Act1.「雪」



 は身震いするような寒さで目を覚ました。寝相で布団を剥いでしまったのかと思ったがその逆で、寝ている間に何とか温まろうとしたのか、まるでスマキ状態になっている。それでもなお寒い。
 気になるのは寒さだけでなく、言いようのない違和感もあった。なんとなく何かが、いつもと違う。塞がるような静寂に包まれているとでもいうのだろうか。は布団にくるまったままベッドから起き上がり、ぴっちり閉められたカーテンに近付く。明るいクリーム色の花柄は真昼の太陽を思わせるが、その向こうは夕方だろう。赤い夕陽に森の緑が染まっている――筈だった。

 薄暗い鼠色の空。珍しく雨でも降っているのかと思えば、舞い降りてくるのは……

「雪?」
 空から降っているのは、紛れもない雪である。
 不思議の国は暑くも寒くもなかった為、は元の世界と同じで秋くらいなのかと思っていた。しかしこれは、どういうことなのだろう? この世界の季節は急に切り替わるものなのだろうか。それとも何らかの異変なのか。(そういえば昨日、お城からの帰り道も寒かったな。気のせいじゃなかったんだ)

 一人で考えていても答えが出るとは思えず、はとりあえずクローゼットの中から長袖の服を選んで着替える。それから身だしなみを整え、ぞっとする程冷たい廊下に出た。


 ――17月22日。セブンス領から帰還したはピーターに送り届けられ、昨晩、常盤と黄櫨の家に戻って来た。馬車から降りたを、門の外で待ち構えて迎えた二人。にとっては実質数日ぶりの再会だが、彼らにとってはたった一日だ。しかし常盤と黄櫨の反応は、それがもっと長い不在であったかのようなものだった。

 黄櫨はを見るなり、胸元をぎゅっと抑えて俯き「無事で良かった。本当に」と弱弱しく呟く。にはこの少年が泣くところなど想像ができなかったが、もしかするともしかするのではないか、と思う程だった。
 常盤はと目が合うと一瞬だけ安堵の色を浮かべたが、すぐに険しい顔になる。は刺さる視線に、自分の衣服や体の所々に傷があることを思い出した。主に橙との戦闘で負ったものである。それ程目立たず痛みもしないため、その時まで忘れていたのだ。常盤に「」と硬い声で名を呼ばれ、は悪戯がバレた子供の気持ちになった。

「大丈夫……ではなさそうだな」
「い、いえ、大丈夫ですよ」
 は、自分の言葉は届いていなさそうだな、と思った。心配されているのだろうが、詰問でも受けているような気持ちになる。あの日戦場に居た彼を心配していたのはも同じだったが、彼は心配させてくれる暇がなかった。
 常盤は傷だらけのから辛そうに目を逸らし、彼女の後ろに立っているピーターを睨む。

「ピーター、詳しく話を聞かせてもらうぞ」
「はいはい」
「あ、じゃあわたしも……」
「君は部屋で休んでいなさい」
 おずおずと申し出るに、常盤が目を合わせないまま強い口調で言い放った。俯いたままの黄櫨がの手を引いて連れて行こうとするが、は「ちょっと待って」と踏み留まる。自分にしか話せないことはあるだろうし、先程まで寝ていた自分とは違いピーターは疲れているだろうし、もし……自分が怪我をしていることについて彼が責められるようなことがあれば、それは避けたい。そんなの様子を察したのか、ピーターが軽く追い払うような仕草をした。

「いいよ、君が居ない方が話しやすいから」
 本人にそう言われては、どうしようもない。

「そ、そう? じゃあ……おやすみなさい。本当に色々、ありがとね」
 出来るだけ、ピーターには色々世話になったのだということをアピールしながら、は黄櫨と共に一足先に家の中に戻るのだった。そしてあれだけ眠ったというのに、またすぐ眠ってしまった。アリスの残留思念が見せる不思議な夢を見ている間は、普通の睡眠とは違い休まらないのかもしれない。

