Act8.「16月7日」



 眠っている時。何も夢を見なかった夜は、どこへ消えてしまうのだろう。誰にも知られない夜中のわたしが、わたし自身にも忘れられて、眠っている。その間のわたしは果たしてそこに存在しているのだろうか?

「起きて」

 誰かの囁く声がする。やはり、わたしはここに存在していて眠っているらしい。しかし本格的に自分の存在や現実に取り組むのは、億劫だった。面倒くさい。眠くて眠くて、うるさいなあ放っておいてよ、と布団に潜り込む。

「ねえ」

 わたしは何も聞こえない。蓑虫だ。

「早く起きて」

 ……声が苛々し始める。誰だか知らないけど、早く諦めてくれないだろうか。だって、わたし、こんなにも眠いのに。

!」

 小声ではあったが、自分の名前を耳元ではっきりと呼ばれ、はハッと目を醒ます。まどろみで蕩けていた頭が一気に凝固した。自分はいつから、どこで寝ていたのだろうか? すぐ隣を見ればオレンジ色の髪の少女が静かな寝息を立てている。ここは彼女……橙のベッドらしい。はベッドの横で屈んでいる、自分の眠りを妨げた男を咎めるように見た。

「……なに?」
 こんな深夜に、女の子の寝室に断りも無く入ってくるなんて信じられない。と、非難がましい目を向けるを無視して、ピーターは小さな声で耳打ちした。

「話があるから、来て。その子に気付かれないように」
「……すん」
 素直にうんと言うのが嫌だったはそう返すと、ゆっくり慎重にベッドから下りる。橙はぐっすり眠っているのか、多少の軋みくらいでは起きそうもない。しかしうっかり床の上に転がっているドライバーやネジを踏んで声を上げたら、ゲームオーバーだろう。ピーターは暗い中でよくこの部屋を進んでこれたな、とは感心した。

 小さな声で「着替えるから」と言って彼を追い出し、薄手のワンピースから元の服に着替えると、は忍び足で部屋を出る。

 部屋の前では、ピーターの他に橙の父親であるという熊男が待ち構えていた。大きなゴーグルでその顔は殆ど見えないとはいえ、露わになっている部分と彼の纏う空気から、非常に険しい様子が伝わってくる。思い当たることはないが、悪事を責め立てられている気分になった。は橙の部屋に戻りたい気持ちを抑えながら、なるべく音を立てないようにドアを閉める。

「俺の部屋に来い」
 男は野太い声でそう言い、階段を下りて行った。威圧的で不愛想なその男は、やはり橙とは似ても似つかない。しかし付いていった先の男の部屋は、橙と同じくごちゃごちゃと物で溢れた部屋だった。生活用品、工具、作りかけや書きかけの何か。彼らの部屋は単に片付いていないのではなく、各々のルールで仕上がっている感じがした。

 男は少し埃っぽいソファを指して、とピーターに腰かけるように言う。は大人しく座ったが、ピーターは立ったまま、腕組みをして壁に凭れていた。(わたしの隣に座るのが嫌なのだろうか?)
 男は気にした様子もなく、自分はベッドにずっしり座る。そして大きな溜息を吐いた。

「俺は、話をするのが苦手だ。補佐官殿、頼めるだろうか?」
「分かりました」
(ホサカンドノ?)
 ああ、そうだ、確かピーターは国王の補佐官をしているのだったっけ。こんな不愛想で無責任そうな男にそんな重要な役目が務まるのだろうか? とは思ったが、仕事になると違うのかもしれない。男の言葉に敬語で返したピーターには、違和感しかなかった。

 ピーターはのもの言いたげな視線に眉を顰め、咳払いする。そして話し始めた。

 どうやら目の前の熊男は、このセブンス領を治める侯爵らしい。名をアドルフというようだ。……コウシャクとはどのくらい偉い人だっただろう? とりあえず領主というからにはこの辺りで一番の権力者なのだろう。こんな辺鄙なところで慎ましすぎる生活を送っていることから、にわかには信じ難かった。

