Act22.「オレンジ色(後)」



 激しくノイズの混じる視界はすぐに安定した。しかしそこはもう先程の小部屋ではない。空気の質感から、時計塔でさえないのかもしれない……とは思った。

 十畳くらいの室内で、中央のテーブルを囲み座っている三人の女。皆一様にオレンジと同じメイド服を着ていた。橙の姿はない。テーブルの上には飲み物とちょっとした菓子が置いてある。締まりのない雰囲気から、恐らく使用人の休憩室なのだろうと察せられた。

 は窓を探し、そこに映る自分の姿がオレンジのままであることを確認した。どういう訳か分からないが、オレンジと共に別の場所に移動して来てしまったようである。窓ガラスの向こうはまだ夕方だった。……これは先程と同じ日だろうか? 橙とのピクニックは終わったのだろうか?

「オレンジ。いつも奥様の世話を押し付けて悪いわね」
 オレンジと同い年くらいに見えるメイドの一人が、含みのあるニヤニヤ顔で言った。はその表情に不快感を覚えたが、もしかするとそれは、オレンジの感情だったのかもしれない。オレンジは短く「いえ」とだけ答えた。

「奥様、私たちには冷たいんだもの。話しかけてもそっけないし……“モブ”には興味無しってことかしらね?」
「仕方ないわよ。お偉い“キャラクター様”だもの」
「オレンジは気に入られて良かったわね。名前がお揃いだからかしら? 本当に……災難だわね」
 メイドの一人がわざとらしく同情を浮かべると、他の二人のメイド達も同調した。完全に人を小馬鹿にする態度だが、その対象はオレンジではない。

「ねえ、時計塔って、本当に私たちの時間を操作できるの? 怖いわ」
「そんなもの作って、神様にでもなるつもりかしら」
 会話を聞くに、橙はメイド達から良い感情を持たれていないらしかった。それは橙自身に対する嫌悪感というよりは、存在自体に対する恐れなのかもしれない。

 はジャックと初めて出会った時の街の様子を思い出す。あの時、街の者が自分達を避けていたように、キャラクターという存在は知られれば避けられる存在なのかもしれない。……何故だろう? 橙と仲が良さそうだったオレンジも、内心では彼女達と同じように思っているのだろうか? 気になったが、オレンジの橙に関する感情はよく分からなかった。きっと、彼女自身の中でも曖昧なのだろう。

「旦那様もお可哀そうに。詳しくは知らないけど、奥様の所為で“一気にお年を召されてしまった”のでしょう?」
「勿体ないわよねえ。結構な男前でいらしたのに。私、ファンだったんだから」
「私もよ。ああ、もう! どうしてあんな小娘と結婚したのかしら?」
「“コウシャク夫人”だからじゃない?」
「ふふっ、名前の通りになるのが、道理ってこと?」
「それもあの娘の恐ろしい力の一つなのかしらね」

 次第に、誰も橙のことを“奥様”とは呼ばなくなる。には、あの橙が人から疎まれているということが不思議だった。誰からも好かれそうな少女だと思っていたのだ。……自分で言うのもなんだが、どこか斜に構えがちな自分でさえ、彼女には好意を抱いているのだから。だから、そんな橙に親愛を向けられているオレンジが、彼女達に対して何も言い返さないことに若干腹が立つ。

「本当に、旦那様がお気の毒だわ。私が公爵夫人だったらよかったのに」
 メイドの一人が、何の気なしといった様子でそう言った。

(アンタがなるくらいなら、私がなるわよ)

 は自分を貫く重苦しい感情に、息を詰まらせる。今、自分の中に響いた声はオレンジの心の中のものだろうか? ゾッとする、低く冷たい声だった。はオレンジが抱えるモノの正体に気付きかけ、その繊細さに、これ以上は知ってはいけないと思った。これは他人が勝手に覗き見ていいものではない。どこにあるのか分からない手で耳を塞ぎ、目を閉じる。

(……何も聞こえない)

 ――続く静寂を不思議に思い目を開けると、そこは既に休憩室ではなかった。静かな執務室。机に向かう男を見つめる視点。はもう自分の姿を確認せずとも、オレンジの中に居ることを理解していた。今の彼女の心は先程とは打って変わって、穏やかに凪いでいる。しかしその穏やかさはどこか切なさを秘めていた。

「旦那様。お食事の用意が整いました」
 オレンジに呼ばれた男は、手元の書類から顔を上げる。煙るくすんだ青色の瞳……はその時、いつもゴーグルに隠されていたアドルフの目の色を初めて知った。椅子の上で窮屈そうにしている大きな体。いつもボサボサだった濃灰色の髪は、きちんと一つにまとめられている。茂っていた髭が無いと、彫りの深い中々に整った顔だった。上質そうなジャケットを羽織った姿には、風格がある。メイド達が憧れるというのもごく自然なことだろう。

