Act7.「雨降る夜に」



「なんで、あの子をそのまま行かせたの?」
ピーターのその言葉は、常盤を責めるものでしかなかった。常盤はその問いには答えず、窓の外に視線をやっている。黄櫨はそんな二人の後ろで、壁を背に床に座り込み、本を読むふりをしていた。

ピーターが彼らの家を訪れるのは、三日前にに手紙を届けに来て以来だった。何の前触れもないのはいつも通りだが、用事が無いにしてはやけに間隔が短い。いつもは来る度に黄櫨が「定期的にちゃんと顔を見せに来ること!」と説教しているくらいなのだから。

「一人でこの国を歩き回らせるなんて、彼女を殺す気?」
ピーターは来て早々に姿の見えない彼女のことに気が付き、彼女がここにいない理由を常盤の口から聞き出して、何故彼女を引き止めなかったのかと、責めている。
ピーターは彼女がここを出る際、常盤がその瞬間に立ち会っていながらも見過ごしたその“真意”を、疑っているのだろう。黄櫨はページを捲る音で、何も聞こえないふりをし続けた。

「あれだけ優しく振る舞って、心配しているように見せかけながら、君は結局彼女を突き放しているよね」

黄櫨は二人の間に張りつめた空気に、違和感を覚えていた。元から時々言い合うこともある二人だったが、今回は今までとは、明らかに何かが違う。そして変化があったのだとすれば、それは恐らくピーターの方だ。だって、今までどんな時だって、彼が常盤をここまで“敵”にすることは無かったのだから。

「中途半端に優しくして、彼女の話は聞かないし、彼女に何も話さない。当たり前に抱く筈の疑問も、抱かせないようにした。……最初からおかしいと思ってたんだ。人嫌いの君が、他人にあんな風に接する事自体が。一体君は何を考えてるの?」
何を言っても、常盤が彼の方を振り返ることは無かった。ピーターは呆れたように溜息を吐く。ふと、視線を感じて振り返った彼の赤い瞳が、黄櫨の黄色い双眸と重なった。不器用な盗み聞きと心配する様子を見せられて、ピーターはやれやれともう一度溜息を吐く。

「何を考えてるのか知らないけど、ジャックの二の舞にはならないでよね」
彼は最後にそれだけ言い放つと、部屋を出て行った。その言葉は忠告にしては鋭く、強い口調だった。

静かになった部屋の空気は、張りつめていたものが一気に雪崩を起こしたみたいに重々しい。窓辺に立っていた常盤は、近くのソファに乱暴に腰かけた。

「……私が彼女を殺すだと?ふざけるな。何も知らないで、勝手に連れ込んだのは誰だ!」
ぼやくようにそう零す常盤に、黄櫨は所在なさげに手元に収まっている本を閉じた。

に関する事情は、常盤が唯一その話をしただろう自分でさえ、ろくに知らない。ただ分かるのは、彼があの少女に向ける感情には何の謀りも無いということだけだ。

(、君は本当に、色々なものを壊していくね)

顔の前で指を組み合わせて、苦しそうに目を瞑り顔を伏せている常盤が、黄櫨にはまるで何かを祈っているように見えた。

ぱらぱら。聞きなれない音に、黄櫨は窓の外を見る。

「……雨?」
無数の透明の線が、地面を打ち付け、跳ね返る。見る間にそれは激しさを増していった。

(この国に雨なんて、何十年ぶりだろう。ピーターが風邪をひかないといいけど)


……」
雨音で顔を上げた常盤は、少女の名を紡いだ。この雨が、彼女を自分の元へ帰してくれることを願って。



*



走る。走る。走る。はひたすら、脇目も振らずに走り続けた。息は切れて、眩暈で今にも倒れてしまいそうで、視界では輪郭のぼやけた天と地が渦巻いている。


常盤の家を出た日から、今日で三日になる。一日目の夜にアリスの森を出て一つの小さな町に辿り着き、それから二日間、その周辺を探索していた。結論から言えば、収穫はゼロ。あんなにとんとん拍子に進んでいたアリス捜索が信じられないほど、なんの進展も無い。
結局今まで上手くいっていたのは自分の力では無いのだと、自分一人では何もできないのだと、泣きたくなる思いだった。

そうして今夜も何も得られないままに夜中になり、は昼食の残りの半分のオレンジを食べ、使われていない町外れの建物の柱で仮眠を取っていた。ここ数日は極端に食欲不振が続いており、一日かけて一個のオレンジを食べ切る事がやっとだった。しかし、ろくに何も入っていない筈の胃袋は泥水を流し込まれたみたいに重たく、気持ち悪い。

