Act6.「森の薬剤師」



「おかえり、
緑色の髪の男は再度、そう言った。は何が何だか分からず、とりあえず退いてくれるように懇願する。男は不思議そうな顔をしていたけれど、必死な様子のを見て、ゆっくりと離れてくれた。

「なるほどね。“女を見なかったか?”か……。確かにもう、女の子って感じじゃないね」
まじまじとを眺めながら発せられたその言葉は、に二つの感情を抱かせた。
まず、一つ目が恐怖。誰かが自分を探しているのではないかということに対しての、恐怖だ。今、ここでわたしを探しているといったら、それは先程の青年ではないだろうか。あんな事をされて、あんなことをして、そんな相手との再会ほど恐ろしいものはない。
二つ目に湧いて出たのは……

「あなた、わたしを知ってるんですか?おかえりってどういうこと?“もう女の子って感じじゃない”って……昔、わたしはあなたと会ったことがあるってこと?」
真実への欲求だ。
常盤にずっと遠ざけられてきた“自身”の真実は、彼と居る時間が経つにつれて、の中で、いつの間にか触れてはいけないことのようになってしまった。否、そう誘導されてきたのだ。紫が、彼女を夢物語から遠ざけたように。
だが、この男は違う。隠す様子など一切無く、に関する重要そうな事柄について、軽い口調でぽろりと述べるのだ。この男からなら、何か聞き出すことができるかもしれない……!

「君がそう思うなら、そうかもしれない」
その返答に、は一瞬言葉を詰まらせた。自分から情報の一部をひけらかしておいて、是も非もない曖昧な返答はいささか無責任に思える。しかし、至って冷静に受け止めることができた。自分でも驚くくらい、今は落ち着いている。眠りに着く前までは、ここに来るまではあんなにもざわつき、気持ちの悪かった胸のあたりが、波一つ立っていない。それは、この空間の所為だろうか。

「では、わたしとあなたは、以前に会ったことがあるのですね」
「君がそれを真実にするなら、それもいい」
「真実なんて勝手に作れません。事実はどうなんですか?」
「事実なんてどうでもいい。大切なのは真実だけ」
緑の男はきのこの上で胡坐をかいて、余りある大きな袖の中に、腕組みをするようにして両腕をしまいこんだ。彼の着用している朽葉色の服はチャイナ服のような作りをしており、三つ編みに結われた髪型ととても合っている。その線の細さと美しさは、一見女性と見紛う程だ。
は女性としての矜持を刺激され、身なりを整えて座り直し、彼と向き合った。二人で座っているというのに、このきのこの上にはまだ余裕があるようだった。

「真実と事実の違い、ですか?わたしは、どちらも同じものだと思いますけど」
「違うね。事実なんて、真実を構成する要素の一つにしか過ぎない」
「……あなたも、はぐらかすんですね」
その言葉は、本人の意図しないところでうっかりと零れ落ちてしまった。まだ寝ぼけているのかもしれない。気を付けないと。素性の知らぬ相手に、迂闊なことを言うのは危険だ。

「……聞いて、どうするんだい?」
男のその言葉に、は悩んだ。彼の「どうする」は、言葉のままの、素直な疑問のようだった。“事実”を知って、「どうする」のかではなく、そもそも何故事実を気にするのか分からないというようなニュアンスだ。
自分の解する言葉のまま、この人と会話を続けても良いものだろうか?しかし、自分には自分の言葉しかない。

「当事者には、事実を知る権利があると思います」
「ないない」
「えええ!」
あまりに即座に返された答えに、は思わず驚き(と少しの非難)の声を上げる。緑の男は表情一つ変えず、先ほどからずっと同じ、何を考えているか分からない顔だ。時々微笑む瞬間はあれど、それも含めどれもこれも考えの掴めない表情ばかりだ。黄櫨もそうだったが、この男の場合は、それとはまた違った分かり難さである。

「権利、無いんですか!?」
「事実は、手元から離れてしまえば事実とは違う。過ぎ去れば、確かではなくなる。君は君の事実を知らない」

さて、事実とは何だっただろうか。言葉の意味が次第に分からなくなってくる。

「常盤は君には何も言わないんだよね?」
「……!!」
この男は、どこまで、何を知っているのだろうか。

「なら、彼の知っている“事実”と、彼の“真実”は、どちらも君には必要ないってこと。そういうことなんだよ、
「それは、この世界の価値観ですか?」
「さァ……それはどうだか知らないけれど。、」
二回も立て続けに名前を呼ばれて、何だか恥ずかしくなる。じっと目を見返すと、男は静かに言った。

「真実なんて皆違うんだよ。誰一人同じ真実なんて持っていない。真実は、一人に一つ」

人が意思を持った個体である以上、当然のことだよ。と、彼は言う。


「……では、わたしは自分の考えで真実を造ってしまって良いと言うのですか」
「それしかないでしょ。機械じゃないんだからね。……あ、そうだ。、さっき亀太郎に会ったね?」

ギクリ、と肩が揺れてしまう。突然話が変わったことも驚きだが、それよりもその内容だ。もしかして、もしかすると、この人は彼の仲間で、危ない人なのだろうか?

「気分はどう?」
「え?」
「注射器が転がっていた。気分はどう?」
思い出すだけで、ゾワリと鳥肌が立った。抗う心に反して、自分の中に異物が入り込んでいく、あの感覚。その正体が何かも、わたしは分かってないんだ!!

