Act2.「楽園の蛇」



いつの間にか馬車の窓から見えるのは見慣れた建物で、自分が眠ってしまっていたことに気が付く。そんなに長い時間ではなかったのに、本当にいつの間に、だ!!肩にはジャックの手が掛けられていて、この覚醒も自身のものではなく彼によってもたらされたものだと知る。……本当に、こんな自分が嫌になってきた。こちらの世界に来てからというもの、人に寝顔を見られてばかりなのだから。
は溜息を吐きながら馬車を降りる。門を潜ろうとした時、ジャックが小さく「あ、」と声を上げた。

「……どうかした?」
が鈍い反応でジャックの視線の先を追うと、見知った青年の姿がこちらに近付いてきていた。

「おお、ピーター!久しぶり……じゃないな。常盤に何か用か?」
「ああ、うん……いや、違うけど……」
どっちだよ、と突っ込みを入れるジャックを無視して、ピーターはにハガキより少し大きな封筒を差し出した。

「もしかして、果たし状?」
「なんで君と僕が決闘するの。違うよ。公爵夫人から、君に渡すように頼まれたんだ」
「橙から?」
公爵夫人の橙。気が強そうに見えて、実はちょっと臆病な、年下の女の子。たった数日前まで同じ屋根の下で暮らしていたというのに、なんだか懐かしいような気がした。はピーターから白い洋封筒を受け取ると、静かに糊付けを剥がして中身を確認する。手紙と、二つ折りのカードが一枚、入っていた。覗き込もうとするジャックから逃げつつ手紙に目を通すと、その手紙には「お元気ですか?」なんていう定番の挨拶に始まり、屋敷に戻ったという近況報告や、お礼の言葉が綴られているようだった。後でじっくり読もうと、それを封筒に戻す。そしてカードの方は……

「結婚式の招待状?」
文面に、ポカンとしてしまった。読めばそれは、橙とユリウスの結婚式の招待状であるらしい。既に夫婦である二人だが、互いの性格もあって最初の結婚式は非常にささやかに行われたのだという。今回はそれのやり直しということだそうだ。
ユリウスが盛大な式典に乗り気だとは思えなかったが、一見そういう華やかな事が好きそうに見える橙も、あれで結構内気な性格だということをは知っていた。その二人が大勢の人を呼んで大いに盛り上がろうなどと言うのだから……絆を再確認して、新たな一歩を踏み出していくのだろう。橙が街の時計を所有しなくなったことで、街としても再スタートをきろうとしているのかもしれない。

「返事は僕が返しておくけど」
「ありがとう。ごめんねって、言っておいてね」
そう言ってカードを封筒に戻すに、ピーターが意外そうな顔をする。

「断るの?」
は小さく頷いた。世界が終わるかも知れない状況で、よくそんなに呑気なことがやっていられる、だなんて思っている訳ではない。寧ろ最後だから、という気持ちだとしたら理解できなくもない。ただわたしには、それに付き合う気がないのだ。……やっぱり、こんなときに、って思っているのかもしれないな。
ピーターは「そう」とだけ言った。

「なんかお前達、仲良くなってないか?」
「どれだけ仲悪いと思ってたのよ」
今でも良くは無いと思うけど。
ジャックは納得がいかないような顔で暫くとピーターを見ていたが、そんな彼を無視して二人が門を潜っていってしまったので、それ以上の追及は諦めざるを得なかった。



屋敷に入ったとき、が驚いたのは黄櫨の反応だった。まずが入っていくといつものように本を両手に抱えたまま単調に「おかえり」と言い、次にピーターが入ってくると本を置いてとことこと彼に駆け寄り抱きつき、最後にジャックが入ってくるとぴゃっとピーターの影に隠れながらも、雰囲気を一風させて彼をジトリと睨み上げた。

が帰って来たんだから、お前にもう用は無いよ。帰れば」
「相変わらず黄櫨は反抗期だなあ」
「馬鹿じゃないの、僕の名前、呼ばないで。吐き気がする。この馬鹿、馬鹿」
「なんでピーターに懐いて俺には懐かないんだよ。俺、子供に好かれる自信はあったんだけどなあ」
「勝手に言ってれば」

(駆け寄って笑顔で抱きつく黄櫨くんも初めて見たけど……)
は唖然とその様子を見ていた。ピーターはやれやれ、といった顔で黄櫨の頭を撫でている。

「……よし、そうだ!黄櫨、こっちに来いよ。高い高いしてやるぞ!」
なにが「そうだ」なのかは分からないが、ジャックはそう言うとピーターの手元から黄櫨を掻っ攫い、その体を高く持ち上げた。黄櫨から「ひゃっ」と空気の抜けるような間の抜けた声が漏れる。

