Act3.「魔法の言葉」



果てしなく広がるその空間で、少年は一際大きな歯車の上に腰掛けていた。歯車は幾重にも巻かれた鎖に動きを封じられていたが、無理に廻ろうとしているのか、軋んだ音を立てている。

「そろそろこの鎖も持たないかな?」
少年は錆び付いた鎖に指先で触れた。この歯車が再び廻り始めたとき、彼女は悲しみ、彼女は苦しみ、彼女は絶望するのだろうか。ここから繋がる未来は、無数にある。その内、彼女たちにとって一番“マシ”な展開はどれだっただろうか。

しかし、そうなるように仕向けたのは、を誘導したのは自分だ。“真実”なんて魔法の言葉で、あの少女に呪いをかけた。でなければ、物語は進まない。時間は進まない。

いっそのこと、あの帽子屋にしたように歯車を壊してしまえばどうだろうか―――なんて。そんなこと、出来る筈もなければする気もないけれど。

「ふふ。それにしてもあの子だけは、本当にどの時間軸でも全然変わらないな」
少年はそう言って歯車から飛び降りると、頭から落ちていく。両手を広げて、楽しそうな笑みを浮かべながら、くるくると、機械のように規則正しく円を描く。楽しい。楽しい。なんて楽しいんだろう。彼女の世界は!それが例え悲しみの世界だとしても!!


願わくば、今回の物語が今までよりも楽しいものでありますように。と。



*



「よいしょっ、と」
部屋の窓から屋根伝いに、外へ出る。上るよりは、降りる方がいくらか楽だということを知った。途中、何故こんなコソドロみたいな真似をしているのかと面白くなったが、その気の緩みの所為か随分と降りる時間が短縮されてしまった。……つまり、転げ落ちたのだ。しかし幸いにも草がクッション代りになって、思っていた程の衝撃は無かったのだが。
溜息を吐いて空を見上げると、夜空にうっすらと赤みが出てきている。もうじき夕方だ。今のこの世界では、外出するのに良い頃合。でもやっぱり、爽やかな朝日を浴びて出かけたいものだけど。


名前を呼ばれて、挙動不審なくらい肩を跳ねさせてしまった。本当にコソドロみたい。は慌てて立ち上がり、振り返る。そこには、腕組みをして咎めるような視線を送る常盤が居た。屋根から落ちたところは見られていただろうか。それを思うと、顔から火が出る思いだ。

「どこに行くんだ?」
「……ちょっと散歩、です」
それは嘘だけれど、騙す為の嘘じゃない。そもそも言葉にする以前にわたしの目的など知れているのだ。だから、気持ちを汲んでそのまま行かせてくれという嘆願だった。しかし、そう上手くいく訳もない。

。君はこの間危険な目に遭ったばかりだろう。ここに居なさい」
「無理です」

ここ数日ずっと言えなかった否定の言葉は、意外な程にすんなりと口から出ていった。しかし、言えたという達成感よりも言ってしまったという後悔の方が大きい。二人の間に暗鬱な沈黙が下りる。その間、見つめ合っていたのか睨み合っていたのかは分からない。その沈黙を破ったのは、一羽のカラスの鳴き声だった。それに乗じるようにして、が口を開く。

「止めないで下さい。最初に言いました。わたしはわたしのやりたいようにやるんです。あなたは、協力してくれると言いました」
自分の可愛げの無さに、嫌気が差した。常盤はから視線を外し、地面に向けてポツリと呟く。


「君が行ったところで……」


「………え?」
の疑問符に、常盤は苦い顔で口を閉ざした。それからの顔色を窺うようにして、「なんでもない」と誤魔化す。

―――わたしが行ったところで………なんだ?
わたしが行ったところで、何も出来ないということだろうか。それとも他に何か意味が……?

「教えては、くれないんですよね」
答えは無い。分かりきっていることだ。彼はわたしについて、わたしの知らないことを知っている。そしてそれが彼の口から語られることは無い。時間くんも「真実」の存在こそ示したが、それが何であるかについては教えてくれなかった。何故か。それは、わたしが自分で見つけるべきことだからではないだろうか。

「大丈夫です。危険なことに自分から向かって行ったりはしません。夜になったら、帰ってきます」
そう言って、は常盤に背を向けた。瞬間、左足に痛みが走る。先程立ち上がったときにも感じた痛みだ。恐らく屋根から落ちたときに挫いてしまったのだろう。隠せない程の痛みじゃなく、はなるべくいつも通りに歩き出す。彼は引き止めなかったが、感じられる空気から「行くな」と言われているような気がした。
振り返らずに小さな声で言った「ごめんなさい」が、果たして伝えたい言葉だったのか、ただの独り言のつもりだったのかは分からない。それを口にした、自身にも。



いつの間にかの姿は赤い闇に溶け、見えなくなっていた。迷い無く自分から離れていくの姿が、常盤の中の記憶と重なる。

彼女はいつも、誰よりも一歩先に居た。もしくは、他とは違う平行線上に立っていた。彼女の存在は特別で、引き止めようと手を伸ばすことさえ許されない。彼女が進むと決めたなら、誰もそれを邪魔できない。誰も、彼女を留めておくことはできない。
それでもどこかで、願えば届くかもしれないと思ってしまった。時間の止まったここに、閉じ込められていてくれると。傷付かないでいてくれると。

