Act21.「時間くん」



空間と空間の境界のような場所は狭く、押し潰される様に苦しい。まるで自身も歯車の一つにされ、冷たく固い金属の回転に巻き込まれているようだ。少しの間その不快感が続いた後で、はようやく開けた場所に出る。―――と、一歩踏み出したそこに、足場は無かった。

カタカタカタカタと、果てしない数の歯車の音に埋め尽くされた空間で、は宙に浮いている。無重力空間を思わせる不思議な感覚だったが、びゅうびゅうと吹く風はあちらこちらへとの髪を引っ張るし、息も、出来た。

カチ、カチ、カチ。時計の秒針が刻むリズムにが目を凝らすと、空気が形になったみたいに、そこに少年の姿が現われた。少年は現われるなり人あたりの良い声色で“せせら笑う”。

「うっわあ、いらっしゃい。さっきの、すっごい似非美談だったねえ。君じゃなかったら許されないよ。でも、君なら“めでたし”だけど」
「……君がわたしを呼んだの?さっきから助けてくれていたのも、君?」
「うん、そう。正解。パチパチー」
そう、この声だ!はパン、と手を叩きたくなる。けれどその代わりに、少年が正解の拍手をくれたのでいいだろう。

「やっと来てくれたね!君がこうして会いに来てくれるのをずーっと待ってたんだ。まあ僕に“ずーっと”なんて感覚は無いんだけど。あはは!」
声だけのときはミステリアスな雰囲気さえ漂わせていたのに、会ってみれば凄くテンションの高い少年だ。は若干引き気味に、笑顔を返す。
少年の外見は13、4歳といったところで、橙と同い年くらいだ。は不快感を与えない程度に、彼を観察する。……とりあえず、彼の第一印象は奇抜なファッション、で決まりだ。
黒のチョーカーに、時計柄のネクタイ。白いシャツは肘の辺りからボロボロに破けたようなデザインで、裾は腹から斜めに切られてフリルがあしらわれている。左右色の違う縦縞の入ったズボンも、じゃらじゃら腰に巻きつけた鎖も、その他大勢の感性とは違うものを感じさせるものだ。きっちり真ん中で分けられた黄櫨と同じ色の髪は、肩に近いところでぴょんと跳ね返って可愛らしさを演出していたが、その耳に通されたいくつものピアスがぴりっと香辛料の役を果たしている。丸い灰色の瞳は、楽しそうにしているその他の部分を無視して、細められることなくをじっと見つめていた。目が笑っていないというのは、こういうことだろうか。

「わたしを、待ってたって……?」
「うんうん。そうだよ。やっぱり君じゃないとね。やっぱり君が一番、この国が似合ってるよ」
「え?」
少年が言っていることが理解できなかった。少年の言い草はまるで、前にも会ったことのあるような―――いや、随分と前からわたしを知っているような……。少年は何かに気付いたようで、「ああ、そっかあ」と間延びした声を上げた。

「今の君はまだ、何も知らない君だったねえ。うっかりしちゃった」
「君は、一体誰なの?」
“今の君はまだ”。それは、まるで未来のことを知っているという言い方だった。は訝る心を抑えられず、眉を顰めて少年を見た。少年はのその視線にショックを受けたようで、大袈裟に悲しむフリをしてみせる。

「ヒドイナア。僕はいつだって君と一緒にいたじゃない」
少年は磔にされたみたいに両手を広げて、変わらず口だけで笑った。笑った。カプカプ笑った。

「僕は、時間くんだよ」

「時間くん……時間くん!?」
時間くんと言えば、図書館で調べたあの時間のことだろう。個としての性格を持った時間、……くん。

「そうだよ、時間くんだよ。……僕はね、橙がどう始末をつけるのか見届けようと思って、ずっと見てたんだ。眺めているだけのつもりだった。けどがすごく頑張るものだから、つい、手助けしたくなっちゃってさあ」
絆されちゃった。と、軽い調子で時間くんは言った。吹き荒れる風が彼の髪を乱す。彼の表情は初めから完成されたみたいに、変わらない。声に感情が篭りすぎている所為か、その差が酷く不気味だった。