「ああ。……橙は、また時計塔に籠っているのか?」
「はい」
「困った奴だな。熱中すると誰の声も届かん。……いや、そんなことは無いか」
 アドルフが何か言いた気な目でオレンジを見る。オレンジの心臓がヒヤリと冷え、また一方ではドクンと跳ねた。

「お前が呼ぶと下りて来るのだったな。昼食は共に過ごしたと聞いている。あのじゃじゃ馬を手懐ける方法を、是非伝授してもらいたいものだ」
「手懐けるだなんてそんな……」
「いや、嫌味のつもりは無い。お前には感謝している。お前と居る時の橙は本当に楽しそうだからな」
 アドルフは本当に、嫌味を言ったつもりはないのだろう。だが彼の言動の節々からは、オレンジに対する嫉妬心が滲み出ていた。それがオレンジを傷付けている。

「すまんが、橙を呼んで来てもらえるか? 多少食事の時間が遅れても構わない。橙が来てから夕食にしよう」
「もし私の言葉も届かなければ、どうしましょう?」
「そんなことは無いと思うが……そうだ、お前も夕食に同席するといい。それなら橙も喜んで下りてくるだろう」
「……かしこまりました」
「ああ、それから、食後のデザートには橙の好物をたくさん出すように」
「勿論でございます」
 オレンジは深く頭を下げ、執務室を後にする。そっと後ろを振り返った彼女の目には、愛しい妻との夕食を心待ちにする男の姿が映るのだった。


 再び、場面が転換する。今度は最初と同じく時計塔の中だった。また階段疲れで足が痛くなっていたが、その感覚はある程度体に馴染んだもののようである。オレンジは慣れているのだろう。作業室のドアをノックし、開けるが、そこに橙は居なかった。

「奥様、夕食の時間ですよ! どこですか?」
「奥様、じゃないでしょ!」
 階段の上の方から、橙がひょっこり顔を出す。オレンジはわざと橙が嫌がる呼び方をして、彼女をおびき寄せたのだ。

「旦那様がお待ちですよ。橙が戻らないと食事を始めないって。さあ、お屋敷に戻りましょう」
「そうね。まあ……キリの良いところまで終わったから、行くわ」
 橙はオレンジの予想より大分あっさり了承した。アドルフが思っているより、橙は橙で彼の事をしっかり大事に想っているのだろう。

(橙が、旦那様の愚痴ばかり言わなければ……もっと彼に優しくしてくれれば……)
 もしそうだったら、どうだというのだろう? 薄暗い感情に沈み、物憂げに俯いているオレンジを、まだ上に居るままの橙が呼んだ。

「ねえ、ちょっとこっち来てくれる?」
 そう言って手招きする橙の顔はどこか得意そうで、ソワソワしたぎこちないものである。オレンジは首を傾げながら、無視もできず階段を上がっていった。夕食には大分遅れそうだ……と思いながら。

 階段の途中にある踊り場に辿り着いた時、オレンジはどこか違和感を覚えた。いつもは覆う物のない大きな窓が、つっかえ棒と布で作られた簡易的なカーテンに閉ざされているのだ。そしてそれを更に隠すように、橙が立っている。

「何ですか?」
「ふふ。ちょっとね、見せたいものがあるの!」
 橙は早く言いたくて堪らないが、言ってしまうのが勿体ないというようにニマニマしていた。焦らす橙を、オレンジは苛々を抑えた声で「橙」と窘める。彼女は真面目な性分らしく、アドルフを待たせていることにストレスを感じているのだ。橙は機嫌の悪そうなオレンジにしょんぼり悲しい目をして、力無くカーテンを引く。

 オレンジは息を呑んだ。彼女と一体化していなくとも、も息を呑んだだろう。そこに広がっていたのは暫く見ることの無かった“青空”だった。

「え? 青空? 今は夜では……いや、そもそも最近は夜と夕方しか……」
「驚いたでしょう? 実体がある訳じゃないけどね。“窓ガラスに映る景色の時間”を戻してみたの。ちょっとした実験よ」
 透き通る青を浴びて、橙が両手を広げた。彼女の濃い橙色の髪が、太陽の光を透かして眩しく輝いている。華奢な少女の背中は今にも青空に溶け込み、そのままどこか遠くへ消えてしまいそうな気がして、オレンジは咄嗟にその手を取った。突然手を握られた橙は驚いて目を丸くし、少し頬を染める。「なあに?」と覗き込んでくる甘い茶色の瞳に、オレンジは我に返って「申し訳ございません」と手を離した。

