Act6.「欠陥」
馬上から落ちたの元にジャックはすぐ戻ろうとしたが、纏わりつくヴォイド達に邪魔され、応戦している間に距離を離されてしまった。既にどす黒い肉の壁が、ジャックの視界からの姿を隠している。
ジャックは、ヴォイドの攻撃に容赦がない事を知っていた。話の通じない奴らは、ただ目の前にある全てを破壊し尽くさんとする怪物だ。そしてその怪物に侵略された地、命を奪われた者は、この世界から跡形もなく“消去”される。
の存在が自分の記憶からもすっかり消えてしまえば、異世界人に対する憎しみと、彼女自身に対する感情の狭間で、葛藤することもなくなるだろう。とジャックは思ったが、それはそんなに簡単な話ではなかった。想像すると清々するどころか、アリスの手下ともいえるヴォイドなどに彼女が消されるのは、癪に障った。
――『新しい白ウサギを援護せよ。それがお前への罰だ、ジャック』
数日前、国王はジャックにそう告げた。
禁止されている青バラを育て、領民を危険にさらした彼に対しての罰はただその一つのみ。降格や謹慎の可能性も考えていたジャックだったが、ヴォイドの襲撃で兵力が不足している今、王は自分という戦力を失う訳にいかないのだろうと察した。前線で指揮をとらせるために、王は権威も義務も奪わない。
しかしその罰も妥協ではなく、妥当だ。アリスの目論見を阻止するという目先最重要の課題に沿いつつ、異世界人に恨みを抱いているジャックへの制裁としても相応しいものだと、王は考えたのだろう。
だが、ジャックにとっては丁度良い言い訳になった。主から与えられた罰であるから、自分の意思とは関係なく、白ウサギであるを助けなくてはいけない。そう考えることで、自分の感情を許容できる気がしたのだ。
ジャックは向かってくるヴォイドを倒すのではなく、避けることに集中し、一刻も早く彼女の元に駆け付けようとする。しかし何故かヴォイド達もまた、彼を“足止め”することに目的を切り替えたようだった。その巨体は密着し厚い壁となって、ジャックがに近付けないよう立ち塞がる。
(どういうことだ……あいつらの狙いはだったのか?)
先程から自分ばかり集中攻撃を受けていたことも不思議だった。もしかすると初めから、ヴォイドの標的は後ろに居ただったのではないか。そして今、標的を確保した奴らは取り返されないよう護りに徹している。
離れた所で、銃声が響いた。常盤やトランプ兵達も苦戦し、誰もに近付けていないのだろう。ヴォイド達による肉壁は彼女を中心とし、円く全方位に広がりつつある。ジャックは深く呼吸し、意識を集中させて剣を構え直した。そして、目の前の壁を突破すべく馬を走らせる。
強固な壁は、壁らしく何の抵抗もしない。気味が悪いくらい、ただ大人しく丈夫な肉壁である。その体は斬りつけても痛みにもがくことなく、最後の瞬間までただ耐えるように、立ちはだかっていた。
それは、ジャックがこれまで見てきたヴォイド達の様子とは明らかに違っている。天災の様に現れ、ただ暴れ狂う怪物が、今はまるで生き物のように一つのことに囚われている。それは何なのか。それは何故なのか。
壊れかけた壁の向こう、少しずつ見えてくる中心の様子に、ジャックは息を呑んだ。
*
は真正面から自分を見下ろす怪物を、呆然と見ていた。
形容しがたい歪な化物。アリスの意思が具現化したものであるという、個を持たない虚無の怪物。その姿は恐ろしく……どこか悲しいものに感じられる。先程までスプラッター映画の敵にしか思えなかったソレが、向き合った途端に、何か別のものに変わったようだった。
ぬらぬらとした血色の眼球から視線が逸らせない。それは恐怖による硬直とは違う。何かもっと特別な感情に支配されて、今自分は動けないでいるのだと、は思った。
この感情は何だろう?
