Act7.「艶やかな芋虫」



 飛び下りから着地までは、ほんの一瞬の出来事だった。硬いどこかに足が着き、足首のジンとする痛みと共に、恐怖が遅れてやって来る。宙に取り残してきた心臓がボトリと落ちて戻ってきたように、今更早鐘を打っていた。体がカッと熱い。しかしゾッと冷え切っている。それは間違いなく、生きている実感だ。
 天幕が丁度いい強度で張られていたことが幸いだった。跳ね返り過ぎることもなく、落下の衝撃を緩和してくれて、おかげでは無事でいる。

(それで……なんで魚の頭が降ってくるんだろう? 鯛のお頭?)

!」
 誰も何も言えないでいる中、最初に我に返ったのは常盤だった。よく知る声に呼ばれ、は幾らか安心した顔で辺りを見回す。そして自分が、その場の全員から注目を浴びている状況だと気付くと、急激に恥ずかしくなった。慌てて誤魔化すように笑う。

「ははは……あれ? 常盤さん達、どうしてここに?」
「それはこっちのセリフだぜ。何してんだよ……本当に」
 ジャックが驚いた顔のまま、呆れた声で言った。はとりあえず、この見世物状態から脱しようとテーブルを下りる。と、付けられたままの首輪の鎖がじゃらりと音を立てた。それに顔色を変えた常盤がの肩を掴み「何をされた?」と詰め寄る。「えっ、えっと、」と答えに窮するの後ろで、彼女の知らない声がした。

「ド派手な登場、お見事! キミがチャンだネ? ようこそ嘉月会へ」
 が振り返ると、そこには一人の男の姿。男は丸いサングラスをカチューシャのように頭の上に上げると「ハジメマシテ」と無邪気な笑顔を浮かべた。カラシ色の丸い瞳には、その幼い表情とはかけ離れた艶やかさがあり、妙な色気を感じさせる男だった。

 男の首横から腹まで垂れる、長い一本の三つ編み。妖しげなライトに照らされてまだらになってはいるが、その髪は鮮やかな黄緑色をしている。服装は、立ち襟と紐結びの飾り釦が特徴的な、生成色の中華服。……何故チャイナ、とは思ったが、曲解された胡散臭い和の世界観には妙に合っていた。それよりも疑問なのは、男が手にしているモノである。まるで煙管のようにふかしているそこからは……シャボン玉が出ていた。プカプカと虹色の泡が宙に浮かんでは、どこかにぶつかってパチンと消える。

(なんだ……このふざけた人は)という疑問が顔に出ていたのか、男は名乗った。

「ボクは嘉月会の副会長。芋虫のモスだヨ」
(芋虫? ……きっと、アリスネームだ。不思議の国のアリスに出てくる、キノコの上で水パイプを吸っているあの芋虫に違いない)
 水パイプに飽きてしまったから、シャボン玉なのだろうか? は自分の顔の方に飛んできたシャボン玉を指で弾いた。

「ところで、なんで上から降って来たのカナ?」
「えっと……逃げて来ました」
 嘉月会の副会長ということは、自分を捕らえたあの二人の上司なのだろう。捕まえた側の人間に、堂々と逃亡を告げるのはどうかと思ったが、とりあえず事実を述べる。

「あー……キミには手を出さないように、言っておいたんだけどネ。遅かったカナ? ゴメンヨ。うちは手荒で悪趣味な子が多いからネ」
 独特なイントネーションの喋り方は、わざとらしい“エセ外国人”風だ。モスは困り笑顔を浮かべながら、が飛び込んできた軌道線を追うように、上を見上げる。も彼に倣い上を見ると、そこには二度と見たくない鳥の面二人組が、上階からこちらを窺っていた。
 の表情から何かを察した常盤が「あいつらが君を傷付けたんだな」と殺気立ち、コートの下から銃を取り出す――が、モスが勢いよくシャボン玉を吹いて彼の視界を邪魔した。

「何の真似だ」
「まあまあまあ、穏便にネ。うちの子達には、ちゃんとお仕置きしておくから。それよりチャン、怪我はしてない?」
「怪我は、してないです」
、」
 常盤が窘めるように呼び、彼女の手首にそっと触れた。そこはつい先程まで縄できつく縛られていた所為で、赤くなっている。ジャックも気付いたようで「大丈夫か?」と心配そうに覗き込んだ。はこれまでのことを思い返すと、盛大に心配してもらってもいいのではないかと思ったが、自分の存在が彼らに手間を掛けさせるのが居た堪れない。
 気まずそうにしているに常盤は「他に怪我はないか?」といくらか優しい口調で尋ねながら、その首に掛かったままの首輪を外した。それは鍵の付いていない、ただ相手を辱めるような簡易的な首輪である。ジャックが顔を顰めた。

「本当に悪趣味だな。言い訳があるなら、聞くぜ?」
「いや、聞く必要はないだろう」
 ジャックと常盤は、を後ろに庇ってモスと対峙する。には、彼らがどんな顔をしているのかは分からなかった。一触即発な雰囲気に、モスが「アラマー」と困り声を上げるが、その声には全然焦った様子がない。