「アタシ達が出会った日も、綺麗な青空だったでしょう。またオレンジと一緒に青空が見たかったのよ」
「それで時間を戻してしまうなんて、流石ですね。……そんな事が、本当に出来るなんて」
「うーん。本当に出来たかって言われると、どうかしら。これはただ窓ガラスの記憶を再生しているようなものだもの。実体ごと時間を戻すなんて、かなり大変なんじゃないかしら。出来たとしても……やっぱり再現するだけだと思うわ。過去が変わったら今も変わる。矛盾が起きてしまうもの」

 橙は時々、遠い目で難しいことを平然と言ってのけた。こういう時の橙を、オレンジは自分とは違う生き物みたいに感じてしまう。事実そうなのだ。この世界において特別な存在である彼女が、その他大勢の中の一人でしかない自分の隣に居ることが不思議でならない。

 青空を眺めていた橙が、ポンポンと自分の隣を叩いた。そこに座れと言うことらしい。

「ねえ。もう少しだけ、ここにいましょう?」
 無邪気なその様子に、オレンジは肩を竦めて――言う通りにした。それは主従に関係なく彼女の本心からの行動である。と、は感じた。

「まるで恋人を誘うみたいに言うんですね。いけない人」
「どうしていけないの? オレンジ……恋人がいるの?」
「い、いないですよ。旦那様が居るのはそっちでしょう」
「じゃあ好きな人は?」
「……恋なんて、今はしたくありません」
「ふふ、そうなの。特別な人はいないってことね!」
 オレンジの気持ちなど知る由もない橙は、彼女の返答に嬉しそうに笑った後、ふと真面目な顔になってオレンジを見つめる。

「じゃあ……オレンジにとって、アタシは……特別?」
 そう尋ねる橙は自信無さ気で弱弱しく、とても臆病な少女に見えた。オレンジの胸が締め付けられる。それが単純な愛しさからくるものではなく、橙に対する負の感情も内包しているということをは知っている。オレンジの中にある正反対の感情。そのどれもが彼女の真実なのだ。

「そうですね。特別ですね。色々な意味で」
「何よそれ! アタシはオレンジが特別だわ。一番特別!」
「旦那様は?」
「それとこれは別よ」
 橙はそっぽを向いて、歯切れ悪く言った。オレンジは包み隠さず自分に向けられる橙の好意に、どうしたものか……といつかの空を仰ぐ。自分の儚い恋心を散らせ、大切な人を雑に扱う橙。いっそ嫌ってくれたなら堂々と憎むことが出来たのだ。しかし彼女はそれを許さない。自分に纏わりつき、恋より純粋な愛で縛り付けてくる。

 この世界を動かす重要な駒、キャラクターである橙。オレンジは彼女の意志によって、自分の運命も動かされているのを感じていたが、抗う術など持ってはいなかった。

 きっと自分は、彼女の物語を彩る要素の一つとして消費されるのだろう。本能がそう理解している。それでも逃げられないのだ。公爵夫人という特別な名前の力の所為で――恐らく少しは、橙自身の持つ輝きの所為で。単なるモブは彼女に惹かれるしかない。恐らく自分の最期さえ、彼女の物語の一部になる予感があった。
 そして橙は、それを嘆き悲しむのだろう。彼女は今でこそ自分の宿命を受け入れている様子だが、出会った当初は正体を隠し、ひっそり孤独な生活を送っていた。

(橙が公爵夫人でなければ、私たちはもっと違う形で居られたのかしら)

「あ、そうだ!」という橙の元気な声で、深いところをぐるぐる回っていたオレンジの思考が浮上する。

「ねえ、オレンジ。明日のお祭り、一緒に行きましょうよ」
「……ええ、そうですね」
 そう言って、二人は指切りをした。

 その様子を一番近くで見守っていたは、この時間が永遠に続けば良いと思った。もしかするとそれは、オレンジの感情だったのかもしれない。二人……三人の気持ちだったのかもしれない。しかしその願いはそれから間もなく、打ち砕かれるのだ。


 ――侯爵邸はその夜、ヴォイドの襲撃を受け、多くの死傷者を出す。その中にはオレンジも含まれていた。

 虚無に支配された侯爵邸、奪われた命が、まるで世界と一体化するように空気中に溶け込んでいく。存在が薄れ、消えていく。
 はそれがなんという現象なのか、分かってしまった。それは……“虚無化”。アリスの意志が具現化した怪物ヴォイドに蝕まれた存在は、世界から消失する。実体を失うだけでなく、人々の記憶からも消えてしまうという。 inserted by FC2 system