Act14.「君だから」


 粉雪がさらさらと、彼女の艶やかな黒髪に舞い落ちる。月のように白い肌は血が通っていないようで、雪景色がよく似合っていた。は隣を歩く紫の姿を満足げに眺める。スノードームに入れて、持ち帰って、誰にも秘密にしておきたい。
 まつ毛に付いた雪が溶けてキラキラ輝く。夜色の瞳が、を見た。

『ねえ、今の見た?』
「今のって?」
『小鹿よ! 可愛い小鹿が居たの! ほら、ちょっとこっち来て』
 緑色のダッフルコートが背中を向けて、森の奥へ進んでいく。彼女に緑色は似合わないな、と思った。名前の通り紫色か、青や紺のイメージがある。

 ……お手洗いはいいのだろうか? 当初の用事を忘れていそうな紫に、は「おーい」と呆れたように声を掛ける。可愛い動物に目が無い紫に、それが届いている気はしない。
 は紫が気を遣わないように、自分も行きたい風を装って付いてきたが、実際まだその気はない。それなのに“彼女と一緒に”揶揄われてあげたのだ。だからちゃんと済ませてもらわないと困る。

『早く早く』
 紫は雪道にすっかり慣れたのか、もの凄い勢いでずんずん歩いていく。は遠ざかる彼女を慌てて追いかけた。

「ちょっと待ってよ、どこに行く気……」
「それはこちらのセリフですよう。さん、どこに行くつもりですう?」

 は暗闇から突然現れた姿に、びくりと体を跳ねさせる。

 呑気な響きの、独特の口調。それはすっかり耳に馴染み、親しみさえ抱き始めた男の声だった。振り返るとそこにはやはり、黒装束を身に纏い腰に小刀を差している、狸のお面を被った男。はそれが間違いなく彼であるか疑うようにまじまじと見つめる。

 大きな筋肉の下に適度に脂肪も蓄えている、がっしりとした体つき。派手な寝癖の様にうねるこげ茶の髪は硬そうで、本物の狸の体毛みたいだ、と密かに思っていた。……目の前の彼は間違いなく、狸その人である。
 何故彼がここに居るのだろう? 先程の会話を経て付いて来ていたのだとしたら、悪趣味にもほどがある。は不信げに彼を見た。

「狸さん、脅かさないでくださいよ。何か用ですか?」
「いえまあ。別にさんに用は無いんですが、そちらの方にはありましてねえ」
 狸はの後ろ、紫を顎で指す。紫はどこか強張った顔で狸を見ていた。心の防御壁が厚い彼女のことだ、彼のようなタイプは苦手だろう。……彼は紫に、何の用があるというのだろうか。

、あの人……少しおかしくない?』
 紫がの傍に寄り、不安そうな声でそっと呟いた。は狸がおかしいのは元からではないかと思ったが……紫の言葉を通して彼を見ると、確かにいつもと違って見える。狸の纏う空気は、いつもののらりくらりとしたものではない、どことなく、ただならぬ何かを感じた。

 お面の眼孔に広がる闇。そこには得体のしれないものが潜んでいるような気配がある。彼は本当に彼なのだろうか? 常に冗談を言い、鍋にマシュマロをぶち込んでいた、あの愉快な男なのだろうか? は狸をよく知ったような気になっていたが、結局それは知らされていた一面だけだったのだと気付く。

 狸はおもむろに、腰の刀を抜いた。そして切先を紫に向ける。は想定外のことに頭が真っ白になるが、紫の小さな悲鳴で我に返り、急いで彼女を背中に隠した。

さん、何してるんです? 早くこちらへ。今すぐ“彼女”から離れてください」
「どうしてですか」
「ううーん……。危ないからですよう」
「危ない事をしようとしているのは、狸さんに見えますけど」
 もしかすると彼は、鏡に錯乱させられているのかもしれない。またはフードの男が彼に化けているのかもしれない。とにかく、目の前の男が紫に攻撃する意志を持っているということだけは確かだった。は鋭い鋒を出来るだけ見ないように、彼のお面を強く睨む。狸は困った、というように首をひねった。

「あなたが気付けないのも無理はありませんが、“彼女”は偽物なんですよう」
「は……?」
 は狸の言葉に、語気を強める。心に沸き上がるのは怒りか、呆れか。どれにも収束しきれない感情だ。

(偽物? 紫が? そんな筈ない)
 背中に感じる温もり。振り返ればそこには、怯えながらも強さを秘めた瞳。庇われているのに、何かあった時は自分が前に出ようと覚悟を決めているような彼女。ここに居る紫は、以前青バラが化けた紛い物とは違い、確かに桃澤紫なのだ。

