Atc15.「芋虫の深層的森理学」



ひんやり冷えた他人行儀な空気と、その顔色を青ざめさせる植物達。風の音と、獣の気配。白く淡い月明かりだけが頼りで、一寸先は闇。夜の森は、不気味である。そして同時に、幻想的で美しい。
は何度か夜の森を経験しているが、その独特の静けさに包まれる度、その神秘性にいつか引き込まれてしまうのではないかと思っていた。しかし今は、その心配は無用である。その神秘性をすっかり損なわせてしまう事象が、森同様にどこか神聖な雰囲気を持つ彼によって、隣で起こされているからだ。

「……緑葉さん、何をしていらっしゃるんですか?」
「栄養補給。これは、食べられる葉っぱなんだよ。もどう?」
口いっぱいに葉を頬張った緑葉が、そう言って手に持っている葉を数枚、へ差し出した。夜の森独特の静けさは、もしゃもしゃという咀嚼音で既にかき消されている。

「いえ……遠慮しておきます」
「そう」
緑葉はが受け取らなかった葉をそのまま自身の口に入れる。そして、空いた手でまた、道中の葉を摘んだ。数分前に「小腹が空いた」と言い、突如このような奇行に走りはじめた緑葉に、はどう反応すべきか悩んでいた。彼がその役名の通り、芋虫のような生態であるという訳ではない。確か、パンやスープといった一般的な食事を摂っていたはずだ。しかしどうしたことか。彼は今、道草ならぬ道葉を、貪り食っている。緑葉は食べられる葉だというが、にはとても、それが人間の食べ物には見えなかった。ああ、でも彼は芋虫だから―――というの考えを察したわけではないが、緑葉が言った。

「しっかり食べないと、ちゃんと羽化できないよ」
「羽化、ですか。緑葉さんは、羽化の予定があるんですか?もう成人……成虫のように見えますが」
「いや、我々はね、いつかアゲハ蝶になる予定だから」
彼の言葉は、本気のようにも冗談のようにも聞こえる。―――冗談にしては体を張り過ぎているから、本気なのだろうか。

「葉っぱを食べると、蝶になれるのでしょうか」
「そうだね。兆候はある」
そう言って、緑葉は自身の編まれた長い髪を、つまんで持ち上げた。

「最初、我々の髪は鮮やかな黄色だった。けれど葉を食べ続けていたら、今みたいな緑色になった。この緑色は……いつかミヤマカラスアゲハになると予想しているね」
にはそう言われても、すぐにミヤマカラスアゲハの幼虫が思い浮かばなかったが、彼が言うことが本当ならば、今の彼はそこに近付きつつあるのだろう。

―――しかし、彼の綺麗な緑色の髪が、変化した後のものだとは思っても見なかった。黄色い髪の彼の姿が、想像できない。そう、翼のあるアオイが想像できないように。

「緑葉さんも、自分を変えたいと思ったのですか?」
「……も?」
「アオイさんがお話してくれました。羽と尻尾を、自分で切ったと」
「おや、君には随分お喋りだったんだねェ」
緑葉は丸い瞳をさらに丸めて、感心したようにそう言った。

「我々は、決して黄色が嫌だったのではないよ。ただ、緑のほうが好きだし、ステンドグラスのようなアゲハ蝶はもっと好きだというだけさ」
は、彼の丸い緑を覗きこむ。そこは、深い。どんな沼よりも、森よりも、深い。

「アオイは言っていたね。未来は分岐すると。そして、我々も前に言ったよね。真実は一つではないと」
確かに、初めて緑葉に会った日、彼はそのようなことを言っていた。真実は人それぞれ、別々に存在するのだと。

「自分が望んだ姿かたち。それがあるべき状態で、それこそが真実だ」
そう言い切った緑葉に、は思う。彼の理論は、現実逃避の理想論のようで、そうではない。それは、愚直なまでに自身と向き合った、険しい生き方なのだ。

