Act23.「残光」



 は真っ暗闇の中を揺蕩っていた。ここがどこであるか、自分がどうなっているのか、そんなことを考える余裕もない。オレンジの視点であの悲劇の夜を追体験したは、恐怖と悲しみと死の苦しみで、もうぐちゃぐちゃだった。そんなの意識を手繰り寄せたのは、聞き覚えのある……それでいて初めて聞いた気のする女の声。

「どう、中々悲惨でしょう?」
 そこに居るのは、先程まで“自分だった”メイドの姿。はハッとして、暗闇にぼんやり浮かび上がるその人物の名を呼んだ。名乗られもしていない相手の名前を呼ぶのは不思議な気持ちだった。

「オレンジさん! ……生きてたんですね」
「いえ、死んでるわ」
 彼女はの言葉をバッサリ切り捨てる。では目の前の彼女は何だというのだろう。幽霊……にしては足があるが、そもそも本物の幽霊に足がないと言い切れるだろうか。

「じゃあ、あなたは一体……ここは?」
「どちらも既に知っているでしょう。私はループの理由。ここは起点となる悲劇の一日よ」
 そういうことが聞きたいんじゃなくて……というの不満が顔に出ていたのか、オレンジは「仕方ないわね」と肩を竦める。

「私があなたに説明するなんておかしな話だけど……まあ、いいわ。私の見解を教えてあげる」
 オレンジは淡々と語り出した。 

「16月7日の夜、私は橙を庇って死んだわ。それを受け入れられなかった橙は、悲劇の夜をやり直そうと時間を戻したの。……でもね、時間を戻す“きっかけとなった過去”は、どうしたって変えられないのよ」

 悲劇の夜が無ければ、時間のループは発生しない。ループが発生しなければ、悲劇の夜は起こる。その矛盾を防ぐため、過去を改変できないようにする力が働いているという。そしてその力は橙の記憶を奪い、侯爵邸の時間を閉鎖的なものにしてしまった。オレンジはその力のことを“世界の理”と呼んだ。

「橙が以前言っていたみたいに、これはただの過去の再現よ。でも、既に侯爵邸には再現に必要な駒が揃っていなかった。あの日、私を含めて大勢死んだんだから」
 平然と言うオレンジは、まるで他人事である。

「上手く再現できない侯爵邸は、空間が乱れてしまった。今、あなたが見てきたようにね」
「待ってください……結局あなたは何者なんですか?」
 オレンジの言うことが正しいなら、一度失われた命は過去に戻っても蘇らない筈だ。では今目の前に居る、自分と話をしている彼女は、一体何なのだろう。

「私はこの侯爵邸に捕らわれている、ただの残留思念よ」
「ざ、残留思念? それってもしかして……地縛霊ってことじゃ……」
「失礼ね、違うわよ。霊魂なんて生々しいものじゃないわ。今の私は、元のオレンジとは別の……器から抜け出た意識エネルギーの塊よ。自我もないわ」
「それを霊魂と言うんじゃ……それに自我が無いって、こうしてわたしと話してるじゃないですか」
「それはあなたが、私の思考と感情を受け取って、勝手に解釈しているだけ。これはあなたの独り言なのよ。だから言ったでしょう。私があなたに説明するのはおかしいって」

 にはオレンジの言っていることが納得できない。これが自分の独り言だとはとても思えないからだ。現に彼女は自分の知り得ないことを多く語っている。……だがそれは、本当に彼女の言葉なのだろうか? 潜在意識の中で自分が推測しているものである可能性は無いだろうか?

「残留思念とはきっと、何かを伝えたい感情の塊。あなたの中に私の感情の受け皿があったから、あなたは受け取ることが出来た」
「受け皿?」
「そう。あなた、橙の大切な友人になったでしょう。だから私の感情に呼応したのよ」
 オレンジは複雑なものを孕んだ微笑みを浮かべ、の手を引く。宙に浮いていたは彼女に引かれ、その隣に降り立った。触れたその手は温かく、やはり幽霊には思えない。オレンジは何もない空間を指差し「あれを見て」と言う。ただの暗闇が広がるそこは、暫く目を凝らしていると何かを映し出した。――それは、潰れたシャンデリアの前に座り込む橙。泣き腫らした目で、血濡れの床を睨んでいる。

『駄目だわ』と呟き、

『これじゃ、駄目なの。駄目よ、駄目……全然駄目!』と頭を抱えて、

『まだよ! まだ駄目! また駄目』と叫び、

『――もう一回よ』と絶望の中に落ちていく。

 その様子をオレンジは悲し気に見ていた。

「ねえ、どうしようもないと思わない? この無意味な繰り返しは、あの子の内側をすり減らしていく一方だわ」
「内側? あの橙はいつの橙で、どこに居るの?」
 の知る橙は記憶を失っており、自分自身の正体もオレンジのことも忘れていた筈だ。林の中の一軒家で目覚め、そこで眠る一日を送る彼女。ならあの場所で嘆いている彼女は一体……