冷たく、熱い、穏やかに刺す、痛み。
怪物の鋭い爪がこちらに伸びる。それは今にも自分の首の皮を突き破り、平凡な少女の中身を暴いてしまうだろう。だがそこに殺意は感じられない。凶暴で醜悪なその手は、救いを求める臆病で非力な手に見えた。
は頭の片隅で『逃げないと』『何をしているんだ』と叫んでいる自分を無視し、怪物に一歩、歩み寄る。自分の何倍も大きな体は怯えたように、一歩後退った。
「あなたは……誰?」
その問いは目の前の怪物に向けたものではなく、自分自身の中に答えを探るものだったのかもしれない。はギョロリと飛び出た赤い目を覗き込む。それはまるで、占い師が使う水晶玉だ。自分の姿と、何か見たいものが見え隠れしている気がする。怪物の手がいつまでも自分に触れないのは、彼らもまた何かを感じているからではないだろうか。
は瞳の奥がツンとして、熱いものが溢れそうになっていることに気付く。原因が分からない感情の揺れ。制御できない。
なんでだろう、どうしてだろう。
悲しい、寂しい、苦しい、辛い――“可哀想”だ。
誰が、可哀想なのだろう
「ごめんね」(いったい、何が?)
のその言葉は、きっと誰にも届かなかった。彼女が口にした瞬間に、声をかき消すように轟音が響いたからだ。
――衝撃波が、空間を切り裂いていく。
視界を覆っていた黒い塊が後方に吹き飛ばされ、は目を瞬かせた。怪物に抱いていた感情を、生存本能的な安堵が上回る。自分と怪物とを切り離したその一撃。凄まじい威力と、その体の内側に響くような音に、は覚えがある。
「君は、何をしてるの」
振り返るとそこには、白い馬に乗ってライフルを構えるピーターの姿があった。今ヴォイドを貫いたのは、彼の放った弾丸なのだろう。
ピーターは弾丸の軌跡を描くように、の元に馬を走らせる。は力なくその姿を見上げた。彼の緋色の瞳には、緊迫と疲労と呆れの色が浮かべられている。は一気に現実に引き戻された。先程までの自分が、自分ではなかったように思えてならない。今の今まで……いつ殺されてもおかしくない状況だったのだ。
後追いする恐怖に腰が抜けそうだった。膝がカクンと折れて地面に付いてしまう。足に力が入らない……。その様子を見かねたピーターは馬から下り、の腕を力任せに引っ張り上げて立たせた。
「世話かけさせないで」
「あ……」
「早く馬に乗ってくれる?」
「うん……」
しかしその時、先程まで静かだった“壁”が動き出す。を奪われることに憤るかの如く、ヴォイド達が一気に凶暴化したのだ。飛びかかって来た一体に馬が引き倒されてしまい、ピーターが舌打ちする。
銃と剣、人、馬、怪物、全てが入り乱れる。息つく間もない乱闘が始まる。はピーターに庇われながら何とか生きていた。ジャックや常盤、エースもまだ無事な様子だったが、何人か伏しているトランプ兵の姿が見える。敵の屍の方が多いだろうが、分母が違うかもしれない。素人目には正確な戦況の判断などつかなかった。しかし苦しい戦いには間違いなさそうだ。
ふと、ヴォイドの背後の景色が揺らいでいることに気付いた。向こうに見えていた森、空、地面が陽炎のように揺らぎ、朧気になり……透けていく。は息を呑んでそこを注視した。見間違いではない。どんどん“空間が消えていっている”。これがヴォイドによる消滅“虚無化”なのだろうか? ヴォイドの進行を食い止めることができなければ、こうして何もかも消えていってしまうのだろうか?
この世界をアリスによる消滅から救いたいのは本心だったが、目の前で起きている現象に何も手出しができない。寧ろ、今の自分は足手纏いでしかない。ただ恐怖に足を竦ませた、無力なお荷物だ。死にたくないし、自分の所為で誰かを死なせたくもない。今すぐどこかに消えてしまいたい。
『じゃあ、別のところに行くかい?』
「え?」
どんな騒音にも邪魔されずクリアに響き渡った声に、は驚く。確かに今、誰かが自分に話しかけてきたのだが、その姿はどこにも見当たらない。きょろきょろと周りを見回す注意散漫なを、ピーターが苛々した様子で叱る。
「しっかりして。君の不注意に巻き込まれるのはごめんだ」
「ごめんなさい、でも」
が言い終える前に、ピーターが彼女を引き寄せる。銃の先端に装着された剣が、黒い怪物の体を切り裂いた。今までが立っていた地面には深い爪痕が残っている。……確かに、幻聴なんかに気を取られている場合ではない。
は目の前の出来事に意識を集中させた。しかし、注意すべきは後ろだったのだ。
背後に妙な違和感を抱き、が振り返ると――そこには、ただ暗い闇が立ち込める大きな穴が開いていた。世界の仕組みを無視して、空間に突然現れる穴。はそれを知っている。つい先日、異変の現れた街で見たばかりのそれは、異空間に繋がる穴。この世界の“バグ”である。
(どうしてこのタイミングで……!)
