Act4.「湖のお医者さん」



「……あれ?」

目が覚めると、薬のにおいがツンと鼻をついた。“目が覚めると”というよりは、それ以前に意識が無かったという自覚がない。ついさっき湖に落ちて、赤い髪の青年に引き上げられたのだと思ったが、……気が付けば傍に湖は見当たらず、知らない部屋のベッドの上。まるで瞬間移動をしてしまったような感覚だった。

「ここはどこ……?」
思った以上に声は掠れていた。湖の水を飲み込んでしまった所為だろうか。喉の奥の方には何かが詰まっているみたいに窮屈な感覚がある。とりあえず、答えが返ってこないということから、今この部屋には自分以外の人物は居ないと考えても良いだろう。
ぐるりと部屋を見回すと、視界いっぱいに小さな薬瓶や、包帯、針や糸などの医療器具が飛び込んできた。部屋は全体的に雑然としている様子だったが、色は白が殆どで、まとまった雰囲気を醸し出している。その部屋の持つ病院のような独特の雰囲気が、は嫌いだと思った。並んだ医療器具が、実験器具に見えてくるのだ。そして、自分が実験体のように感じてしまう。
所狭しと積み上げられた分厚い本は、いつしか入った常盤の部屋を思い出させる。
彼のことを考えると憂鬱だ。彼は無償で優しくする癖に、その目でわたしに何かを強要する。それは時に進む道であったり、考え方であったりだ。そしてその傲慢な思想を直接言葉に発しないところが、尚、面倒臭い。ただ、その面倒臭さには覚えがある。

そうだ。
彼は、紫に似ているんだ。……紫より強引ではないように思うけど。

(……はぁ)

今、気が付いた。
二人が似ているとかどうとか考える前に、目の前にもっと大きな問題があるじゃないか。

……わたし、いつの間に着替えたんだ?


「あ」
一間しかない小さな家のドアが、軋んだ音で開かれる。そこには赤い髪の青年が、華奢な身体に大小様々な木の板を担ぎ、片手には工具箱とペンキをぶらさげて立っていた。

「わっ!」

ガシャーン

「……おかえりなさい」
フラフラ覚束ない足取りと、波打つ赤のペンキを見て絶対にぶちまけるとは思ったが、ここまで予想通りだとわざとじゃないかとさえ思えてくる。

咄嗟の判断で彼の布団を被り飛び散ったペンキから逃れたを、青年は恨めしそうに睨んで、それから真っ赤に染まった部屋の惨状に頭を掻き毟った。

「あー、もう!」
ガタン、バラバラと、工具箱と木の板を床に投げ出し唸った彼は、自棄になったようにペンキの道をズカズカ進んで、の前までやってくると、目を丸くするのその目を更に見開かせた。
文字通り、指で目を開かせたのだ。

「……!?」

白黒するの目に、どこからともなく取り出した細い電灯で光を差し、それから口の中に金属の棒を突っ込み、 喉の奥まで覗き込んだかと思えば、第二ボタンまで開かれた胸元にペタペタと冷たいものを這わせる。そうこうしながら彼は一頻り難しい顔で頷き、やがて最後に、

「気分は?」

と言った。


「……ぶっちゃけ焦るわ」

そうか。彼はお医者さんか。

「とにかく……ありがとうございます」
は、自分で着た覚えのない少し大きい服の袖をわざと振りながら言う。青年は一間置いてその指し示すところに気が付いたのか、白い顔の血色を一気に良くした。髪まで真っ赤だ。……それは元からか。

「濡れたままの服じゃ身体に障るだろ!?」
「はい……別に、何も言ってませんけど」
「ぼ、僕は医者なんだ!!そんな邪なアレで患者に接したりはしない!別に興味もないし!!自意識過剰とか困るんですが!!」

(いや……だから何も言ってないって。邪なアレって何だよ)
は黙って彼が落ち着いてくれるのを待った。赤い髪の青年は話し方からして結構若い。少し年上くらいだろうか。取り乱し方からすれば年下の可能性も有るが……。

「……で?アンタはあんな所で何してたんだ?」
なにが“……で?”なのかは分からなかったが、とりあえず触れないでおくことに決めた。捲くし立てる彼の言葉を全部聞いていたわけでもないから、案外前後の繋がりは間違っていないのかもしれないし。

「わたしは、」
アリスを追いかけて?