 ――そして一晩空け、今は頭も体もスッキリしている。冬独特の清い空気がそう感じさせるのかもしれなかった。しかし心はどこか重い。(常盤さんや黄櫨くんが、もう普通に接してくれるといいんだけど……)

 は一階に降り、暖炉のある談話室を覗く。既に火は燃えていたが、室内はまだ寒い。今しがた火を付けたばかりなのだろう。庭に通じる掃き出し窓の傍には常盤が立っており、先程ののように外の様子を窺っていた。が声を掛けるより先に、彼は小さく振り返り、どこかぎこちなく「おはよう」と言った。はそっと歩み寄り、その隣に立って雪を眺める。

「おはようございます。突然寒くなりましたね。17月って冬だったんですか?」
「いや、不思議の国に明確な季節はない。基本的に気温は一定だ」
「季節がない? じゃあこんなに寒くなることも、雪が降ることも、今までなかったんですか?」
「時々……クリスマスには、雪が降る」
 常盤の回答には、この世界らしいな、と思った。四季はなくとも、イベント時の演出としてその一面が出てくることはあるのだろう。いいところどりである。

「でもその言い方だと……今はクリスマスじゃないんですよね?」
「ああ。これは異常気象だ」
「異常気象? もしかして、アリスが関係しているんでしょうか」
「調べてみないと、何とも言えないな」

 は久しぶりに見る雪に、僅かにはしゃぐ気持ちもあった。しかし、積もったら雪だるまやカマクラを作りたい! なんて気にはなれない。子供の頃、雪は冬からの特別な贈り物だと感じていたが、成長と共に感性も大分変わってしまったようである。今は少しくらい触ってみたいとは思うが、それよりは暖かい場所でぬくぬくしていたかった。は窓ガラスから伝わる冷気に、自分の身体を抱きしめる。すると、首や肩をふわりと柔らかな温もりが覆った。寒そうにしていたを、常盤がブランケットで包んだのだ。厚手のニット素材のブランケットは、どこから取り出したのかさっぱり分からない。

「寒いなら、暖炉の近くに居た方がいい」
「はい……有難うございます」
 は温かいそれに顔を埋めて、ほっと幸せそうな顔をした。モコモコである。常盤はそんな彼女の様子に、ようやく少しだけ表情を和らげた。優しい視線に、今度はが少しぎこちなくなる。

……本当に、無事で良かった」
「えっと。ご心配をおかけして、すみません」
「君が謝る必要はない。巻き込まれただけだろう? ピーターから話は聞いている。大変だったな」
 は「いえ、まあ」と口籠る。確かに大変ではあったが、当事者である自分よりも常盤の方が重く受け止めているように感じられ、後ろめたくなったのだ。

「何の力にもなれず、すまなかった」
「いえいえいえ、とんでもない」
 彼の方こそ謝る必要はない、とは思った。彼に自分を守る義務などないのだから。それでも常盤は、口にした言葉以上に自分を責めているに違いない。はそんな彼に罪悪感を抱き、同時に、どこかが満たされるような感覚を覚える。後者はあまり自覚してはいけないものだと思った。
 常盤はから視線を外し、窓の外、どこか遠くを見る。その目に透けて見える静かで暗いものは、雪のように儚げでありながら、決して溶けて消えてしまわない。

「私はいつも、君を守ることができないな」
 小さく呟かれたそれは、恐らく独り言なのだろう。自己完結の響きを持っていた。(いつも? この間の、青バラの時の話かな?)

「……ところで、ずっと気になってたんですけど」
 神妙な顔で切り出すに、常盤は内心どきりとする。一体、彼女は何を訊こうとしているのか……。はここにきてようやく、これまで無意識に、当然の如く受け入れていた一つの“不思議”にいよいよ言及した。

「今、何も無いところからブランケットを出しましたよね? 黄櫨くんもピーターも皆やってますけど……それ、どうやってるんですか? 魔法? 手品?」
 何だそんな事か。と、その問いに常盤は拍子抜けし、心から安心した。