彼女の前では、自分の無力さを思い知らされてばかりだ。


「壊してしまうなら、早くしてくれ」
彼女の為に、彼女の目的が果たされないことを祈るその言葉は、森の木々のざわめきに吸い込まれていった。



*



常盤と黄櫨の住む屋敷は、三つの森に囲まれている。初めてがこの国にやってきた時に通った「青の森」と、一番近くの街に通じる「恒久の森」、生えている植物が妙に大きい「アリスの森」の三つだ。その内、アリスの森だけは未だに足を踏み入れたことが無い未知の場所だった。毎回、常盤に上手く避けられてきた場所だったが、アリスを探しているのだから、アリスと名の付く森に入らない理由がない。は妙に鮮やかな色の森に歩みを進めて行った。

一歩、また一歩進む度に、世界は色を増していく。は思わず感嘆の息を吐いた。明るい黄緑色の葉。くねりと滑稽な形に曲がる木々の枝。色とりどりのきのこ。虹色に光る小石。はその多彩な景色に呆気にとられるばかりだった。隣り合っていた他の森とは全く違う異世界が、そこには広がっていたのだ。
しかし、最初こそ物珍しく視線をあちらこちらへ移して楽しんでいただったが、その内風景に慣れてくると、足の痛みを思い出してしまう。しゃがみこんで患部にそっと手を当てると、そこは熱を帯びて赤く腫れていた。大したことは無いと高を括っていたは、僅かばかり狼狽してしまう。そしてこういうものは、意識してしまうと余計に痛いのだ。

このまま歩いて悪化させたらもっと酷いことになるのではないか、と不安になり始めただったが、ふと何かを感じて視線を上げる。

水の匂いだ。

耳を澄ませば水面の揺れる音が聞こえてくる。近くに川でもあるのだろうか。人間とは不思議なもので、自然と水場に吸い寄せられるらしい。気付けば足は勝手に立ち上がり、その匂いの方へと歩き出していた。たぷたぷと蓄えられた水を想像すると、胸がすくようだ。
カラスが鳴く。今日はよくカラスが鳴く日だ。鳴き声が三回で止まってしまわぬように一回一回数えながら、は更に森に飲まれていく。

湿った空気が頬に触れたのは、その場所を目指し始めて間もなくだった。

(湖か……)
少なくとも池なんて小さな規模ではない。沼と湖の定義は定かではないが、沼の勝手なイメージとしては、このようにキラキラ輝いてはいないと思う。水面は夕日を浴びながらも、違和感を覚えるくらいに青々と揺らめいていた。

ここで少し休んでいくのもいいだろう。腫れているのなら冷せ!が私の持論だ。とにかく今は患部を冷やすべし。は辺りに誰もいないことを確認して、湖の縁に腰を下ろす。と、座り込んだ瞬間から、どこかから心地よい歌声が聞こえてくるのに気が付いた。耳を澄まし当たりを見回すも、いまいちどこから聞こえてきているのかが掴めない。一頻り辺りを見回したは、ふと思いついたように水面に目をやる。

歌声は、湖から……?

もしかしてもしかすると、中に誰か居るのだろうか。と、が湖を覗き込んだ時だった。

「………え!?」

突如湖の中から水草が蔓を伸ばし、を水の中へと引き摺り込む。悲鳴を上げる暇さえない。気付けば目の前には、水泡が漂う青緑色の世界が広がっていた。

そして恐らく、先程の違和感の答えらしきものがすぐ足元にある。
水草の蔓の先には、人の顔くらいはある青緑色の花が咲いていて、その誰もが来訪者である少女を一斉に見つめていた。耳に響く歌声が、一気に大きくなる。花が、歌っている!

(―――そうか。この湖の色は、この花の色が溶けた青だったのか!)

妙に納得してしまったが、そんなことが理解出来たからといってエラ呼吸が出来るようになる訳でもない。徐々に息苦しくなるどころか、最初に構えていなかったのだから始めから苦しい!もがけばもがくほど死期が早まるだけとは分かっていながらも、長引かせて何かが変わる訳でもないと、必死で草を振りほどこうとする。が、―――駄目だ!足が痛くて動かせない!!こんなに冷してるのに!!持論なんて捨ててやる!

ゴボリと体内に水が流れ込んできた。

植物に襲われるのはこれで二回目だ。この世界は一体どうなっているんだ。生きて帰ることが出来たなら、ここに除草剤を撒いてやるからな!!けど、こんな水の中じゃ悪態さえ吐けやしない。

は遠のく意識の中、目の前を出血大サービスで上って行く水泡を恨めしく思った。これも空気なのに。何故人間の体はこの水泡の中の気体を取り込めるように出来ていないのだろう。ああ、もしも。もしもわたしにエラがあったなら。





ザブン、と水の中に何かが飛び込む音がして、強い力で引っ張りあげられる。
何が起こったのかよく分からないまま、気が付くと体は地上にあった。空気はその辺に有り余っているというのに、肺が選り好みしているみたいに全然酸素を吸ってくれない。ただ苦しい咳だけが、することを許された。


「―――ア、アンタ、な、何考えてんだ!」
ぼやける視界の中で、全身濡れ鼠の見知らぬ男が憤慨している。何故だ。

「と……突然、蔓が……」
「人魚草は歌で人を引き込む!だ、だから近づくなって、そう看板にあるじゃないか!!」
「―――かん、ばん?」
お互いに息も整わぬまま、きょろきょろと周囲を見回す。暫く視線を右往左往していると、ペンキで塗られた木のようなものが湖に浮いているのが見つかった。

「……あれが、看板?」
「………」
気まずい沈黙が下りる。ようやく落ち着いてきたは、そこで改めて男を見た。歳はそう離れてはいないだろう。赤い髪に黒い縁の眼鏡をかけた彼は、右手に小さなナイフと“人魚草”の蔓を握っていて、以上に息をきらせている。濡れた白いシャツがぴったりと肌に貼り付いていて持ち悪そうだ。



そんなびしょびしょな命の恩人は、「あんまりジロジロ見るな」と言ってを睨んだ。
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