穴は息を吸うように外界の空気を取り込んでいく。の体は踏みとどまる隙さえ与えられず、吸い込まれていく。それでも何とか抵抗しようとした彼女は、無意識に近くに居たピーターの服を掴んでいた。何の構えも出来ていなかった彼はそのまま、後ろへ引っ張られる。
二人はそのまま、穴の中へ消えていった。
*
世界がいきなり切り替わった。
そこは、激しかった戦いが嘘のように静寂に包まれている。砂埃や火薬、血のにおい、それらを運ぶ風……どれもが存在しない。音も色も全て、いきなり途絶えてしまった。二人が落ちた穴の向こうは、先程までの世界とは完全に分離された、別の空間だった。
自分の意思と関係なく、いきなり別の場所に連れていかれるのは、にとっては本日二度目の体験である。
「なんなの? ここは……」
穴の中は真っ暗闇に見えたが、自分の手足や彼の姿はちゃんと視認できる。……彼。そう、思わずピーターを連れてきてしまった。は確実に責められるだろうと、おずおず顔色を窺うが、彼は何も言わず静かに状況を確認している。
も彼を真似して辺りをじっくり見回した。全てが黒一色の空間は、目で見ても広さが分かりにくいが、腕を伸ばせばすぐに左右の壁に手が当たる。どうやらとても狭い通路のようだった。歩いてみることは出来た為、ある程度の奥行きはありそうである。
入って来たばかりの入り口はどこにも見当たらない。全方向が闇だ。バグに取り込まれた人々は殆ど戻って来られないと聞くが、このまま一生ここに閉じ込められるのだろうか?
「ね、ねえ、どうしよう」
は青い顔でピーターに助けを求める。彼は少なくとも自分よりは、この世界のことに精通している筈だ。その彼にあまり動じた様子が無いところを見ると、もしかすると脱出方法を知っているのかもしれない。もし知らなければ……絶望的だ。
ピーターはの顔をじろっと睨んで、これみよがしに大きな溜息を吐く。
「どうしようもなにも……君はこれが何だか分かってる?」
「バグの一つで、異空間に繋がる穴、ですよね」
「へえ、それくらいは知ってるんだ。そう、ここは異空間だから世界の法則が通用しない。ここがどこに繋がっているかも、どこにも繋がっていないかも、誰にも分からないよ」
いつもより刺々しい口調のピーターにそう言われて、は更に顔を青くした。
「じゃあどうすれば」
「君は自分で考えられないの?」
「……進む! 進みます!」
自棄になって、は前に踏み出した。勢い良く大股で歩いて行きたかったが、突然壁にぶつかりそうで一歩一歩慎重になってしまう。格好がつかなかった。仕方ないといった様子で、ピーターも渋々付いてくる。
「どこに向かってるの?」
「前」
「目的なく進んでも、どこにも行けないよ」
は彼の言葉に、ただ突っかかって来ただけかと思ったが、どうやらそうではないらしい。ピーターは淡々と続けた。
「この世界では“意識”することが重要なんだ。目的地を明確にイメージすることで、意識エネルギーが作用して、その場所に辿り着けるかもしれない」
「明確って、どのくらい?」
「目的地の正確な座標軸、時間軸、その場所を構成する物質……」
そんなもの分かるものか! と突っ込みたかったが、そういえば黄櫨は座標軸を口にしていた。不思議の国の住人なら、それを知る感覚を身に着けているのかもしれない。
「あなたはそれ、分かるの?」
「無理。常盤や黄櫨だったら分かったかもしれないけど」
は彼の返答に落胆した。ピーターは少しムッとして「あの二人が特別なんだよ」と言う。バックグラウンドに介入できる修理屋と、第六感に優れた少年は、この世界でも特別な存在なのだろう。は、巻き込んだ立場ではあるが……連れてくる人を間違えたな、と思う。
『間違ってないよ。おかげで僕がこうして、話しかけることができるんだから』
「え?」
