Act8.「決壊」



色が無いような気がしていた。暗くて、ぼやけていた。そんなはっきりしない世界で、白いウサギの赤い瞳だけは鮮明だった。射し込む光なんてどこにもないのに。


「何してるの?」
ぼんやり立ち尽くすは、ピーターのその問いかけにすぐに反応出来なかった。彼が紡ぎ出した言葉という事象だけが目の前に浸透していって、遅れた頭がそれを追う。
わたしは、何をしているの?

「……そっちこそ、何してるの?」
問いかけに問いかけ。けれど多分、彼には届いていない。だって、上手く声が出なかった。ここずっと、人とまともに会話をしていなかった所為だろう。は貼りついた喉を唾液で潤して、半ば叫ぶように声を張り上げる。

「別に、何もしてないよ!」
二度目の返事は、一度目と内容が変わってしまった。問いかけに問いかけなんて、不毛なことだと気が付いたからだ。今度は、しっかりと彼に届いたようだった。の震える声に、彼が怪訝な顔をする。

「何も?」
「そうだよ!何も、何もしてない」
自棄になっていた。みっともない。殆ど八つ当たりだ。今のわたしの状態を、論理的に根拠づけて述べることなど確実に不可能だ。意味が分からない。

「君は、アリスを探しに行ってたんでしょ?違うの?」
苛々した。ピーターの口調に、どこか諭すようなものを感じて、自分の愚かさを思い知らされているようで、苛々した。

彼は、わたしを馬鹿にしているんだろうか。
彼はきっと、わたしが一人で森に飛び出して行った事を知っているのだろう。そして、みすぼらしいボロボロの私が雨に打たれているのを見て、それでもなお、分からないというのか?それとも言わせた上で、侮蔑の言葉でもくれるというのか。

「何が言いたいの?何もしてないって言ってるのに。……何かしたい気持ちだけで、何もできなかった。結論からいえば、わたしは何もしていないも同然じゃない!」
は、骨を伝って届く自分の声が耳障りで、顔をしかめた。悲鳴に近いの声に、ピーターが驚いたように、少しだけ目を見開く。それから、本当に不思議そうに言うのだ。

「……どうして、君がそこまで必死になるの?」

は、心臓を杭で撃たれたように、一瞬、何も言葉が出てこなかった。胸のあたりで、色々なものが一気に出口へと押し寄せて、詰まっている。しかしそれは、一度つついてやれば次から次へと溢れ返るのだ。

「どうして……だって?そんなの、わたしが聞きたいよ。どうして、あなた達は、そんなに平然としてられるの?自分たちのことでしょ?どうでもいいの?なんで―――なんであなたがそんな事を言うの!?」
は堪らなくなって、そのまま歩み寄り、彼のシャツに掴みかかる。振り払ってくれればいいのに、とは思うが、ピーターは戸惑うように彼女を見つめるだけだった。

「あなたが連れて来たくせに。わたしを。この国を救うために!そんな大層なことできそうにないって見て分かるくせに!どうしてそこまで、なんて、よく言える!それはこっちの台詞だ!」
それが、しっかりと言葉になっていたかどうかは自信がない。感情のまま出てきた言葉は、思考を鈍らせていく。気を抜いたらそのまま、泣いてしまっていただろう。だが、そこまで無様な姿はさらせない。それ位の意地は、残っていた。

「わたしは、嫌だ。……このまま忘れちゃうなんて、消えちゃうなんて、絶対に嫌だ」
危険なことも多々あるけれど、色鮮やかで、幻想的で、夢のように不思議なこの世界。

最初は右も左も分からなくて、不安でどうしようもなかった。けれど、ここで色々な人たちに出会って、……認めるのは怖いけれど、いつの間にか、愛しさが生まれた。
彼らが大切な人たちと過ごすその時間を、壊されたくないと思っている。
そしてわたしも、彼らと過ごした時間を忘れたくない。彼らにも忘れて欲しくない。

アリスの企みが成功することなど、あってはいけない。
それを許してはいけない。認めてはいけない。
認めることは、自らの全てを無くしてしまってもいいと放棄することと同義だ。