「そもそもあの力を橙にあげたのは僕だからね。ちょっと責任は感じてて、さ」
橙は、奪ったと言っていた。けれど一体どうして。そもそもそんなにホイホイと切り売りできる力なのだろうか。の疑問を汲んで、時間くんが「聞きたい?聞きたい?教えてあげるー」と勝手に話し始めた。

「橙は昔、僕に喧嘩を吹っかけてきたんだよ。時間をもっと規則正しく流せーってさあ。惚れた男に誕生日がまとめて来て、もともとあった歳の差が、更に開いたのが嫌だったんだろうね。でもさあ、規則正しい時間なんて、つまんないじゃん?それで僕達は喧嘩になって……まあ僕、女の子には甘いからさあ」
困ったような顔で頭を掻く時間くんに、浮遊感にすっかり慣れてきたが幾分余裕のある顔でふっと笑った。

「橙が、勝ったのね」
「僕が負けてあげただけ!それで、橙の望むままに、彼女の街の時間だけを管理させてあげることにしたんだ。まあ称号持ちだし、橙は結構可愛いからね。いいかなって」
随分ちゃらんぽらんな時間様だ。は呆れながらも、橙との喧嘩の話をどこか嬉しそうに語る時間くんが、外見相応に少年らしくて可愛いと思い始めていた。が、

「これが男だったら許さないけどね。時間を止めてやるところだよ」
彼のにこにこ顔に剣呑な影が差したような気がして、は息を呑む。まじまじと見つめると、その影はすぐに姿をくらませたが……にはその話に思い当たることがあるので、そのまま流せない。

「……時間、止めるって」
「え?あ、そっか。君はあいつと一緒に居るんだもんねえ。そうだよ。あいつも僕に規則性を求めるもんだから。いつでもお茶会ができるように、ずっと六時にしてあげたんだ。はは、僕って優しい」
どうやら常盤が時間に嫌われている理由というのは、そういうことらしい。は時間くんに対して文句の一つでも言ってやろうかと思った。だが、常盤が時間を止められたことに対してそこまで困っているだろうかと考えて、そうでもないような気がして、だから、適当に相槌を打って話が進むのを待った。

「僕あいつ嫌い。……で、さあ、かくいう僕は、橙に時間を操作する発条をあげちゃって、こんなことに、ねえ」
「時間くんなら、街の時間を元に戻せるんじゃないの?」
橙は自分ではどうにもならないと言っていたけれど、時間くんは元々の時間の支配者だ。というより、時間そのものだ。ならば街の時間を動かすくらい、どうってことないんじゃないだろうか。そして、それが最良の道だと思えた。そうすれば、犠牲が出ることは無い。

「それぐらい容易いことさ」
「じゃあ―――!」
でもね、と時間くんは少し笑いを薄めて、低い声で言った。

「過ちっていうのは、本人が償わなきゃいけないんだよ。どこの世界でもそうだと思うんだけどさあ。それが、基本システムだよね。しでかしたことに対して、代償は必要なんだよ」
時間くんは人間の形をしているが、人間ではないのだ。それを思い知らされたようで、は絶句した。彼の言葉には、重みがある。まるで抗いようの無い神の言葉のようだった。神……。時間そのものを好きに出来るなら、それもあながち間違いではないのかもしれない。は絶望に突き落とされた。目の前で糸を垂らされていた分、それは辛いものだった。

「うわ、そんなに悲しそうな顔をしないでよ!」
「……だって、さっき橙のこと可愛いって言ってたじゃない。だったらその子のために何かしてあげたいとか!」
「それとこれとは別問題。………でも、君がどうしてもっていうなら無視はできないなあ。何しろ“他ならぬ”君だからねえ」
沈んだ表情で俯いていたが、パッと顔を上げる。その目が、彼のちらつかせた希望に食いつく。引き下がるわけにはいかなかった。このままあの場所に帰って、「やっぱり駄目だった」なんて言える筈がない。

