Act8.「Doctor.MOTHの診療所」



 煌びやかな空間から一転、モスに案内されたのは質素な部屋だった。壁も床も四方全てが白い。左奥に長方形のデスク。キャスター付きの皮張りチェア。右奥には簡易的な、恐らく診察用のベッド。ここが異世界であることを忘れるくらい、ごく普通の事務的な診察室である。
 モスはチャイナ服の上に白衣を羽織った途端、胡散臭さが薄れ、真面目な医者に見えた。長い三つ編みも仙人じみており、この道の達人のような……とにかく、それらしく見える。

 モスはまずだけを診察室に招き、医者らしい診察を――目にライトを当てたり、目の周りを触診したり、何故か聴診器で心音を確かめたり、脈拍を測ったりした。それからウンウンと唸り、結論が出たようで、部屋の外で待たせていた常盤達を呼ぶ。

 は思ったよりすぐに終わった診察に拍子抜けした。……何だか大事になってしまったが、もう目に痛みは無いし何事もないのだろう、と楽観的に構える。しかしモスは、想像の斜め上を行く診察結果を告げた。

チャン、呪われてるネ」
「えっ」
 驚きで声を上げたのはだけでなく、恐らくその場に居たモス以外の全員だっただろう。常盤、ジャック、黄櫨と……入口付近で待機している狸面まで、表情は分からないが全身で大袈裟に驚きを表現している。

「適当な事言って、脅かそうとしてるんじゃないよな?」とジャックがモスを睨むが、モスは顔色一つ変えず「ボクは白衣を着ている時は、嘘は吐かないヨ」と言った。は自分が話の中心にいる筈だが、他人事のようにしか思えず、反応に困る。

「の、呪い……って何ですか?」
「目に見えない強い力が、チャンの中に取り憑いてる。不要なものがキミ自身の精神や身体の活動を阻害してるんだヨ」
 そんなことが、先程のあの診察で分かるものなのだろうか? は自分の手首を握って脈拍を測ってみたが、よく分からなかった。

「呪いはにどう影響する? 原因はなんだ? 解く方法はあるのか?」
「常盤クン。そんないっぺんに聞かないでヨ。僕の口は一個しかないんだからネ」
 モスはキイ、と回転チェアを軋ませ、ぐるぐる回った。それは彼なりの思考方法なのかもしれない。チェアが止まると、彼は目が回ったのか「ふう」と額を抑えながら、入口の狸面に声を掛けた。

「ちょっと“色鏡”を持ってきてくれる?」
「ええ? ああ、はあい」
 間延びした返事をする狸面は、動き出しこそのっそり緩慢だったが、一歩踏み出してからは早かった。見た目通り忍者のような動きで姿を消し、すぐに戻ってくると、布に包まれた一枚の手鏡をモスに手渡す。モスが布をはぎ取ると、そこには桃色の塗料に塗られた鏡が現れた。
 “色鏡”。不思議の国で一般的に使用される、表面を見難く加工した鏡だ。それを見て、常盤が訝し気に問う。

「それで何をする気だ?」
「ン、心配しなくていいヨ。ボクは患者第一、マジメなお医者さんだからネ」
 はこれまでのモスの言動から、彼は医者であることに誇りを持っているのだろうと思った。信用できる人物かどうかは分からないが……まあ、今は一人ではないから大丈夫だろう。

 モスがゆっくり、鏡面をに向ける。楕円に切り取られた世界で、は桃色に染まった自分自身と目が合うことを、疑いもしなかった。しかし何故か焦点が定まらない。見ようとすればする程に気が遠くなる。ぼんやり視界に入る鏡面には、薄暗い深淵が続いているように感じられた。

チャン、何が見える?」
「……よく、分からないです。なんか暗くて……ずっと奥の方まで続いているみたい」
 錯視画を見ている時の、あの独特な気持ち悪さを感じ、は鏡から視線を逸らす。の言葉が想定通りだったのかモスは「ウン、ウン」と頷いた。

「普通の鏡じゃないのか?」
 ジャックがの隣に来て鏡を覗くが、彼には“普通”に見えているのだろう。を心配気に見て「お前、本当に大丈夫か?」と言った。「頭を打った覚えはないよ」とは返す。(そういえば、鯛のお頭がぶつかったような気がするけど)

チャンが受けた呪いは、鏡の呪いだヨ。キミの目に入った鏡の魔力が、この鏡とぶつかって合わせ鏡状態を引き起こしてるってワケ」
「鏡の呪い、ですか?」
「そう。今はまだ何も感じないかもしれないけど、キミの中に入った破片は序所にキミを蝕んでいくと思うヨ。鏡はキミを迷わせ、見失わせる。見えないモノが見えたり、現実と虚像の区別が付かなくなるかもしれないネ」

 モスの淡々とした言葉を聞いて、は既にこれが現実では無いのでは、と思った。もしそうだとしたら、一体いつからが虚像だったのだろう。

 は少し目を細め、もう一度深淵を眺めてみる。モスはこれを合わせ鏡だと言ったが、自分の知る合わせ鏡とは違う気がした。中心に自分が見えないから違和感があるのだろうか。

(どうして自分が見えないんだろう? 鏡って鏡に映らないのかな?)

