Act23.「お揃いの二人」



橙は祭壇での挨拶を終えて、用意された席に収まった。隣に座る夫は相変わらず労いの言葉の一つもくれないが、肘掛に置いた橙の手に、その武骨な手をそっと重ね合わせてくる。橙は恥ずかしそうに、そして嬉しそうにはにかんで、その手に己の指を絡めた。
彼らの間には穏やかな静寂が満ちているが、祭りの会場は湧いている。橙の挨拶は、乾杯の音頭も兼ねていたのだ。彼女が好きな花篝に照らされた会場では、飲めや歌えの大宴会が始まっている。
街一番の酒屋の店主が、解禁したての自慢の品を二人に差し出した。橙の名を意識して蜜柑で作られた、極上の果実酒である。毎年それを楽しみにしている橙は、待っていましたと言わんばかりにグラスに口を付けた。しかしよく冷えたそれを口に含んだその瞬間、彼女の頬がピリリと痛みを訴え、その顔は引きつる。橙の硬い表情に不安そうにしている酒屋を「想像を絶する美味しさだわ」と言って安心させてから、彼女はそっと溜息を吐いた。

……頭に浮かぶのは、痛みの原因。挨拶もなしに一通の手紙だけを残して去って行った、一人の少女だ。

彼女の手紙には、殴った事に対する謝罪もあった。橙は、彼女の頬にも痕が残るくらい強くひっぱたいてやればよかった、と少し笑う。思う存分酒が楽しめないことは残念だが、それ以上に彼女と祭りに参加できないことが残念でならなかった。

橙の沈む気持ちを察したかの様なタイミングで、踊り子達がくるくると舞い始める。ひらひら、くるくる。その様子はさながら夜の蝶だ。美しい舞。舌を焦がす美酒。発条など無くとも、この祭りは充分に立派で、誇れるものだ。橙はしみじみそう思った。
橙がこうして正式に祭に参加するようになったのは、この街の領主である彼と婚姻を結んでからだった。それ以前は、手の付けられないはねかえり者で―――加えて今はなりを潜めている気の小ささが前面に押し出されていたために、人前に姿を現すことさえ苦痛で、年に一回の祭の巫女を務めて発条を巻く時も、ローブで姿を隠し一言も発しない程だった。それから変わることができたのは、きっと、あの人のおかげであろう。

橙は闇夜に浮かび上がる幻想的な篝火の色に、夫の他に傍に居ることが当たり前になっていた、今は亡き少女を想った。彼女との出会いの日は、今でも鮮明に覚えている。きっと、彼女との思い出は永遠に色褪せることなく自分の中に残るに違いない。
また、そうであればいいと願った。


*



ある晴れた日の昼下がり、貴族の出でもない街娘が公爵の妻として屋敷にやってくるということで、屋敷のそこかしこが使用人達の勝手な憶測や噂でざわめきあっていた。しかし、ただ一人、銀色の髪の少女だけはそれらを下らないと一蹴し、己の業務に専念している。

とはいえ、彼女が一番その受け入れに反感を持っていたと言っても過言ではない。だが彼女は自分の立場を弁えており、またそれを表に出すことはみっともないと分別のつく程度に、大人であった。

やがて門が開く音がして、メイド達は自分の持ち場を放棄して“公爵夫人”を観にいってしまう。銀色の少女は、呆れたように溜息を吐いて肩を竦めた。

例え彼女がどこの馬の骨とも知れない街娘であっても、噂では、姿を見せぬ祭の巫女の正体であると聞く。そして―――称号持ちであるとも。実のところ銀色の少女には、それが一番気に喰わなかった。彼女の称号が、だ。生まれた時から“公爵夫人”という称号を持って存してきた彼女が、憎いといっても過言ではない。話によれば称号で婚姻を結んだ訳ではないというが、それも信じ難い。だって、“公爵夫人”なのだ。つまり銀色の少女は不毛にも、こう思わずにはいられない。

もし自分にその称号があれば、きっと違う未来が待っていただろうと。


公爵夫人が迎え入れられた日の晩、あちらこちらで囁かれる彼女の評判は、決して良いものではなかった。“暗い”、“冷たい”。どうやらやってきた少女は、彼女らに負のイメージしか与えなかったらしい。手助けをしようとした使用人の手を払いのけたりと、随分傲慢な態度が目立つようだ。
そうなればますます銀色の少女の不満は募るばかり。一目見て馬鹿にしてやりたいと思うが、見たくないとも思う複雑な心境だった。