「わたしが間違える筈ない。なんの確証があってそんな事を言うんですか」
「確証がなくとも。疑わしきは罰すべし、が嘉月会のモットーですからねえ」
 お面の奥に、明確な殺意がギラつく。……疑わしきは狸の方だろう。

 紫の背後から狼が現れ「下がってください」と狸の前に進み出た。は今の今まで狼の存在を忘れていたため、一瞬だけギョッとする。
 狼は既に、抜いた刀を手にしていた。仲間の彼女からしても、やはり今の狸は敵と認識せざるを得ないのだろう。狸は面白そうに「ほー」と声を上げたかと思うと、突然その場に身を屈めて助走も無しに飛び上がった。一瞬で達の頭の高さを優に超える跳躍。それはとても人間の脚力とは思えない。

 彼は達の方まで、宙に弧を描くようにして一気に間合いを詰めると、狼の目前に低い姿勢で着地し、体を起こす勢いで刀を振るった。狼の刀がそれを受け止め、金属と金属のぶつかる音が響く。
 二人は暫く押し合っていたが、狼は力負けして後退り、彼から逃れるように身を捩って何とか刀を弾き返した。しかし狸は狼に一息つく間も与えず、すぐに彼女目掛けて刀を振り下ろす。キン、と刀同士が鳴り合う。は見ていられない、と目を覆いたくなった。

 狼のあの細腕では、力で狸に敵わないだろう。それに……例えそうは見えなかったとしても、彼女には視力が無いのだ。今は上手く攻撃を避け、受け流すことが出来ているが、いつまでそう上手くいくものか。

 は今の内に声を上げて、キャンプに居る常盤達に助けを求めようと思った。静かな森だ。叫べば聞こえるかもしれない。しかし緊張と恐怖で乾いた喉は、中々上手く機能してくれなかった。つばを飲み込もうとしていると、雪上に狼が投げ飛ばされる。

「狼さ、うっ」
 は苦し気に呻く。邪魔者をどけた狸がやってきて、その腕でを捕らえたのだ。腕を後ろから胸の前に回され、しっかりと拘束される。はその太い腕を引きはがそうと試みるがびくともしない。背中に感じる彼の身体は、見た目よりもずっと硬かった。

「はいはい落ち着いて。そんな怯えた顔しないでくださいよう。あなたを脅かすつもりは無いんですから」
 大人しくしていてくださいね、と狸がの耳に低く吹き込む。は目の前で、自分以上に途方に暮れている紫を見た。驚きと恐れを浮かべながらも、彼女は気丈に狸を睨んでいる。『を離しなさいよ!』と震える声で言う紫。狸は紫の声が聞こえていないように、姿が見えていないように完全に無視して、起き上がる狼の様子を見ていた。

「狸さん……あなたは何が目的なんですか? 正気ですか?」
「正気かどうかですかあ? あっはっは! あなたに言われたくないですねえ」
「それはどういう、」
 くらり。は眩暈を覚えた。ズキズキと目の奥が痛む。思わず顔を伏せたを、狸が驚いたような声で「大丈夫ですかあ?」と覗き込み――その隙を狙って、狼が狸に飛びかかった。その迷い無い動きは、が狸の人質になり得ないと確信しているものだったが、はそれに気付かない。狸はを庇うように、狼の刀を自らの刀で受け止める。狸の腕から解放されたを、紫が『早く、こっち!』と呼んだ。

 は狸から離れ、紫の方に数歩進み……足を止める。

 目の前に居るのは、子供の頃からずっと一緒だった幼馴染。蒼白な顔でこちらの身を案じてくれる、唯一無二の親友。しかし……実のところには、狸が敵だとは思えなかった。至近距離で感じた彼らしい気配、雰囲気。自分に対しての敵意は無く、心配する優しささえ見えた。ならば……そんな彼が攻撃を仕掛けてくる理由は……自分を紫から遠ざけようとする理由は、一つしかない。

 それでも、それを認めることはできなかった。
 目の前の彼女を否定することが、どうしてもできない。

「さあ、今の内に逃げてください!」
 狼が叫ぶ。どうして彼女は嘉月会の仲間である狸ではなく、自分達の味方をしてくれるのだろう。やはり、狸の方がおかしいということなのだろうか?(だったらいいのに)

「行かせませんよう!」
 狸は再び狼を退けようとする。素人目から見ても二人の実力差は明らかで、狼がそう長く時間稼ぎをするのは難しいだろうと思った。

 狼を置いていくのは気が引けるが、自分達がここに居ても足手纏いになるだけだ。とにかく早く紫を狸から遠ざけなくてはいけない。きっと狸は、仲間である狼を殺してしまうようなことは無いだろう。そんな非情な男には見えない。だから大丈夫だ……とは自分の罪悪感を掻き消す。