全身にのし掛かる不快感に怯え、耐えるように自身を抱いて浅い眠りに落ちていたは、ふと自分の上に出来る影に目を開ける。

そこには初老の男が一人、嫌な笑みを浮かべてを見下ろしていた。男は浮浪者のような身なりをしている。……想定していなかったわけではない。そもそもこの町は浮浪者が多く、治安があまり良くない。その男の姿を認めた瞬間、どうすればいいか考えるよりも先に、身体が動いていた。ひたすらに、逃げた。亀太郎から逃げたように、ただ、逃げた。
男は追ってこなかった。痩せぎすの男だ、空腹で走ることが出来なかったのかもしれない。しかし、がそのことに気が付いたのは、街を出てからだった。

見慣れない景色ばかりで、自棄になって、ひたすら進み続けた。
ひどく疲れていた。心も身体も、疲れ果てていた。相変わらず頭はぼんやりし、喉はズキズキと痛み、鼓動は早く、もう自分が病人であることを認めざるを得なかった。それを改めて認めた瞬間、突然心細くなって、目の前が滲む。偉そうなこと言って飛び出してきたくせに、結局何もできない。時間がないのに。これじゃあきっと間に合わない。わたしの所為だ。わたしの所為で、みんな、もう大好きな人たちに会えなくなっちゃう。大好きな人との思い出を、無かったことにされちゃう。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。わたしの所為だ。わたしがもっとちゃんとしてれば。ごめんなさい。謝りたいのに、謝れない。常盤さん、ごめんなさい。夜には帰るなんて嘘を吐いてしまって、ごめんなさい。心配かけてごめんなさい。本当は何度も帰ろうと思ったのだけど、道が分からなくなってしまったし、あんなこと言った後で今更帰れないよね。ごめんなさい。亀太郎くんも、緑葉さんも、嫌な子だったでしょう?二人は優しくしてくれたのに、ごめんなさい。

「……ごめんなさい」

心細くて、寂しくて、泣きたくなってきた。
着替えたい。髪をとかしたい。お風呂に入りたい。ベッドでぐっすり眠りたい。喉が渇いた。炭酸が飲みたい。ゲームがしたい。漫画が読みたい。テレビが観たい。パソコンがしたい。コンビニ行きたい。学校行きたい。電車乗りたい。遊びたい。家族に会いたい。つまらないことで怒られて、つまらないことで笑い合いたい。友達に会いたい。紫に会いたい。紫とカラオケに行きたい。
誰かと、話したい。

気が付けば、周りの風景に既視感を抱くようになっていた。知らないようで、知っているような感覚。道の脇にある森は暗くて中がよく見えないが、その深い緑と背の高い木々は……何度か入ったことのある森のものによく似ている。
の足は自然とそちらに向かっていった。

それからその森を抜けるまでの記憶は曖昧だ。ただ、この森が何度か訪れたことのある「恒久の森」という名前の小さな森であったと気付いた頃には、身体はすっかりそこを抜けていた。森を抜けると、石畳の道が通っている。ああ、私はここを知っている。この道が続く場所を知っている。もう少し歩けば……

ぱら、と、頭上に何か冷たいものが落ちてきた。さっきまで森の中に居た所為で気付けなかったが、空気が随分と湿っぽい。

「……雨?」
その問いかけに答えるかのように、大粒の滴が彼女へ降り注ぐ。あっという間にバケツをひっくり返したような勢いに変わったそれに、は力ない笑みを浮かべた。
なんだか悲惨だ、とは自身を雑に形容する。水を含んだ服は一気に重くなり、上手く身体が動かない。冷たい水が肌を打ち付けるたび、体温が奪われていく。

(何してるんだろ……馬鹿みたい)
本当に馬鹿みたいだ。どうして自分はこんなにも、上手くやれないのだろう。いい加減、嫌になる。

一歩、また一歩と足が前に動く。どこへ向かうつもりだと言うんだ。自分で出てきたくせに。こんな状態で、何を求めると言うんだ。
心配を掛けるだけなのに。迷惑を掛けるだけなのに。

大音量の雨音に混じって、カツ、という足音が、微かに聞こえたような気がした。それは自分のものではない。地面を見ていたが顔を上げると、


「……ああ」


赤い双眸と、視線が重なった。
inserted by FC2 system