それは先程も聞こえてきた声だった。耳ではなく、頭の中に直接響いてくる。気のせいかと思っていたが、やはり気のせいではなかったのだ。幻聴が聞こえるほど精神状態が危うい自覚はなかったが、幻聴であって欲しいかもしれない。『ごめんね、幻聴じゃないよー』……その声の、こちらの思考を読み取ったみたいな発言が、気持ち悪い。
『気持ち悪いなんて心外だなぁ。助けてあげないよ?』
「助けてくれるの!?」
は音の無い語り掛けに、肉声で返す。ピーターが驚いた顔でを見た。
「君にもこの声が聞こえてるの?」
「ということは、あなたにも?」
『二人に話しかけてるんだから当然だよ』
姿の無い誰かがそう答えた。年齢も性別も定まらない不思議な声だ。だがどこか幼さを残す話し方からして、大人ではないだろう。
は何度かその声を聞いている内に、それが青バラとの戦いの時にも聞こえてきた声だと思い出す。崩れかけていた天井を壊すよう助言し、結果としてそこから差し込んだ夕陽で青バラに打ち勝つことができた。窮地を助けてくれた前例のある声だった。
「確か、青バラの時にも助けてくれたよね」
の言葉に、見えない誰かの気配が嬉しそうにする。ピーターはこの声の主を知っている様子で、険しい目をに向けた。と声が接触することは、ピーターにとってあまり良い事ではないようである。
「いつの間に“彼”と接触してたの」
「え? ああ、地下水路で」
そういえばあの時もピーターが居た。この声が聞こえる条件の一つに、彼が関わっているのだろうか?
『ご名答! 僕は表世界の存在じゃないから“依り代”を通してしかそっちに接触できない。依り代は大事なものだから、ピーターに預けてるんだ。ね?』
ピーターは返事をしない。その顔は少し強張って見えた。には彼とこの声との関係性が、想像すらできない。
「依り代ってなに? あなたは誰?」
『うーん……挨拶はまた今度ね。今はまだ、君にそこまでの価値があるか分からないから』
大分失礼なことを言われた気がする。が、別世界におり、人心を読み、依り代を介するというこの声は神のような存在なのかもしれない。なら、品定めされるのも仕方ないのだろうか。
『さあ、一旦おしゃべりはここまで。僕が導くから、進んでごらん』
声が言う。瞬間、周りの光景は何も変わっていないというのに、道が拓けた感覚になった。今立っているこの場所は、確かにどこかへ繋がっていると思える。一体どこに導かれるのか、頭の中で何度疑問を唱えても返事はなかった。それどころか声の気配はすっかり消え失せている。
とピーターは少しの間、嫌々ながら顔を見合わせて……とりあえず進んでみるしかない、と意見を一致させた。
どこまで行っても同じ黒、黒、黒。途方もない闇の道。だが先程までとは違い、彷徨い歩いているのではなく、進んでいるのだという確信があった。そしてそのまま歩き続けていくと、数分も経たない内に出口が見えてくる。
……あれは本当に出口だろうか? は疑わし気に、目を細めてそれを見た。
黒い空間の先方に現れたのは、白い四角だった。空間が唐突にくり抜かれたそこはただ白いだけで、先には何も見えない。白いのは光だろうか?
近付けば少しずつ見えてくるだろう、何かが分かってくるだろうと思っていたのだが、そんなことは無く、どれだけ近付いてもそこは白いだけだった。不安が募る。不安しかない。
あと数メートル。数歩進めばそこに到達する。その先にあるのは先程の戦場か、未知の場所か……ただの無なのか。いずれにしても進まなければならないのだ。足を止める危惧など捨ててしまおう。何があっても受け入れるしかない。ただ、巻き添えを食わせてしまった彼には申し訳なく思う。
「あの、巻き込んで、ごめんなさい」
前を行くは振り返らず、小さな声で謝罪した。白の世界まであと三歩というところで「本当にね」とピーターのふてぶてしい声が返ってくる。
(……前言撤回。一番初めに彼に巻き込まれたのは、わたしの方じゃないか)
二人は白の世界へと、踏み出した。