Act20.「公爵夫人の仕掛け時計」



先程と同じ色の階段に足を下ろされ、目が開けられるようになると………は息を呑んだ。
目の前にあるこれが、声の言っていた“大きな歯車”だろう。上を見ればガラスの向こうに空が見えるのだから、ここが天辺だということも間違いはない。何より、目の前にある歯車が絶対に一番大きいと、は自信を持って言えた。何故ならその歯車は想像を絶する大きさで、直径は体育館の天井程もあるのだ。そして、他の数多の歯車と違い静止していることも、それが特別なものであることを物語っていた。
この建物はドーム状で、壁に沿った螺旋階段は天辺に向かうにつれ角度を縮めている。もしこの歯車が動いていたなら、恐ろしい迫力だっただろうとは思った。

暫くその大きさに呆けてから、我に返ったようには鮮やかな夕焼け色の髪を探す。しかし、探すまでもなかった。少女は後ろに立って、静かにを見つめている。驚いて跳ね上がった心臓を押さえて、が安心したように彼女の名前を呼ぶ。

「橙!良かった。見つからないかと思った」
呼びかけて近付くが、彼女の様子がどこかおかしな事に気付き、は足を止める。橙の元から釣り目がちな瞳は、普段の穏やかな色を一変させて、今は鋭く冷たくを見据えていた。彼女の纏う空気はピリピリと、数歩離れた場所に居るの肌をも刺す。はその様子から、別人ではないかと疑わずにはいられない。それとも、これが彼女の本性だったのだろうか。

「橙、だよね?まあ……橙だろうけど」
しかし、彼女からの返事はない。

「橙!聞こえる!?橙!」
「………誰?」
ギロリと睨まれて、の背に戦慄が走った。気が強そう、なんてレベルじゃない。これは―――称号持ちの貫禄、だろうか。

(ジャックに引き続き、称号持ちとの対立かあ。ゲームだったら、二面ボスってところね)

「わたしだよ。分からない?」
「………知らない!」
「知ってる筈だよ。きっと橙は、分かりたくないだけだ」
その言葉に逆上した橙が、に掴みかかる。ネクタイを強く引っ張り上げられて、喉が苦しそうな音を洩らした。何も夫婦揃って同じことをしなくたって……。は、硬く握られた橙の手を両手で掴んで襟元に隙間を作り、呼吸をしやすくする。橙の力は、非力な少女のものではなかった。

「違う!知らない!知らない知らない、お前のことなんか知らない!お前はこの日に居ない筈の人間じゃないか!アタシは知らない!!」
「わたしのこと、覚えててくれたくせに、何を今更」
「うるさい!お前が狂わせたんだ!お前さえ現われなければ!!……お前さえっ!」
ネクタイを掴まれたまま、反対の手で頬を打たれる。ぴり、と避けるような痛みだ。日常生活で人に叩かれることなどあまり無く、痛みに慣れていない涙腺はすぐに緩んでじわりと瞳を潤す。けれど強がりなは、人を小馬鹿にするような呆れた笑みを浮かべて、それを堪えた。

「わたしさえ現われなければ、何だって?」
橙は言葉に詰まったように、ぐ、と奥歯を噛み締めた。は、橙を掴んでいる手の力を強めると、片方の手をそこから離し、彼女の頬にやる。橙の栗梅色の瞳が、ようやく戸惑いという人間らしい色に揺れ始める。公爵夫人。時間を巻き戻す特異な存在。人智を超えたところに立つ彼女だが、やはりその正体はただの一人の少女に過ぎない。

「いつまでそうしているつもり?現実から目を逸らして、自分すら失って。何度繰り返したって、彼女は戻ってこないんだよ。このループに彼女は参加していなんだから」
「うッ、うるさいうるさいうるさいったら!居ない筈の人間が勝手な事を言うな!……ああ、そうだ、居ない筈の人間の言うことなんて、ある筈の無い事なんだ。はは、そうよね、そうよ」
そう言った橙の瞳は、戸惑いの色から次第に、妖しい狂気の色へと変化していく。その様子にが絶句していると、橙は何かとても良い事を思いついたようにパッと顔を輝かせて、大口を開けて笑い出した。