難しい顔をしているに、緑葉は軽い口ぶりで訊ねた。

「君は、君の真実は見つかりそうかい?」

その問いかけには暫し考え、言葉を練り、それを静かに口に乗せる。回答は、緑葉の言葉を拝借することにした。

「その、兆候はあります」
緑葉は眉を上げ、「ほう」と少し意外そうに息を吐いた。
は少しの間黙ってから、思い切ったように口を開く。

「緑葉さん、アリスの記憶は、わたしにだけ見えるんです。誰が同じ場所に居ても、わたしだけに見えるんです」
緑葉は、何も言わずに静かに聞いている。

「どうしてわたしだけ、アリスの夢を見るのか。最初はただ、白ウサギという役だからだと、単純に考えていました。けれど今は、それだけではないように感じています。それに……アリスの記憶を懐かしく感じ、あまり疑問を抱けないんです。だから、きっとわたしは、自分でも知らない何かを知っているんです。答えはわたしの中に、あるのだと思います。」
は自分の言葉に納得し、そして驚いていた。
そうか、そうなのか。わたしはそのように感じ、考えていたのか。

実は、思ったよりも真相に近い位置に立っているのかもしれない。

「緑葉さんも、常盤さんも、時間くんも。皆、わたしの知らないわたしを知っていて、誰もそれを教えてはくれない。わたしはずっと、それを理不尽だと思っていたけれど……。でも、あなた方の中のわたしは、本当のわたしで無いかもしれない」
そう、彼らの真実はわたしにとっての真実ではないのだ。は丁寧に、自分の中の気持ちを言葉にしていく。

「わたしは自分で、わたしだけのわたしを見つける必要がある。それがわたしの真実で、結果として―――……アリスに、辿りつくことになるんでしょうか」
ゆっくり、はっきりと紡がれていた言葉の最後に、疑問符が滲む。緑葉が「それは、」と口を開きかけたが、はそれを制止した。

「いえ、ごめんなさい。答えを求めていたのでは無いのです」
「……うん、それが正解。お利口さんだねェ」
の言葉に、彼女の思考の変化に満足気な様子で、緑葉は微笑んだ。大きく暖かな手が、の頭をふわりと撫でる。 その手にたくさん握られていた葉は、いつのまにか全て、彼の中に納められていたらしい。
子供扱いが嫌だと感じないのは、大人になったということかもしれない。はふと、そんなことを思った。

「そんなお利口さんに、真実を構成する事実を一つ、あげよう」
「え?」
「役割は固定じゃない。変わるんだよ。白ウサギの役がピーターからに移ったように、他のどの役も、その可能性は常にある」
「それは……」
「無論、アリスも例外じゃないってことさ」
「今のアリスは、最初からアリスでは無かったという事ですか?」
「さてさて。まあ、余計なものにとらわれずに、自由に考えてみることだね」
緑葉は肩を竦めて、大袈裟に両手を広げた。彼の一貫した掴みどころのなさに、は「はぁ」と相槌のような感嘆の息を漏らした。

「緑葉さんは、ブレなさそうですね。わたしはブレてばかりです」
「君が?我々には、大分自が強いように見えるけれど」
「ただ自分勝手で、我儘なだけですよ。影響されたり流されたり、そんなことばかりです」
この国に対する心象も、自信の行動指針も、本当にブレてばかりだ。そんな自分は、緑葉に比べると、本当に、とても浅い。
そう言うに、緑葉は珍しく少し考えこむような素振りをしてから、ポツリと言った。

「我々には、目に見えて触れることの出来る真実があるからね」
彼の言葉に、は少しだけ驚く。彼の言う真実とは、もっと抽象的なものかと思っていたからだ。
それは一体何なのかと問うに、緑葉はやはり珍しく「そうだねェ」と言葉を濁す。そして、