「呪いを解く方法はあるんでしょ?」
 今まで部屋の隅で黙っていた黄櫨が口を開いた。囁くように小さくとも不思議とよく通る声。は彼の黄色い瞳と目が合い、息苦しさを感じた。黄櫨の平坦な表情はいつも通りだが、目の奥には何か強い感情が揺れて見えたのだ。

「呪いを解く方法は……まァ三つだネ。一つ目は、掛けた本人が解くこと。二つ目は、術者の存在を消してしまうこと。そして三つ目は、魔術療法で呪いの力を浄化すること」
「掛けた、本人……」
、フードの人物に心当たりはないんだろ?」
「うん……」
「犯人の手がかりがない以上、魔術療法とやら一択じゃないか?」
 しかし、モスは口を結んで眉を下げる。

「……できないのか」
 常盤の言葉に、モスは肩を落として元気なく頷いた。

「嘉月会には優れた魔術研究士がいっぱい居るけどネ……鏡の持つ不思議な力はまだまだ解明できてないんだヨ。……でも、多分、きっと、ヘイヤならチャンを助けられる。ヘイヤは誰よりも鏡に詳しい。鏡の特性や魔力の性質を知ってる。鏡を利用して、ゲートを作ったのもヘイヤだしネ」
「だから、そのヘイヤはどこに居るんだ」
 苛々した様子の常盤に、は首を傾げた。が居なかった時に、モスがヘイヤの居所をはぐらかしたということを、彼女は知らないのだ。

「ヘイヤは……」
 モスが遠い顔で、またキイ、と椅子を揺らした。見かねた様子の狸面が歩み出て、面の下から暗い声を響かせる。

「会長は……三日前から行方不明なんですよ」
 ふざけた喋りの狸面も、この時ばかりは真面目だった。



 *



 嘉月会の会長“三月ウサギ”のヘイヤは、今から三日前の永白に雪が降り始めた日、異常気象の原因を探る為に、冷気の中心であるタルジーの森へ向かった。そして、それきり戻らないという。嘉月会は彼を探すために何度か森へ人を送ったが、その者達も誰一人帰って来ていない。

 国の最重要人物であるヘイヤが行方不明であるということは、自国にも他国にも知られる訳にいかなかった。混乱や争いを招きかねないからだ。隠し通せる内に、嘉月会は何とかして自分達のボスを見つけ出そうした。しかしこれ以上無駄に行方不明者を増やすことも出来ず……困り果てていたところにやって来たのが、達だった。

 元々、モスは常盤を呼ぶことは考えていたらしい。バグや異変の解決には、修理屋である彼に助けを求めるのが最適だと思ったのだ。その彼が自ら、それも歴戦の騎士として名を馳せるジャック、彼が率いる騎士団まで引き連れてやって来たのは、モスにとっては鴨が葱を背負ってやってきたようなものだった。だからモスはすぐに、ゲートを開く判断を下した。

 どうにかして常盤達に、ヘイヤを探してもらえるよう話を付けなければならない……と思っていたところ、葱の中に換算されていなかった少女が想定外の事態を引き起こし、結果的にそれが彼らがヘイヤを探す一番の理由になった……という訳である。

「タルジーの森で迷子かよ……厄介だな」
「嘉月会から、森に詳しい者を数人付いていかせるヨ」
「副会長、今、僕のこと見ましたねえ」
 狸面はもう、のんびりした口調に戻っていた。彼は押し付けられるのが嫌なのか、頼られるのが嬉しいのか、どっち付かずの声で言う。

「黄櫨さんが居れば、僕らなんて要らないと思うんですがねえ。黄櫨さんは“勘”が鋭いですから、タルジーの森でも迷わないでしょお」
 狸面は妙に親し気に黄櫨の名を呼ぶ。が、黄櫨は何も聞こえていない顔でそれを無視した。
 狸面の言う“勘”とは、以前イレヴンス領がヴォイドの襲撃を受けた際に、千里眼のように遠くの状況をいち早く把握した黄櫨の“第六感”のことを指しているのだろう。

(黄櫨くんとこの狸の人は、知り合いなのかな?)
 いまいち、ここに居る人々の関係が分からない。に分かるのは一つ。自分だけが部外者で、完全なお荷物であるということだけだ。常盤に「危ないから、君はここで待って居なさい」と言われ、もそうする他ないと思った。……いや、それでいいのだろうか?