「よく効くと思うんだ、あの鎮静剤は。即効性はあまりないけど、その分副作用も少ないし。今は落ち着いているでしょう?」

「鎮静剤?」
それはなにかの毒の名前だろうか?お前の命も鎮静化してやろうか!的な?……いや、そうじゃない。

「……鎮静剤、だったんですか」
ああ、だから、あんなにも眠かったのだ。必死で薬に逆らって歩いてきたから、頭も痛かったのかもしれない。よくよくあの状況を考えてみれば、あそこまであの青年を疑う必要性は無かった。わたしは何故あんなにも混乱していたのだろう。命の恩人に、酷いことをしてしまった。わたしが興奮状態だったから、あの青年はやむを得ず鎮静剤を打つしかなかったんだ。それなのに後頭部を強打して、借りた服も、ここまでの道中でどこかの木の枝に放置してきてしまった。なんてことを。

「亀太郎の様子からすると、あの子は薬の選択を間違えたみたいだけどねェ。あの子はあまりに患者の身体を考えすぎる。心と身体を引き離して、身体だけを、ね。だから結果まで考えて行動できないんだよ。だから、患者に反抗されて逃げられるのさ。……もっと強い、即効性のある薬を使えばよかったものを」

溜息混じりに語っていた男がちら、とを見る。話しぶりからしてこの男と亀太郎は親しいようだから、きっとこれは嫌味なのだろう。ようやく見えた、人間らしい顔だ。

「……気分は、悪くはないです」
この言葉は、八割方嘘だった。確かに、眠りに付く前より大分楽になったものの、まだ足は痛むし、喉もヒリヒリ痛み、軽い頭痛もしている。何より、乾ききっていない服を着ている所為で、背中がゾクゾクしていた。―――濡れた格好で人の寝台に上がるなんて、これまたなんて失礼なことをしてしまったのだろう。

「本当に、すみませんでした」
「……それは、何に対して?」
「あなたのお知り合いの方に酷いことをしてしまったことと、勝手にベッドをお借りしていたこと……。湖に落ちちゃって、服、濡れてるんです。ごめんなさい」
「なあんだ、そんなこと」
男は、何故か期待が外れた、というような顔をする。はその表情の意図が読み取れず、不思議そうに眉根を寄せた。

「まァ、亀太郎は男の子だから、あれくらいどうってことないよ。女の子にやられてるようじゃ、あいつがまだまだだってこと。あと、ここは元からじめじめしてるから、今更少しぐらい濡れたってどうってことない」
確かに、キノコが群生しているくらいなのだから、結構な湿気だ。その割にベッドが心地よかったものだから、今まで全く意識していなかった。しかし湿度が高い割に、カビの臭いはしない。寧ろ、優しい“森の匂い”に包まれていて心地よい。本当に、不思議な空間だ。

(亀太郎くんには、今度会うことがあったら、謝っておこう……)

「君はこれからどうする?」
男が、何となし、という風にに訊ねる。

「もう行きます」
「どこへ」
「……どこへでも。探しものが見つかるまでは」
そういってはきのこの傘から降りた。地面に降りる瞬間、足首の痛みに顔を歪めるを、男は冷たく見下ろす。振り返ったは何でもないような顔で、言葉を紡いだ。

「あの、よろしければお名前を教えていただけますか?」
「………我々は緑葉。この森で薬剤師をしてるよ」
「りくようさん、ですね。ベッド、有難うございました。では」
我々って……誰と誰?と、は彼の一人称に違和感を覚えながらも、軽くお辞儀をして、くるりと背を向けて立ち去ろうとする。緑葉はその背に、溜息を吐いた。自分が“薬剤師”だと名乗り、それに対して彼女は何も救いを求めてはこない。その発想すらないのだろうか。彼女は……いつから、こんなに己を顧みなくなってしまったのだろう。

「森の看板の行先表記は無視した方がいいかもね。これは方向音痴の亀太郎が森中に大量に立てているものだから、看板自体も方向音痴だし。ただ、看板のある場所を辿っていけば、獣に遭遇しなくても済むよ」
後ろから掛けられた言葉に、は小さく振り返った。緑葉はキノコの上から、を見ている。

いくら方向音痴だからって、森を看板で埋め尽くすのはどうなんだろうか。は呆れながらも、その仕事ぶりに感心せざるを得なかった。一体何年掛ければこんな量の看板を立てることができるんだろう、と。

(……ああ、だからあのとき、亀太郎くんはペンキを持っていたんだ。きっと、倒れてしまった湖の看板を立て直してきた帰りだったんだろうな)

そして、彼の看板は彼の心理も映し出していた。たくさんの看板が導く場所。緑葉の言動からしても、彼らは親しい仲なのだろうと窺い知ることができる。亀太郎の言っていた“あの人”とは、もしかするとこの人のことだったのかもしれない。

は痛む胸に手を当てた。

疎外感を感じるほどの、この世界での人々の繋がり。時間を経たその結びつきは、決してここがただの物語の中でも夢でもないことを教えてくれる。自分が主人公ではないということを、痛いほどに教えてくれる。

ここは、ただの一つの世界だ。遠く離れていようが、そこに根付くものはの世界と何一つ変わらない。過去があって今があり、今があって未来がある筈なのだ。そして今、その未来はの手に委ねられている。





その重みが、今はただ、恐ろしく感じている。
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