Act9.「悪夢から目覚めたら」



黒い炎が燃えていた。
二日間、自棄になって彷徨っていた“平和な町”が、燃えていた。
夕方には賑やかに響いていた元気な子供の声が、夜にはつんざくような悲鳴に変わった。

日常の終わりには、予兆など存在しなかった。

突然黒い化け物が現れ、町に火を放つ。女性が捕まった。女性の目がまっくろだった。何も入っていなかった。潰れた。手が。足が。足が増えていた。三本の足の少女と一本の足の少女が泣いていた。母親を呼んでいた。けれどすぐに誰を呼んでいるのか忘れてしまったようで、呼ぶ人の無くなったその口はケタケタ笑い始めた。皆、変だった。カタチが、変だった。黒い炎、黒い化け物、まっくろ、変、変、変。
だから、逃げ出した。まだ二本の足で、逃げ出した。町の外れで、転んだ。地面に頭を打って、一瞬意識が遠のいた。気が付いた時、炎はすぐ近くまで迫っていた。逃げなくては、逃げなくては、逃げなくては。立ち上がろうとしたとき、炎で焼けただれた初老の男性が、呻きながらわたしの足を掴む。
男は、声にならない声で、確かにこう言った。

たすけてくれ、と。

わたしは男の背後に迫る黒い影に気付き、とっさにその手を蹴り飛ばしていた。男の目が絶望に染まる。思いもよらない自分の行動に動けないでいると、目の前で、男の頭が―――。

「……あ、」

知らない、知らない。わたしの所為じゃない。
どうせあの人は助からなかった。あんなに火傷を負っていては、逃げることもままならなかっただろう。だから、わたしは悪くない。悪くない、悪くない。

それから、わたしは振り返ることなく、走り続けた。心臓の軋む音がした。
わたしは自分を守るために、虚妄の盾を作る。曖昧なところ、矛盾しているところのないように、注意深く自分の世界を作り替える。

(わたしは、初めから町外れで眠っていた。この街は浮浪者が多く、治安があまり良くなかった。わたしは、“浮浪者の男”から逃げた。ひたすらに、逃げた。“男は追ってこなかった”。“空腹で走ることができなかったのかもしれない”。)

そうだ。わたしは、何も悪くない。

『うん。君は何も悪くないよ』
少年の声が凛と響き渡った。それはガラスが砕け散る音のように、透き通っていた。

『大丈夫だから。なんとかするから。大丈夫。大丈夫』 
それは、最近誰かから聞いたような言葉だった。そしてとても懐かしい。何度も言い聞かせるように繰り返される、無責任な、愛しい優しさ。

『だから君はもう―――』

細く真っ直ぐな黒髪が揺れる。少年はわたしのすぐ目の前にいた。その体は、ふわりと宙に浮いている。吐息がかかりそうな距離なのに、顔がよく分からない。少年の細く小さな手が、わたしの頬を撫でた。

『ごめんね』

そう言って悲しく微笑む、あなたは誰?



*



「酷くうなされてるねェ。可哀想に」
緑葉は穏やかなテノールの声で囁くようにそう言うと、労わるように、優しくの額に手を置く。しかし悪夢の中のにはその体温も伝わらず、なんの気休めにもならないようだった。

が意識を失った状態で帰ってきて、急いで医者を呼びに行こうと家を出た常盤の前に現れたのが、緑葉だった。緑葉は薬箱を背負い、「の看病に来たよ」と言うと、当然のように家に上がりこんで彼女を看始めた。そして、今に至る。
呼ばんとしていた医者は湖に住む赤毛の青年だったが、その彼に医術を伝授した緑葉ならば、彼女を任せて問題ないだろう。今は医者を辞め薬剤師に専念しているが、以前は知らない者が居ない程、彼は凄腕の医者だったのだ。そう考えて常盤は緑葉を受け入れたが、ピーターは彼を警戒しているようだった。それもその筈だ。緑葉は殆どの時間を森の中で過ごし、滅多に人前には現れず、自分から人を看るなんてことは考えられないような人物なのだから。