「紫、逃げよう!」
 は紫の手をしっかり掴んで、雪に足を取られながらも懸命に進んだ。狸の呼び止める声と、それを邪魔する剣戟の音。それが徐々に遠ざかっていく。

(……あれ? どっちから来たんだっけ?)
 森はどこを見ても同じに見えた。そうだ、この森は迷いの森なのだ、とは思い出す。これまでの道中他人に頼りきりだったには、この森の進み方が分からない。右に左に視線を彷徨わせるの手を紫が握り返す。『そっちよ』と一方を指差す彼女。短距離走も長距離走も苦手な彼女は肩で息をして、赤い顔をしていた。

 紫の指し示す方向には、より一層深まる森。隙間なく生い茂る木々の下は月明りも届かず、まさに一寸先は闇だった。不気味に構える暗闇に、は足を竦ませる。熱くなっていた頭が冷えていく。……紫は本当に道を覚えているのだろうか? 彼女はどこへ自分を連れて行こうとしているのだろうか?

? ほら急いで! 捕まっちゃうわよ』

 緑色のコート。オレンジ色のマフラー。紫に似合わないその色は、ピーターの服装を彷彿とさせる。そして今のの色でもあった。
 緑とオレンジは白ウサギの色。ピーターの“ウサギと言えばニンジン”という安直なイメージから来ている色の組み合わせ。……どうして紫がその色を身に着けているのだろう。紫は“何者”なのだろう。

 はこの世界に来てからの事を思い返す。マンホールを落ちていた時。トランプ兵に囲まれた時。青バラに襲われた時。キルクルスの街、時計塔……確かに、そのどれもに紫の姿があった。しかし言葉に出来ない違和感もある。

「あの、さ」
『なに?』
「なんで……紫がここに居るんだっけ。紫は、こっちの世界に来てたっけ?」

 紫の顔が、悲しみの色に染まる。触れてはいけないものに触れてしまったようで、の中に後悔の念が沸き上がった。紫は傷付いた顔を誤魔化す様に、不機嫌そうに眉を寄せる。

『何言ってるのよ。呪いでおかしくなっちゃったの? 私達は、二人でこの世界に来たんじゃない。それで一緒に白ウサギになって……二人でアリスを捕まえようって、決めたじゃないの』
『そう、だっけ』
『そうよ。ほら、急いでキャンプに戻りましょう。あの腹黒狸のこと、言いつけなくちゃ』
「そう……だっけ」
『そうよ。私が信じられない?』
 
 ……紫を信じられるか否か。そんなことはどうでもよくて。

 きっとわたしは、君の味方で居たいだけ。

「そっか。そうだったよね」
 が頷くと、紫は安心したように緩く微笑んだ。
 紫がの手を引く。森の奥は先程まで恐ろしく暗く見えていたが、一歩踏み入れれば、朝陽のような白い光が満ちていた。はこれ以上進んではいけないと理解しながらも、気付かないふりをして彼女に付いて行く。彼女を否定する自分を殺し、二人の今を守ることを選ぶ。
 眩しすぎる光に包まれて、は目を閉じた。


!」
 茂みから小さな体が飛び出し、を追いかける。雪の積もった黄朽葉色の髪、丸い耳。長いマフラーを靡かせ、幼い少年は暗闇に手を伸ばす。そして共に、光に飲まれていった。

(今度こそ、君を守ってみせる!)



 *



 狸はすぐにを追おうとしたが、狼がそれを許さなかった。先程までは押され気味だった彼女が、まるでこちらの行動パターンを見切ったかの如く先読みするような動きを見せ始める。……まるで“もうボロが出てもいい”と言わんばかりだ。狸の攻撃は空回りするようになり、狼は的確に嫌な所を攻め込んでくる。

 狼の刀が真上から振り下ろされ、狸はまずい、と身を引いた。しかし間に合わず、刀身がお面を割り、彼の額を切り裂く。鮮やかな赤がぽたりと雪に落ちた。笑顔に見えなくもない狸の面が取り払われた下、その男の血濡れた素顔は、確かな笑顔を浮かべている。
 狸は狼から間合いを取り、手の甲で雑に血を拭った。

「へえ、やっぱり相当な手練れですねえ。騎士さん方や羊くんが手も出せず、あの狼ちゃんが負けた相手だ。期待してたんですよう?」
 狸の言葉に狼が溜息を吐く。そして彼女も、顔を覆う面を外した。そこに現れたのは狸の記憶とも一致する“同僚の女の顔”だが、それを自分の目で確認してもなお、狸の態度は変わらない。狼は暫く“彼女らしい無表情”を浮かべていたが、やがて諦めたように肩を竦め、薄っすら暗い笑みを浮かべる。見る見る内に、女の姿は男に変わっていた。頭から足先まで全身を覆う様な黒のマントコート。目深に被られたフードで、顔の半分は隠されている。

