Act11.「白銀と紫水晶」



例えるなら連休明けの朝。そんな気分だ。
はベッドの上に横になり、開けっ放しの窓の外を眺めていた。

ピーターが去っていったのはつい先程のことで、夕空はまだほんの少しだけ、夜の薄暗さを残している。はこの二日間の殆どを共にしたベッドに頬ずりする。ふかふかで、暖かい。可愛い部屋と、ふかふかのベッド。時々心配そうに尋ねてくる人たち。運ばれる食事。この部屋は閉鎖的で、不変の平穏に包まれていた。

もしアリスを追うことを諦めたなら、この小さなお城で幸せに過ごしていられるのかもしれない。人形のように、安寧の中に居られるのかもしれない。

「……よし!」
は一度深呼吸をしてから、勢い良く起き上がる。それからベッドの上を手早く整えて、サイドテーブルに置かれた飲みかけの水を薬と共に飲み干すと、クローゼットにしまわれていた馴染みの服に袖を通した。
ブラウスのボタンを留め、ネクタイをしめ、ショートパンツをはく。サスペンダーの位置を調節して、ソックスをはく。立てかけられた銅鏡の前に行くと、髪にブラシを通す。それから棚に並べられたいくつかの化粧品に手を伸ばし、軽く化粧を施した。化粧品はこの国に来たばかりの頃に常盤に買ってもらったもので、元の世界で使っていたものよりも肌に馴染み、とても気に入っていた。程よく甘いスイートピーの香水もお気に入りで、一振りすると、魔法を掛けられるシンデレラの気分になれた。

さあ、身支度の仕上げだ。は棚の上に置いてあった手錠へと手を伸ばす。手錠は、その存在よりもずっと清らかな何かであるように眩く光っていた。は手錠の片方をズボンのベルト差込部分にはめて、ぶら下げる。相変わらず、見た目よりずっと重い。

この重みの意味が正しく理解できているかは分からない。
でも、もう失敗しない。わたしは、どんな時でも賢く強く冷静でありたい。

は気を引き締めると、お気に入りの赤い靴を履いて、ドアを開けた。
―――部屋から廊下に出ると、空気が変わる。

「……?」
その時、何故か突然、はドアの存在が不思議なものに感じた。

それは、にとってはよくあることだった。何故空が上で地面が下なのか。宇宙の外には何があるのか。鶏が先か卵が先か。は唐突に何かが気になり、考え込んでしまうことがある。今はその対象がドアだった。
ドアを開ける。ドアの向こうの空間は、ドアのこちら側の空間とは別の空間で、別の空気が流れている。ドアを開けた瞬間、空間と空間が接触する。場面が切り替わる。
それは例えば、出されたばかりのカップの中を初めて覗き込む時と、同じなのではないだろうか。その瞬間まで認識されない不定の何かが、このドアの先に可能性として存在している。

普段気に留めたこともないその動作が考えれば考える程特別に思えてきたは、何気なく目についた隣の部屋のドアノブに手をかける。緑色のドアの部屋。この先の空間は知っている。ピアノがあるだけの殺風景な部屋だ。でも、もしそれを知らない状態でドアを開けたなら?そこにあるものは同じなのだろうか?

思想に憑りつかれたはドアノブに手をかけ、そのまま引いた。ガチャリ、とドアが開く。


「……あれ?」


目の前には、知らない男が立っていた。

銀色の長い髪をゆるく束ね、紫の着流しに藤色の羽織を羽織った若い男は、突然現れたを警戒の眼差しで振り返る。その美しいアメジストの瞳は、の姿を認めると一層冷たく厳しいものに変わった。は、自分を睨むその瞳に憎悪の念すら感じ、戸惑う。

場所は、一階の玄関ホール。は何故自分がここに居るのか分からない。確かに自分は、二階の一室のドアを開けた筈なのに。

背後を振り返っても、そこにはドアも廊下も無かった。


「白銀、もう帰るのか」
聞きなれた声に目をやると、銀色の男を追ってきた様子の常盤が居た。彼はに気付くと、驚いたように何かを背後に隠す。一瞬本のように見えたそれは、以前ピーターがやってみせたようなこの国の魔法で、次の瞬間にはその場から姿を消していた。はその反応に少し衝撃を受けながらも、「こちらの方はどなたですか?」と遠慮がちに尋ねる。

「昔からの知り合いだ」
常盤は早口でそう答える。は挨拶をしようと、シロガネと呼ばれた男に向き直る。
白銀は、もうを睨んではいなかった。その瞳は見ようによっては穏やかにも見える平静を湛えている。彼の纏う涼しげで洗練された雰囲気にが言葉を詰まらせていると、白銀は小さな会釈を残して、颯爽と玄関から出て行ってしまった。

美しく清らかで、独特の緊迫感を感じさせる人だった。は未知の聖獣に遭遇したような気分で、閉じられたドアを呆然と見つめる。そんなに、常盤が慎重に声をかけた。

、もう具合は大丈夫なのか?」
「はい。すっかり良くなりました。ご心配とご迷惑をお掛けして、本当にごめんなさい」
そう言うに、先程隠した物に関して追及する気は無いと見ると、常盤は安心した様子で彼女との距離を詰めた。そしてそっと、彼女の頭を撫でる。

「迷惑だなんて思っていない。だが、もう心配は掛けないでくれないか」
「ごめんなさい。でも常盤さんは心配性ですから、それは難しいです。わたしが何をしても心配するでしょう」
「別に、そんなことはない。君が今回のような無茶をしなければ」
確かに、無茶だったし、無鉄砲だった。そして何も収穫は無かった。がアリスを追うことに良い顔をしない常盤と行動していた時でさえ、得るものはあったというのに。

