Act3.「鏡のゲート」



 雪は強まり、どんどん積もっていく。永白の国への出発は少しでも早い方が良いということで、話し合いから数時間後になった。

 外に出ると時刻はまだ夕方にも関わらず、夜のように暗い。は灰色の空気に、白い息を吹きかけた。少し先の方では常盤とジャックが、馬車の御者やジャックが連れて来たのだろう七人の騎士団員達と共に、道の確認をしている。黄櫨は寒いのが嫌とばかりにいち早く馬車に乗り込んでいた。

 永白の国にどの程度滞在することになるかは分からないが、荷造りは簡単なものだけで、全員身軽だった。それはきっと、彼らが認識の力で所有物を出現させることが出来るからだろう。なんて便利で都合がいいのか。
 しかし、不便なところもある。主に移動手段だ。はこの世界に来てから、移動手段が行動範囲を大きく制限するということを痛感していた。元の世界では電車に乗るだけでどこにでも行けたし、飛行機に乗れば数時間で海外にだって行けた。しかしこの世界では、移動だけで日が終わってしまう。永白の国に向かうにはいくつかのルートがあるらしいが、最短のものでも馬車で丸一日は掛かるらしい。科学の発展とは素晴らしいものだったのだな……としみじみ思った。

 まつ毛の上に雪が掛かり、手袋でそっと拭う。落ち着いた光沢のあるベルベッド素材の手袋は、やはりどこかクリスマスを彷彿とさせた。
 襟と袖、裾にもファーがあしらわれた、深緑色のケープコート。履口にもこもこのボアが付いたスノーブーツ。は全身をすっかり冬仕様で固めていた。どれも先程常盤に用意してもらったばかりのものである。この世界に来た翌日に、自分用の服が出てきた時は驚いたが……まさか数時間でも同じことが起こるとは思わなかった。一体どんな仕事の早い仕立て屋が潜んでいるのだろう。

「寒、」
 背後から聞こえた声に、は振り返る。ピーターがこちらに歩いてきていた。彼は少しくすんだオレンジ色のダッフルコートを着ている。ポケットに両手を突っ込んで、高い背を屈めるようにしていた。

「これからお城に帰るの?」
「そうだよ」
 ピーターが隣に並んだ時、は、緑色の自分とオレンジ色の彼が並んでにんじんカラーが完成してしまったな、と思った。

「ねえ。常盤さんと黄櫨くんは以前、永白の国に居たんだよね? ピーターも一緒だったの?」
「いや……二人が永白に居たのは、僕が生まれるよりずっと前だよ。外交で行かされたことはあるけど」
 彼の声は寒さのせいか、いつもより小さく弱々しい。冷たい空気を吸わないよう、出来るだけ口を閉じていたいのだろう。それでもしっかりと返事が返ってくることがは嬉しかった。

 ふと、は彼のコートの後ろにフードが付いているのを見つける。コンパクトなフードに彼の長いウサギの耳がおさまる気がせず……ニマニマした。

「そのコート、あなたの?」
「そう。昔ここに置いていったのがあったから」
「へえ。良いコートだね。フードがとても暖かそう」
「……君が何を考えてるか、分かった。絶対かぶらないよ」
「ええーっ」
 は不満そうな声を上げながらも、楽しそうに笑った。離れた所からその様子を見ていたジャックが驚いた顔で、それでいてどこか面白そうに、隣の常盤に小声で話しかける。

「なんかあの二人、仲良くなってないか? いいのか、アレ」
「……お前と仲良くなられるよりは、大分マシだ」
 常盤は刺々しく言い放つと、手元の地図を丸め、大袈裟に傷付いたフリをするジャックを無視して「そろそろ出発しよう」とに声を掛けた。は笑いの名残の残る顔で元気に「はい!」と答える。

「じゃあ、お仕事頑張ってね」
「君も、気を付けてね」
 は一瞬、聞き間違いかと思った。ピーターがそんな事を言ってくれるとは思わなかったからだ。馬車に乗る時、お互い手を振り合うこともしなかったが、なんとなく心細いように感じたのは――数日間ずっと一緒に居たからなのだろう。ただその感覚に慣れてしまっただけなのだ。そうでなければ、なんだというのだ。



 *



 用意された馬車は二台。騎士団員は守りを固めるように、二名ずつ馬車の前後で馬を走らせる。残りの騎士は馬車内で暖を取り待機し、道中で交代するらしい。それは雪にも寒さにも慣れていない彼らが長時間外に居るのは厳しいという、ジャックの考えによるものである。騎士達は馬ではなく馬車に乗ることに躊躇があったようだが、命令には逆らえないのかすごすごと乗り込んでいった。ジャックは、馬も雪に慣れていないため休憩を多めに取ると言っていた。