『アリスは創造主。神のような扱いをされてきたんだ』
『王の命令で白ウサギがアリスを捕らえようとしているなんて広まったら、もしかするかもしれないけど』

黄櫨の言葉が頭をよぎる。彼の口ぶりからして、アリス派の人間は決して少なくはなさそうだ。見知らぬ人の前で、迂闊に身の上を明かすのは賢いとは言えないだろう。


「………道に迷って」
もっと良い嘘は無かったのかと思うが、何だかんだでこれが一番適切な嘘だという気もする。この森の中に関して全然道が分からないのは事実であるから、全くの嘘という訳でもない。そう、最善の言い訳というのは、いかにボロが出難いかを基準に考えるものだ。

「いや、そもそもなんでこの森に?」
「………なにか問題でも?」
どうやら迷子は最善の言い訳ではなかったらしい。仕方なく、踏み込んでくるなという雰囲気を纏わせて質問に質問で返すが、青年は当たり前だというような顔で、人を小馬鹿にするように鼻で笑った。

「当たり前だ。普通、一般人はこの森には入りたがりませんよ。さっきみたいな変な植物は“いる”し、それに称号持ちが何人か住んでるから」
「……!この、森の中に?」
「呆れた人だな。そんなことも知らずにのこのこやってきたのか……。だったらさっさと帰った方が良い」
その忠告は、馬鹿にしたような口調ではなく真面目なものだった。この国の住人は一癖も二癖もある奴ばかりで信用ならないと、黄櫨も言っていた。この森には、そんなに危険な人たちが居るのだろうか。だから、常盤もこの場所を避けていたのだろうか。

「そんなに、危ない人たちが住んでいるの?」
にとってそれは重要な問題だった。どっちみち探索を断念するという訳にもいかないのだから、詳しく知っておく必要がある。だが青年は何故か目を丸くした。

「……この森の称号持ちは、別に他所程気性は荒くないし、そう、穏やかな方だと思う。多分。一番危険なのは、あー……そうだな、この森を抜けた先だな」
「森の先?」
青年は苦笑交じりに言う。

「結構進んで来てたみたいだけど、このまま森を抜けない方がいい。知ってるだろうけど……いや、あんたなら知らなそうだ」
彼の話し方は若干、結構、大分、鼻に付く。つい口を挟んでしまいたくなるが、そこは無言で続きを促すことにした。

「この森を抜けた先に、帽子屋の居住地があるんだ。彼は他人の干渉を好まない。特に知らない奴には容赦ないだろうから」

(………わたし、そっちから来たんだよなあ)
と、は心の中だけでぼやく。どうやら目の前の青年は、の進行方向を逆だと誤認しているらしい。おまけに、常盤の人柄についても彼女とは認識にズレがあるようだったが、それに関してはも間違いだと言い切れる自信は無かった。
とにかく、青年がの進行方向を勘違いしているのなら、このまま何の問題も無く、“帰る”という名目で進んでいける。彼の口ぶりからすれば、このまま進んで反対側に抜けても、人が住んでいるような場所はあるはずだ。そちらから迷い込んできたと思われるくらいなのだから。

「じゃあ、このまま“来た道”を戻るね。……というか、あなたはなんでこんな森に居るの?」
ベッドがあるということは、ここに住んでいるんじゃないだろうか。変な植物がいて、称号持ちが何人か住んでいて、森の出口には危険人物が居住を構えているような一般人の入りたがらない辺鄙な場所。そんな場所に、何故にこの青年は住んでいるのだろうか。

「僕は、気性が荒くなくて穏やかな方だから」
「……ん?」

「僕は称号持ちだって言ってるんだよ。称号は海ガメで、名前は亀太郎。今、そのまんまの名前だって思っただろ?ほんと、余計なお世話だな」
一気に捲くし立てる彼には何も言う暇が無く、口を数回パクパクさせる。
先ほど青年が―――亀太郎が目を丸くした理由は、自分のことを訊かれたからだったのだろう。彼にとってあれは、「あなたは危険ですか?」なんて質問だったのだろうから。……っていうか別に、名前に関しては何も言ってないじゃないか。確かにそう思わないことも無かったけど。

