Act10.「タルジーの森」


 
 森に踏み入った瞬間、一気に空気が変わった。夕陽が木々に遮られた薄暗い森。蒼い影の中では、まるで何かが息を殺してこちらの様子を窺っているようで落ち着かない。心のざわめきを際立たせるように、森は妙に静かである。突然の寒さに凍えて口を閉ざしているのだろう。木々の葉はすっかり凍ってしまっていた。
 地面は一面雪に覆われており足跡一つない……が、何かを引きずったような跡があちこちにある。その部分の雪は土で薄汚れていた。何をどうすればあんな跡ができるのだろう? というの疑問は、すぐさま解消される。

 ズズズ、と木が動いていた。ごくごく普通の(だと思っていた)針葉樹が、雪中から太い根を引っこ抜き、器用に歩いている。驚きはするが、たこ足のような根っこがグネグネ動く姿はどこか間抜けで愛嬌があった。黙ってそれを眺めるに、狸が不満げな声を漏らす。

さんはこの森に入るの、初めてでしたよねえ? もっと面白いリアクションを期待していたんですが」
「ワービックリ。……というか、今のって現実なんですね」
 鏡の呪いに対抗するためには、冷静でいること。目に見えている物を信用しないこと。はその二つを心掛けていた。だから歩く木も幻覚である可能性を考慮していたが、どうやらこれは他の者にも見えているようだ。

 ――永白の国を囲むタルジーの森。別名、迷いの森。広大な森の全容は今だ解明しきれていないという。入り組んだ森ではコンパスが効かず、移動型の植物が景色を変えてしまい、入った者はたちまち迷ってしまうことから迷いの森と呼ばれている。
 はその話を聞いた時、移動型の植物がどんなものかイメージが湧かなかったが……なるほど。本当にそのままなのか。

「あの木達、襲い掛かってきたりはしないんですよね?」
「木がそういう“キ”にならなければ、いいですねえ?」
 狸の不穏な言葉には「え」と固まる。の隣で、常盤が溜息を吐いた。

「大丈夫だ。あれはただの寝返りのようなもので、人には襲い掛かってこない。それから、そいつの話は真面目に聞かなくていい」
「はい」と素直に返事をする。狸は「ひどっ」と大袈裟に悲しむ。


 夜が明けて間もなく、達は森に入った。常盤、黄櫨、ジャック、それから嘉月会から三人、騎士が七人。ヘイヤ捜索隊は計十四人である。しかし今は、嘉月会の狸以外の二人と、騎士達四人は先行して様子を見に行っているため、この場に居るのは八人だった。

 迷いの森で何を頼りに進んでいるかというと、それは“魔力の残滓”である。魔力を感知する街中のサイレンと同じ仕組みで、もっと微小な魔力を捉えることが出来る道具を、嘉月会は所持していた。それがどういう道具かというと……

(古典的な“ダウジングロッド”……にしか、見えないんだよなあ)
 は狸の手元を胡乱げに見た。彼はL字に折れ曲がった針金のようなものを、両手で二丁拳銃のように構えている。その先端が時々ピクリと動きどこかを指し示すが、道具の仕組みを理解していないからすると、なんとも信憑性に欠けていた。
 ダウジングロッドが示しているのは、ヘイヤの魔力の残滓である。魔力は放たれた直後であれば目視も可能だが、通常は数分で完全に消えてしまうらしい。しかしヘイヤの魔力は桁外れに強いようで、まだ辺りに残っているという。ダウジングロッドはそれを探し当て、より強く反応する“新しい魔力”を辿り、ヘイヤの実体に近付こうというのだ。

「魔力って、どういうものなんですか?」
「どういうものだと思いますかあ?」
「……魔法を使う力」
 の回答に、狸は「あっはっは」と大きな声で笑い出す。が、緊迫した面持ちの騎士達にジロリと睨まれると「すみませんねえ」と声を潜めた。