 は二台の内、後ろを走る小さい方の馬車に、黄櫨と二人きりで乗っている。この組み合わせが一番、が気を遣わないだろうと常盤が計らったに違いないが……これはこれであちらの馬車がどんな空気なのか気になった。しかし今日の常盤とジャックのやりとりを見ている限り“思ったよりは”険悪ではなさそうで安心する。先日のヴォイドの一件でも共闘していたようだし、心配する必要はないのかもしれない。

 心配すべきは、黄櫨とジャックの二人だろう。は柔らかそうな中綿コートに埋もれて分厚い本を読んでいる黄櫨を見る。この少年があんなに分かりやすい感情表現をするとは、本当に意外だった。

「なに?」
 黄櫨の透き通る視線が、に向けられる。その目には全て見透かされていそうな気がしたが、は不躾に訊くのも良くないと思い「なんでもないよ」と誤魔化した。それから黄櫨に借りた本を読もうとしたが……決して心地よいとは思えない馬車の揺れに、それでも眠気を誘われ、目を閉じる。昨日から寝てばかりいる気がした。

 真っ白な雪。澄んだ冬の空気。鮮明な空では星が瞬いている。ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る――。

 クリスマスといえばプレゼント交換。昨年紫にあげたのは、可愛いハンドクリームのセットと、ちょっと高級なクッキー。紫からはカラフルなバスボムと石鹸の詰め合わせを貰った。二人で授業終わりにカラオケに行って、コンビニで買ったケーキを食べて、簡単なクリスマスパーティーをした。サンタクロースという幻想的な存在には懐疑的で否定的な彼女だが、世間一般のイベントとしてはノリよく付き合ってくれる。楽しかった。本当に楽しかった。……そういえば、あのハンドクリームを使っているところを見たことが無い。香りが気に入らなかったのだろうか? 今年のクリスマスは何をプレゼントしようかな……。

 ガタ、と馬車の揺れで壁に頭をぶつけ、クリスマスの夢は雪の結晶のように脆く散った。
 あれ、朝? と寝惚ける程ぐっすり眠ってはいない。「大丈夫?」と声を掛けてくる黄櫨に、は恥ずかしそうに笑った。

「大丈夫だよ。ちょっとウトウトしちゃった」
「君はよく眠るよね」
「黄櫨くんは全然眠らないよね」
 黄櫨は殆ど眠らず、暇さえあれば書斎で本の虫になっている。夕方も夜もずっとだ。流石に夜通し起きていることはないだろうと、は一度、夜中に目覚めてしまった日に様子を見に行ったことがある。が、そこでは黄櫨がちょこんと椅子に座って姿勢よく、黙々と本を読んでいるのだった。この少年が眠気を顔に浮かべたところさえ見たことが無い。

「全く眠ってない訳じゃないんでしょ?」
「そうかもしれないね」
「ミステリアスだなあ」
 しかしそこが黄櫨の魅力だ、とは思った。この可愛らしい少年の子供らしくない、人間らしくないところが気に入っているのだ。彼がこちらをどう思っているのかは分からないが……ピーターへの懐き具合を見ていると、自信が無くなってくる。しかし嫌われてはいなさそうだ。静寂を好んでいる筈の彼が、こうして会話を続けてくれるのだから。

「僕も、昔は寝てばかりいたんだよ」
「えっ? それって冗談?」
「ほんとだよ。眠りネズミだからね。いつも眠たくて、ずっと寝てたんだ」
 には黄櫨の言うことがとても信じられなかったが、それが嘘であっても事実であっても大差ないように思えた。今目の前に居る少年が、万年寝不足だということには変わりない。

「じゃあ、どうして寝なくなっちゃったの?」
「なんでだろう。ある時突然、寝ることに飽きちゃったんだ。寝ている時間で他のことが出来ると思ったら、勿体なく思えて」
「そう言うものかな。それって最近のこと?」
「……ううん。まだ、僕と常盤が永白に居た時のことだよ」

 黄櫨は遠い目で、どこでもない場所を見ている。は黄櫨が過去を思い出しているのだろうと思ったが、それが彼にとって良いものなのか悪いものなのかは分からなかった。顔を見つめ続けるのもどうかと思い、黄櫨の丸い耳に視線を移す。――普段あまり意識することは無いが、彼は不思議の国のアリスの“眠りネズミ”の役なのだ。そしてもっとそれらしくないが、常盤は“帽子屋”である。この二人のキャラクターは物語の中で“狂ったお茶会”を開いていた。そしてそのお茶会にはもう一人のメンバーが居る。

