Act10.「深夜の訪問者」



明かりの無い部屋では、視界に制限がかかる分他の感覚が鋭くなる。月光によってカーテンに映し出された木々の影が、唸るような風に吹かれて生き物のようにその体をしならせていた。そんな些細なことが、ひどく不気味で恐ろしい。
は眠れず、寝返りを打つ。眠れる筈がない。もう、ずっと眠っていたのだから。

二日前の晩、雨の中で倒れたはかなり衰弱していた。しかしが自身のその状態を知ったのは、目が覚めて緑葉から聞かされてからだった。確かに、体調が崩れていたことには気が付いていたが、倒れる程とは思わなかった。は記憶をたどる。―――屋根から落ちて捻挫して、湖に落ちて……その頃から喉の痛みや頭痛があったような気がした。寒気もしていた。あの時に自分の体を顧みていれば、こんなにみっともない醜態を晒すことは無かったのだろう。
は溜息を吐いた。吐いて、吸った息と共に入り込んでくるのは、部屋に染みついた薬の匂いだ。はその匂いから逃げるように布団に顔を押し付けるが、そこからも同じ匂いがして、まるで病院のようだとうんざりした。は昔から、病院があまり好きではなかった。薬も医者も注射も、好きではなかった。必要であれば出向くこともあったが、診察や治療によって安心を得られたことは無かった。
だが、亀太郎と緑葉の二人には感謝しなければならない。捻挫した足はもうどこも痛くなかったし、倒れたこの体は、今はまだ重たいものの順調に回復に向かっている。

は眠ることをあきらめて上半身をベッドから起こす。その動作で、頭にズキリと痛みが走った。目を閉じて痛みに耐え、手探りでベッド横のテーブルのコップを取ると、そこに入っていた水を一口飲む。そしてその体制のまま―――硬直した。

ガサッ

何か不自然な音が、外から聞こえてくる。脳はそれを気の所為として処理したがるが、その音は二、三回と続く。草を揺らす音だ。誰かが、外にいる。その音は徐々に速度を上げ、近づいてくる。ガサガサ ガサガサ。音は丁度壁の辺りで、止まった。
はコップを握りしめたまま、恐る恐る視線を窓に向ける。そこにはただ暗闇が潜んでいるだけで、どこまでが壁でどこからが窓なのか、その境界さえ分からない。

(さっきまで、あんなに明るかったのに)
はその異変にゾッとして、全身が冷たくなるのを感じた。体は緊張で動かず、視線と意識が窓から逸らせない。

コンコン、と誰かが窓を叩く。ガタガタと窓ガラスが震える。
……窓を叩くのは、誰?

はその窓の向こう側を、想像する。先程まで月明かりがスクリーンにしていたそこを埋め尽くす、闇。その闇は、ただ単に月が雲に隠れたことによるものなのか。それとも……

あの黒い化け物がひしめき合っている、とは考えられないだろうか。

窓を叩く音が強くなる。はベッドのシーツを手繰り寄せて、身構える。もし化け物が部屋に飛び込んできたとしたら、まずはこのシーツで目隠しをして、相手が怯んだ隙にテーブルを投げて……とその時に備えてシミュレーションをするだったが、窓の外から聞こえてきたのは彼女の恐ろしい想像とは違う、知った声だった。

、開けて!」
その声からは、若干の焦りが感じられる。
が握りしめていたコップとシーツを手放し、急いで窓を開けると、声の主は滑り込むように部屋に入ってきた。暗くてその顔はよく見えなかったが、声や雰囲気で大体分かる。突如侵入してきた彼は、すぐにベッド脇のスタンドライトの電源を入れた。

ぼんやりとした橙色の光に照らし出されたのは、白い髪と赤い目。彼は驚いているを無視して、窓枠の上にライトを乗せる。それから、ようやく安心したように一息ついた。

「……何してるの?」
怪訝そうに問いかけるに、真夜中の侵入者―――ピーターは何も言わず、窓の下を指差す。が窓に寄り下を覗くと、そこには光から逃げるように後退する青薔薇が居た。

「駄目だ。彼ら、諦める気がない。光が届かないギリギリの場所で様子を窺ってる」
「今、部屋の灯り付けるね」
が壁のスイッチを押すと、部屋が一気に明るくなる。それは闇に慣れていた目には眩しすぎて、シパシパした。

「青薔薇はどう?」
「……一応、諦めたような気がする」
ピーターの曖昧な返答に、「そう」と短く返事をしたは、素早く窓とカーテンを閉める。ピーターはその動作に少し驚いたような顔で、を見た。