「ほーら、高い高いー!」
「他界しろ他界しろ」
少女のような愛らしさのある少年の口からは、とても想像の付かない言葉だ。黄櫨は言いながらジャックへと蹴りを繰り出しているが、ジャックはといえばそんなものはさっぱり効いていないというように「ははは」と笑っている。しかし次第に足は振り子の原理で勢いを増し、その渾身の一撃が見事に彼の鳩尾にヒットすると、彼は黄櫨を放さずにはいられなかった。華麗に着地した黄櫨が、痛みに呻くジャックに「フン」と鼻を鳴らす。
黄櫨の様子からは彼への嫌悪が滲み出ていたが、それでもにはそれが微笑ましい光景にしか見えなかった。

……おかえり。何もなかったか?」
「常盤さん、ただいま。大丈夫でした」
奥から常盤が出てきた事に気づくと、黄櫨は再び本を抱いて何事も無かったような顔に戻る。はそんな黄櫨に、可愛いなあと目を細める。

「ピーター、どうしてお前がここに居るんだ?」
「ついでだから」
ついで、というのはどちらのことだったのだろうかとは考える。常盤や黄櫨へ会いに来るついでに、自分への預かり物を届けてくれたのか。いや、きっとそうだろう。でなければ彼が伝書鳩の真似事などする筈もない。彼は黄櫨にも懐かれ、何だかんだと常盤やジャックにも気を許しているような部分がある。ここは彼の居場所なのだろう。……わたしにも、そのような場所はあった。

「わたし、疲れてしまったのでもう休みますね」
記憶を読み込む為に何度も睡眠を繰り返したというのに、もう長いこと眠っていないような気がしてならなかった。心配をかけては駄目だ、となるべく元気良く言ったつもりだったのだが、結局常盤には心配そうな顔をされてしまった。おやすみなさい、と言って、は談話室に向かうのだろう四人から離れる。誰かから呼び留めるような声はあったかもしれない。聞こえなかったフリをした。
しかし疲労の蓄積された体で階段を上るのは辛く、真ん中当たりで座り込んでしまう。橙からの手紙を横に置き、ゆっくりと階段に腰かけると、そう離れていない部屋から会話の声が僅かに洩れ聞こえてきた。

それがわたしの中に渦を巻いて、吐き気を呼び起こす。橙の一件が収着した頃から、時々感じるようになっていた吐き気だ。

「……で……―――だろ、」
何を話しているのかは聞き取れない。けれどだからといって、わたしが観測するまでその空白に無限の可能性があるかと言えば、違う。恐らくそこに当てはまる言葉は、発信者の口から出た瞬間、または思考の中に芽生えた瞬間から唯一つの形を持っている。
存在論の話がしたいのではない。ただ、間違いなくそれは“わたしの観測し得ない世界”であるということなのだ。
結局わたしの言っていた「守りたい」というのは、ただの自己満足の戯言でしかなかったのだと今では思う。もしかしたらこの考えさえ、明日の自分には分かったような気になっているだけだと言われてしまうかもしれない。だからあくまで、今の考えだ。
それに拠ると、わたしは今まで期待とか責任とかを分かった気でいて、やらなくちゃいけないという雰囲気に酔って、どこかから借りて来たような使命感を持って進んでいただけなのだと思う。

「使命感……ね。ほんと、笑える」
橙や街の人々、城の人々、その誰もが世界の救済に期待などしている様子がなかった。誰も怯えず、誰も新しい白ウサギの存在に気を留めない。もし元の世界で、世界が消滅してしまうだなんて確かな予測がなされたなら、世界は一瞬にして混沌に包まれるだろう。しかしこの世界は、そうではない。そしてそれは、単に人々がその予測を知らないのではない。皆、知っていた。街で、城で、その未来は確かに認識の上にあった。
最後だからと、その瞬間を美しく飾ろうとする者。最後だからと、いつも通りに生活している者。最後だからと、城仕えを下りて故郷に帰るという者の話まで耳に入ってくる。

『わたし、今は本気でこの国が消えてなくなるのをどうにかしたいって思っています』
そう言ったいつかの自分が、許せない。
守りたいだなんて軽々しく言ってしまった自分も、諦めきった人々も、みんな許せない。なによりおかしいのは、すっかり変わってしまったわたしの心だ。大義名分の使命感などで満たされていたそれは、今はカラカラと乾き、痛いくらいに脈打っている。まともに思考も働かない。どうしていいか分からない。そう、わたしはようやく自覚した。ここはわたしの見ている夢の世界なんかじゃない。ただの、一つの世界。わたしが認識しない階段の傍の部屋にも、世界は広がっている。みんな、生きている。それを自覚してしまった時から、もう、

責任感で、死んでしまいそうなんだ!


