Act5.「きのこトンネル」



振り返り、誰も追って来ていないことを確認すると、は崩れ落ちるように木の根元に座り込んだ。湖の青年の家から、大分離れたとは思う。しかし、無茶苦茶に進んできてしまったために、既に帰り道は分からなくなっていた。
迷った最大の原因はコレだ、とは自分を囲む数多の木の板を睨み付ける。そう、この森には妙に看板が多い。踏み入れた当初はいくつかあるだけだったのが、湖の更に奥、亀太郎の家あたりから、その数は増え続けている。1メートルの間隔も空けずに立っているものなどざらだ。しかし一番の問題は、その看板が非常にいい加減だ、ということである。
無駄に豊富なカラーバリエーションの看板の矢印は、時に地を指していたり、天を指していたり、同じ行き先同士でバラバラの方向を指していたりする。既に看板の意味を成していないのだから、なるべく見ないようにしようと心がけるも、その矢印にどうしても方向感覚を狂わされる。

(一体誰がどんな目的でこんなものを立てているんだ!)

うんざりして両手で目を覆い、俯く。俯いた衝撃で頭に鈍痛が走った。痛い。自分の心臓の音すらうるさい。体が重い。意識が遠のく。さっき打たれた薬の所為だろうか?そう考えると、恐ろしくて身震いした。

ふと、遠くで何かが聞こえた。自分の心臓の音に邪魔されながらもその“何か”を聞き取ったは、力を振り絞り木の幹にしがみ付いて、よろよろと立ち上がり、歩き始める。

―――獣の雄叫びだ。今はまだ夕方で明るいけれど、いずれ夜が来る。夜までに安全な場所まで行かないと……。


(……あ)
暫く歩いていくと、は看板の数が増えていく方向があるということに気付いた。そして、その先に何があるのかなんて特に考えもせず、ただ無意識に、誘われるようにその方向を進んでいく。もしかしたら出口かもしれないなんて淡い期待は、後付けだ。

しかし、そうして辿り着いたのは出口などではなく……きのこの群生地だった。

「きのこ…?」
赤、青、黄色、橙、桃色……色とりどりの、“巨大なきのこ”がそこかしこにびっしりと生えている。この森の植物は全体的に通常よりも大きいものばかりだったが、ここのきのこはその中でも群を抜いて大きい。大きすぎる。ここまで歩いてきた道にも同じような色の大きなきのこはあったが、大きいといっても膝下に収まっていてくれた。しかしここのきのこときたら、よりも優に高い背丈に、シングルベッド並の傘を持っているのだ。作り物かと疑って思わず触れるが、感触はきのこそのものだった。所狭しと生えているきのこの足の間はまるでトンネルのようで、傘同士が重なり合っているために、中は薄暗い。きのこのトンネルだなんてなんだか可愛いなと思いながら、はそこに足を踏み入れる。

(あの看板たちはここを示していたみたいだ。なんだろう、観光地?)

トンネルに入って間もなく、は他とは違うきのこを見つけた。他のきのこたちよりも背丈が低く、傘がお腹のあたりにくるくらいのきのこだ。しかし、傘の大きさは他のきのこたちに負けてはいない。ただ、大きさもさることながら、の目を惹いたのは……

「毛布……」

きのこの傘の上に掛けられた毛布だった。こんなところで誰か寝ていたのだろうか。それとも偶然風で飛ばされてきたとか…?は思案しながら、縁に手をかけて腕に力をいれ、傘の上に上がった。毛布に触れると、それは軽く、羊毛のように柔らかい。保温性にも優れていそうだ。……なんだろう、アクリル?

とにかく、もう限界だった。誰かが寝床にしているなら迷惑だろうし危険かもしれないが、最早そんなことを考えている余裕は無かった。なにしろもう一歩たりとて動けやしない。頭痛は酷いし、鼻は詰まってきて呼吸が苦しいし、喉は痛いし、視界はぼやけるし。とにかく、

「仕方ない……そう、仕方ないんだ」

と、いう訳でおやすみなさい。



……きのこのベッドは思ったよりも寝心地が良い。この空間も、居心地が良い。警戒心と緊張感でガチガチになっていた身体が、ふわふわもこもこと溶け出すみたいだ。不思議と落ち着く空間。どこか、懐かしいような気もする。

もしかしたら打たれたのは毒で、わたしは死ぬのかもしれない。
さっきの青年が追いかけてくるかもしれない。
目が覚めたら狼の集団に囲まれているかもしれない。
この毛布の持ち主は危ない人かもしれない。

なんて、泣き出したくなるような不安も、この空間の優しい懐かしさのおかげで次第に薄れていった―――。



*



ここはどこだろう。暗い。暗くて何も見えない。深い深い湖の底にでも沈んでしまったのだろうか。しかしその闇の世界は、すぐに終わった。
瞬く間に、世界は色づく。南米アマゾンのコンゴウインコのような極彩色が空間を満たすのは、あっという間の出来事だった。それに圧倒されていると、溢れかえる様々な色は、近くの色同士で結び付き、姿形を形成し始める。そして、一つの森に―――、


『―――……』


……誰かの声がする。何か言っている。しかし、その姿が見当たらない。ここに居ない?ここって何処?ああ、そうだ、わたしは眠っていたんだ。ここはきっと、“わたしの”夢の中。

気付いてから覚醒までは早かった。そもそも夢の中で考えて、気付けるということは、半分くらいは起きていたのかもしれない。目を開けて―――は、息を呑んだ。

色の白いきめ細やかな肌、頬にかかる長い若草色の髪。少し釣り気味の形のよい猫目が、至近距離からをパチリと見つめていた。互いの息遣いが、肌で感じられる距離だ。驚きから跳ね飛ばしてしまいたかったが、その男に圧し掛かるように覆い被されているために、は身動きが取れない。
男の緑色の瞳に、敵意は無いように見えた。目を覚ましたを、男は何か興味深いものを観察するようにただ見続けている。

「……あの、この毛布の持ち主さんですか?」
逃げるように顔を背けながら、は出来るだけ冷静に問いかけた。



「おかえり、





「……はい?」
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