「セブンス興、お話ししたように……彼女が今の白ウサギです」
「……紹介が遅れました。です。先程はろくな挨拶も無しに大変失礼いたしました」
 はとりあえず丁寧に挨拶をした。男の身分が何であろうが、初対面時にきちんと挨拶できていなかったことが気に掛かっていたのである。しかしアドルフの一文字の口は何も言葉を発することなく、“気にするな”とでも言うように片手を少し上げるだけだった。

(彼が侯爵なら、橙は侯爵令嬢ということになるのだろうか?)
 ののんびりとした思考を、ピーターが遮る。

「単刀直入に言うけど」
「はい?」
「僕達はここから帰れないよ」

「なんで!?」
 内心では“やっぱり”と思いつつも、は驚きの声を上げた。上階の橙を起こさないよう気遣う彼らに合わせて、何とか声量を抑えることができたが、今後もリアクションには気を付けよう。は一度落ち着いてから、至って静かな声で訊き直した。

「どうして? 確かに遠いみたいだけど……馬車が無いとか、道が塞がってるとか?」
「それは問題ない」
「じゃあ、明日になったら帰ろうよ」
「そう。本当ならここにやって来た日の翌日、17月22日に、僕達は帰ることが出来る筈なんだ」
 ピーターの回りくどい言い方に、は不可解な顔をする。

 今日が17月21日だということは、も覚えていた。……大分この世界に馴染んできていると自負していたが、何度聞いても17月というのは慣れない。

 不思議の国の一年は、昔は十二ヶ月構成であったらしいが、今は違っていた。一月もまた同じで、数日で次の月に変わることもあれば三桁続くこともある。一年が何ヶ月なのか一月が何日なのかは、自由奔放で傲慢な“時間”が気まぐれで決めているらしい。不規則で実用的ではない時制に、混乱せず生きていける人々が不思議でならなかった。

「じゃあ、どうして帰れないの?」
「ここが16月7日だからだよ」
 この人は何を言っているんだろう? はもしかしたら揶揄われているのではないかと思ったが、ピーターがそんな無駄なことをするようには思えない。

 今から一ヶ月以上も前の、16月7日。いくら時間が不規則であっても、数字のルールは守られていた筈だ。1の次は2であるように、17の次に16は訪れない。ピーターの言うことが本当なら、自分たちは時間を逆行してしまったということなのだろうか。または年が変わった未来なのか。

「わたし達、過去か未来に来ちゃったってこと?」
「それだけだったら、まだ良かったんだけどね」
「違うの?」
 の問いに、ピーターは答えるべき内容に思うところがあるようで、だんまりを決め込んでいるアドルフを見た。しかしアドルフは、自分からは何も言うことはないと、ただ話の先を促すように深く頷くだけである。ピーターは諦め、話を続けた。

「ここは過去だけど、ただの過去じゃない」
「どういうこと?」
「この辺り一帯は、もうずっと――16月の7日を繰り返してる、らしい」

「……それはまさか、同じ日を繰り返してるってこと?」
 はファンタジー小説によくありそうな設定を、真面目な顔で確認する自分がむず痒く感じた。キャラクターになりきって台詞を読んでいる気持ちだ。
「そういうこと」と肯定したピーターだったが、彼も同様に半信半疑といった様子である。どうやら同じ日を繰り返すという事象は、不思議の国でもそうあることではないらしい。

「毎晩0時。日付が変わるタイミングで巻き戻されて、また7日が始まる。侯爵が言うには、これまでに今日を計2,216回繰り返してる。ああ、もう少しで2,217回目だね」

 ピーターが壁に掛けられた時計を睨んだ。時刻は深夜11時50分。は彼の口から語られた膨大な数字に絶句した。

「に、にせん」
 もしこの世界の一年を365日とするなら、同じ日を繰り返すだけで……六年もの時が経過しているということになるのだろうか。は驚きはしたが、元の世界のフィクション作品が事前学習になっているのか、思ったより混乱なく理解できてしまう。