「階段って休み心地いいの?」
突然かけられた声にハッとして顔をあげると、そこにはいつも通り感情の読めない表情で黄櫨が立っていた。音どころか、気配すら感じられなかった。は冷えた肝に手を当てて、温める。

「うん、まあまあかな」
「そう」
黄櫨はそれだけ言うと、当たり前のような顔での隣に腰掛ける。それから「悪くも無いけど、良くもないね」なんて感想を言った。「ふふ、そうだね」と笑って座りなおしたの下で、かさりと紙の音がする。ああ、しまった。

「橙から貰った手紙が、皺くちゃになっちゃう……なっちゃったかも」
「……公爵夫人のこと?」
「そう。よく知ってるね……いや、知ってるものなのかな?」
「まあ、称号持ちのことなら、一応知ってるよ」
それもそうだろう。称号持ちとは、この世界で限られた役が限られた人数居るだけなのだ。その中の一人である黄櫨が、他の役のことを知らないだなんておかしな話のような気がする。

「称号持ちっていうけど、橙は、普段は普通の女の子って感じだった」
「僕は普通じゃない?」
「黄櫨くんは、纏ってる雰囲気が大物そうだもの」
特に興味無さ気に「そう」と言って、それから何も言わない黄櫨だったが、中々ここから去ろうとはしない。それどころか、の目を見続けている。は居心地の悪さに目を逸らしてしまいたくなるが、その黄色い瞳は人を縛って離さない。

(何かを、察しているのだろうか)
わたしのことについて。それが、わたし自身が知っていることよりも多いような気がするのは、やはり彼が大物だからか。

「……黄櫨くん」
「なに」
「橙からの手紙、ね。結婚式の招待状だった」
これだけの説明だと橙がまた新しいパートナーを見つけたみたいだが、黄櫨は勿論そんなことどうでも良さそうだ。

「どうして、だろう。責めたいんじゃなくてね……いや、責めたいのかな、やっぱり」
「―――こんな時に、って?」
はピリ、と頬が引き攣るのを感じた。黄櫨がまるで、ようやく本題に入ったかというような顔と態度と口調で、迎え撃つものだから。

「ここはわたしが居た世界とは違うって、分かってる。わたしとここの人達とじゃ、もしかしたら思考そのものが根本から違うのかもしれない。けど、どうして皆、そんなに平気な顔してるの?」
当初当然だと思っていたジャックの反応でさえ、今では薄いもののような気がしていた。自分が彼の立場ならきっと、あんなものじゃないだろう。今になって、皆が皆、気持ち悪い。黄櫨は思慮深く言葉を選ぶように俯いて、通常より低めの声で話し始める。

「公爵夫人の辺りは、仕方ない。そういう指針なんだ」
「え……?」
「あの地区の人たちは、城の王よりもアリスに重きを置いているんだよ。……元々アリスは創造主。神のような扱いをされてきたんだ。人々は誰しもアリスを唯一の神と認め、崇めていた。……でも、王が力を強めたことによって国民は二つに分かれた」
「アリスを信仰する者と、王に従う者に?」
「そう。アリスを唯一の神と崇める“アリス信仰派”は、あくまでも心の拠り所としての信仰だから、王党派と争うようなことは今までなかったよ。まあ、王の命令で白ウサギがアリスを捕らえようとしているなんて広まったら、もしかするかもしれないけど」
「でも、橙には正体を明かしたよ」
黄櫨は橙がアリス派であると言うが、ならば何故こうもアリスの敵である自分に友好的なのだろうか。

「称号持ちは、やっぱり、別だから。アリスだって称号持ちの一人にしか過ぎない。格が上だったとしても、それは一括りに出来るレベルだよ。だから僕たちとアリスは、そもそも信仰で繋がるような関係じゃない。公爵夫人だって、自分の意思でアリスより君を選んだんだと思う」
黄櫨がペラペラ喋っているのは、見ていて面白い。けれど機械みたいに思えてきて、は彼の体温を確かめようと、思わずその丸い耳に手を伸ばす。ああ、残念。ひゅっと逃げられてしまった。は咎めるような彼の視線を無視して、何事もなかったフリをする。

「でも、こんな状況でも、まだアリスを信仰している人達なんて居るの?わたしは―――勝手かもしれないけど、神様って、お願いを叶えてくれるものだって思ってた」
いや、祟り神も神か。信仰しなければ災いを齎すだなんていう恐ろしい神様だって居る。けれど、強制されてもいないのに好き好んで信仰するのはやはりおかしい。災いなら、もう予告されてしまっているのだから!

