Act11.「先遣隊の帰還」



 テントの外でしんしんと降り続ける雪。パチパチ火が燃える音、人の立てるささやかな音、一人で楽しそうにしている狸の笑い声。それは程よく静かで耳心地の良い空間だった。しかしそこに新たな音が加わり、は不穏な予感を覚える。ギュッとブーツで雪を踏む、複数の足音。それは森の奥からこちらに近付いてきていた。

 ジャック達はよりも早くに気付いていたようだが、彼らに警戒の色はない。森から出てきたのが、戻って来た味方の先遣隊だからだ。黒いマントの下に軽装の鎧を身に着けた、実用性にいささか疑問のあるファンタジー世界らしい戦士の格好。

(みんな無事みたい……良かった)
 道の安全確保や敵の有無を確認しに行っていた先遣隊。ヘイヤを探しに行った嘉月会の者は一人も戻ってこなかったらしいが、先遣隊の彼らが二の舞にならなくて本当に良かった。こちらに歩み寄ってくる彼らを眺めながら、は安堵の息を吐く。
 先遣隊の構成員は、騎士が四人と、嘉月会の羊面……あれ? とは彼らの後ろを覗き込んだ。もう一人、狼の面を付けた女が居た筈なのだ。

「ご苦労だったな」
 ジャックの労いの言葉に、騎士達は緩慢な動きで頷く。大分疲れているのか力なく項垂れて見えた。ビシッと敬礼を返す気力もないのだろうか? 騎士の一人、ルイが彼らを気遣うように歩み出て仲間の肩に手をやろうとした時――「彼らに近付いてはいけません!」と誰かが叫んだ。
 聞き覚えの無い女の声。帰還した彼らを追うように薄暗い森の奥から現れたのは、狼面の女だった。彼女は必死で走って来たのか、苦しそうに肩で息をしている。彼女が発した言葉の意味が分かないまま、ルイは反射的に手を止めた。しかし止まったのは彼だけで、ルイの前に立っていた騎士は間合いを詰めると腰の剣に手を――

「ほっ!」
 突然、狸がルイの前の騎士を蹴り飛ばした。どんな力をもってすればそうなるのか、蹴られた騎士はビュンと横一文字に吹っ飛び木の幹にぶつかる。ぶつかられた木が迷惑そうに体を捩った。

「な、何するんだ!」
 狸に掴みかかるルイ。ジャックは部下を攻撃されたにも関わらず、狸ではなく先遣隊の面々の顔を見て「最悪だな」とぼやいた。動揺しているのはルイを始めとするこちらに残っていた騎士達だけで、向こうは狼以外誰一人動じた様子が無い。不気味に平らな表情で、その場に突っ立っている。

「狼ちゃん、コレはどういうことですかあ?」
「か、彼らは鏡の呪いで錯乱しています! ――うっ、」
 羊面の男が狼の後ろに回り込み、彼女の後頭部を小刀の柄で殴った。狼はその場に崩れ落ちる。

(え……何、どういうこと? 錯乱って……彼らが?)
 は信じられないという様子で、肯定も否定も一言も発さない先遣隊を見る。
 ジャックが腰の剣に手を掛けた。それを合図にしたかのように、向こうの騎士が次々に剣を抜いて襲い掛かってくる。皹の入っていた空気が完全に決壊した。

 剣と剣がぶつかり合う音。激しい攻防に雪が舞う。数メートル先で始まった激しい戦いにが呆然としていると、その肩に手が置かれ、後ろに引かれる。よろめく彼女を受け止めたのは常盤だった。「少し離れていよう」と言う彼に慌てた様子は全くない。傍らに居る黄櫨も平常通りの顔で戦いを静観していた。そんな二人の様子に、も心が静まっていく。(そうだ、冷静じゃなくちゃいけないんだ)

 何故味方の彼らが襲い掛かって来るのか。その理由は先程の狼の言葉と、彼らの我を失ったような目の色が物語っている。

(彼らまで酒場の人達みたいになるなんて……。じゃあ、あのフードの男は、今この森に居るってこと?)
 そこに考えが行き着いた瞬間、には自分を囲む暗い森の全てが怪物のように見えてきた。森に敵がいることを予想していなかった訳ではない。その敵が、自分を呪い街で暴動を起こした犯人である可能性を考えなかった訳ではない。しかしいざ現実に迫ってくると話は別だった。

 ――それに、はどこかで、騎士達なら大丈夫だと思っていた。彼らは酒に酔っている訳でもなく、精神的にも肉体的にも鍛錬を積んでいるだろうし、事前に鏡のことを知らされていた。まさかこんなにすぐ、酒場の男達の二の舞になるとは思っていなかったのだ。それ程までに鏡の力は強力なものなのだろうか?