「はは、ははは!追い出そう!居ない筈の人間は居ないんだ!居る筈の人間が居なくて居ない筈の人間が居るなんておかしいじゃないのよ!お前が居なくなれば、元に戻るんだ……」
「何を言って……そんなわけないでしょ!?」
「黙れ!」
橙は叫び、空いている方の手をの首へと伸ばす―――そこで、の防衛本能が働いた。
けれどまあ、言い訳をさせてもらえれば―――拳で殴る気は無かった。相手は少女で、自身もまた少女なのだから。パシンと小気味よく、平手打ちを一発決めてやるつもりだった。ところが、妙に手に力が入ってしまって、握った手を解くのが間に合わなかった。拳が橙の頬にめり込んで、彼女は壁を背に倒れる。もし逆方向で殴っていたら、橙の体は螺旋階段の中央を落ち、歯車に巻き込まれていたかもしれない。良かった、と胸を撫で下ろしながら、が橙に歩み寄る。

「ごめ……いや……。目は覚めた?」
そう問うと、頬を赤くした橙が恨めしそうな顔を上げた。―――その表情はもう、身近ないつもの橙のものだ。人間を相手にしている感覚が薄れてきていたため、にはそれが非常に嬉しく思える。

「おかえり、橙」
「……痛いわよ、。あんたそんなキャラだったかしら?実は友達のためならマジになれる熱血友情キャラとか?」
「まあ、望まれたらそれでもいいけど。でも、別にキレてないからね。わたしは至って冷静だから言うよ。……客観的に見て今の君は無意味だって」
橙が顔を真っ赤にして、小刻みに震える。

「何よ偉そうに!アンタに……アンタに何が分かるのよ!!」
「え、あ……」
その様子から、この橙はもうあの夜の事実を認めているようだった。癇癪を起こして泣きながら怒る橙に、は焦っておろおろと所在なさげな手をふらふらさせた後、情けない自身に気が付き咳払いをする。女の子に泣かれて取り乱してしまうなんて、女の子としてどうなんだか……。

「君の心を差し引いた、一番重要な事実だけが分かるよ。こんなことをしていたって何にもならないということが」
そう。ループなんてしたって無意味なんだ。は脳裏にメイシャやユリリオの顔を思い浮かべる。出会って築いた関係が、次の日には何事もなかったようにリセットされているあの感覚。進めないのは、悲しいことだ。

「それくらい、アタシだって分かってるわ!これが無意味だってことくらい!けど、嫌なのよ、認めたくないの。オレンジが……もう、どこにも居ないなんて。彼女がいない明日なら、来なくていいわ。だから、アタシはアタシが終わるその時まで、繰り返すしかないのよ。―――これがアタシに与えられた、罰なんだわ」
橙の言っていることは、滅茶苦茶だが分からないでもなかった。時間を進めてしまえば、オレンジが本当に遠ざかってしまうように思えて、怖いのだろう。いつか彼女を過去と認めて、有難うと微笑む時が来る自分が、怖いのかもしれない。だから、自分の中の時間を止めてしまった。

「死人は罰を与えないよ。罰を与えているのは、君自身でしょ。ただ、悲しみを誤魔化すために。結局、自分が弱いから、彼女の死から逃げているだけじゃないの」
そろそろ、は自己嫌悪に陥りそうだった。偉そうにズカズカと人の心に踏み込んで、さも自分が正しいと言う顔で説教する。……こういう人間は大嫌いだ。何も分かっていないのに、分かった気になって。なんて傲慢で偉そうな、嫌な奴。けど、どうにかして橙を説き伏せて、時間を進めないといけない。