「夜明けまで居るでしょ?今外に出たら危ないし」
はネグリジェの上にカーディガンを羽織りながら、ピーターにソファに座るように勧めた。彼は素直にそれに従う。は先程までの恐怖から解かれ、溜息と共にベッドにどっかりと腰掛けた。

「最初、窓叩かれた時、あれかと思った。黒い……グリーフ」
「僕が?それはあんまりだ」
「だって、外は真っ黒だったんだもん。だから、入ってきたらどうしようって思ってた」
「そういう時は逃げるとか、声を上げるとかしなよ」
ピーターに呆れたように言われて、は全くその通りだと思った。たとえ恐怖で体が動かなかったとしても、悲鳴くらい上げる事は出来ただろう。声を上げれば、恐らく常盤か黄櫨には届く筈だ。何故その発想に至らなかったのか。

「まあ、今回は叫ばれなくて良かったけど。常盤が来たら厄介な事になっただろうし」
彼の言葉に何と応えたら良いか分からず、は曖昧に笑った。

「でもどうして、青薔薇に追われていたの?」
「……ちょっとしたことで月と喧嘩になって、青薔薇を仕向けられたんだ」
月と喧嘩をし、薔薇に追われる。相変わらず不思議でファンタジーな世界だ、とは感心した。

「随分大きな喧嘩相手だね。あなたは、月と会話ができるの?」
「月とウサギは関連付けられていることが多いから、切っても切れない縁というか……。話しかければ、簡単な意思の疎通くらいは出来るよ」
「縁、か。確かに、昔から月にはウサギが居るって話があるよね。お餅をついたり、薬を作ったり。それは本当だったということ?」
「……そう思う?」
逆に、聞き返されてしまった。それは、分からない。ただ、月とウサギは、確かに結び付けられていることが多い。
は彼の言った、“関連付けられていることが多いから”という理屈について考える。そして、この世界が認識の上に成り立っているということに対して、ようやく一つの理解に至る。
この世界での月は、ウサギは、物体そのものではない。物体を真似た幻想なのだと。

この部屋も、窓も、窓の外に広がる空も、そして彼さえも、自分がそこに在ると認識しているからそこに在るのだ。
この部屋も、窓も、窓の外に広がる空も、そして彼も、自分が認識したものでしかないのだ。全てが、自分の中にあるものでしかない。
だとすれば、世界は外側にはない。それは内側にのみ、展開されている。月やウサギは外に存在するものでなく、空想を含める概念として内に存在しているもの。その“内”の集合体がこの国、この世界で……ここはアリスの内の世界。しかし、それすらもわたしの中に存在している。果たして、それが夢ではなく現実だと証明し得る手段はあるのだろうか。目の前のものがわたしの外側に確かに存在していると、確認する術はあるのだろうか。

「物体が先か、認識が先か。鶏が先か卵が先かみたいな話だね」
「……君との会話が、思ったより難しいんだけど」
「あなたは、本当にここに居るの?それともこれは、わたしだけの夢?」
は自分の中に渦巻く思考がとてつもなく恐ろしいものに感じられて、表面上は冷静に取り繕いながらも、縋る様な問いかけをしてしまった。ピーターは脈絡のないことを言い出すに、大丈夫かとでも言いたげな目を向ける。

「これが君の夢なら、夢の中の僕はなんて返す?」
「………少なくとも、それではない」
は枕を手繰り寄せると、膝の上で軽く抱きしめた。ずっと静寂の中に居た所為で、延々と思考する癖が付いているようだ。それも、思わしくない方向に。

「まだ具合が悪いんでしょ。横になれば」
そう言うピーターの口調は呆れたようなものだったが、彼を見れば意外にも遠慮がちにこちらを窺う視線とぶつかる。は意味もなく額に手を当てて、熱を測るポーズを取った。

「大丈夫。すごく良く効く薬みたいで。まだちょっとだるいけど起きていられない程じゃないよ」
本当に、緑葉の調合する薬は素晴らしかった。おかげで今は、気絶して運ばれただなんて事に実感が持てない程、回復している。……“気絶して運ばれた”。
は連鎖的に二日前のことを思い出し、そして、枕に顔を沈めた。

「あの、えっと……二日前の夜のこと、覚えてる?」
「ああ、君が倒れた時の?君が雨の中ずぶ濡れで勝手にキレて、しまいには気絶したことくらいしか覚えてないけど」
飄々と言うピーターに、は枕を投げつけてやろうかと思ったが、それはまたそれで恥の上塗りにしかならない。