その日の夜中、銀色の少女は深夜の見回り当番を勤めていた。結局夫人の姿を見ることは無く、彼女の頭は一日中、まだ見ぬ公爵夫人のことでいっぱいだったが、彼女に限って職務を忘れる様なことはない。どこか虚ろな様子ではあるが、しっかり決められた順番で、屋敷内を見て回る。
……今夜も何事もない、平和だ。見回りが終わり、自室へ戻ろうとした彼女の足元に何かが転がってくる。コロコロと回転するそれは、コツンと靴に当たって動きを止めた。

それは、大きな赤い林檎だ。

何故、こんなところに林檎が?と、拾い上げて転がってきた先を見ると、誰も居ない筈の調理室の入り口に、両手いっぱいに林檎を抱え込んで“やばい”と顔色を変える一人の少女が立っていた。少女の髪は燃え盛る火のように濃い橙色をしている。見慣れない顔だが、きっと給仕の一人だろう。しかしこんな日に橙色とはついていない。どうやら公爵夫人の名前がそれであるらしいから。

橙色の少女は物陰に隠れた。小腹でも空いたに違いないと、銀色の少女は呆れたように話しかける。

「お腹が空いているならこっちへいらっしゃい。生の林檎を齧らなくても、パイがあるわ」
最初はびくびくしていて中々その場を動こうとしなかった橙色の少女だったが、警戒心よりも空腹が勝ったのか、やがてすごすごと銀色の少女の前に姿を現す。銀色の少女は橙色の少女を連れ、一度鍵をかけた使用人の休憩所を再び開けて、そこに彼女を招き入れた。
作り置きのあったアップルパイやパンを出してやると、橙色の少女はガツガツと音がしそうなくらい、勢い良く食べ始める。銀色の少女はその剣幕に、思わずふっと吹き出してしまった。

「よほどお腹が空いていたのね」
入りたての給仕なのだろう。先程からキョロキョロしっぱなしの挙動不審さも、それならば納得ができる。空腹が満たされて落ち着いたのか、野良猫の様だった少女は穏やかな人間の表情を浮かべている。釣り目がピリッと効いた、中々に美しい少女だ。
食後のお茶を出してやると、小さな声で「ありがとう」と言うのが聞こえた。

「アタシ……来たばかりで、今日は緊張して何も食べられなかったから……」
橙色の少女がたどたどしく話す。はて。と、銀色の少女は首を傾げた。よりにもよって大事な今日、新しい使用人を迎え入れる事などするだろうか、と。そして、間もなく恐ろしい仮説が生まれる。

「あなたは……」
「あ、アタシ……橙って言うの。ここの当主と婚約して、今日からここで暮らすのだけど……“奥様”なんて、全然落ち着かなくて」
へへ、と少女が笑う。
橙。橙。橙!銀色の少女が今、世界で一番嫌いな名前だ。髪の色が名前の由来だなんて、なんの捻りもない!と悪態を吐く余裕すらなく、銀色の少女は愕然とする。橙は何も言わない少女に心配そうに顔を寄せた。

「大丈夫?あ、あなたの目……オレンジ色なのね。アタシの髪と一緒だわ」
オレンジ、と言われて名前を呼ばれたのかと思ったが、そうではないらしい。銀色の少女は橙から距離を取ることもできず、じっくりと彼女の目に観察される。

「あなた、名前は?」
「あ、はい……私は―――オレンジと、申します」
少女も、人のことを言えないくらい捻りのない名前だ。

銀色の少女、オレンジが名乗った瞬間、どこか暗い印象を与えていた橙の表情がぱっと明るくなる。はしゃぐ子供のように心底嬉しそうな表情で、彼女は抱かせていた印象を覆すくらいの大きな声で言った。

「あなたの名前、アタシとお揃いだわ!」
オレンジは、言葉に詰まって何も言えないでいる。橙は、名前と身体の一部に共通した部分があるというだけで、小躍りでも始めそうなほど、喜んでいた。

「アタシ、あなたと仲良くなりたい!」

そうして向けられた、まこと純粋なる穢れ無き好意に、誰が彼女を恨めたことだろう。憎めたことだろう。嫌うことができただろう。



橙色の少女と銀色の少女の出会いは悲しい結末の始まりであったが、例えもし彼女達が意図的に、この時間を何度やり直せるとしたところで、きっと物語は変わらなかっただろう。






――― 第二章『公爵夫人の仕掛け時計』完 ―――
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