「でもサ、疑わしきは罰するボクらだからサ、仕方ないんだヨ。キミが容疑者であることに違いは無いんだからネ。魔力の検知量が異常値だったんだカラ」
「我々の街で勝手な事をされては困りますねえ」
 モスの後ろで、狸面が同調するように言った。

「あ? に何が出来るっていうんだよ」
 ジャックのその反論に、は複雑な気持ちになった。他意はないのだろうが……何も出来ないと言われているような気持ちになる。

「それに、巻き込まれたのはこっちだぜ? なんだよあの騒ぎは。自警団サマは冬眠でもはじめたのか?」
「うう。それを言われると耳が痛いですねえ。面目ありません」
「元から面(ツラ)を隠してるだろうが。……暴れてたヤツら、ただの酔っ払いって感じじゃなかったぜ。変な薬でも出回ってるのか?」
「ううーん。その手のものは、ちゃんと取り締まってますよう」
 ジャックと狸面の男が騒動について話していると、モスが大きなシャボン玉を彼らの顔めがけて飛ばす。狸面の方は顔は見えないが、二人とも鬱陶しそうにそれを払った。パチン、と泡玉が弾ける。

「レディーファースト! チャンの話を聞いてみようヨ」
「あ、有難うございます」

 ようやく話を聞いてもらえる時が来た。はとりあえず、街で騒動に巻き込まれた後から順に、分かる範囲で話すことにした。

 騒動の最中、人混みの中に知り合いの少女の姿を見つけ、彼女に連れ去られたこと。彼女が実は全くの別人で、黒いローブを纏いフードで顔を隠した男だったこと。その男に目の前で、鏡のようなものを割られたこと。

 鏡が割れた後は――サイレンが鳴り、嘉月会の二人組に連行されたこと。そこからここに飛び込んで来るまでの詳細は、思い出すことも、人に知られることも嫌で、出来るだけ大したことが無い風に話した。実際、酷い拷問や辱めは“まだ”受けていなかったのだから。(彼らの信条を借りるなら、未然でも罪なのだろうけど)

 口に出して語り終えると、妙に気持ちが落ち着いてきて……は全て夢だったのではないかと思った。いや、それではここに至るまでの辻褄が合わないのだから、やはりあれは現実だったのだ。
 冷静になると、客観視もできるようになる。あの男が橙の姿を模していたのは、恐らく自分を油断させるためだったのだろう。たまたまあの騒ぎで常盤達から引き離されてしまったが、そうでなかったとしても、橙の姿なら誘き出されていたかもしれない。
(ということは、男はわたしと橙の関係を知っているということになるけど……)

「フードの男? 水晶には、あなたの姿しか映っていなかったんですけどねえ?」
 狸面が疑わしそうに言う。は水晶とは何か? と疑問を抱きつつ「でも、本当なんです」と訴えた。常盤かジャックが自分が連れ去られるところを見ていないか、と思ったが、彼らも誰も見ていないらしい。あの騒ぎでそれどころではなかったのだ。
 は自分への疑惑を晴らすにはどうすれば、と悩んだが、意外にもモスはを敵視しておらず「大変だったんだネ」と労いの言葉をかけた。

「水晶に映らないように、姿を隠す魔術を使っていたのかもしれないよ。ホラ、見てここ。雪の上に足跡が出来ている」
 モスはそう言って、どこからともなく占い師が使うような水晶玉を取り出すと、その中を覗き込む。が身を乗り出そうとすると、彼はそれを卓上に置いて見やすくしてくれた。は水晶玉の中に映る数刻前の自分の姿に、まるで録音した自分の声を聞いているみたいな違和感と羞恥を覚えつつ、確かに他の誰の姿も映っていないことを確認した。

 水晶の中で再生される映像。ふと、の目の前に白銀に光る大きな板が現れ――割れた。破裂音と共に映像がぶれる。がたがた揺れる映像の中で、目を抑え蹲るを見て、常盤が息を呑んだ。

、大丈夫だったのか? 目に入ったりは、」
「……ハイリマシタ」
「何でもっと早く言わないんだ!」
 の言葉に常盤が腰を浮かせ、彼女の瞳を心配そうに覗き込む。は至近距離で見つめられ、こんな状況にも関わらず動揺し、それを悟られない内に顔を背けた。背けた先には……いつの間にそこに居たのかモスがしゃがみ込んでおり、彼もの目をじっと見ている。モスがに近付いたことに、ジャックは「おい」と警戒を露わにするが、モスは意に介さない。

「ボクはお医者さんだからネ。診てあげるよ。明るい場所に行こう」
 そう言ってを立たせるモスに、今度は黄櫨が「ちょっと」と抗議の声を上げたが、常盤はそれを手で制止した。

「こいつが医者なのは事実だ。腕も立つ。だが……少しでも変な真似をしたら、分かっているだろうな?」
「ハイハイ。全く、信用があるのか、無いのか、分からないネ」
 モスが肩を竦める。
 は、常盤がそう言うならモスに委ねてみるべきだろうと思った。それに……医者と名乗った時のモスの顔は、それまでのふざけた様子とは打って変わって真面目なもので、まさに医者らしく見えたのだ。 inserted by FC2 system