「あれはここであって、ここではない場所。橙の意識が囚われている過去」
 オレンジの言うことは、本当に自分の中にある言葉なのだろうか? それにしては難解過ぎる。

「あなたはもう少し、踏み込まないといけないわね。表面だけじゃだめよ。橙自身にちゃんと向き合うの。……私には出来なかったから」
 最後の言葉は、聞き取るのがやっとの小さな声だった。俯いたオレンジに心配そうに声を掛けると、彼女はガバッと顔を上げ、の両肩に掴みかかる。強い瞳で、まっすぐ射抜かれた。は、彼女の瞳が橙の髪よりも鮮烈なオレンジ色だったことに気付く。赤々と燃えるオレンジ色。マリーゴールドみたいに眩しく咲き誇っていた彼女。しかしその美しい花は、悲劇の夜に手折られてしまった。

 それがどうしようもなく悲しかった。オレンジの気持ちを思うと、橙の気持ちを思うと、やりきれなかった。自我が無いというオレンジの残留思念は、に額を合わせ、の中に溶け込んでいく。

「あなたがこの繰り返しを終えるの。橙を助けてあげて」

 それは確かにオレンジ自身の言葉であると、は感じた。







!」
 自分の名前を呼ぶ声で、は目覚めた。最初に見えたものは、焦ったような顔のピーターだ。どうやら自分はどこかに倒れているらしく、彼に抱き起されている。ピーターはと目が合うと、安堵の息を吐いた。
 は状況が分からず、彼に支えられながらゆっくり体を起こす。そこは侯爵邸の扉の前だった。

「何……どういう……え?」
「訊きたいのはこっちだよ。中に入ってすぐ、君は倒れたんだ」
「あっ……」
 は思い出した。その瞬間、侯爵邸の中で見てきたもの、オレンジとして感じたことの全てが一気に押し寄せる。暗闇の世界で冷静でいられたのは、この感情が目の前に居たオレンジのものだと思えていたからだ。しかし完全に自分と一体化した今、それは感情のキャパシティを超え、溢れ出す。

 誰かを愛しく思う気持ち。
 誰かに愛される感覚。
 死の恐怖。痛みと苦しみ。残していく者の悲しみ。

「うっ、」
 息が苦しい。声が出せない。自分が制御できない。勝手に口から嗚咽が漏れ、涙が堰を切った。突然泣き出したにピーターはぎょっとして「え、何、ちょっと」と動揺していたが、彼のその珍しい反応を面白がる余裕は、今のには無い。

 一人分しかない心に、もう一人分の強い感情が無理矢理詰め込まれ、おかしくなりそうだった。激しい波の中で溺れてしまわないよう、ただ必死に、目の前の男にしがみ付くことしかできない。そして流した涙の数だけ、感情が収まるのを待つ。
 暫く泣きじゃくっていたが落ち着いたのは、泣くだけの体力が失われた頃だった。体力だけでなく気力も消耗したは立ち上がることもできず、ただピーターの腕の中で小さく収まっている。ピーターはそんな彼女を、引き剥がすことも背中を擦ることもできず、困惑の表情で遠くを見ていた。

 彼女がこんなに取り乱しているところを初めて見た、とピーターは思った。

 





 パチパチと火の爆ぜる心地良い音に誘われ、は目を開ける。痛みで疼く目を何度か瞬かせると、ぼやけていた視界が徐々に定まってきた。見えた天井は見慣れた平面ではなく、三角形に張っている……テントみたいだ。右に、左にと視線を動かすと、そこはやはりテントの中で、自分はもこもこの毛布に包まれ眠っていたらしい。テントの入り口は開かれていて、夜闇の中で焚火が燃えていた。
 
 全て夢だったのかもしれない。という考えは、自分の手に握られていたオレンジ色のリボンに否定される。これはオレンジの髪に巻かれていたものだ。何故これが自分の手元にあるのかは分からないが……心が、彼女に託されたものだと感じる。はリボンが皺にならないよう丁寧に折り畳み、ポケットの中にしまった。
 
 恐る恐るテントから顔を出すと、そこは見慣れた林で、テントの傍には丸太に腰掛け焚火を眺めているピーターが居た。彼の手には湯気立つカップがあり、の元まで香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。ピーターはコーヒーに口を付けた訳でもないのに、と目が合うと苦い顔をした。
 は侯爵邸の前で晒した自分の醜態を思い出し、恥ずかしさのあまり卒倒しそうになる。彼を直視出来ず地面を見つめながら、とりあえず何とか絞り出せた言葉は「あの、ごめんなさい」だった。ピーターはそれに返事をすることなく、少しの空白の後で何事もなかった風に「コーヒー飲む?」とだけ言う。はどんな罵詈雑言も引き受ける気でいたため、ポカンとした。