「“三月ウサギ”のアリスネームを持っている人も、居るの?」

 それを口にした時、は薄氷を踏み砕いた感覚に陥った。いつも無表情な黄櫨の顔から、僅かな色も抜け落ちている。空気が張り詰めていた。これは訊いてはいけないことだったのだろうか……は質問を取り下げようとしたが、それさえ憚られた。黄櫨は暫く黙り込んでいたが「居たかもしれないね」と言うと、再び本の虫に戻っていった。



 *



 出発から丸一日と少しが経った頃、馬車はある場所で止まった。自動ドアのように扉が開くが、はその仕組みを知っている。道中何度も驚いたが、馬車の後ろを伴走していた騎士団員が、フットマンさながらに開けてくれるのだ。彼らとは旅の間ろくに言葉を交わす機会もなかったが、使用人扱いをしてしまっていることに、感謝と申し訳無さでいっぱいになる。「有難うございます」と丁寧に頭を下げると、騎士は硬い表情で「いえ」とだけ言った。

(わあ……寒い。どんどん寒くなってる気がする)
 開いたドアから吹き付ける空気はまるで氷水で、は馬車から出るのを躊躇した。
 降りしきる雪の向こうには、ぼんやりと滲むような灯りが見える。人の姿も気配もある。華やかではないが落ち着いていて、趣のある町だった。
 は静かな光景の中に、既に馬車を下りていた常盤を見つける。丈の長い灰色のコートは、白い雪と夜の闇によく馴染んでいて、はどこか映画のワンシーンを見ているような気持ちになった。

 彼はと目が合うと歩み寄り「足元が滑りやすいから、気を付けて下りなさい」と手を差し伸べてくれる。は少し気恥ずかしそうにしながら、素直にその手を取って下りた。

 馬車が通る公道は雪かきがされているのか、足が埋まるほど積もってはいない。しかし車輪や人に踏み慣らされた雪は固まって氷になっており、確かに滑りやすそうだった。は黄櫨が下りるのを手助けしようと振り返ったが、黄櫨はまるで遊びのようにぴょんと飛び降りて、危うげなく立っている。

「この町が目的地ですか? 永白の国っていう」
「いや、違う。永白に向かうには町を出て森に行く必要があるんだが……雪が積もり過ぎていて、馬車が進めないんだ」
「なるほど。つまりここからは……」
「暫く歩くことになるな」
 暫くとはどの位なのだろう。だが、馬車の中に居た時は億劫だった白銀の世界は、実際に踏みしめると心地よく感じられた。

 道の端で、ジャックが彼と同じような黒ずくめの騎士団員達と話をしている。それは道中、休憩で馬車を下りた際に何度か目にした光景だ。だが今回はそこに白色が加わっていた。白いマントの背に赤色で描かれた何か。それはトランプのダイヤのスートだ。恐らく彼らが、永白付近に駐屯しているというトランプ兵達だろう。休憩の時、ジャックが彼らと合流すると言っていたのをは思い出した。
 ジャックはと目が合うと、軽く手を上げる。達は彼らの方に近付いていった。

「馬車旅はどうでしたか、お嬢さん」
「馬ってすごいなって思ったよ」
 凍った雪道では一歩一歩進むのが大変だ。覚束ない足取りでしみじみ言うに、ジャックは「その通りだな」と頷いた。それからどこか警戒している様子の駐屯兵にを紹介する。

「彼女が先程話した新しい“白ウサギ”だ。もう知っているとは思うが、陛下の命で重要な役目を任せられている。彼女が無事に任を全うできるよう、力を貸してくれ」
 ジャックははっきりと強い口調で、それでいて彼らの意思を尊重する言い方をした。兵士達の目から疑念が消え「了解!」と元気な返事が返ってくる。エースもそうであったが、ジャックはトランプ兵達からの人望があるのだろう。は体育会系のノリに尻込みしながら、挨拶をした。

「は、はじめまして……です」
「はい!」
 兵士達がビシッと敬礼をする。……馬車に乗り込む前に、騎士達とも同じようなやりとりをしたは、予想はしていたものの居た堪れない気持ちになった。自分はそんなに大層な者ではないのだ。消え入りたくなる。