「君は、彼女がこんなことを本当に望んでいるとでも思うの?」
自分で言っていて、反吐が出そうだった。よくある言い回しだ。二時間サスペンス劇場とかで……刑事がよく言うやつ。勝手すぎる、死人の代弁。

「そ、そんなの分からないじゃない!あの子はアタシがずっと後悔して懺悔し続ける事を望んでいるかもしれないじゃない!アタシだけが明日を迎えていいわけがないわ!」
「本当に、そうかな?……どんな形だって死んでしまえばもう、戻ってくる事はできないんだ。だったら彼女は、最期に友達を守れて満足だったって、そう思うことが出来るような優しい人間だったと、思われたいんじゃないの?そうすれば彼女は、君の中でこれ以上ないくらい美しい存在としてあり続ける事が出来るのだから」
罰や贖罪は、恨まれているかもしれないという後ろめたさからくるものではないだろうか。けれど橙の場合、後ろめたさを感じるのは不本意に命を落としていったオレンジに失礼だ。

「それは……」
「いいんじゃないかな。君は彼女に守られた。素敵な友人だったって、それでいいじゃない。何が問題?それともオレンジさんが、自身を恨みつらみの塊の醜い存在にしたいと、思うとでも?」
「ア、アタシは……!」
「橙、わたしはもう待てないよ。もう、良いでしょ?」
橙の目はもう、これからどうすべきなのかを悟っていた。いや、初めからわたしの言葉なんて必要としていなかったのかもしれない。彼女は知っていたのだ。このままでは何にもならないと。生きている者は、進むことしか出来ないのだと。ただ、きっかけが欲しかっただけなのではないだろうか。「そうね」と目を伏せた橙が、随分と大人びた顔をしていることに驚いた。

「……いいわよ。もう、いいわ。」
「うん、そうだね」
「ありがとう」
橙は、柔らかく笑った。その時、カチリと、何かが音を立てる。カチカチカチ。それが発条を巻く音だと、は気付けなかった。橙が自らの口でそれを言うまでは。

「時間を進めるわ」
カタカタカタ。錆び付いた歯車が軋みながら、回ろうとする。は妙に穏やかな橙の表情に、不安になってその手を握る。

。アタシには、本来なら時間をどうこうする力なんてないの。これは時間の奴から無理矢理奪ったものだから。けど、ちょっと調子に乗りすぎちゃったみたいね。ずっと止めていた分、動かしたらアタシ自身がどうなるか分からないわ」
「ちょっと、なにその展開!やめてよ!!」
「時間って、思っていたよりもずっと重たいものなんだわ。アタシなんかがどうにかしていいものじゃなかったのよね」
橙が、には付いていけない超展開を進めていく。けれど取り残されたら、悲しい結末しか待っていないだろう。動き始めた時間の中で、一人夜空の星々を見つめながら「橙、ありがとう。さようなら」なんて寂しく笑って終わりにしたくはない!

、あなたと居た時間、とっても短かったけど……悪くなかったわ。あの人のこと、頼めるかしら?」
「あの人……ユリウスさんのこと?頼まれても困るよ!」
それもそうね、とコロコロ笑う橙が、怖くて仕方が無い。狂気をはらんだ橙よりも、今の橙の方が、よっぽど怖い。その落ち着きが、諦めに思えて仕方が無いのだ。

橙が中々回り始めない歯車に指先で触れる。すると、彼女の指先はすっと歯車の中に溶けていく。はその手を慌てて押さえ込んだ。

「橙、どうするつもり!?」
「どうって。歯車の中に入るのよ。アタシの中に発条があるの。それでこの歯車は回るわ。この街に明日が来るのよ」
「ちょっと、待っ」

「橙!」

その場に轟いたのは、ユリウスの声だった。彼の声を訊いて、橙の目が一気に決心を揺るがせる。彼女と共にしゃがみこんで下を見れば、螺旋階段の一つ下に息を切らせたユリウスとピーターの姿を見つけた。ピーターが急いで来てくれたことが意外で驚いていると、の手に熱くて冷たい何かがはらりと落ちた。見れば、手を握ったままの橙が泣いている。何故かそれをみて、少しほっとしてしまった。