「亀太郎くんは、この家に一人で住んでるの?」
「そうだけど悪い?……ここで医者をやってる。といっても、仕事は殆ど街に出てすることが多いけど」
別に全然悪くは無い。若いのに真面目だな、とか、しっかりしてるな、とか、寧ろ好印象だ。ただ、文句の付け所がなくもない。

「……海、無いじゃん」
「は?」
「海ガメなのに、海に居ないじゃん」
亀太郎は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。そして歯切れ悪く、ぼそりと答える。

「みず……うみ、あるから」
「……それじゃ、湖ガメじゃん」
「いいんだよ!」
そんなに適当でいいんだろうか、と腑に落ちない様子のに亀太郎は溜息を吐いて、話し始める。

「僕だって、初めは海に居る普通の海ガメだったさ。けどあの人がそれじゃ駄目だと、僕をこの森に連れてきたんだ。何でか分からないけど、どうやら称号持ちの“海ガメ”は、本物の海ガメじゃいけないらしい。意味が分からないけど、ニセモノであることが重要なんだって。よく分からないけど」
「……分からないんだね」
「本物だったんだ。僕は正真正銘の海ガメだったのに……あの人が……」
その声は終わりに向けて徐々にしぼんでいき、には何と言っているのか聞き取ることが出来なかった。

(そういえばアリスの物語の海ガメは、“海ガメモドキ”なんだったっけか)
絵本の海ガメモドキの頭には、カメにあるはずのない二つの垂れ下がる耳があったような気がする。それは、どうしてだったろう?……確か、海ガメのスープの材料が………

「で、あんたは新しい称号持ち?なんの役?」
「……!!」
は驚いて息を呑む。亀太郎は至極普通の顔をして、当たり前のようにそれを訊くのだ。
どこでバレたのか、自分は何かヘマをしてしまったのか。平静を装いながら考えるの内心の焦りに、亀太郎は一切気が付く様子もない。そのまま話しながら流しへ向かい、何か湯気立つものを準備し始めた。

「別にどうでもいいけど、そんな状態でウロウロするとか、自殺志願者ですか?」
彼の背は、平然としている。はサッと、ベッド横の窓に目を走らせた。今なら、彼に気付かれずにここを出て行けるだろうか。
見た感じ危険な人物には見えないが、用心に越したことは無い。アリス派でなくても、ジャックの時のように、また危険な目に遭わないとも言えないのだ。考えれば考えるほど、いつもの自分とは思えないくらいに疑心暗鬼になる。もしもの時、彼が何らかの強硬手段に出たとき、今のわたし一人で何が出来るだろう?
頭がぐるぐるする。

ああ、どうしてしまったんだろう。

「全く……どうせなら僕のところじゃなくてあの人のところに行けばいいのに……」

は静かに窓に近付く。体が重かった。吐き気がした。一人になりたかった。
開けっ放しのその窓から、ついにが飛び出ようとしてところで、亀太郎が振り返った。

「―――何してるんだ!!」
出会ってから初めて聞く怒声だ。亀太郎は鬼気迫る顔でに近付く。

ほら

やっぱり彼は危険人物じゃないか

力強く腕を掴まれて、そのまま無理やりベッドに押し倒される。強く打ち付けた背中がジンジン痛んだ。涙で潤む瞳に、亀太郎が懐から取り出した細く鋭い銀色がキラリと輝くのを見て、―――は遂に平静さを失った。

「お、大人しくしろ!」
「い、やだっ!!」
さっきまで普通に話していたのが嘘みたいに感じる。やはり彼は、わたしに危害を及ぼす存在だったのだ。だってそれは、その手に持っているものは―――それは!!