「なるほどなるほど。これは確かに“フードの男”ですねえ」

 やはり狼は、休憩地点に戻って来ていなかった。キャンプで狼のフリをしていたのは別人だったのだ。狸は自分の予想が外れていなかったことに安堵する。

「ハァ。なんで分かった? 俺の演技のどこがダメだったんだ? ちゃんと本物を見てから真似したんだ。完璧だっただろ?」
「確かに、目が見えない彼女のフリはお上手でしたよう」
 狼は視力の代わりに、自分の魔力を周囲に放出しその反響で物の形や位置を把握する。些細な空気の揺れで人の動きを知る。そんな並外れた力を持つ彼女を、狸は時々、目が見えている自分達よりも鋭いのではないかと思う程だった。しかし狼は姿形の無い視線には疎く、目だけのやり取りには気付かない。だからテントの中でのように不躾にじっと見つめ続けても、動じることが無いのだ。偽物の狼はそんなところまで忠実に再現できていた。しかし……

「でもねえ。やっぱりなんか、空気が違うんですよねえ」
「それだけで分かったって?」
「いえいえ。確信を得たのはあの時ですよう。テントであなたがスープを飲んだ時」
「……何もおかしなことはなかった筈だ」
「狼ちゃんは、僕の料理を絶対に食べませんからねえ」
 カラカラと笑う狸に、フードの男は「そんなもん知るかよ」と吐き捨てた。

「それにしても、よく敵の差し出したものを食べる気になりましたねえ。毒でも入っていたら、とは思わなかったんですかあ?」
「あいつが持ってくるものに毒が入っている訳がない」
「あいつ……さんですかあ」

 が狼と共にキャンプを離れた時、狸は嫌な予感がした。それと同時にチャンスだとも思った。アリスネームを持たないモブの自分が、特別な彼ら、キャラクターに力を示せるチャンス。長年抱いていた劣等感から解放される為に、狸は一人で手柄を立てようとしたのだ。強敵を一人で倒し、を無事に連れ帰ること。その為にを追った。

 狸は、もし彼女達が本当に手洗いに行っただけなら、雰囲気を察した時点ですぐに戻ろうと思っていた。しかしいつまで経ってもその感じはない。は何もない方向を、何故か恋するような熱心な目で見つめ、まるで闇に呼ばれるように進んでいく。それを後ろで静かに見守る狼。狼からは魔力が漏れ出ており、懐のダウジングが強く反応を示していた。きっとを魔術……もしくは魔法で唆しているのだろう。
『どこ行くの』と姿の無い誰かを追おうとするを、止めに入る。

『狸さん、脅かさないでくださいよ。何か用ですか?』
『いえまあ。別にさんに用は無いんですが、そちらの方にはありましてねえ』
 狸はちらりと彼女の後ろに立つ狼を見た。するとどうしてか、の様子が一変する。強い警戒と敵意をむき出しにして立ちはだかる彼女。彼女らしからぬ様子に、落ち着いているように見えるが実は錯乱状態だったのだろうか? と疑った。しかしどうやら、それとも違う。

 何にしても、とにかくを狼から引き離すことが先決だろう。狸は、下手に動けば狼がを人質にし、傷付けるかもしれないと思ったが、狼はに手を出すことはなかった。最後までを自分から守る様に動き、彼女をどこかへ逃がしてしまった。

「あなたの目的は、一体何なんですかあ?」
「お前に話してやる義理はない」
さんを攫うことだったとしても、もっと効率の良い確実な方法はいくらでもあった筈ですよう? 何なら最初に街で仕掛けた時、そのまま攫ってしまえば良かったんですからねえ。さっきだって、彼女を気絶させて運んでしまった方が早かった」
「……ふん」
「あなたはさんを意識のあるまま、あくまで彼女の意志で、自らどこかへ進むように誘導した。さんの様子がおかしかったのは、呪いが進行したからですよねえ? 遅効性の強力な呪いだ。何故そんな手間暇かかることを? 他の者のように錯乱では駄目だったんです? あなたにとって彼女は、何なんですかあ?」
「よく喋る男だな。話す気は無いと言っているだろうが」

 フードの男がマントの下に手を忍ばせる。そこから抜いたのは、狼の脇差より長い太刀だった。二人の間に流れる一触即発の空気。狸は歓喜した。
 ――ああ、強敵だ! 思う存分打ちのめせる、正真正銘の敵だ!

「あっはっは! 僕はずっと、この瞬間を待っていたんですよう! 強敵と相まみえる瞬間! 僕が僕を証明できる瞬間を!」

 高揚する狸とは真逆に、フードの男は冷え切った声で言った。

「粋がるなよ、モブ風情が」

 狸はニヤッと笑った後、目の色を変えて男に切りかかっていった。 inserted by FC2 system