「今からそっちへ行く!」
「だ、駄目よ来ないで!」
すぐさま橙の元へ駆けつけようとするユリウスだったが、橙の拒否にその足を止めた。

「アタシ、全部思い出したの。それで、どうしたらいいか分かった。アタシが犯した罪はオレンジのことじゃなくて、その後、この街の時間を狂わせてしまったことだったんだわ。だから、それを償わなくちゃ!」
声だけは必死に気丈に振舞っているようだったが、近くにいたには橙の震えが伝わってきた。橙が一体どのくらいの時間を生きてきたのかは分からないが、にはどうしたって自分よりも年下の、愛らしい少女にしか見えない。その時、またあの声が聞こえた気がしては神経を張り巡らせる。声は、歯車からしていた。

彼女の償う、という言葉にただならぬ何かを感じ取ったのか、ユリウスが気が気ではない様子で再び階段を上り始める。

「来ないでったら!」
「橙!俺は……、俺は、何もできなかった。お前が記憶を失って一人苦しんでいても、何もできなかった。向き合うことさえできなかった」
階段を上り進めながら、ユリウスが言う。その声は、いつもの様子からは想像できない程はっきりとしていて、優しい響きを持っていた。

「それに俺は臆病者だから、これからも、何も出来ないかもしれない」
橙だけでなく、にも、彼の真剣な様子は伝わってくる。それは、心からの言葉なのだろう。心からの言葉は、心に直接届く。

「だが、―――俺はお前の夫だ!一緒に背負ってやるくらいは出来る!」
「……なっ、何よ今更!怖気づいて父親だなんて言い出したのはどこの誰よ!?」
彼はもう、すぐ下まで来ている。泣きじゃくる橙は、口ではどう言おうが心の奥底では彼の到着を待っているようだった。ふと、ひたすら前を見て走り続けていたユリウスが立ち止まり、橙を見上げる。振り払われた前髪の奥の彼の真剣な瞳が、橙を射抜いた。


「お前は俺の嫁だ!俺は何があっても、お前の傍に居る!」


橙は、遂に気丈さの欠片もない嗚咽交じりの声で、彼の名を叫んだ。はポカンと間の抜けた顔でそのやりとりを見ている。橙も驚いているようだったが、驚き具合ならも負けては居ない。

(ああ、なんだ、ユリウスさん、やるときはやるじゃないか)
どうして橙が彼を好きになったのか、その理由を示されているようだった。

「なによ!父親だって言ったじゃない!こっちこないで!」
「……そうだね。君があっちへいきな」
「え……?」
油断していた橙の手を力いっぱい引っ張り、彼女の身体を歯車から遠ざける。そしては、残すところ数メートルまで辿りついたユリウス目掛けて、思いっきり橙を突き飛ばした。ひゃ、と微かな悲鳴が聞こえる。階段を転げ落ちそうになった橙だったが、駆け付けたユリウスが抱きとめ、二人は数段を二、三段転げ落ちて止まった。

!?何を……」
「ここまで我侭通したんだから、最後まで貫きなよ」
の行動の意図が分からずに戸惑う橙の前で、は彼女がそうしたように、歯車に優しく触れる。すると、水のようにひんやりとしたそれは、底なし沼のようにズブズブとを飲みこみ始める。

「君が行ったところで何になるの」
ピーターが言った。もしかして心配してくれているの?なんて自意識過剰な勘違いは、この際しないでおく。その上で、彼の言葉は最もだった。不思議な力を持った橙でさえ、その身を犠牲にしなくてはならないというのに、わたしに何が出来るというのだろう。けれど歯車からした声は、わたしを呼んでいた。ならば行かなくてはと、思うのだ。

「わたし、自分よりも正しいことを言われると苛々するの。だから、黙っててよ」

そう言うと、は強気な笑みで、歯車の中へと取り込まれていった。
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