Act8.「花篝の道」



まだまだ赤い空の下、は他人の家への帰路へと付いた。彼女を出迎えたそのドアは、そこに暮らす家主同様に、余所余所しい顔をしている。
住人達の様子は、出て行った時と何ら変わりは無いようだった。ユリウスは部屋に引きこもったまま姿を見せず、橙は相変わらず部屋の真ん中で機械弄りを楽しんでいる。しかし、部屋の様子はすっかり変わっていた。充満する機械油の臭い、床に好き勝手転げまわっているネジ達、所狭しと広げられた機械の図案書……。はネジを踏まないようにしながら、締め切られた窓を開放して換気する。締め切られていた部屋に爽やかな外の空気が舞い込むが、それに前髪を揺らされる橙は、の帰宅にさえ気付いていないようだった。
橙は恐ろしく作業に熱中している。たくさんの部品を慣れた様子で扱う彼女が、何かを作っているのか分解しているのかはには分からなかったが、とても、訊ける様子でも無かった。は彼女の邪魔をしないよう、そのまま静かに屋根裏部屋へと向かう。階段を上っていた時には、部屋に着いたら埃っぽいのをどうにかしよう等と考えていただったが、ベッドを目にした途端にどうでもよくなってしまい、羊の面影を思う間もないままに眠りへと落ちていった。


―――そして、わたしは夢を見た。

夢を見るということは浅い眠りだということで、可哀想なわたしは随分と疲れている筈なのに深い眠りには恵まれなかったのだ。
夢の中のわたしは小学生で、夏休みに、地域の団体のキャンプ企画に参加しているところだった。キャンプ先の田舎で紫と野いちご摘みをしていたけれど、そういえばあのキャンプに、紫は居なかった筈だ。過去の再現に、捏造が含まれている。

紫は、キャンプに行くことを親に許してもらえなかったと泣いていたから、わたしが小川で綺麗な石を拾って、お土産にあげたんだもの。

(本当は琥珀が良かったのに、全然見つからなくて、結局はただのつるつるした白い石になってしまったんだっけね)


世界が白んでいく。足元が不安定で、ひゅるると堕ちていくような、……眩暈がした。



目が覚めると同時に、意識と体が一気に醒めた。この世界に来てしまってから、大抵の目覚めはそうだった。あまり、まどろみが無い。もう少し肩の力を抜いた方が良いのかもしれないな、と、は苦笑交じりに立ち上がる。天窓からは今にも居なくなってしまいそうな月がこちらを覗いていた。

は今が何時頃なのかさっぱり検討が付けられずに、ひっそりと部屋を出た。リビングではピーターが一人、椅子に腰掛けて出しっぱなしの機械の図案を見ていた。彼は夕方には着ていなかった黒のジャケットを羽織っている。が物音一つ立てる前に、彼はの存在を察して面倒そうな表情を浮かべた。

「……おはよう。今何時?」
の問いかけに、ピーターは背の低い棚を視線だけで示す。随分と目立たないところに、小さな時計が置いてあった。この世界で普通の時計というものを見かけたのは久方ぶりのような気がした。が、やはり普通の時計ではなかった。数値の配列が、てんでバラバラなのだ。1…2…6…32…?……365!
ただ、でたらめに配置された数字でも、それが時間を指していればもう十分立派な時計だと言えるだろう。幸い、針が指しているのは一番上にある恐ろしい三桁では無く、親しみ深い10だった。


「今は22時ってことだね。時計なんて、本当に久しぶりかも」
「時計ほど意味の無いものは無いよ」
「え?」
はピーターの言った意味が分からずに聞き返したが、説明が返ってくることは無かった。は、彼の奥、テーブルの上のものに気が付く。近づくと、そこにはカバーの掛けられたミートパイと、小さく折りたたまれたメモが置いてあった。

へ。起きたら食べてね。お鍋の中にはスープがあります。林檎は明日の朝に切るわ。あなたが少しでもよく眠れたのだったらいいのだけれど。  橙』

女の子らしい丸い文字で書かれた、暖かなメッセージ。は黙ってそれを折りたたみ、ポケットの中へと仕舞う。橙は優しく、とても良い子だ。そして―――得体が知れない。

(明日の朝、ね……)

「橙は、部屋?」
席に着いてミートパイにフォークを突き刺したところで、はピーターに訊いてみた。お互いに目を合わせる気などそもそも無いような状況下だった為、暫く返事が無ければ聞こえなかったか、聞こえなかったフリをされているかだな、とか考えていたところ、案外普通に返事が返ってくる。

「さっき出かけたよ」
「どこへ!?」
「知らない」
は彼の言葉に、元からさほど感じていなかった空腹が、完全に消え失せた。突き刺したばかりのフォークを引き抜き、皿の上に寝かせる。そしてそれを、「あげる」と彼の前に押し出した。手はつけてしまったが、口はつけていない。行儀が悪いのは重々承知だが、粗末にするわけにもいかなかった。ピーターの返事も聞かずに、は席を立つ。

「わたし、ちょっと出掛けて来る」
「何」
「ううーん、散歩!」
普通はどこへ、と訊くものなのではないかと思ったが、多分“どこへ”よりも、“なに”の方が一文字分短いからだろう。振り返らなかった。
足早に玄関まで行き外へ出ると、はそのまま走り出す。

―――もし、もし今日が最初の17月10日を何度もやり直しているなら、橙と初めて出会った時に、彼女があんな事を言う筈が無いんだ。「見ない顔ね」なんて、見たことのない顔ばかりの彼女が言う筈も無い。そして、街の人たちの困憊した様子。あの目。目。目。目!

間違いない。この街は同じ日をやり直してなんかいない。理由は分からないが、ただ全員が、その日を繰り返すように再現しているだけだ。時間さえもその役者の一人だなんて、なんて豪華な出演人!!