「こういうことって、よくあるの?」
「よくあるわけないでしょ」
 何を言っているんだ、と冷めた目を向けるピーターに、はムッとする。(知らないよ、この世界の常識なんて)

「この辺り一帯って言ったけど、どのくらいの範囲なの?」
「正確には確認できてないけど、この家がある林と、近くの“キルクルスの街”は含まれてる」
 “キルクルスの街”は、橙に見せてもらった地図に載っていた。ここから一番近いところにある大きな街である。

「同じ一日を繰り返すこの場所は、部外者である僕達には介入し得なかった場所の筈なんだ。それが世界の法則を無視するバグによって、運悪く繋がってしまった。……という見解」
「外には出られないの?」
「世界の時間の主軸は一本だけ。そこからズレてしまったこの場所は今、外の世界と切り離された閉鎖的な空間になってる。この場所に“外”は存在しない。さっき少しだけ確かめて来たけど、街外れの景色は実体のない蜃気楼みたいな状態だった」

 ピーターの言うところによると、外との境界には透明な壁があり、触れると押し戻されてしまうらしい。彼と自分は同じタイミングでここにやって来たというのに、彼はもう随分と状況を把握しているようだった。夕食前からずっと姿が見えなかったが、アドルフから話を聞いたり外へ様子を確認しに行ったりしていたのだろうか。は自分を置いてけぼりにした彼と、何も出来なかった自分が恨めしくなる。

「ここの人達は、このことについてどう思ってるの?」
「セブンス興以外は、全く気付いてない。ただ毎日同じ行動を繰り返してる」
「侯爵様以外は……」
 は、まるで他人事のように話し合いを静観しているアドルフを見た。彼は終わりの無い繰り返しの中で、誰とも共有できない孤独を抱えていたのだろうか?……などと同情を抱いたわけではない。単に怪しく思えたのだ。何故彼だけが特別なのだろうか。

「侯爵様、あなたはどうして……いつから気付かれていたんですか?」
 は返事が返ってきそうもないそのゴーグルに話しかけた。人と話をする時には目を見るものだと思っているが、濃いスモークグレーのレンズの奥には何も見えない。もしかしたら何も居ないのかもしれない。だってやっぱり、何も返ってこないのだから。彼はピーターには事情を説明しただろうに、そんなに自分と話すのが嫌なのだろうか?
 無言のアドルフの代わりに、ピーターが口を開いた。

「最初から気付いていたらしい。理由は分からないけど納得できなくもない。“侯爵”はこの領内においては、強い権力を持つロールネームだから。ここで起きている事象が、他の者と同じように作用されない可能性はある」
 ロールネーム、とは心の中で言葉をなぞる。

 この世界でロールネームが重要であることは、も既に知っていた。特別なロールネームにはそれ相応の力があるということも知識としてはあったが、その力がどのようなものでどのように働くのかは理解しきれていない。ピーターの言うように侯爵がロールネームによって時間の繰り返しの中でも記憶を保つことができているなら、その力は思ったより大きい。他者と見えている世界も、立っている土俵も違うということだ。

(もしかしたら、わたしが青バラに負けなかったのも、ヴォイドにすぐ殺されなかったのも、白ウサギという役名のおかげなのかもしれない)

 それにしても、とはピーターを見る。ここまで沢山話をする彼を見るのは初めてかもしれなかった。国王の補佐官という仕事がどういうものなのか、侯爵との関係も分からないが、ピーターがこんなに素直に面倒な説明役を引き受けているのは不思議な感じがした。彼が諦めざるを得ないほどに、アドルフが無口だということなのだろうか。

「街の外の人たちは気付いてないの?」
「僕達の居た17月の時間軸では、やっぱりこの辺り一帯は見た目だけで、見えない壁に阻まれるように出入りできない状況だったよ。異変だという報告が上がっていた。だから初めに言ったんだ、帰れないって」

