫨が視界の端でちらりと様子を窺えば、彼女は俯いていて表情が分からない。彼女が泣くところなど想像も出来なかったが、その項垂れた姿のあまりに悲しげな様子に、黄櫨の良心が小針を刺したように痛む。一本どころじゃない、ちりちりと、何本もの小さく鋭い痛みが彼を襲った。

声を掛けずにはいられず、彼女の名前を呼ぼうとした黄櫨の口が言いかけたそのままの形で固まる。


「黄櫨くん、見て」

何を思ったのか、は俯いたままおもむろにシャツの前ボタンを外し始めた。黄櫨がぎょっと身を硬くする。ひとつ、ふたつ、男らしさを感じさせる潔さで、は既に肝臓のあたりまで肌を曝け出していた。普段は隠されていて日の当たらないその白い肌は、少し汗で湿っている。

「な、なに……」
「いいから」
顔を上げたの真剣な目に、黄櫨は慌てた様子で身を退いた。けれど彼の背はすぐに腰掛けた椅子の背もたれにぶつかる。あと少し勢いが付いていれば、椅子ごと後ろに倒れていたに違いない。しかし今の黄櫨にはそんなことを危惧する余裕は無く、ただ目の前の少女に目を奪われているしかなかった。

「見て」

時が止まったような気がした。もしかすると時間くんの仕業で、本当にその一瞬は時が止められていたのかもしれなかった。
の手が開かれたシャツの両側にかかり、そして、ゆっくりと左右に開いていく。黄櫨は目の前の光景のあまりの現実味の無さに、眩暈さえした。頭の中で、今まで感じた事も無いような混沌としたものが渦を巻いている。全身が熱くて、脳内がぐつぐつと煮えている。どうしたらいいのか分からない。体が動かない。手にしている本はずっと握り締めたままだし、目は全然逸らせないし、……彼女の一挙一動に心臓が跳ねた。

何でこんな事になってるんだろう。僕はいつものようにここで本を読んでいて、だっていつもみたいに僕に好きだとか大好きだとか、今日に限っては愛してるだとか言って、気が済んだらふらりとどっかに行っちゃうはずなんだ。それともなに?あんなに言ったのにまだ足りないの?もういいでしょ、どっか行って!!っていうか、君、子供の僕を相手になにしてるの!!

「黄櫨くん、ちゃんと、ちゃんと見てね」
一歩、が歩み寄る。開かれたそこには、二つの膨らみが片頬ずつ顔を出していた。

「ほら、ね。分かる?」
「な、なんなの!」
「わたしの心臓」
「………し、心臓?」
思いも寄らない言葉に、黄櫨が目を丸くする。

「触れなくても、見てるだけで分かるでしょ?わたしの心臓、こんなにドキドキしてるんだよ。黄櫨くんのこと想うとね、どうしようもなくこうなっちゃうの。どうしようもなく、好きなんだよ。本当に、大好きなんだよ」
も多少羞恥を感じているのか、瞳は潤んでいた。それを隠そうとしてるのか、少しだけ語気が強い。

「わわ分かったから!」
分かったから前閉めて……。と、消え入りそうな声で懇願する黄櫨に、は素直にボタンをかけ始めた。黄櫨はひとまず、息を吐く。

「ごめん。だって何言っても黄櫨くん、ろくに振り向きさえしないものだから。わたし黄櫨くんに気付いてもらえなかったら、存在してられないよ」

黄櫨はまじまじと目の前の少女を見た。この少女は、こんなことをする、こんなことを言う、こんな子だっただろうか。少なくとも初めて会ったときは、違った。あの時のは、物事をどこか遠くから見つめているような、掴み所のない人間だった。どんなときでも感情に波の立たない冷静な少女で、大人びた賢げな瞳をしていて、どんな相手にも毅然とした態度を貫いていた。凛とした少女だったと、思った。
出会ってから暫くして彼女のことをもっと良く知ると、実に可愛らしい少女だと思い始めた。誰より優しくて、よく笑う子だった。しかしやはり気丈な子で、泣いているところなんて見た事が無いけれど、誰よりも柔らかな女の子だった。

ああ……。目の前で、自身と大きく歳の離れた少年を相手に求愛行動に励む……この女からは想像もつかない。
いや、違う。は何も変わってはいない。僕以外の、…常盤やピーターに接するときは、は以前のままのだった。少しも変わらない。僕にだけ、僕にだけは狂ってしまった。

「そんなに見つめないでよ。全身の血液が沸騰してしまいそう。……黄櫨くんは自分の瞳がどれほど魅力的だか気付いていないんだね。ああ、そうか、それが黄櫨くんの罪なんだね」
「なにが」
「だって君、天国から追放されてきたんでしょ。羽はしまってあるの?わたしに隠させてよ、絶対に見つからないところに隠すから。それとも……切られちゃった?その時はさぞ痛かったでしょうに」


(も う 黙 っ て !)


黄櫨は小さな手で頭を抱えた。ちらりと窺い見ても、はさも平然とした顔でよく分からない口説き文句を延々と続けている。なんなのこの子!なんで僕はこんなに顔が熱いの!!

「……もう帰りなよ」
「……うん、そうだね!今日はこんなに幸せな時間をこんなにいっぱい過ごしたんだから、これ以上は幸せの上限振り切れちゃうね」
へらへらと笑いながら、は立ち上がる。静かに椅子をテーブルの下に押し入れてから、愛しそうに、寂しそうに黄櫨を見下ろした。

「黄櫨くん、愛してるよ」
その言葉は、重く彼に圧し掛かった。嘘ではないと知っているから、重かった。その先を知っている彼だから、あまりにも重く、悲しく、残酷だった。



「これからもずっと一緒に、こうしていようね」

その言葉を嘘だと気付いている彼と、叶わない事を知りながらも毎日のように繰り返し口にする彼女には、あまりにも悲しい空言。
少年は知っていた。少女がいつしか帰ってしまうのだということを。少女は違う世界の人間なのだということを。





(君は罪深く、君は羽衣を常に隠し持っている)




「待って、
扉に手をかけようとしたを、黄櫨が呼び止める。彼女の手を取ると、その手が温かくて安心した。僕がこんなにも想っているのだから、彼女がここに存在してはいけない理由なんて無い。

「どうしたの?」
僕から彼女に触れるなんてことは滅多に無いから、は驚いて冷静な大人の仮面を被ろうとした。違う!僕が見ていたいのは、僕を愛する為に、僕に愛される為だけに居る無鉄砲で仕方の無い君なんだ!
自分の中に隠していた気持ちを一度容認してしまえば、もうどこにも収まりきれない。(常盤、ごめん)

「見てるだけじゃ、分からなかった。触れてみれば分かるかも」
「え?」
「―――君の心臓。まだ、これっぽっちも伝わってないよ」
僕の言葉には、僕が心配になるくらいに顔を真っ赤にさせて、その場にしゃがみこんだ。

「………ああ、もう。振り切れちゃったよ。色々」



けれども想いは、繋がれば壊れてしまうもの。 inserted by FC2 system