「魔法とは、また愉快ですねえ」
 狸の揶揄う様な物言いにはむっとして、助けを求めるように常盤を見た。常盤はと目が合うと、寒さに強張っていた表情を少し和らげる。

「嘉月会が扱うのは、魔法ではなく“魔術”だ」
「同じようなもんじゃないのか?」
 先を歩いていたジャックが、前を見たまま振り返らずに言った。は自分と同じ感覚の仲間を発見して安心する。

「違う。魔術は“意思の力で外部に変化をもたらす術”で、術者が理解している範囲の事しか行えない。理解さえできれば他の者も再現できる、知恵の術だ」
「えっと……じゃあ魔法は?」
「魔法は解明されていない再現不能なもの。人智を超えた力のことだ。嘉月会は現象を解明し知識の体系化をすることで、魔法を魔術に変えている」
「僕らは魔法の魔術化をしてるんですよお」
 狸がダウジングロッドで謎のカッコいいポーズを取りながら言った。

 永白に居るのは魔法使いではなく、魔法を駆逐する魔術師であるらしい。魔法の方が夢があるのにな……とは思った。そして魔術の説明に、既に覚えのある感覚になる。

「なんだか魔術って“アレ”に似てますね。認識することで現象化するっていう……」
 手元に物を出現させたり、何もないところに火を起こすアレら。その仕組みの基となるものは意識と認識だが、魔術は意思であるという。どちらも精神的な力が作用するという点で似ていた。

「その通りだ。君は理解が早いな。他国で意識のエネルギーとされているものを、永白が独自に解釈したのが魔力だ。実質同じものだが、定義の違いで若干毛色が違っている」
 常盤に褒められて、は少しポカポカした。歩いて喋っていると、刺すような寒さもそれ程辛くない。「なるほどー」と納得した様子のに、ジャックが振り返った。

「お前、本当に分かったのか?」
「何となく。……ジャックは?」
 その問いに返事はなかった。ジャックはただ苦笑いして、また前を向いてしまう。どうやら彼にとって、魔術は全て魔法らしい。

 その時、ダウジングロッドがぐるんと回った。狸が「おお」と声を上げる。どうやらヘイヤの魔力を捉えたらしい。はロッドの先端が指し示す方向を見て……ぐにゃりと視界が歪んだ。

 ――ぐにゃぐにゃ、ぐねぐね、発散、収束。
 暗い森の奥、の目には何かが見える。白い影。幽霊の類かと肝を冷やすが、それとは少し違う気がした。不気味というよりは神秘的なのである。

 白銀の長い髪。藤色の羽織、同色の着物。痩身な背はこちらに向けられていて、男か女かよく分からない。雪下駄の足元には……光り輝く水面。その人がそっと手を振りかざす。袖から覗く手は骨ばっていて、恐らく男なのだろうと思った。

「あああ〜……」
「どうした!?」
 突然沈んだ声を上げたに、常盤が心配そうに立ち止まる。はやってしまった……という様子で目を閉じ、眉間を解すようにぐりぐり押した。そして言い辛そうに告げる。

「幻覚が……思いっきり見えてます」
 目を開けてもう一度見ても、その幻はまだそこに居続けていた。

 足を止めた一行に、は幻覚として見えているものを説明する。早速幻覚に惑わされている自分に、皆呆れるだろうと思ったが……返って来た反応はの予想とは違っていた。意外にも最初に口を開いたのは黄櫨で、彼は勢いよく食い付いてくる。

「白い髪ってどんな? 顔は? どこで何してるの?」
「えっと、背中まである長い髪を毛先で結ってて、顔は、ずっと後ろを向いてるから分からない。湖みたいなところに居るみたい。……でもどうして? ただの幻覚じゃないの?」
「鏡は君の心にあるものしか映さない。その人物に心当たりはないだろう?」
 常盤の言葉に、は「はあ、確かに」とぼんやり返事をした後で……じゃあアレは何なんだとゾッとした。まさか本当に幽霊なのだろうか?
 嫌な想像を膨らませる。そんな彼女のケープコートの裾をギュッと握りしめ、黄櫨が消え入るような声で呟いた。