 それから一行は町を出て、トランプ兵の案内のもと森に入った。人気のない森の中は、雪の積もり具合が段違いである。真っ白でさらさらな雪は底が見えず、時にずぼっと腰の辺りまで埋まってしまった。ジャック達はそれ程苦戦した様子なく、どんどん進んでいってしまう。

(この世界の人達が雪に慣れているとは思えないけど……わたしが極端に不器用なのかな?)
 はとりあえず誰かが歩いたところを辿り、足跡から足跡に着地するように移動した。黄櫨はその様子を「ウサギがジャンプしてるみたい」と言い、ジャックは「懸命だな」と笑い、常盤は温かい目で見守り、時折に手を貸すのだった。

 一時間は歩いただろうかという頃、先頭の兵士が「ここです」と言うのが聞こえた。は前の方を覗き込む。そこには建物一つ無く、まだ延々と森が続いているようにしか見えないが……よく見れば何かがあった。あれは何だろう?

「鏡……姿見?」
 近付いてみると、確かにそれは一枚の姿見鏡だった。森の中にポツンと一枚、木に括り付けられて立っている。こんな場所に鏡があるということも驚きだが、そもそも鏡があるということ自体が驚きだった。はこの世界に来てからというもの、鏡を目にしていない。それはこの世界において鏡が危険な存在だからだ。

 不思議の国の鏡は時に真実以外を映し、人を鏡の世界へかどわかすことがあるという。そのため人々の生活には、わざと見辛く加工することで魔力を封印した、歪な鏡しかないのだ。

(そういえば、図書館で読んだ時間くんについての本でも何か書いてあったな……何だっけ)
 というか、どうしてこんな所に鏡が? とが尋ねるよりも先に、常盤が説明する。

「これが永白の国に繋がるゲートの一つだ。永白の国に入るためには、幾つかある鏡のゲートの入国審査を受けなければならない。審査に通れば、鏡を通って永白の国に行ける。鏡を使った空間移動魔術で、永白は観光客の行き来をしやすくしているんだ」
「同時に、望まない客を排除してるってことだな。“迷いの森”に囲まれている永白への正しい道は、この鏡のお陰で今はもう、誰も知らない」
 ジャックがどこか疑う様な顔で、鏡を見ながら言った。

 ――迷いの森。は道中彼らに聞いた話を思い出す。永白の国を囲むタルジーの森は深いだけでなく、コンパスが効かず、別名迷いの森と言われているらしい。今居るここがそんな危険な森には思えなかったが……鏡を境にして、その先の森は若干雰囲気が違うように見えた。明確にどこが違うとは言えないが、敢えて言うなら空気の色が違うのである。……あれが迷いの森、なのだろう。

「鏡を通れば、森を抜けられるってことですか。でも……鏡って危険なんですよね?」
「鏡のゲートは嘉月会で厳重に管理されている。そう危険はない筈だ」
 言いながら常盤が鏡の前に立つが……そこには何も映らない。はギョッとした。確かに普通の鏡ではなさそうだ。兵士が「昨日からどこのゲートも、入国規制をしているようなんです。我々だけではどうにもならず……」と困った様子で言う。
 ジャックは懐から王の書簡を取り出して「俺の出番が来たな」と鏡の前に行こうとしたが、常盤はそんな彼を無視して、片手で鏡の表面をコツンと叩いた。すると、鏡の表面が石を投げ込まれた水面の如く揺れる。

「異変について、話を聞きたい。入れてくれないか」
 常盤の呼びかけに、鏡は少しの間悩むようにユラユラしていたが――その鏡面が徐々に、濃い霧状に変化する。ジャックが感心半分、つまらなさ半分に「随分あっさり開いたな。流石、永白の出身者」と言った。
 ……どうやらゲートが開いたということらしい。こんな何も見えない霧の中を進めるのだろうか? と、は彼らの後ろからそこをじっと観察する。先の見えない鏡は、セブンス領に迷い込んだ時の暗闇のバグとは違う不気味さがあった。

「怖い?」と黄櫨に顔を覗かれ、は首を横に振る。不謹慎だから言わないが、本当はちょっとワクワクしていた。不思議な鏡。魔法の国、永白。それはどんなところなのだろう。これから何が起きるのだろう。

 騎士達が一人ずつ、慎重に靄に飲まれていく。が「中ではぐれることは無いの?」と訊くと、黄櫨は「大丈夫だよ、一本道だから」と言って、の手を軽く握ってゆっくり引いてくれた。トランプ兵達は持ち場を離れられないのか、同行はここまでらしく「お気をつけて」と見送り顔をしている。

 は鏡の中に、足を踏み入れた。 inserted by FC2 system