「この雪って、アリスの異変かもしれないんですよね? だったら森には、アリスに繋がる何かがあるかもですし、わたしも……」
「君も聞いていただろう? 森に行った者は、誰も戻って来ていないんだ。そんな所に君を連れて行く訳にはいかない」
 ばっさり切り捨てられ、はしゅんとする。浅はかだと呆れられただろうか?

(でも……)
 誰かが自分に呪いを掛ける目的を考えた時、それは二通りしか思いつかない。相手がこちらの事情をある程度知っていることが前提にはなるが……。
 一つは私怨。例えばまた、異世界人だということで恨みを持たれている場合だ。もう一つは……妨害。アリスを追う“白ウサギ”としての行動を、誰かが邪魔しようとしている場合が考えられる。これは裏を返せば、この異変にはアリスが関わっている可能性が高いということ。アリスに近付くチャンスである。

 しかしそうだったとしても、自衛すらままならない自分の存在は、確実に彼らの負担になってしまうだろう。やっぱり大人しく留守番をしているべきだろうな、とは俯いた。自身の――白ウサギの本能が“行かなくてはいけない”と告げていても、それに耳を閉ざす。

「ねえ、。あなたは行くべきだと思ってるんでしょう? ならちゃんと、自分の意志を口にしなくちゃ。遠慮するなんて、らしくないわ」

 雪の季節がよく似合う、涼やかで澄んだ声。耳に馴染んだその声が紡ぐ言葉は、すっと心に溶けていく。は、彼女の言う通りだと思った。それに“らしくない”ところを彼女に見せたくはない。

「……連れて行ってください。わたし、どうしても行かなくちゃいけない気がするんです」
 の言葉に、声として発せられた意志に、空気が変わる。のあるべきだという認識が、物語の展開に影響を与えていく。「それでこそね」と、彼女は満足気に微笑んだ。

「アー……ボクも、チャンは連れて行った方がいいと思うヨ。ヘイヤに会ったらすぐ呪いを解いてもらうべきだし、今のチャンは何か目的を持っていた方が、自分を見失わずに済むんじゃないかな。またフードの男? が出てきても、ボクらじゃ守りきれないかもしれないしネ」
 思いがけないモスのフォローに、はうんうん頷いて、訴えるように常盤を見た。行くべきという使命感が八割、ここに居たくない気持ち……二割である。怪しげな魔窟で、不気味なお面男達に囲まれていたくない。

「出来るだけ邪魔にならないようにしますから……お願いします。連れて行ってください」
 懇願するに、常盤は言葉を詰まらせる。ジャックは少し考える様子を見せたものの「まあ、いいんじゃないか?」と賛同した。彼が王から命じられているのは、白ウサギとしてののサポートである。の身を案じていない訳ではないが、彼女には動いてもらわなければならないのだ。

「俺らが傍に居れば大丈夫だろ」
 ジャックは常盤の肩に手を置いて、宥めるように言う。常盤は軽くそれを振り払い「大丈夫だった試しがない」と言ったものの、それ以上反対することはなかった。

 はひと安心して、背を押してくれた彼女の方を振り返り――その目は対象を見失った。

(あ、あれ? わたし、なんで……誰が居ると思ったんだろう?)
 つい先程まで居た誰かが、すっかり消えてしまったかのような喪失感。もしかすると呪いによる幻覚や幻聴が始まっているのかもしれない。が、それを誰かに話す気にはなれなかった。この感覚は人に教えたくない、自分だけの大切な宝物だと思えたのだ。心は妙に温かく、静かな喜びに沸いており……失ってしまった寂しさを抱えている。

 切なげに目を伏せるを、黄櫨は黙って見つめていた。先程上から飛び込んで来た時には、弾丸のような力強さを感じた少女。呪いを受けたと聞かされても、どこか平然とした様子で話をしていたが……しかしそれが全てではない。本人が自覚しているか定かではないが、黄櫨には不安に揺れるの心の奥が見えていた。
 しかしそれが今、突然に収まった。彼女の瞳が何を見ているのか、心が何を感じているのか、さっぱり分からなくなる。

 人の機微に敏感な黄櫨は、自分が見通せない相手が苦手だった。知らない内に、どこかで勝手に傷付いて、壊れてしまうかもしれない。

(僕はもう……絶対にから離れない)
 書斎でも、街でも、自分がもっと上手く立ち回ればは無事だったかもしれない。黄櫨は決意を胸に、その小さな拳を握り締めた。 inserted by FC2 system