「大丈夫なのか、は!」
「常盤。病人の前では静かに」
緑葉は人差し指を口元に宛てて、やんわり咎める。それから眉を下げて、優しく告げた。

「大丈夫じゃないね。起こそう」
「えっ」
常盤、ピーター、黄櫨が、呆気に取られたような顔で緑葉を見つめる。緑葉は自分に向けられる視線に気が付かないとでもいうように、至極のんびりとした様子で、の頬を叩いた。

「お〜い」
やけに間延びした声。ぺしぺしと、赤く蒸した少女の頬が叩かれる。誰が止める間もなく、少女の虚ろな瞳が開かれた。

「おやァ、ようやく気が付いたかい?」
「………」
熱に浮かされたの瞳は、目の前の人物を映さない。それどころか、この世の何をも映していないようだった。緑葉はそんなの様子に、「ふむ」と考え込む様子を見せる。そしてそのまま、親指と人差し指で輪っかを作り、その中に彼女の頬をつまんだ。

「たこやき」
「何をやっているんだお前は!」
を覗き込んでいた緑葉の身体が、後ろに引っ張られて倒れる。緑葉の後ろでは、彼の長い三つ編みを鷲掴みにした常盤が仁王立ちしていた。

「病人の前で静かにしろと言ったのは、お前だろう緑!」
「いやァ」
尻餅をついた床から起き上がり、緑葉が再びに近づく。彼女の目は、ぼんやりと虚空を見続けていた。緑葉は片手を彼女の目前にかざして、意識の有無を確かめる。意識は覚醒しつつあるようだ。

「悪夢は身体に悪いからねェ。彼女がうなされているようなら、無理にでも起こした方がいい」
分かったね?と言う、彼にしては強めのその口調は、まさしく医者のものだった。

「夢は、身体に悪い?が倒れたのは……」
小さくそう呟いたのは黄櫨だった。緑葉は常盤の後ろから様子を伺っている小さな少年に目を細め、微笑を浮かべる。

「悪い夢と、そうでない夢があるんだよ少年。今回が倒れたのは、彼女が“見ていた夢”が直接影響してる訳じゃない。ただ、慣れない場所と環境に疲れて、加えて無茶をするから、身体が耐えられなくなったんだろうねェ」
彼女は肺炎になりかけている。正直、あと少しでも放っておいたなら、危なかった。そう言った緑葉に、常盤は俯いた。黄櫨は常盤の後悔が手に取るようにわかり、気遣うような視線を送る。そんな二人に、の方を向いたまま緑葉が言った。

「止めれば止める程、この子は無茶をするかもね」
「……あなたは、彼女のことを何か知っているんですか」
ピーターが緑葉に問う。彼が自分から緑葉に話しかけるのは稀なことだった。ピーターが知る限り緑葉も常盤同様に、この国に昔から存在している古株の一人だ。そのことが関係しているのか、常盤は緑葉を「緑」と親しげに呼び、いくらか気心が知れているようで、ピーターは緑葉が気に食わない。それは、ついこの間までに抱いていた感情と同じだった。

「何を持って知っているとするか、だねェ。まあとは、この間アリスの森で会ったけど」
緑葉はあくまで、緩やかに返す。その時が身じろぎし、全員の視線が彼女へ向いた。

、気分はどうだ」
「悪いに決まってるよねェ
「緑、お前には聞いていない」
そんな常盤と緑葉の言葉に応えることなく、は寝たまま、不思議そうに緑葉を見た。

「……せんせい、もりからでてはだめですよ。そとはあぶないから」

その言葉に、常盤と緑葉が動きを止める。は、困ったような顔で笑っていた。その表情は、別人のようだった。いち早く我に返った常盤が、に声をかける。

、君は……」
「……常盤さん?あ、頭痛い……あれ、緑葉さん?」
そう言ったは、いつものだった。常盤は安堵の息をつくが、それに僅かな落胆が混ざっているのを、緑葉は知っていた。
その様子を見ながら、ピーターは確信する。

には、何か隠された秘密があるのだと。
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