「亀太郎、かな」
と、赤髪の少年の名を、答えた。

「亀太郎くん、ですか?」
「うん。あの子はひねくれているようで、とても素直で真っ白だ。あの子に映った我々と、世界が、我々にとっての真実だよ」
緑葉の選んだ言葉は詩文のようで、清らかで尊い何かに、心酔しきっているようなものだった。しかしその言葉面とは違い、彼の表情はただただ、家族についてを語るようなものだった。

「濁ることのない鏡をお持ちなのですね」
「いいや?濁ったときは、濁りが真実だと思えるというだけさ」
緑葉の口ぶりは、誇らしげなものに聞こえた。随分と少年を溺愛しているらしい。その愛は、黄櫨の常磐に対する感情よりは穏やかではあるが、やはり依存に近い親愛だ。

は自信の中の似たような感情を探り、暫く会っていない家族の顔を思い出す。
……いや、少し、違う。家族は確かに深い愛情を向ける相手だが、依存とは違う。ならば後は、それに近い対象で思い当たるのは、一人の少女だ。

桃澤紫。親友という名の、共依存の相手である。
……彼女はわたしにとっての真実だろうか?現実である、とは思う。行動の理念になり得る存在ではある。

「真実は、見つかりそうかい?」
緑葉はもう一度、同じ問いかけをした。しかし今度のそれは、質問ではない。確認するような、促すような、穏やかで優しい響きを持っていた。

「見つけなくちゃいけない理由は、どんどん見つかってきました」
「そう。ただ勘違いしてはいけないよ。真実が最も重要というわけではないからね」
「重要じゃない?」
「いや、重要だけれどもね。もっとも重要なのは、そう。真実をどう捉えて、何をしていくか、だ」

森の緑が、深い。
木々のざわめき、独特の静寂が、深層心理に語りかけてくる。


「……緑葉さんの仰ることは、本当に、どんな言葉も尤もらしいことのように聞こえますね」
「尤もらしいのは当然さ。これが、真実なのだから」

緑髪の青年は、笑った。緑色の髪が、夜風に凪ぐ。月明かりに照らされたそれは、金色に透き通る。は眩しさに、目を細めた。


彼は、森のような人だ。と、思った。


人を惹きこみ、迷わせる。休ませ、立ち返らせる。
昼間のように穏やかで、夜のような神秘性を秘めており、深く、どこまでも深い。


深く深く、誰より何より真理に誠実に向き合う、不思議の国の芋虫。



ああ、彼は薬剤師であり―――“真理学者”なのだ。



――― 第三章『芋虫の深層的森理学』完 ―――



*



≪幕間≫



窓際で、白いカーテンが静かに揺れている。
外から射し込む柔らかな日差しが、暗い室内を淡く彩っていた。

ここはきっと、世界の果てにどこよりも近い。


「お前はどう思う?」

世界の終わりの様な顔で考え込んでいたかと思えば、突然顔を上げて、彼女はそう切り出した。

「はい?」
「真実、よ」
ますます訳が分からない。
そんな様子の俺を見て、彼女はクスクス笑う。この人の笑い方が、俺は好きだ。
触れればシャラシャラと音を立てて、空気に破片を散らすような、透明で儚いガラスの笑みが、とても好きだ。
丈夫な小箱に入れて、ずっと眺めていたい。ずっと守っていたい。他の全てから、隠してしまいたい。

「私は、真実なんていらないわ。辛く悲しい真実が無くても、優しい嘘だけで、人は生きていけるもの。誰も傷つけず、自分も傷つかず、生きていけるもの。なら、真実なんて初めから求めなくていいのよ」

そうですか、とだけ答えた。
俺は、それ以外に答えを持っていなかった。

そんな俺の反応に、彼女は不服そうな顔を見せたが、すぐにまた、世界の終わりの様な顔で物思いに耽る。

様な、じゃない。



彼女は―――



彼女こそが、この世界を終わらせるのだから。 inserted by FC2 system