Act7.「喧騒の街」



結局その晩は酷く疲れていた筈なのにろくに眠れず、短い眠りと気怠い起床を繰り返している内、いつの間にか夕方を迎えていた。天窓から真っ赤な夕日が射し込んでいる。これが、この世界の朝。
はベッドから体を起こすと、寝癖の付いた髪を下に引っ張りながら、部屋を後にする。歩くと、寝不足がたたって眩暈がした。細くて段の高い階段はフラフラした体には恐ろしく、一段一段慎重に降りる。そして、二階の廊下。は、橙と出くわした。
おはよう、という言葉が出掛かって、慌てて飲み込んだ。ユリウスの言葉を信じるならば、彼女はこの日の朝には記憶を失っているのだというのだから。

「………」
橙は何も言わない。ただ戸惑ったような顔でを見るばかりだ。どうも、昨晩の気の強そうな彼女の印象とは違う。今から半日の間で、あんなにも変わるものなのだろうか。

「おはよう」
様子を見るつもりだっただが、いつまで待っても進展が無いと判断してそう声を掛けた。橙は「ほぁ」と驚いたように息を吐いて、言った。

「誰ですか?……アタシは」
その様子は、とても嘘を吐いているようには見えない。特別疑っていた訳でもないが、やはり信じ難いことであったのは事実だったので、も驚いて一歩身を退く。……どうしよう。
と、悩む暇もなく、すぐに下の階からユリウスが上がってきて、彼女の前に立つ。

「俺はユリウス・カエサル。お前は俺の娘で、名は橙だ。機械技師である俺をお前が手伝いながら、二人でこの家に暮らしている。この娘は道に迷っていたので昨晩泊めた」
彼とは思えないほど、よく通る声で紡がれた長い台詞だった。きっと、もう何度も同じ事を繰り返し伝えてきたのだろう。お手の物という事だ。
しかし、機械技師とは何のことだ?と、が怪訝な顔をしていることに気付き、ユリウスは無言で「何も言うな」と牽制した。

橙はそんな二人の様子に全く気付かないまでに、真剣に頭の中を整理しているようだった。がそんな彼女を心配そうに見ると、突然勢い良く顔を上げた橙と目が合う。

「あなた名前は?」
「えっ。わたしは、だけど……」
ね。おはよう。アタシは橙よ!」
「お、はよう……。いい名前だね。わたし、色の名前って好きだよ……」
それは、とても数分前まで自分の名前すら忘れていた少女には思えなかった。そんな橙にの方が困惑してしまい、思わず昨日と同じ事を言ってしまう。橙はにっこり笑って「ありがとう」と言った。

「アタシ、朝食の用意をしてくるわ!も身支度が出来たらリビングに来てね!」
「―――へ?」
橙が軽やかに階段を降りてゆく。は呆然とその後ろ姿を見送った。彼女の姿が完全に見えなくなると、はまだそこに立っているユリウスをに問いかける。

「あの子……本当に記憶喪失なんですか?」
ユリウスは小さく頷いて肯定した。けれど、とてもその様には見えない。第一何の迷いも無く、忘れてしまった筈のこの家を、知り尽くした自分の家のように歩いていったではないか。何なんだ、あの順応の早さは。
半日どころではない。彼女の変化は、一瞬だった。

「でも……なんで身元を偽るんですか?公爵だって、言わなかったのは何故ですか?」
ユリウスは、黙り込む。は彼から答えを得ることを諦めて、自分から回答例を提示する。

「自分の父親があんまり凄い人だと、橙が驚くから……とかですか?」
彼はまた頷いた。にはそれが非常に適当な事に思えて仕方が無かったが、ひとまず納得してみせるしかなかった。ユリウスはその話を続ける気は無いようで、の後ろを覗き込み、別の話題を口にする。

「……あの人は、一緒じゃないのか」
「ああ……そうなんです。わたしはてっきりまた、あなたと居るのかと思っていました」
結局昨晩、あれからピーターが帰ってくることは無かった。


「こんなところで立ち話?」
「えっ」

噂をすればなんとやら、だ。今、橙が降りていったばかりの階段を、今度はピーターが上ってくる。彼らは下で鉢合わせなかったのだろうか。特に何事も無かったかのようなピーターの態度を、は不思議に思う。