「それは……三月ウサギだよ」
「えっ? ヘイヤさん?」
 は改めて幻を凝視した。あの人が、自分達が探している人物なのだろうか? 狸はの視線の先を追い、何もないそこを見つめてウウンと唸る。

「確かに、外見の特徴は一致してますねえ。さん、その人の頭に何か気になるものはありませんかあ?」
「頭に?」
 狸に問われ、はそこを注視した。癖のない真っ直ぐな髪がかかっている、その天辺。確かに何かがある。短い突起のような何かが。

「少し膨らみ? みたいなものがありますけど、ウサギの耳って感じじゃないですね」
「ああ、間違いない。ヘイヤさんですねえそれは」
 ヘイヤを知る者は全員、狸と同じ反応をする。はどういうことかと首を傾げた。狸が言うには、ヘイヤは長い耳を“切ってしまっている”らしく、根本の部分しか残っていないのだそうだ。
 事故だろうか? 反応に困って気まずそうにするに、狸は「自らお切りになったんですよお。そういうことを突然、する人なんですう」と驚きの事実を述べる。

(自ら……耳を!?)
 はもっと、反応に困った。嘉月会には変わり者しか居ないのだろうか?

「なるほどなるほど。ヘイヤさんを知らないさんがそこまで答えられるということは、やっぱりただの幻覚じゃないですねえ。それに“湖”というのも興味深い」
「何でですか?」
「この森には確かに、奥に湖があるんですよう。……もしかしてさんは、千里眼の持ち主だったりしますかあ? そういうのは黄櫨さんがお得意かと思ってましたけどお」
「僕は……まだ何も見えないし感じないよ。なんでには見えるの」
 感情の薄い平坦な黄櫨の声。しかしは、責められているように感じた。黄櫨は自分に見えないもの、見たいものがにだけ見えているということにもどかしさを感じているのだったが、は黄櫨の気持ちが分からず戸惑う。

の目に入った鏡の影響だとしたら、ヘイヤもどこかで鏡と接触して……同じく呪いを受けているか、囚われているか……」
 常盤が考え込むように腕を組む。恐らく独り言だろうそれに「囚われている?」とが反応すると、狸が「鏡は人を中に閉じ込めてしまうんですよ。不可視世界と可視世界を入れ替えてしまう」と少し真面目な口調で、静かに説明した。常盤はその間に自分の中で考えがまとまったらしく、

「君は、鏡を介して鏡の中のヘイヤを見ているのかもしれない」と言った。

(ヘイヤさんが鏡に捕まっていて……鏡の呪いを受けているわたしには、それが見えているってこと? そ、そういうものなのかな? ……そういうものだと思えば、そうなるのかも) 

 ジャックが「また鏡かよ」とぼやいた。

「街での暴動も三月ウサギの行方不明も、裏には鏡を使う誰かが居るってことか。まさかそいつがこの雪も降らせたんじゃないよな?」
「さあどうでしょう。とにかく、さんの見ているものはヘイヤさんのSOSサインかもしれませんねえ」
「じゃあ、湖に向かわないとですかね?」
「そうですねえ。この検知器もそっちの方面を指しているっぽいですしねえ。いやあ、目的地が明確になるのは素晴らしいことですよお! さんを連れてきて良かったですねえ」
 狸の大袈裟な物言いに、は恥ずかしくも思ったが……少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。居ても良いと許された気がしたのだ。

 湖を目指すことに反対する者はおらず、目的地が定まったことで移動速度は上がった。しかしは慣れない雪道にすっかり体力を奪われて、序所に先頭から遅れがちになる。そんなを見かねて常盤が「休憩しよう」と提案した。
「まだ大丈夫です」と強がるに、「私も疲れたんだ」と常盤は言う。それは気遣い半分、本音半分のようだ。黄櫨も小さく息が切れている。先を進んでいたジャックは、や黄櫨の様子に今気付いたようで、すまなそうに休憩に同意した。

