Act19.「手助けの声」



22,222回目の朝、一寸の迷いも無い瞳と足取りで橙の部屋へと向かうの前に、ユリウスが立ちはだかった。しかし己よりも遥かに小さな少女だというのにも関わらず、臆することなく真っ直ぐ睨み上げてくるその黒に、彼は威圧される。ただごとならぬの雰囲気に、ユリウスは唾をのんだ。

「そこをどけて頂けませんか」
「橙に何をするつもりだ」
「……荒療治、ですかね。僭越ながら、橙に心の傷を負わせた過去の記憶を見せていただきました。だから、彼女が思い出せないって言うなら、わたしが教えてあげます」
その言葉にカッとなったユリウスが、衝動的にの胸倉を掴む。が、すぐに後から来たピーターが彼の腕を掴んで、を解放させた。

「貴様も邪魔だてをするのか!」
「邪魔をしているのはあなたの方だと思いますが」
ピーターがそのまま暴れるユリウスを羽交い絞めにして、に急ぐように言う。ユリウス程の巨体を、長い間拘束しておくのは不可能だろう。は短く頷いて、橙の部屋のドアノブに手をかけた。その背にユリウスの怒声が浴びせられる。

「お前に時間の何が分かる!あれは我々が踏み込んでどうにかなる次元じゃない!半端なことをしてあの子をこれ以上傷付けることは許さんぞ!事実は、あの子に耐えられるものじゃないと分からないのか……お前は、橙の心を殺す気か!?」
鼻息荒く一気に捲くし立てるユリウスに、は静かに振り返った。先程殴られそうになったばかりだというのに、その目には少しの恐れも無い。節々思っていたが、やはり異様に肝の据わった女だと、ピーターは思った。しかし、そこには同時に危うさも感じる。

「じゃあ、あなたはこのまま橙を消してしまうつもり?悲しい事実から目を背ける為に、どれほどの大切なものを無かったことにしてしまうつもり?あなたは橙の為を想っているんでしょうけど、それって自己満足じゃないの。あの子が毎晩毎晩お屋敷の方を見て後悔しているの、知らないとは言わせない。もう一回もう一回って、何遍意味の無いことを繰り返さなくちゃいけないの?それにこのままじゃ、自分の役を忘れた橙はその内消えちゃう。あなたは、“橙”を殺す気なの?―――父親だなんて騙したりして!」
公爵夫人としての橙は、既に死にかけている。偽りの役名をいくら本人や周りが認識していたところで、それはもう橙ではない。現に記憶の中で見た橙と、実際に接した今の橙では、どこかが違うような気がした。彼女は刻々と、別人になっていっているのではないだろうか。即ちそれが、彼女の消滅?

強い口調でぶつけられる言葉は、激烈だ。ユリウスは絶句する。
は、ドアノブを回した。

「……なんて、偉そうなことは少しも思っていませんよ。言える立場でもない。ただ、わたしが元の時間に帰りたいだけなんで」

ガチャリ。暗い部屋に踏み入ると、騒動で目を覚ました橙が寝惚けた顔でベッドから上体だけを起こしていた。は胸の前で祈るように置かれた彼女の手を、ぐい、と取る。突然掴まれたことに驚いたのか橙の身体が小さく跳ねて、その目が恐る恐るを見た。

?おはよう。あ、あれ?……アタシ、誰だろ……」
「ああ、やっぱりわたしのことは覚えていてくれてるんだね、橙。でも、一番覚えてなくちゃいけないのは、わたしじゃないでしょ?」
「橙……アタシの名前ね。、何を言ってるの?」
「何があったって、親友のことは忘れちゃ駄目だよ。大切な人だったんでしょ?」
「……何の話?」
橙は目に見えて困惑していた。けれどそれは、話の内容が理解できずに戸惑う様子ではない。まるで、何かを隠したがっているようだ。
いつの間にかユリウスも大人しく事の成り行きを見守っているようだった。見守っている、というよりは……迂闊に手出しできない、といったところだろう。
橙の目が細められて、空気が固まるのが分かった。

『また、止まるよ?』

「……!?」
はどこからともなく響いた声に、辺りを見回す。けれどその声の持ち主はどこにもいない。……また、止まる?なんのことだ?と、考えて、はハッとした。昨晩の風呂場でのことを思い出したのだ。あの時。時計塔のことを訊いたときのことを。都合が悪くなればまた、あのようにループさせられるのではないだろうか。

はまずい、と咄嗟に橙の肩を強く掴んで、彼女と視線を合わせることで意識を強制的に自分へと向けさせた。時間の操り方なんて知らないが、彼女が何かしているなら集中させなければいいと思ったのだ。

「都合が悪くなったからって、また無限ループさせないでよね」

「え、あ……嫌、よ」
「嫌って……」
何が嫌なのか。親友の事を思い出すのが?……そんなまさか。だって、君と彼女はあんなに幸せそうに笑っていたのだから。だったら……。
は軽く唇を噛んだ。出来るだけこういう言い回しはしたくなかったのだが、仕方ない。そっと橙の耳元まで口を寄せると、小さく紡いだ。