「仕掛けがあるという点では、手品に近いな」
「種明かしはNGですか?」
 が悪戯めいた口調で言うと、常盤は軽く笑って、何も持っていない手でペン回しのような仕草をする。すると、次の瞬間そこにはペンが現れていた。はまさに手品めいたそれに小さく拍手を送る。

「これは、認識による具現化の応用だ。別の場所にある物を手元に再構築している」
「再構築?」

 そこから語られた種は、明かされたところですぐに理解できるものではなかった。
 
 ある場所に存在する物体を、別の場所で認識すること。それにより元の場所の物体は分解され、もう一方の場所に再構築されて姿を現す。物体の再構築を行うには、物体への精度の高い認識、理解が必要であり、また前提として所有しているという事実に基づく自覚も必要になるとのことだった。もしそれぞれの場所で二者が同時観測していた場合、所有権や意識エネルギーの強弱によってどちらに存在するかが決まるらしい。
 物ではなく人を呼び寄せることは出来るのかと問えば、理論上は不可能ではない……とのことだ。自分の居場所を自己認識している人間の意識を上書きすること、常に変化し続ける人間を完全に理解することは非常に難しく、彼の知る限り実例はないらしい。

「前に地下水路で、火を起こしていましたよね? あれも同じ原理ですか?」
「ああ、よく覚えていたな。あれは少し違う。火は固定の質量を持った物質ではなく、化学反応中の“現象”だ」
 水や風などの流動体、火や電気などの現象の発現は、物体の再構築とは異なるらしい。原子レベルで構成を理解し、周囲の原子を分子として認識し……という説明の大半は、の頭をすり抜けていった。丁寧に説明させていることが申し訳なくなる。

「えっと、物体の再構築の方が難易度が低そう? ですね。わたしにも出来ますか?」
「君なら出来るかもしれないな」
 そう言われて、は自分の手の平に意識を集中させてみる。取りあえず自室にある、見た目も感触もよく覚えている枕を思い浮かべてみた。(あれ? どのくらいの大きさだったっけ? 重さは? 側面の縫い目はどうなってたっけ?)
 世の中の殆どが、見ているつもり、分かっているつもりで出来ているのだと気付いた。

「ううーん……できない」 
「下手に意識しすぎない方がいい。迷いが生じて上手くいかなくなる。再構築には混じり気の無い認識が必要不可欠だ。確率は一で無ければならない」
「わたしには無理かも……」
 悔しそうにするに、常盤は慈しむように微笑んだ。そしてには唐突に聞こえる問いかけをする。

「君の部屋は、過ごしやすいか?」
「えっ? あ、はい。とても……何でも揃っていて」
「なら、君は無意識下で、もっと難易度の高いことを既に行っている」
 はまた「え?」と疑問符を浮かべた。

(そういえばこの家で初めて“わたしの部屋”に入った時、最初は真っ暗な何もない空間だった気がする。……そこにあるものを認識するまでは。わたしはあの時、わたしの部屋を認識で作り出したっていうこと?)
 そう言われても、どうしても納得できない。

「無意識の認識、強い思い込みは、無から有を生み出すこともある」
「無から有って、そんな大それた事をしたとは思えないです。全部元からあったようにしか……」
「疑う余地が無いくらい、強い認識だということだな。まあ、元から何も無かったとは言わないが」
 本当に、そうなのだろうか。信じられないが、彼に言われるとそんな気もして来る。

「君の目の前にある物は、全て君の認識でそこにある」
「じゃあ……常盤さんもわたしの」
 思い込みなんですか、と最後までは敢えて言わなかった。はちょっとした冗談のつもりだったが、常盤に意味ありげな笑みを返され、不安になる。

(常盤さんの冗談は、冗談かどうか分からないからやめて欲しい……)

 その時部屋のドアが開き、廊下の冷気が滑り込んできた。黄櫨かと思ったが、違う。ファンシーなウサギの耳を凍えるように折りたたんだ、可愛げのない男である。

「あれ? まだ居たんだ」
 のその言葉に、特に深い意味はなかった。しかしピーターは不貞腐れたように、暖炉の側のソファにどかっと座るのだった。 inserted by FC2 system