「今、橙が下に降りて行ったでしょ?大丈夫だったの?ユリウスさんはあなたのこと、まだあの子に教えてなかったけど」
「……昨日と同じような感じだった」
「そう」
彼も昨日をなぞったのか。と、は少し苦い顔をした。もしかしてこのまま同じ事しか繰り返せないんじゃないかと思うと、気味が悪い。気味が悪いといえば、何故かこちらをじっと見ているユリウスも、大概に気味が悪い。

「あの、どうかしましたか?」
「いや……君たちは、仲が良くないのか?―――そういう仲なのかと思っていたが」

((なんだと!?))

とピーターが互いを見やるタイミングは、恐ろしいくらいにぴったりだった。二人は共通して、他人に自分のペースを乱されることを好まず、それ故にギリギリ涼しい顔を保ってはいるが……しかし何か言いた気なのは誰にでも分かることだろう。

「吃驚しました。そんなんじゃないですよ。どうしてそんな勘違いをなさるんです?」
口調は穏やかであるが、は内心で『なんてこと言いやがるんだこのムッツリスケベ親父は!』とユリウスを酷く罵る。ユリウスは小さく「服が……」と言ったが、喋る事に疲れたのか続きを言うことなく、一つの溜息を残して階段を降りていった。

(服……?)
そうだ、そうだった、そうなのだ。わたしと彼は、まるでペアルックみたいな服装だったのだ!みたいっていうか、ペアルックでしかない。
は途端に服を脱ぎ捨てたくなった。本当のことを言えば、別に彼とお揃いである事が嫌なのではなく、そのことに彼が嫌悪を感じるのが、嫌だった。なんか、許せない。ピーターは案の定、非難じみた目をに向ける。

「気になってたんだけど……いや、そこまで気になってないけど、君、なんでそんな格好してるわけ?」
「常盤さんが、白ウサギの制服みたいなものだからって」
そんなことは言ってなかったような気がするが、そういう意味でこの服をくれたのだろう。ピーターはそっけなく「ふうん」と言った。

「そんなことよりあなた、昨日、あの後どこ行ってたの?」
「気になる?」
「……いや、そこまで気にならないんだけどね?」
「じゃあ、いいんじゃない」
「………そうかい」
はむっとして、彼の存在など元から無かったかのようにさっさとリビングへ向かった。橙は身支度が終わったら、と言っていたけど……と思い出して、両手で頬を叩いてみる。よし、起きた。―――他に支度することは、無い!

足を踏み入れたリビングは、暖かな香りに包まれていた。鍋のコトコトや、包丁がまな板を叩くトントンが耳に優しい。橙は知らない筈の台所で、手際よくスープや魚のムニエルを作っている。その横ではユリウスがパンを切っていた。

どんな状況でも、食事は万人の習慣としてやってくる。は、何か手伝えることは無いかと申し出た。橙は客人にそんなことはさせられないとその申し出を断ったが、が自分は招かれてやってきた客人ではないということを主張すると、申し訳なさそうな顔で食器を並べるのを手伝わせてくれる。は慣れない他人の家の食器棚から皿を選びながら、ガラスに映る二人の後姿を見た。二人はそれぞれに、自分の役割で食事の準備を進めている。そこに流れる空気は、非常に家庭的なものだった。
は常盤や黄櫨とも食事を囲んできたが、あの二人の間柄は家族というよりは同居人で、家庭らしさを感じることは無かった。そしてそれは、彼女にとっては幾らか楽だったのだ。
家庭的な空間とは、一見穏やかで親しみやすいように感じるが、実際はその家庭独特のルールや常識で形式ばっていて、特に食事の席はそれが強く出る。会食に興味が希薄なには、それがとても面倒に思えた。重く沈んでいく気分に、修学旅行の民泊経験を思い出す。

(まるでホームステイに来たみたい)
しかし、これは課外学習の一環ではない。街の歴史や見所を学んで居る暇はないのだ。貴重な経験の機会と言えば、時間のループなどという経験は恐らく二度とない、貴重すぎるものであったが。