 羊面が煙幕を放ち、その場に派手な紫色の煙がもくもくと上がる。毒だったらどうしよう、と焦るだが、煙がこちらに届く前に強い風が巻き起こり煙幕を吹き飛ばした。風の中心には、両手の指で複雑な形……手印を作る狸の姿。

「起風術、成功」
 自分に酔った口ぶりの狸に、ああ、騎士だけでなく彼もファンタジー忍者だったのか、とは思った。
 意のままに風を起こしたようなそれは、彼の魔術なのだろう。やはり魔法にしか見えないが……科学の道具であるドライヤーで何故風が起こるのか答えよ、と問われて答えは出せない。ちゃんと、何かしら複雑な仕組みがあるのだろう。

 狸は決まった! と気分良さげに味方だった羊面に飛びかかり、その首に容赦ない回し蹴りを繰り出した。羊は咄嗟に腕で首を庇うが、力に抗えずそのまま飛ばされると、雪の上に倒れ込み苦しそうな呻き声を上げる。は辛そうに目を細めた。いくらなんでも仲間にあの蹴りを繰り出すのはどうなのか……。

「油断するなよ!」
 ジャックが騎士達に声を掛ける。狸と違い、彼らは仲間への攻撃を躊躇している様子だった。出来るだけ傷付けないように止めようとしているのが窺える。しかしそれは容易ではないのだろう。相手は酒場の一般市民と違い、戦いの勘が染みついた騎士で、更に錯乱によって狂戦士化している。

 仲間を傷付け、仲間によって傷付けられていく彼ら。鮮明な赤が雪上に散るのを見て、は耐え難くなり顔を顰めた。そんなの視界を遮るように、常盤が彼女を胸元に引き寄せる。

「目を瞑っていた方がいい。大丈夫だ。ジャックが自分の部下に負けることはない」
 常盤はが凄惨な光景に怯えていると思い、安心させるように声を掛けたが、が恐れているのは戦い自体だけではなかった。それ以上に仲間同士の戦いに心を痛めているのだ。顔見知りの騎士達が傷付くことが辛い。負けることが無くても、勝つのも問題なのである。

「止める方法はありませんか? このままじゃ、皆大怪我しちゃいます!」
 もしかしたら怪我では済まないかもしれない。どうすればいいのだろう、この戦いを止めるためには。彼らから逃げきる?(わたしが足手まといになる気しかしない)

「端役のモブに心を痛めるなんて、なんてお優しいんでしょうねえっ!」
 耳聡い狸が、の言葉に感激の声を上げた。それは本心のようにも馬鹿にしているようにも聞こえる。は無視して思考を巡らせた。

「正気に戻す方法は……」
 は出発前にモスから聞いたことを思い出す。昨日暴動を起こした男達は、捕らえられた後鎮静剤を打たれ、眠りについた。鏡による錯乱状態は眠りにより意識をリセットすることで、幾らか正気を取り戻すという。眠りから覚めた後は病室で精神分析(カウンセリング)を行い、彼らは序所に回復に向かっているらしい。……何にしても動きを止めないことにはどうにもできない。

「傷付けず、動きを止めることが出来れば……」
 そんな方法があるだろうか? もしこの場に時間くんが居れば、時間停止なんて反則技が使えたかもしれない。そのかわり代償に何を求められるか分かったものではないが。

「君がそこまで言うなら、仕方ないな」
「はい?」
 常盤がどこか気の乗らない様子で、手元に分厚い本を取り出す。はそれに見覚えがあった。以前彼がバグを修理する時に手にしていた本。そこにはには読み解けない言語で、世界の不具合を修復する何かが記述されている。
 今それを持ち出して、一体どうするというのだろう? 疑問符を浮かべるの前で、彼がページをめくる。そしてあるページで手を止めると「これだな」と呟き、その文面を指でなぞった。

 ――森の景色に、黒い亀裂が入る。あらゆる法則を無視したようなそれは周囲に馴染んでおらず、切り取って移植されたような異物感があった。元々そこに存在し得ない、存在自体が間違っている……バグだ。
 
 不思議の国の脆弱性から度々発生する不具合、“バグ”。が先日、セブンス領への行き来で身をもって体感したアレ。それに近い気配が、亀裂からも感じられる。

 巨大なアシナガグモのようなそれは中心からパックリと裂け、錯乱状態の味方を次々に飲み込んだ。バグの動きに合わせて空気が軋む。視界の画角が揺れ、映像や音にラグが生じ、全てがぎこちなくなる感覚。……それはすぐに、おさまった。

「おい、何をした! あいつらをどこにやったんだ!」
 突然姿を消した仲間にジャックが声を荒げる。こちらに向けられたその目は、焦りと怒りで鬼気迫るものだった。常盤は静かに本を閉じると呆れたように「落ち着け、よく見てみろ」と言った。皆の視線が亀裂に集まる。もそこに目を凝らした。

 ――確かに、彼らはどこにも行っていないようだ。しかし……

「あれは、何ですか」
 亀裂の向こう。飲まれた彼らはごく薄い、殆ど透明人間のような姿で、森の影と一体化しかけている。三月ウサギの幻覚よりよほど幻覚に見えた。

「過去に発生したバグの再現だ。あの亀裂は空間上に多重空間を生み、そこに人を閉じ込める。出られないこと以外に、特に人体に悪影響はない」
「出られないんですか」
「いや、心配しなくていい。一度解明したバグは再現も修復も難しくないんだ。いつでも消して解放することが出来る。……暫くは、このままにしておいた方が良さそうだがな」
 