「へ? え……あ、飲む」
 が何とか頷くと、ピーターは「そう」と言ってどこからともなく新しいコーヒーカップを取り出し、折り畳み式の簡易テーブルの上に置く。そして、小さく細長いヤカンのようなものからコーヒーを注いだ。注ぎ終わった後差し出してこないということは、自分で取りに来いということなのだろう。
 は気まずさに耐えながら彼の傍に寄り「ありがとう」と言ってカップを取った。そしておずおず丸太の端っこに座ると、熱いコーヒーに息を吹きかける。静かな香りに、気持ちが安らいだ。慎重に一口啜ると……単純に美味しいとは違う、特別な味がした。ミルクも砂糖も加えていないそれは苦いが、酸味が無くまろやかで飲みやすい。

「落ち着く味。ほっとする」
「……良かったね」
「うん……随分本格的なキャンプみたいだけど、もしかしてここで寝泊まりしてたの? わたしにホテルを譲っちゃったから?」
「いや、キャンプが好きなだけだよ」
 それはこちらを気遣う優しい嘘かと思ったが、彼がそんな気を回してくれるとは思えない。ただの事実なのだろう。はここ最近で知った彼の好きなものを頭の中に並べてみる。甘いもの、料理、キャンプ。無機質に感じていたが、意外と人間味のある人物である。ふとした瞬間の受け答えからは時々、天然だなと思うことがあった。そういえばその緑のシャツにオレンジのネクタイも、ウサギの好物である人参をイメージしていると言っていたな……。

 と、いつまでもぼーっとしている訳にもいかない。ピーターは何も言わないが、その横顔から説明を求める無言の圧を感じ、は重たい口を開いた。「あの、先程のアレには色々と事情がありまして」と語り始める。

 侯爵邸で見たこと、橙と関わりの深いオレンジという女性のこと、彼女の死を受け入れられない橙が、ループを引き起こしているのだろうということ。オレンジの抱えていた複雑な感情については、自分の心の中だけに秘めておくことにした。

「残留思念? それで、君はそのメイドの過去を追体験したって?」
「そう。あなたは何も見なかったの?」
「君が言うようなものは見なかった。侯爵邸の中は空間が乱れていて、使用人やヴォイドの姿が残像みたいに行き来していたけど……」
 そこで含みのある視線を向けられ、は首を傾げる。

「観察している暇もなく、君が倒れた。とりあえず外に連れ出したら突然泣き出すし……人にしがみ付いたまま寝始めるし……仕方ないから街より近いここに連れてきたんだよ。ぐっすり眠れて、すっきりした?」
「うっ……その、ご迷惑をおかけしました」
 穴があったら入りたかった。ウサギの穴でもマンホールでも何でもいい、どこかに消えてしまいたかった。そんなを見るピーターの目は、言葉よりは優しい色を帯びている。(という、わたしの希望的観測)

「まあいいよ。それで、結局時計塔には行くの?」
「行く必要はあると思うんだけど……時計塔からバックグラウンドに行けば、本当の橙に会えるのかな? オレンジさんの残留思念は、表面だけじゃなくてもっと踏み込む必要があるって言ってた。過去に捕らわれている潜在意識下の橙に話しかけるには、どうすればいいんだろう」
 は顎に手をやり「うーん」と考え込む。ピーターは彼女の言葉が、その思考が、どこか時間くんめいていると感じた。この世界の根本に精通していそうな、不可思議な発言である。

「君、大分この世界に染まって来たね」
「わたしもそう思ってたところ。ねえ、時間くんはどう思う?」
 そう話しかければ、姿の無い三人目は当然のように『うん?』と反応を示す。とはいえずっとピーターの傍にくっ付いているという訳でもなさそうだ。何となく、気配がある時と無い時がある。

『君がしたいようにすればいいんじゃない?』
「したいようにって……」
『残留思念が語ったんでしょ? 全て君の解釈で君の独り言だって。全ては主観。真実はそうして作られていくんだよ。君が君自身で見つけた真実なら、もうそれでいいじゃない』
 時間くんの言葉は投げやりで適当なものに聞こえたが、同時に世界の真理にも聞こえた。真実なんて大層なものを自分はまだ見つけていない、とは思ったが、オレンジとの出会いはそれまでには無かったものをもたらしてくれている。

 大切な友人を救いたいという、本物の強い気持ち。それがこの物語を結末に導く真実なのかもしれない。

 その感情がオレンジのものではなく自分のものだとは言い切れなかったが、彼女の残留思念が自分に呼応したということは、自分の中にも間違いなく橙に対する想いがあったということなのだろう。そこでふと、は引っ掛かりを覚えた。

 ――受け皿があるものにだけ、意志や感情を伝えてくる“残留思念”。それがその通りであるならば、アリスの残留思念が自分に呼応するのは何故なのだろう? inserted by FC2 system