食器を並べ終え、調理が終わる。憂鬱な食事が始まり、静かに進んでいく。
橙の作った朝食は、の口には塩気が強すぎた。特にスープは、胡椒が効きすぎていた。

「あら、楽しそうな朝食ですのね」
あらかた食器の上のものが無くなってきた頃、突然聞きなれない声がして、は驚いて窓の方に目をやる。開けっ放しの窓の外から、長い茶髪を高い位置で結った若い女性が、人懐こそうに微笑みかけていた。手に持った籠の中には、果物がたくさん詰まっている。

「こちらに人がお住まいになっていただなんて、知りませんでしたわ」
「最近引っ越してきたんです」
は一番窓に近かったという理由から何気なくそう答えてしまったのだが、明らかに自分が言うべきことではないと思った。けれど、本来答えるべきユリウスはさっきから無言を決め込んでいたし、橙は答えられる筈も無い。
それに、ここにはそれを気にしている人はいないようだった。橙はもう少し自分が身を置く環境に興味を持つべきだ、と呆れるは、女性が自分の顔をじっと見つめていることに気が付く。……その視線は、怖いくらいだった。ただ無表情で、じっとを見ている。
しかし、それも一瞬の事だったようだ。

「あら、そうなの?この街は皆親切な人ばっかりだから、何か困ったことがあったら誰かに話すのが良いわよ。あ、私でもいいけどね。私、メイシャっていうの。よろしくね」
「あ……です。よろしくお願いします」
もうメイシャは何事も無かったかのようにニコニコしていた。快活そうなお姉さんにしか見えない。

「あの、メイシャさん。わたし、実は道に迷ってしまってこの家にご厄介になっているんですけど、いつまでもお世話になるわけにも行かないし……街に出たらどこか良い宿はありますかね?」
「まあ、旅人さんなのかしら?でも、宿……ねえ」
「無いよ」
しかし答えたのは隣に座るピーターだった。隣というには間が空きすぎているかもしれないけれど。

「え?無いの?」
「今朝、見てきたけど、どこも満室だった」
えええ、そんなことってあるんですか?と、がメイシャを見ると―――また、あの顔だ。まるで幽霊でも見るような顔で、ピーターを見ている。ピーターはその視線に煩わしそうに眉を寄せていた。は、この女性が気付いているのではないかと疑い始める。
……わたし達が、この日には居る筈のない存在だと。

そういえば、記憶を失っていたという橙も昨日、わたし達に“見ない顔”だと言いはしなかっただろうか。どうにも、この街のループは言葉通りの単純なものではないように思えた。

「……ええ、そうなのよ。この街、明日大きなお祭りがあるから、今は他の街からたくさんの人が来てるの。公園にテントを張ったりしてる人も居るくらいよ?お祭りが終わるまではどこも空かないでしょうね」
終わらないお祭りが終わるまでとは、つまりずっと空かないということだろう。はハッとして、ユリウスを見る。彼は分かりやすく顔を背けた。
この人!絶対にこの事を知っていたでしょうに!野宿でもさせる気だったのだろうか!

「あら、じゃあアンタ達、今日もここに泊まれば良いじゃない?」
橙がどこか嬉しそうに提案する。ユリウスは、反対する理由が見つからないのか何も言ってはこなかった。

「うん、有難う!“今日”も、よろしくね」
は少し意地悪そうに笑った。

メイシャはルビーみたいに真っ赤な林檎をひとつに渡すと、手首の腕時計を見て「もうこんな時間!」と早足に街の方へと駆けて行った。何か用事があったのだろうか?
(それにしても窓の向こうから赤い林檎を手渡すなんて、悪い魔女のお婆さんみたい)


朝食がすっかり済んで後片付けも終わると、ユリウスは自室に向かい、橙はどこからか工具箱を持ち出して何か機械らしきものを弄り出した。機械技師というのは、彼女の趣味になぞらえたものだったのだろうか。その手付きを見るに、彼女にとってそれは体に染み付いていることのようだった。