 バグ空間を抜けたばかりの時、ピーターはここがどこだか分かると言った上で、帰るのが無理だと言っていた。あれはこういう事だったのかと、はようやく理解する。ただ、帰れないという事実に頷くことはできない。こんなおかしなことに巻き込まれていられるほど、時間の余裕はないのだ。

 はちらっと掛け時計を見る。もうすぐそこまで零時が迫っていた。今の話が本当ならば、時間が巻き戻されるタイミングである。歯医者で口を開け、骨に響く甲高い音を立てるドリルを迎える時のような……逃げ出したい気持ちだった。

 巻き戻しとはどういうものなのだろう?
 繰り返しとはどのように感じられるのだろう?

 自分達がここに来たのは、午後4時頃の夕暮れ時だった。リセットされてからそれまでの時間、元からここに居なかった自分達の存在が消えてしまうなんてことにはならないだろうか? 今のこの記憶も消えて、全てまたやり直しになるなんてことに、ならないだろうか? もう一度本に食べられ、爆弾に追われる体験するのだろうか? いや、外の世界とは切り離されているのだったか……。

 秒針が刻む。刻む。刻む。侯爵は何も言わない。慣れているのだろうか。
 ピーターは慌てた様子もなく、ただ静かに針の動きを追っていたが、その横顔は少しだけ張り詰めて見える。

 5、4、3、2、……1。



 その瞬間は、想像したほど恐ろしいことはなかった。大地が割れることも空が落ちてくることもない。ただ確実に“体感”があった。
 何かが入れ替わるような、失われるような、与えられるような。吐き気のような眩暈のような。とにかくそれは、が今まで感じたことのない種類の不快感だった。だが1分と経たない内に何事も無かったようにスッと楽になる。

 今、時間が戻ったのだろうか? 彼らにそれを聞かなくても気付いている自分がいる。そして反対に、何を聞いても納得できない自分もいる。本当に時間が繰り返されているのかは、これから自分で色々見聞きして、序所に腹落ちさせなければならないだろうと思った。

 は深呼吸とも溜息ともつかぬものを一度して、心を落ち着ける。静かな気持ちで改めて二人の様子を窺うと、アドルフの引き結んだ唇は小さく震えていた。時間の巻き戻しの瞬間は何度繰り返しても慣れないものなのか。それとも単に人見知りの反応なのか。彼からは緊張感が伝わってきた。
 ピーターはこの状況に大分苛々しているのか、腕組みしたまま指をトントンと動かしている。纏う空気がピリピリしていた。

(これから、どうするべきなんだろう?)
 あのアニメでは、あの小説では、どのようにループ問題を解決していただろう? ……どれも、原因次第だ。原因が分からなくては手の打ちようがない。

「そもそも、なんで時間が繰り返されてるの? 解決の目途は?」
 アリスの異変と一口に言っても、問題には原因がある筈だ。イレヴンス領で人々が苦しめられたのは、青バラが原因で、青バラを枯らしてしまえば解決したように。町に光の玉が溢れていたのは、迷い込んだ妖精が、町の灯りに目が眩んで帰れなかったように。時間が繰り返されることにも、何か原因があるはずだ。

 アドルフがどんな人物であれ、流石に六年もの間何もせずにいた訳がない。結果としてループから抜け出せていないのだとしても、何かしら見当が付いているのではないだろうか?

「さあ……彼は“何も分からない”らしいよ」
 ピーターが冷たく、棘のある口調で言った。あからさまに訝しむ顔でアドルフを見ている。どうやら彼もアドルフの説明を鵜呑みにしている訳ではないらしい。はそのことに少しだけ安心した。

「橙は? 橙はこの事に気付いてないの?」
 この話し合いの場に居ないのなら、そういう事なのだろうとは思ったが、一応訊いてみる。

「彼女はコウシャク……の親族だから、気付ける可能性はあるけど、それは確認しようがない」
「どうして?」

「夜が明けて目覚めると、自分の名前以外の全ての記憶を失っているんだってさ。あの子」 inserted by FC2 system