「ただし」
条件があるんだ、という時間くんには表情を硬くした。……こう来ると思っていた。どの物語でも神は試練を与えたがる。だからきっと、彼もそうなのだろうと。は緊張しながら、少年の口に集中する。果たしてそこから、どんな無理難題が飛び出してくるのか。

―――しかし、条件は思ってもみないものだった。


「君が僕に、可愛く“お願い”するならね」


ポカン。その時のの顔は、まさにポカン、だ。ああ、きっと彼は人間には理解できない複雑な思考回路をしていらっしゃるんだ、とは己を納得させることにする。そして覚悟を決めると、両手を顔の前で組んで、必死に懇願した。

「お、お願いするから」
「もーいっかい!」
「お、お願い……」
「いいねー!良くなってきたよ。もう一声!」
「お願い時間くん!助けて!」
罰ゲームのようなやりとりを数回続けると、ようやく時間くんも満足したようで、ちょっと頬を赤らめながら薄気味悪い笑い声を立てる。は後退さろうと思ったが、なにしろ空中なので思ったように動けない。

「へへ、ふへへ。いいよ。そんなにお願いするなら、叶えてあげよう。オプションで君の居た時間軸にも合わせてあげるよ」
願ってもないことに、は今度は身を乗り出した。

「えっ、本当にいいの?あ、有難う!でも、そんなことして街の人達が混乱するんじゃ……」
「平気平気。元から時間なんて、人間の意志に合わせてるわけじゃないからね」
都合が良すぎる展開に、は些か不安になる。上手く行き過ぎると、裏を疑いたくなるものだ。

「ご都合主義が不満かい?そういう顔をしているよ。はは、まさか君がそんなことを言うなんてね」
「……自分に都合のいいことは好きだよ」
常盤とは違い、この少年はわざとらしいくらいに隠すことなく“”の話をする。時間くんならばそのことについて、訊けば教えてくれるのではないだろうか。しかしは自身のことでありながら、その秘密が触れれば崩れてしまう砂の城のように思えて、迂闊に手出しできなかった。(……何故?)

「さてと、発条と歯車は返してもらうよ。また何かあったら大変だし。それからピーターに伝言。“よくも僕を捨てたな!”って」
「え、」
そういう関係かと疑いたくなるような台詞を吐いた時計くんは、の心中を察したようで、困ったように手を横に振って否定した。それから彼は静かにの頬へと触れる。触れた、ような気がした。なのに、肌は彼の何をも伝えてこない。どきっとして時間くんの顔を見ると、そこには少しだけ哀の色が滲んでいる。

「やっぱり触れない、かあ。この僕は本体じゃないんだよ。僕の本体は白ウサギの懐中時計の中だから」
「……じゃあ、あの人は時計を失くしたんじゃなくて、捨てたってこと?」
「君が僕を探してくれたら、嬉しいな」
否定しないのは肯定の意だ。わざわざ捨てたということは、きっと厄介なものだったからに違いない。は曖昧に笑って誤魔化す。時間くんの指がの唇をなぞった。

「君は変わらないね。でも忘れちゃいけないよ。道がいくつあろうとも、いつだって真実は一つだけさ」
「しんじつ?」
彼の言葉の意味が一つも分からず、は真意を探るため時間くんの目を覗こうとしたが―――まるで抱きしめるように、彼の頭は肩の向こうに置かれた。

「さあ、時間を動かすよ。……“おかえり”」



え?と声を上げると同時に、時間くんの姿は消えていた。戸惑う暇もなく、空間が歪む。歯車の廻る音が、カタカタガタガタと、どんどん大きくなっていく。頭が割れてしまいそうで、両手で耳を抑える。ここまで大きな音は最早音ではなく痛みだ。けれど、限界まで来た時、音は突然止む。反射的に閉じていた瞳をが開けると、そこは元居た塔の中で……けれど、階段の真ん中には一つの歯車もなくなっていた。

つまり、歯車の中から出てきたの足場には何もない。ガクッ、と一気に戻ってきた重力が、の身体を下へと引きずり込む。ふあ、と間抜けな声で落ちていくの手を、寸でのところで誰かが掴んだ。