「橙、わたし、ちょっと街を散策してくるね」
「ああ、ごめんなさいね、夢中になっちゃって。でも大丈夫?迷わないかしら?彼と一緒に行けばよかったのに」
彼、というのは、少し前に家を出たピーターの事だ。はその点については曖昧に笑って誤魔化した。

「うん、多分大丈夫、迷わない。あと、メイシャさんから貰った林檎、橙にあげるね」
「有難うね。今晩の食事の後にでも、切って出すわ。いってらっしゃい」
橙は軽く手を振ると、また手元のものに真っ直ぐな視線を落とした。今まで意識して見る事はなかったが、彼女の小さな手には所々に煤や機械油の黒いシミがある。汚れた手。真剣で活き活きした目。はそんな彼女に、好印象を抱いた。(良い趣味じゃないか、中々)

玄関に辿りつくと、靴を履いているにも関わらず何か履くものを探してしまう。慣れたと思っていたが、まだこの室内靴文化には違和感があるようだった。







街には、人が溢れていた。今が商売時だとでも言わんばかりに、店は活気付いている。当ても無く暫く歩いていると、目にする看板や広告から、は初めてこの街の名が「アウグスの街」というのだと知った。そして明日行われるのが「発条祭」。どうやら一年に一回行われているらしい。年と年の節目の大事な行事のようだ。

ガシャン!

突然直ぐ近くで陶器の割れるような音がして、はビクリと肩を揺らした。……何だ?

「すみません!」
が音の方に視線をやると、道の横の喫茶店のテラスで、店の者が客に必死で頭を下げている様子が見えた。良く見ればその店員は今朝会ったばかりのメイシャで、彼女の足元には割れた食器と食事がぶちまけられている。知り合いだと分かってどうにかしてあげたくなったものの、店は中も外も客でいっぱいで、今近寄っては逆に仕事の邪魔になってしまうと諦めた。他の店員の姿が見えないけれど、まさか一人で切り盛りしている訳じゃないだろう。
はさっとそこから離れる。

忙しいのはメイシャだけではないようだった。街全体が、とても忙しそうだ。皆それぞれに祭の準備に勤しんだり、商人は観光客を狙ってここぞとばかりに儲けようと必死だったり、本当に忙しい街だった。本人達は気付いていないのかもしれないが、その顔はよく見ればげっそりと疲れている。よく見なければ気付かないほどに、彼らは元気を装って忙しくしているのだ。

そして、その誰もがの存在に目を留める。やはりメイシャと同じように、一瞬の間じっと見つめるのだ。いい加減にそれにも気味が悪くなって、そろそろ帰ろうとしたの近くで、小さな少年が「あっ」と声を上げた。
少年の手から風船の紐が離れていってしまったのだ。黄色い風船はすぐに手の届かない高いところまで登ってしまい、やがて見えなくなった。

少年は泣きながらそれを見ていたが、やがて母親に手を引かれてそこを離れていった。少年も母親も、やはりを見ていた。


パタン。次に猫背気味の青年が本を落とす。地面は底なし沼ではないから、今度は手を伸ばすのが間に合った。がそれを青年に渡すと、青年は他の人と同様にあの目でを見たが、やはりそれは一瞬だけで、すぐに「ありがとう」と言って不器用に笑った。

何気なく彼の歩いてきた方向を見ると、なにやら大きくて立派な建物がある。オレンジ色のレンガが積み立てられた、窓の少ない建物だ。

「あれは何の建物ですか?」
「この街の誇る大図書館だよ。多分、この辺じゃあ一番大きいと思うけど」
青年は手元の本を掲げて、「この本もそこで借りたんだ」と言った。

「図書館を知らないということは、君も明日の祭の観光でこの街に来たのかい?」
「はい、そんなところです」
「そっか。じゃあ、その……良かったら案内しようか?」

「……いえ、今日はちょっと疲れちゃって」
本当に、疲れたのだ。こんなことなら昨晩にちゃんと寝ておくんだった。青年は残念そうにしていたが、の身を案じる言葉を別れの言葉にして、雑踏の中に消えていった。



は何気なく、溜息を吐いた。ほら、こうしている内にもまた、どこかの誰かからの、視線。



(全く……嫌になる)
inserted by FC2 system