 比較的開けた場所を探して、騎士達が休憩所を整えてくれる。あっという間に組み立てられたのは、屋根と壁だけで床の無いシェルター型のテントだ。テントの前に突き出す、雪を防ぐタープの下には焚火。雪を少し堀り、中に燃えにくい木を重ね、それを台にして薪を燃やしている。騎士達は雪に慣れている訳でもないだろうに、一連の動きはとても鮮やかだった。

 は騎士の一人に、折り畳み式の椅子に誘導される。ひざ掛けを渡され、温かい飲み物まで用意されると、至れり尽くせりすぎて申し訳なくなった。

「あ、有難うございます。何かお手伝い出来ることはありますか? 騎士さん達も休憩されてくださいね」
 その騎士は、馬車旅での馬車に伴走し、休憩中にも何かと気遣ってくれた人だった。くすんだ金髪の騎士――ルイは、の言葉に青い目を丸くする。

「いえ、とんでもないです」
 素っ気なく断る彼は、こちらの申し出に良い印象を抱いている訳ではないのだろう、とは感じた。別に好かれるために言ったのではないが、良い気はしない。ただ仕事に手出しされるのが嫌なのか……もしかして、彼も異世界人嫌いだったりするのだろうか?

 じっと窺うの目から逃げるように、ルイは仲間の元へ戻っていった。彼が向かった先では騎士達に囲まれたジャックが、小型の通信機器で先遣隊と連絡を取っている。は聞き耳を立てた。どうやら、一旦ここで合流することにしたらしい。

(これから……どうなるんだろう。ヘイヤさんは無事なのかな?)
 は手袋を外し、両手でマグカップを包む。温かい。ふーっと息を吹きかけると湯気で顔が蒸された。カップの中身は味わったことのない飲み物だ。ジンジャー、シナモン、ミルク……あとは蜂蜜だろうか? スパイシーだが甘味が強く、どろっとしている。じーんと痺れるように広がる熱に、凍えて固結びになっていた体の芯が解けていく。
「生き返る〜」と生を謳歌していると『それじゃ、死んでたみたいじゃない』と言われた。

 ……全くもう、すぐそうやって揚げ足取って。

 彼女はいつも涼しい顔をしているくせに、寒いのは寒いのか、鼻も耳も赤くしていた。ちゃんと暖かくしないと、と緩んでいたマフラーを巻き直してあげると、一瞬驚いたようにビクッとするも、くすぐったそうに微笑む。

『雪って良いわよね。静かだし、真っ白だし』
――わたしは、赤とか緑でも良いと思うな。
、私はかき氷の話をしてるんじゃないわよ? まったくもう。……イチゴ? メロン?』
――ブルーハワイで! ……ところで、ブルーハワイって何味なんだろう。
『何味って、ハワイの味でしょう?』

「ふふっ。そういうところ、天然だよね。ゆか、」
「誰と話してるの?」

 はハッとした。止まっていた息が吹き返ったように、心臓が鼓動を思い出す。血液が巡る。目の前では黄櫨が不思議そうに首を傾げていた。は状況に理解が追い付かず呆然とする。(誰と話してるのって……何? わたしが? 誰かと話してた?)

「誰とも話してないよ。独り言」
 は何となく追及されたくなく、誤魔化すように笑った。黄櫨はの目を探る様に覗き込んだが、そこには自分以外の誰も映っていない。「……そう」と諦めた。

 二人の後ろでは常盤が、憂わし気にを見ていた。まるで悲劇を目の当たりにしたかのように、その顔は暗く沈み悲壮感を漂わせている。

 の、他の誰にも見せないあの表情。幸せそうに微笑みかけ、大切そうに名前を呼ぼうとした誰か。――それはを捕え、に捕らわれている一人の少女に他ならない。


 が彼女の真実に気が付かないように。

 彼女がにとってただの優しい幻であり続けるように、常盤は願った。 inserted by FC2 system