「こんな状況だから、城からの目もあって、公に信仰している人は少なくなった。けどね、それでもアリスの意思は神の意思、受け入れるべき運命だと思っている人は多いよ。王党派の者でさえ、手出しできない次元のことと諦めてるのが殆どなんだから。王だけかもね。まともに彼女とやり合おうなんていうのは、さ」
天からの声。受け入れるべき運命。けれど誰も、アリスのことを知らない。

「よく、会ったこともない人を信じられるね」
それは昔から思っていたことだ。信仰が人々の生活を潤し、心を支えてくれるものならば構わない。だが度を越えて、それ自体が正義となってしまった信仰は、争いをも生む。しかし、それほどの力を持つものであるにも関わらず、多くの者は信仰対象と会ったことも、声を聞いたこともないのだ。もしも自分の前に神が現われて、圧倒的な力を見せつけ、信仰することを要求するのならばそれを呑もう。だが自分も、また、多くの者も違うのだ。ならば彼らは、何ゆえに、何を信ずるのか。

「アリスは全ての母である」
思考にはまりかけたところを、黄櫨がその一言で引っ張り上げる。どこか彼らしからぬ発言に、は僅かに目を見張った。

「全てというのは、この国の地と空と……とにかく全て。そして、この国の僕達のこと」
「黄櫨くん達の?」
「この国の人々のこと。当然今は人々の手で新しく育まれた命も多くあるけど、一昔前までは国民の殆どが、突然出現した者達だった。初めなんて10割だよ。彼らや僕らは、国を成り立たせるための駒として、また、かさ増しとして作られた者達だったんだ」
「……出現、した?」
「何もないところから突然だよ。まるで元から居たように、いつの間にか僕らはここに居た。そういう者たちの母は誰か。―――だから僕たちは、アリスの子と言われてる」
人は皆神の子、みたいな考え方とは違うのだろう。彼らには、黄櫨には、親という存在が初めから居ない。

「けど僕は、彼女を母親だなんて思わないよ。この国はアリスの遊び場で、僕たちはやっぱり駒でしかないんだ。だから、彼女は母親なんかじゃない。僕たちは皆、孤児なんだ」
淡々と語っているだけなのに、黄櫨の言葉は聞いていて苦しかった。遊び場。駒。ここが?彼らが?

(冗談じゃない)

遊び場なんかじゃない。これはゲームなんかじゃない。死んだ駒はもう二度と蘇らない。の脳裏に、記憶に新しい一人の少女の最期が蘇る。これがもしゲームや本の世界なら、あんなに可哀想な、そして格好良い人が戻ってこない筈がない。なのに、結局彼女は帰らぬ人のまま、そして残された少女は彼女の死を乗り越えていく。ここは取り返しのつかない、もう一つの現実の世界だ。

「……、なんか、顔怖い」
「えっ!」
慌てて表情を緩めようとする。けど、触ってみた顔は固かった。

「ここ最近悩んでたみたいだけど、更に悩ませた?」
ああ、なるほど、とは納得する。優しい子だ。……黄櫨くんはきっと、わたしを気遣って来てくれたのだろう。わたしの悩みを解消してくれようとしたのだろう。

「ううん、ありがとう」
スッキリはしなかったけど、重要な情報が得られた。そして実感を与えてくれた。これでわたしは―――


前に進める。


「君にお礼を言われるってことは、僕はろくでもないこと言っちゃったのかも」
黄櫨はちょっとだけ眉間に皺を寄せて、困惑した声で言った。やはり話などしに来るべきではなかったのだと。だって今、はきっと決めてしまった。初めて見る、の表情。あれは覚悟ではなかったか。もしかしなくてもこれは、二度目の咎だ。

が本に飲まれた日のことを、黄櫨は思い出す。
あの日、日付が変わる頃に常盤が戻ってきた。彼は取り乱すことはなかったが、が心配で居ても立っても居られないようだったし、疲れきっていた。自分が出てから一体何があったのかと問われた口調こそ責めるものではなかったが、彼の目には確かに問い詰めるような非難があった。きっと彼自身は、それに気付いては居ない。第三者がそこに居ても気が付かなかったかもしれない。ただ昔からそうであったように―――僕は人の感情に敏かった。

僕は常盤の信頼を裏切ってしまった。
僕は彼からを任せられていたにも関わらず、彼女を守れなかったのだ。


結局彼は、一度もそのことで黄櫨を責めることはなかった。を巻き込んだであろう本の話をした時も、“彼女が巻き込まれたのは必然”だったと、それに用心しておけなかった己の不注意さを呪うばかりで、黄櫨に何か言うようなことは決して無かった。だがそれが、黄櫨を不安にさせるのだ。まるで、もう何も期待していないと言われてしまっているかのようで。

(いっそのこと、責めてくれたなら、どれほど良いか)


いつの間にか階段にの姿はなかった。いや、いつの間にかじゃない。今、彼女は自分に「おやすみ」と笑いかけ、僕はそれになんらかの言葉を返し、彼女を見送ったのだから。

これが贖罪の為の、更なる罪であるなどとは認めたく無かった。
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