「痛っ」
抵抗も虚しく、注射器の針が腕に突き刺さる。薄緑色の液体が自分の体へと押し込まれるのを見て、の顔から血の気が失せる。目の前に光が散る。ああ、だめだ、だめだこれでは……。



―――ほんの一瞬の出来事だった。慎重に針を抜いた彼の後頭部に、が掴んだ本の角を振り下ろしたのは。

「ぐっ」と苦しそうなうめき声と共に、亀太郎が崩れ去る。は自分の上からその体を退けると、ベッド横に掛けてあったまだ濡れたままの自分の服を持って、よろめく体でドアから出て行った。捻挫していたはずの足には丁寧に湿布と包帯の施しがあり、森に入ったときよりもずっと歩きやすかった。



*




「おーい、亀太郎亀太郎。起きなさい」
ペチペチと自分の頬を叩く大きな暖かい手で、亀太郎は意識を取り戻した。痛む頭を摩りながら体を起こすと、傍らには見慣れた男がひらひらと手を振っている。

「随分と変な格好で昼寝をしていたね。苦しそうな顔をしていたが、大丈夫かい?」
「なんでアンタがここに……」
「ふーん……また、随分とやんちゃをしたものだねえ」
男は亀太郎の問いには答えず、赤く染まった部屋を見回してそう言った。腰まで届く新緑の長い髪を三つ編みに結ったその男は、何故か微笑ましそうに亀太郎を眺める。

「違っ……いや違わないけど……って、そうじゃない!アンタ、女を見なかったか?」
「見たことがあるかどうか?それならあるけど」
「今日!今さっき!」
「なんだ。それならそうとちゃんと言わないといけないよ。時制は大事だからね」
「……見たのか見てないのかどっちだ!!」
「見てない」
亀太郎はハアと大きな溜息を付いて、疲れきったようにベッドに身を投げ出した。亀太郎とこの男の付き合いは長い。そう、彼こそが、自身を海から森へと連れ出した人物だ。それからもう何十年と同じ森に住み、顔を合わせれば親のような顔で接してくるこの男に、亀太郎は辟易していた。博識で頭が良く切れるのは確かだが、この男は根本的に少しおかしい。この男との間に、ろくな会話が成り立った試しがない。

「亀太郎も女の人に興味を持ち始める年頃なんだね」
「そんなんじゃなくて!……湖で人魚草に殺されかけてる女を一人助けた。それだけだ。あの女……人が折角看病してやろうってのにぶちかましやがって……」
「口が悪いよ亀太郎。あ、“口も”か。君は少々おつむが……」
「うるさい!」
無性に苛々した。腹が立った。亀太郎はボサボサの前髪を掻き毟る。
湖で溺れかけていた女は、見るからに衰弱していた。体はフラフラしていたし、顔色もよくなかった。そもそも人魚草は弱った人間を標的にして引きずり込む。彼女らに目を付けられている時点で、あの女は危険な状態だった。発熱や扁桃腺の腫れ以外にも、片足を捻挫しているらしい女が、何を血迷ったのか外に飛び出そうとするものだから、慌てて押さえつけて鎮静剤を打ったのはいいが、その隙にあのアマ―――!!

「あー!!ムカツク!なんで僕がこんな目に遭わなきゃならないんだ!もう嫌だ!甲羅にこもりたい!!」
「あー、よしよし可哀想に」
緑の男は仰向けになった亀太郎の腹に手を置き、ポン、ポンとあやすような動作をする。そして何を考えているのか分からない顔で、窓の外の森を見た。

「女の子、ね。名前は?」
「……知らない。ただ、称号持ちらしいってのは、なんとなく感じられた。何の役かは全く分からないけど」
「ああ、多分、だ」
事もなげな様子で彼の口から出た知らない名前に、亀太郎はポカンとする。


「………は?何、アンタ、知り合い?」


「さあ」
男はそっと微笑むと、野菜のたくさん詰まれた籠を亀太郎の胸の上に乗せ、ひらひらと長い袖を靡かせながら森の奥へと消えていった。どうやら、ここには差し入れに来たらしい。

「……また親面しやがって」
籠の中は、どれもこれも亀太郎の好きな野菜ばかりだ。今夜は、野菜スープにしよう。栄養満点の、病気なんて吹っ飛ぶような特性スープだ。それを食べることができないなんて、あの女はなんて残念なんだ。なんて馬鹿なんだ。ああ、そんな馬鹿な女の事なんて忘れよう。折角助けてやったのに、あんな恩を仇で返すような女のことなんて、一刻も早く忘れるんだ!

(……まずは、部屋の片付けか)
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