「君は、落ちるのが好きみたいだね」
夜明けの夕空が赤々と、彼の白い髪を染めている。夕焼けにも負けていない鮮やかな血色の瞳は、いつになく焦っているように見えた。階段を上ってきて疲れているだけかもしれない。

「屋根の件はそうだけど、マンホールの件はあなたに言われたくない」
階段に引き上げられて、の第一声はそれだった。二つ目でようやく「ありがとう」。三つ目に、彼への伝言。時間くんからの伝言を伝えると、ピーターはあからさまに苦い顔をした。

!」
橙が急いで走り寄ってくる。彼女はの無事に号泣して喜んでいるが、は彼女がそんなに涙を流して干からびるのではないかと、心配でならなかった。

「時間くんが、どうにかしてくれたみたい。歯車と発条は返してもらうって言ってたけど」
「あいつが!?」「時間くんが!?」
橙とピーターの声が重なった。二人は信じられないというような顔をしていたが、橙は歯車が一つも無いことと、自分の中から発条が消えているのが分かったのか、納得したようだった。二人のその反応から、が時間くんのキャラ付けに真剣に悩み始めた頃、橙がその肩をポンと叩いて言った。

「日付が変わったわ。こっちへいらっしゃい。ここから、街の様子が見えるから」
この特殊な空間で街が見えるものかと疑わしく思うところもあったが、言われるままにドーム上部分のガラスの淵までやってきて外を見ると……彼女の言うとおり、街が一望できた。
街では、パン、パンと花火が打ち上がっている。ああ、そうか。ようやくお祭りが始まるんだ!

「アウグスの発条祭が始まるのよ。お祭りでは毎年、アタシが発条を巻いて新しい一年を始めていたの。この街が始まった時からずっとね。けど、今年からは巻く発条がなくなっちゃったわ」
「残念?」
「……正直言うとね、少しほっとしてるくらいよ。アタシには荷が重かったのかもしれない」
「そっか。でも、発条や歯車なんて無くたってきっと大丈夫。やっぱり時間は人が動かしていくものだもの」
「あなた、本当によく口が回るわね。さっきも思ったわ。……ふふ。流石にあなたに死人の考えが分かるとは思わなかったけど」
橙は意地悪な笑みを浮かべていた。は動じず、寧ろ堂々と更に口を回す。

「え?ああ……。わたしは“こんなことして喜ぶと思う?”って訊いただけだよ。ちょっとした主観を交えてね。死んだ人のことなんて分からないし。思念体とかが存在していたら素敵だとは思うんだけど……わたしは霊感無いし。結局死者の意志を継ぐのは、それを決めるのは、これからも生きていくわたしや君の勝手な心でしょ?」
もし自分にとって大切な人が居なくなってしまったら、果たしてそこまで割り切れるかは別として……橙にはこれくらいが調度良いようだった。60年以上の時間を経ているのだから、そろそろ割り切っていいのかもしれない。

「酷い人!」
「酷い人は、お嫌い?」
「そうでもないわ」
街のいたるところで音楽隊が列を成している。ここまで楽しげな音楽が聞こえてくるようだった。「橙」と呼ぶと、清清しい顔の橙が振りかえる。

「……22,222回の君、お疲れ様でした。どう?思った通りにはなった?」
の問いに、橙は暫くの顔を見つめていたものの……ふいっと視線を街に戻して、言った。


「ええ。思ったよりずっと良かったわ!!」


複雑奇怪な彼女の心の仕掛け時計は、止まっては戻ってを繰り返し、異邦者の訪れで、再び正常に廻り始める。廻り始めた彼女は、きらきら輝く顔でくすりと笑った。

も笑い返そうとしたが―――突如襲い掛かった睡魔に、膝をつく。この感覚も久しぶりな気がする。まずいな。ここでこのまま眠ってしまうのか?
心配顔に変わった橙と、どうした、と駆け寄ってくるユリウスとピーターを意識の端に捕らえながら、は「大丈夫」と言って静かに目を閉じた。
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