「オレンジさんがもうどこにもいないって、認めたくないのね」
「え……?」
「でも、もうこんなのやめて―――」
「オレンジ……」
橙は目を見開いて、その名前を口の中で復唱した。は突然バランスを崩し、後ろに尻餅をつく。その時に近くの椅子に頭をぶつけたのかもしれない。だって、床が、うねうねと蛇の腹のように蠢いているように見えるのだから。

「空間が作り変えられる」
ピーターが言った。それは相変わらず、いつも通りの淡々とした口調だったが、心なしか早口のような気がした。けれどそちらを見ている余裕はない。

「わっ」とは短い悲鳴を上げた。どうやら床……そして天井も壁も、本当にぐにゃぐにゃになってしまっているらしい。振り落とされないように必死に絨毯にしがみ付きながら、橙を見上げる。彼女の表情は、悲しみに酷似した、しかし複雑なものを多数はらんだものだった。

「……ンジ……違、違うわ、……違う。違う違う違う違う!」
「だいだ、」
「こんなのって絶対違う!」
一際大きな声で橙が否定の言葉を口にしたとき、空間が組み変えられた。暗くなってまた明るくなった、なんて単純な場面転換ではない。周囲はまるで、初めからそうであったかのように、全く別の場所へと変貌してしまった。
きっとこれも、現実的な世界ではないのだろう。心象が具現化した、閉鎖的な空間に違いない。または、自分達の肉体が精神的なものに変換されたのか。

カタカタと一斉に音を立てるたくさんの歯車。縦に長い巨大な建物の中に、は居た。
建物の中は灯りもないのに昼間のように明るい。辺りを囲む壁は真っ白な石で出来ている。足元には幅1メートル程の黄土色の階段があった。真ん中にぎゅうぎゅうと詰め込まれた歯車を取り囲むように渦巻いている螺旋階段は、ここから上にも下にも続いている。少し足を踏み外せば……と下を覗き見るが、底を確認することは出来なかった。一体ここはどのくらいの高さなのだろう。思い出したようにユリウス達の方へ目をやれば、幸い彼らもそこに立っていた。ただ橙の姿がどこにも見当たらない。

「ここはどこなの……?」
「時計塔……だと思う」
には図書館で見たあの平面の図を、頭の中で立体に組み立てることはできなかった。しかし、ピーターが言うにはここが時計塔であるらしい。

「じゃあ、橙の頭の中?」
きっとこれも現実的な世界ではないのだろう。心象が具現化した、閉鎖的な空間ではないだろうか。

「君、彼女に何を言ったの」
それに責める色は一切無かったが、は多少後悔の念があるような渋い顔で「酷いこと」と言った。すぐに浴びせられると思ったユリウスからの咎めの言葉は、ない。代わりに情けなく項垂れた大男の悲しい問いかけがなされた。「さあ、これからどうするつもりだ」と。二人の様子から、改めてこの国では何でも有りなのだと思い知らされた。

は返答に迷って、彼らから視線を逸らす。どういう仕組みで街の時間が操作されているのかは分からなかったが、橙に言及すればなんらかのアクションがあると思っていた。それがまさか、こんな大それた、理解の範疇を超えたものだったなんて!

『橙を見つけなきゃ』

「……そう。まずは橙を見つける」
と、返事をした後で、その声が知らないものだと気付く。先程も聞いた声だ。けれど以外の二人が何も反応しないことから、その声はにしか聞こえていないのだろう。しかしそれがどんなに得体の知れないものだとしても、は先程、この声に助けられた。

「でも、一体どこにいるの?」
独り言にしては大きいの声に、ピーターが怪訝そうな顔をした。けれどは謎の声からの返答を待つ。声の主を協力者と認めたのだ。

「結局何も出来ないじゃないか!どうしてくれる!あの子を返し「黙ってて!……もらえますか」
ユリウスの責め立てる声を遮って、が命令に似た懇願をする、その時、顔の横を一筋の風が吹き抜けていった。その風にはまるで目に見える形があるように、誰かがどこかを指し示したのが分かる。風の指した方は―――上?

「上に、あがるの?」

『天辺にある、一番大きな歯車だよ』

「大きな歯車?」
上を仰ぎ見るが、規則正しく回り続ける鉄色が延々と続いているだけで、その中の一つ一つの大きさまでは判断がつかなかった。

「何だ、先程から誰と話をしている!」
痺れを切らしたようなユリウスの後ろで、ピーターが小さく「まさか」と呟いた。声は聞こえていないようなのに、何か思い当たるところのあるらしい彼にが口を開こうとしたその時―――

『ああ、でも階段を上るのは手間がかかるよねえ』
「ん?……えええっ!?」
また風が吹いたが、今度はの身体にしっかとしがみ付いてそのまま持っていこうとする。上でも下でも右でも左でも前でも後ろでもない方向へと、引っ張られる。ああ、でも向かう先はきっと上だ。

シュ、と瞬く間にその場から姿を消したに、残された二人は呆然と立ち尽くしていたが、やがてピーターはがそうしたように上を見上げて、言った。


「まさか、時間くんが………?」
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