「だから…絶対にアリスを……」
怒りをぶちまけたら、残ったものは悲しみだった。
わたしにはどうにもできないのに、どうにかしないと、橙のように、“日常”を壊されてしまう。壊されてからでは、もう二度とやり直すことなどできない。あの時の、突然親友を失った橙と、一体化していた時の感情が蘇る。理不尽な悲劇は駄目だ。この世界に1ミリでもあったら、駄目なんだ。

「行かないと……」
そう言っただったが、体力は既に限界を迎えていた。しかし、朦朧とする意識の中でもただ一つ確かな焦燥感が、彼女を突き動かす。は彼を掴んでいた手を放して、背を向けた。
……少しでも彼らの元に戻りたいと思ってしまった、自分の甘えが憎い。駄目だ。時間がないんだから、少しだって無駄には出来ない。

、」
進もうとしたの腕をピーターが掴み、引き止める。その肌の冷たさに、ピーターは眉を顰めた。

「今の君には何もできないよ。そんなにふらふらした状態で、どこに行くっていうの」
「離して」
「無理。君をこれ以上行かせるわけにはいかない」
「どうして!」
がピーターを睨む。どうしてかと問われ、彼は答えを出せないようで、困ったように視線を逸らした。

「とにかく、君には休息が必要だよ」
「休んでる暇なんてない!もし、もしわたしが寝ている間に全てが終わってしまったら、どうするの!!」

「……大丈夫だから」
「何が!」
「その時は、僕がどうにかするから」
「……どうにか、って……なにそれ」

言ってしまった彼自身が、自分の言葉に一番驚いているようだった。は何故かその無責任な言葉に脱力してしまい、そのまま―――倒れこむ。その体を、ピーターが掴んだままの腕を引き寄せるように抱きとめた。

浅い呼吸と苦しそうな彼女の表情に、急いで彼女を抱き上げると、ピーターは来た道を引き返す。
先程出てきたばかりの家に戻ると、乱暴に開けられたドアの音に何事かとやってきた常盤と黄櫨が、抱えられたの只事ではない様子に慌てて、介抱の準備を始める。

ピーターは、を彼女の部屋のベッドに横たわらせてから、すっかり濡れてしまった自分の頭をタオルで拭いた。黄櫨は冷たい水を汲みに行き、常盤は医者を呼びに行っている。今この部屋には、ピーターとしか居ない。

苦しそうに息をする彼女の、額に貼り付いた前髪を指で横に流す。

「……」
彼女と接していた先程の自分を思い返すと、まるで別人のようにしか思えない。あんな雨の中、彼女の為に足を止めて、彼女の身を案じ、引き止めた。普段の自分なら、絶対にし得ない行動だ。

……罪悪感だろうか。彼女をここに連れてきてしまったことへの、罪の意識だとでもいうのだろうか。
彼女を選んだのは時間くんで、僕はそれに従っただけで、別に彼女が上手くやることを期待していたわけでもなく、この世界が終わるなら終わるだろうと思っていたし、彼女が途中で尽きたとしても、知ったところではないと、そう考えていたというのに。

『わたしは、嫌だ。……このまま忘れちゃうなんて、消えちゃうなんて、絶対に嫌だ』

彼女の言葉が蘇る。まさか、あの少女があんな顔をするとは思わなかった。青薔薇の一件でも、時計塔でも、彼女はどこか飄々としていて、凛としていた。何事にも動じないような冷静な瞳で、確固とした強い意志で、彼女の思うように事を進めてきた。
彼女があんなに弱く脆いだなんて、夢にも思わなかった。

(なんで“どうにかする”なんて言っちゃったんだろう)
嫌っている面倒事に、自ら首を突っ込んでいってしまうなんて。その気もないくせに愚かだ。


「や、だ……」
「……?」
起きたのかと思い名前を呼んでみるが、深く落ちた彼女の意識が浮上する様子はない。

「いや、だ」
夢の中でも悪夢が続いているのだろうか。気の毒に。ピーターは、濡れた髪を拭くために肩に掛けていたタオルで、滲む彼女の汗を拭いながら、もう一度彼女の名前を呼んだ。に、反応はない。
目覚めるのと、夢の中とでは、どちらがマシなのだろうか。

それから間もなく、洗面器を持った黄櫨がやってきた。洗面器には氷水が張られている。その氷のかちゃかちゃとぶつかる音で、ピーターはの、一際小さな寝言を聞き取ることが出来なかった。



「―――もうやめて、×××」
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