明るい内に街中を歩き回ったおかげで、どの道がどこに続いているかは大体把握できていた。が目指すのは、昨晩橙と出会ったあの場所だ。

橙は、記憶が無い。そんな彼女が、このような夜更けに一人きりでどこかへ行かなくてはならない用事。そこには何か秘密が隠されているように思えてならない。そしてそれを解き明かすことが、問題解決への糸口になり得るのではないか……と、は昨晩から考えていた。そして今夜、橙の後をこっそり尾けてみようと思っていたのだ。彼女の出発を寝過ごしてしまったことはまさにうっかりで、想定外だった。
しかし、明日もう一度やり直せば良い、だなんて悠長なことは言いたくない。やり直しなんてそんな都合の良いことが、上手くいく筈がないのだ。

は昨日橙に案内してもらった道を思い出して、そこを遡っていく。目的地が無いのが散歩だと、誰かが言っていたような気がするけど、そんなことはどうだっていい。

家々から聞こえるささやかな生活音、吹き抜ける風。は足を止めた。昨晩、橙は見かけない二人にここで足を止めた。ここまで来る途中で擦れ違わなかったのなら、彼女はこの先にいるのだろう。………困った。ここまでの道中に追いつけるかもしれないという期待で、急いで来たというのに。(もしかして、行きはこの道を通っていないのでは……?)

真っ直ぐ。右。左。……橙はどこへ行ったのだろう。

こういう時、物語の主人公なら……目を閉じて、探し人のことを強く想い、その名前を心の中で叫べば、大抵解決するだろう。しかしわたしは、漫画の主人公でもなければ、彼女を想うほどの思い入れは無い。第六感的なものだって、使えた試しがない。
選択肢は限られているのだからいっそのこと賭けに出てみるか、と前に足を踏み出した時、綻ぶような香りが鼻先を掠めていった。何の香りだろうか。それはとても淡く、甘い香りだった。

はその薄桃色の香りに惑わされるように、静かに道を外れて歩いていった。

やがて、不思議な灯りがいくつも並んでいるのが見えてきた。近付けば、妖しくゆらめくそれは篝籠の中で燃えている火だということが分かる。篝火は暗闇を照らす仄かな明かりとなって、天上の花々を照らしていた。をこの場所まで誘ったのは、どうやらこの花らしい。桜のような色をしていて夜でも眩しく見えるその花だが、姿は牡丹に似ていた。下に咲いていたならば、牡丹でしかないだろう。

(お祭りの準備か何かだろうか……)

火を着けたままで誰も居なくなるなんて、火事になってもしょうがないよ。と、は心配げに一つ一つの籠を見て回るように歩いたが、彼女の“行き止まり”に遭遇して慌てて木陰に隠れる。

橙だ。

最後の篝籠の下で、橙は一人佇んでいる。彼女はには全然気が付いていない様子だ。は跳ねた胸を撫でおろす。しかし、この場所からでは橙がそこで何をしているのかが分からない。見えるのは、ただ彼女の背ばかりだ。はなるべく音を立てないように、木陰伝いに彼女へと近付く。

何だか少し、いけないことをしている気分になってきた。


「 」
橙が何かを呟いたように、空気が震えた。それは、聞き取れない。表情は―――よく、分からない。

少しずつ、少しずつ近付いていく。木から木へ、花から花へ。一向に気が付かない橙に油断して、は足元への注意を怠ってしまった。落ちていた枝を、の足がパキリと踏み折る。もう、彼女の溜息さえ聞こえてきそうな距離だ。どうしたって、今の音は聞こえてしまっただろう。
の脳内には一瞬にして“自然に聞こえる言い訳”の候補がいくつか提示された。その中では「散歩の途中で見かけたから、どこに行くのかなと思って」が今のところ一番有力だ。そう!いかにも今話しかけようとしてました、という感じで!!

「橙、―――」

しかし、彼女は振り返らなかった。観念して名前まで呼んだというのに、彼女は未だどこかを見つめたままだ。聞こえていないのだろうか……?

は思い切って、身を乗り出して彼女の向こう側の景色を覗き見た。

「……なっ!!」

彼女の見ていたものは、崖の下の森に蠢く“無数の巨大な影”だった。影は、この街に来るその直前に、を取り囲んだあの醜い化け物である。また狙われるのでは、とは思いながらもそこから動くことが出来ず、彼らがどこかへ移動していくのを眺めていることしか出来ない。幸い、彼らも橙と同じ様に、の存在には気が付かない。

一体。また一体。それらは濃度の高い暗闇から這い出て、列を成して進んでいく。その行列の大行進は、にとっては凄く長いものに感じられていたが、実際は数分間の出来事だった。は最後の一体がそこを通り過ぎるまで、いや、通り過ぎてからも、暫くは息が上手く出来なかった。

辺りに視覚の静寂が戻る。目を瞑っていたなら、その場は静かで平穏そのものだったに違いない。影たちに足音は無く、耳に届くのは火が燃える微かな音だけだった。


「駄目だわ」
橙が、ポツリと独り言を呟く。大分近くまで来ていたには、それをしっかりと聞くことが出来た。

「こんなんじゃ、駄目なの。駄目よ、駄目……全然駄目!!」
小さな声が突然、ヒステリックな叫びに変わる。橙のその気迫に、は思わずたじろいだ。一体、何が駄目だと言うんだ!

「まだよ!まだ駄目!また駄目」

橙は影の向かって行った方向から視線を逸らす。おかげで、にはその悲痛な悲しみを浮かべる少女の顔が見えてしまった。


「―――もう一回よ」

花篝の下で、少女はそう呟いた。
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