「お見苦しいところをお見せして、すみませんでした。お手数をお掛けしました」
あの時のわたしは、今となっては不思議なくらい感情が昂ぶっていた。そんなわたしの相手をしなければならなかった彼は、なんて不憫だったのだろう。は、それ以上何も言えずに黙った。ピーターがそれに何かを返すことは無く、部屋に静寂が訪れる。暫くは、窓の外で風が木々の葉を揺らしているのが唯一の音だった。不快に感じない沈黙だったので、は目を閉じてその音に聞き入る。サヤサヤ、サヤサヤと葉がこすれあう。
その沈黙を破ったのは、彼だった。

「あの時も訊いたけど、君は……どうしてそんなに必死になってアリスを追うの」
は「え?」と彼を見る。ピーターはの真意を探るように、僅かに目を細めていた。

「君は部外者だ。この世界の存亡なんて関係ないところに居る。忘れたくないからだと君は言ったけど、忘れたことすら分からなくなる。在りもしなかったことになるこの国に、君がそこまでする理由が分からない」
彼と少し親しくなった気でいたは、あまりにハッキリと線引きするその声色の冷たさに寂しさを感じた。

「今はまだ憶えているし、在りもするから、それが理由なんだよ」
は、自分でもよく分からないことを言っているな、と思った。しかしそれが真理なのだ。この国が好き。この国の人々に存在していて欲しい。願わくば幸せを。

「わたしはアリスがしようとしていることが許せないし、認められない。それだけで良い」
そう言って確かな笑みを浮かべるを、ピーターは見ていた。自身のその視線が羨望するものだということを、彼は知らない。彼女も気付かない。

「そういえば、ピーター。あなたあの時、どうにかしてくれるって言ってなかったっけ?」
そう言ってニヤニヤするに、ピーターは目を逸らした。そんな彼には小さく笑う。そこでまた、会話が無くなった。
心地良い沈黙の中で、はそっと枕に頭を預けた。そして、そのまま何をするでもなく空気を感じていた。いつまでそうしていたのかは定かではないが、徐々に瞼が重くなり―――いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。その事に気が付いたのは、ピーターに起こされてからだった。

「わたし、寝てた?」
「うん。夜が明けたから、もう行く。一応声は掛けておいた方がいいかと思って」
窓のカーテンは既に開けられており、空は淡いオレンジ色に染まりつつある。闇の中にしか咲いていられない青薔薇は、もう居なくなっているだろう。
ピーターが窓を開けると、外からひんやりとした空気が入り込んできた。この部屋の空気がいかにこもっていて、暖かかったかが分かる。

「窓から出ていくの?」
「下から出たら、常盤か黄櫨に気付かれるでしょ。今、彼らには絶対に会いたくないんだ。緊急事態だったとはいえ、深夜に君の部屋に入ったことが知れるとまずい」
部屋に来たばかりの時も、彼はそのようなことを言っていた。彼がそのようなことを気にするのは意外だったが、確かに一悶着の原因にはなりそうだった。それなのに、何故彼はわたしの部屋へ来たのだろう。それも、灯りの付いていない部屋へ。単に、青薔薇から逃げた先にあったからだろうか。外に面した部屋の灯りが全て付いていなくて、在室の確立の高いわたしの部屋にしたのだろうか。
それとも、初めからわたしに問いかけをしに来たのか。

「じゃあ」
「うん、またね。あ、そういえば、どうして月とは喧嘩になったの?」
思い出したように尋ねるに、ピーターはあからさまに答えたく無さそうな顔をした。しかし少しの躊躇いの後、渋々口を開く。

「当分の間は、欠けたままでいてくれって頼んでみたんだ。そうしたら、自分の勝手でそんなことはできないと言われたから、融通が利かない奴だって僕が言って……色々口論に。そんなところ」
彼は早口に、ぼやくようにそう言うと、の反応を待たずに窓から出て行ってしまった。

「……どうにかしてくれる気は、あるのかも」
は振り返らない彼の後姿を見て、そう呟いた。


それでも、頼ってしまってはいけない。何よりも、自分が力を付けなくてはいけない。
今回の失敗は、一人で行動したことだろうか?いや、違う。
冷静でなかったこと。判断を複数回間違えたこと。準備していなかったこと。

弱いわたしも、失敗するわたしも、わたしは大嫌いだ。
inserted by FC2 system