 透明になった彼らは目に見えない壁に手を当て、そこから出ようと必死にもがいている。狸が興味深そうにバグに近付き、観察した。

「ほうほう。これもよくある、異空間に繋がる系のバグですねえ。中はどうなってるんですう?」
「完全な暗闇だ。光が無ければ鏡は何も映さない。幻覚を見せる鏡の呪いも、この中に居れば遮断できる筈だ。長時間暗闇の中に居れば、別の悪影響はでるかもしれないが」
「完全な闇! ちょっと気になりますねえ。ねえさん、錯乱したら入ってみてくださいよう」
「遠慮します」
 は間髪入れずにそう言うと、少しだけバグに近付いて、じっとそれを見る。

 多重空間。目に見えて肌に触れる空間と、折り重なるように存在している別の空間。狸が先程から触れようとしているが、彼の手は宙を切るばかりである。そこにあるが、そこに無いもの。近くて遠い異空間。

(時間くんの居る世界の裏側の“バックグランド”も、普段は見えていないだけで、目の前に広がっているのかもしれない。わたしがそれに気付いていないだけで……)
 狸は神妙な顔で考え込むに『やっぱり入ってみたくなりました?』と言おうとしたが、あまりに真剣な様子に気が引けてやめた。

「確かに、無事みたいだな」
 中の様子を確認していたジャックがそう言うと、騎士達は安堵と疲労の溜息を漏らす。は、仲間よりもバグの方に興味を惹かれている狸に、淡泊な人だなと思った。

「常盤、お前な。こんな隠し技があるならもっと早く使えよ」
「簡単に言うな。バグはそもそも世界本来の挙動じゃない。負荷がかかるんだ。他のバグを誘発しかねない」
「また難しいことを……で、これは魔術なのか?」
「僕らにとっては魔法ですけどねえ」
 狸が言う。ジャックは難しい顔で亀裂を睨んでいた。は何か気掛かりでもあるのかと不安を抱く。(気掛かりしかないけれど)

「さながら……暗黒の牢獄“ダークネス・プリズム”って感じか」
「は?」
 ジャックの口から飛び出した謎のワードに、常盤が不意を突かれたような顔をした。も訳が分からずキョトンとする。

「この魔法の名前だ。もうあるのか?」
「そんなもの、特にないが……」
 
 はエースから聞いたジャックの剣の名前を思い出す。……確か“ダークソード”だった筈。どうやら彼は、周りが恥ずかしくなるネーミングセンスをお持ちのようだ。そしてそんなの心の内を、狸が代弁する。

「はーっ! なんですかそのセンスの無い名前はっ! ダメダメですよう!」
「どこが悪いっていうんだよ」
「安直すぎるんですよう! 空白の悪夢“エンプティ・ナイトメア”とかどうです!?」
(この人も同類かー!)

 はこの状況で笑うのもどうかと思い頬を引き攣らせる。
 狸はさておき、ジャックは一応騎士達を気遣って明るく振る舞っているのもあったのだろう。不謹慎かとも思ったが当の彼らにとってはそうではないようで、ルイ達はほっと肩の力が抜けた様子だった。

 二人に挟まれた常盤は「勝手にしてくれ……」と疲れと呆れを浮かべている。それを見て、は自分の心の中に生まれ出てしまったものは、そっと秘めておくことにした。

(隠されしもう一つの世界……“アナザーワールド”! とかは言わないでおこう)

 狸はカッコいい名前をブツブツ模索しながら、雪の上に横たわる狼面の元に歩いていき、彼女を米俵のように担ぎ上げた。は、怪我人にそんな乱暴にしてもいいのか……と思ったが、口を挟むのはやめておく。戦いのことも怪我のことも彼の方がよく知っているに違いないのだから。

「あの、狸さん。その方だけ正気のままでしたよね? どうして大丈夫だったんでしょう……」
「ああ、彼女は目が見えないんですよお。だから鏡に引っかからなかったんでしょうねえ」
 あっけらかんと言う狸には驚く。どうやら彼女は生まれつき目が見えないらしい。その分他の感覚が研ぎ澄まされているのだろう。彼女の動きに淀みはなく、視力が無いことを少しも気付けなかった。狸は鏡への対抗策として、彼女を同行させたのだろうか。

「狼ちゃんは優秀な子ですから、敵さんも彼女を仕留め損ねたんでしょう。こんなに傷だらけになって……一人で、錯乱した彼らを止めようとしていたんですかねえ」
 狸の声が感情を抑え込むように低くなる。彼女を憐れみいじらしく思い、元凶の敵を恨んでいるのだろうか。は少しだけ安心した。彼にも仲間を思いやる心はあるらしい。

「とりあえず、狼さんが横になれる場所を作りましょうか」
「おお、感謝感激雨あられですねえ」 inserted by FC2 system