「もう、今回みたいなことはしません」
これからは効率重視で進めよう。ちゃんと考えよう。
の表情から言葉の真意を汲み取って、常盤は心の内で溜息を吐いた。相手が黄櫨やピーターなら文句の一つでも言っているところだが、彼女にそんなことは言えなかった。

「とにかく、病み上がりなのだから今日は静かにしていなさい」
「でも、もう寝ていることに飽きてしまったんです。体も鈍ってしまっていますし……」
「外に行くつもりだったのか?」
それは、違う。何の考えも無しに外に出るつもりはなかった。ただ、そう言おうにも説得力に欠ける。何故ならば、ここは玄関ホールだからだ。

「違うんですよ、二階の緑色のドアを……」
「緑色のドア?」
聞き返す常盤に、は続く言葉を押し留めた。二階のドアを開けたら一階の玄関ホールに出てしまっただなんて、いくらこの世界でも普通の事ではないだろう。きっと話しておいた方がいい。しかし、話す気にはなれなかった。本に食べられた次は、別の場所に続くドア。は、これ以上彼に心配を掛けたくなかった。それに、彼にだって先程隠した何かのように、多くの隠し事があるのだ。の中の無意味な意地が、言葉を飲み込ませた。

「……あの部屋にはピアノがあるだけだろう。君はピアノが弾けるのか?」
答えに困っていたに、彼のその問い掛けは予想外で、都合の良いものだった。
確かに、ピアノを弾く以外の用事は思いつかない部屋だ。まさかドアを開けるという行為そのものが目的だったなんて、答える訳にもいかない。

「いえ、わたしは弾けません。あ、ピアノがあるってことは、もしかして常盤さんは弾けるんですか?それとも黄櫨くんが?」
「私が……少し」
常盤の返答に、は素直に驚いた。何となく、彼が芸術方面で器用なようには思えなかったからだ。

「すごい!是非、聴かせてください!あ……お忙しくなければですが……」
珍しく無邪気な笑顔を浮かべたに、常盤が断れる筈も無い。内心気は進まなかったが、了承してしまう。しかし、の前で演奏することに何か思うところのある常盤は、部屋に入るまで自身のその選択に悩み続けた。だから、緑色のドアを開ける時、探るような目でドアとその先の部屋を見ていたに、彼が気付くことはなかった。

部屋の奥にはアップライトピアノが佇んでいる。埃はかぶっていなかった。この国に来てからピアノの音色を聴いていなかったは、そのことを少し不思議に感じた。

「常盤さんは、結構ピアノを弾くんですか?」
「いや、もう長いこと弾いていない。だからきっと、聴きたいと言ったことを後悔するぞ」
彼の言葉には笑いながらピアノの椅子をひくと「さあどうぞ」と彼を促した。そして自分は、少し離れたところにある椅子に腰かける。

常盤は楽しそうな様子のに、諦めたように鍵盤に指を置いた。
やがて、ピアノは音色を奏で始める。ゆっくりとした優しい曲だった。はその音色に体を委ねるように、目を閉じる。

彼の奏でる曲は、どこか懐かしいように感じた。知らないのに、知っているような感覚。それはまるで、彼自身のようだ。

淡い木漏れ日。真っ白なレースのカーテン。子供の笑い声。頭の中に浮かんでは消えていくイメージ達。ポカポカ暖かくて、ふわふわ柔らかい。セピア色の世界。懐かしくて、優しくて、遠い世界。
が現実に引き戻されたのは、彼が音を外した時だった。
演奏をやめて、常盤が決まりの悪そうな顔での方に振り返る。は静かに笑って、「素敵な演奏でした」と褒めた。

「どこがだ。久しぶりだからというのを差し引いても、私はお世辞にも上手いとは言えない」
「弾けないわたしからしたら、すごいですよ。それに、とても優しい音色でした。友人のピアノを思い出してしまいました」
楽しそうな様子のに反して、常盤はその目に悲哀の色を浮かべる。

「君の友人は、ピアノを弾くのか」
「はい。一番仲の良い友人が、ピアノがとても上手なんです。一度聴いた曲なら、その場で弾けちゃうんですよ」
「そんなに上手いなら、私のピアノで思い出すのは失礼だろう」
「なんだか、音色が似ている気がしたんです」
そう言うに、常盤は彼女から目を逸らす。これ以上、彼女とこの話を続けることのできる自信は無かった。

「そういえば、黄櫨にはもう会ったのか?あいつも君を心配していた」
「あっ、まだでした。えっと、では黄櫨くんのところに行ってきます。ピアノ、弾いて下さって本当に有難うございました」
は何となく彼が自分を遠ざけようとしているのを察して、察していることを悟らせないように自然な動作で部屋を出ていった。


の居なくなった部屋は、急に温度が下がったように感じられた。が階段を降りる音が聞こえる。その音が聞こえなくなってから、常盤はようやく息を吐いた。視線は、鍵盤に落ちる。先程まで触れていた鍵盤が、今は触れることさえ恐ろしく感じた。

自分がピアノを弾くことは、もう二度と無いと思っていた。
ピアノには、思い出がありすぎる。

片手を宙に翳すと、そこには先程から隠した本が姿を現す。分厚い、エンジ色の革の装丁の本だ。
常盤は、そっとその本を開く。そして、見返しに書かれた落書きのような文字を愛しそうになぞった。

――――――そこには、の名前が書かれていた。


目を閉じれば、あの日々が蘇る。
暖かな昼下がり、幸せに満ちていた、“彼女たち”の日々が。
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