Act18.「世明けの兆し」



は悲しみの余韻を感じながら立ち尽くしていた。映像はもう、止まっている。辺りは廃墟のようにボロボロで、建物全体が一気に歳をとったようだった。これが、この城の本当の姿なのだろう。割れた窓ガラスから、月明かりが射し込んでいる。

目の前には、割れて粉々になったシャンデリアが無残な姿を晒していた。……その下に、―――彼女は居ない。

目蓋を閉じれば、あの壮絶な出来事が蘇る。最悪の、結末だった。
オレンジは自らの意志ではなく第三者の手によって強引に、窮地に立たされた橙を助ける為の犠牲にされたのだ。最後の瞬間の、二人のあの驚きに満ちた顔を、は一生忘れることはできないだろう。

「……そうか。分かった」
は小さく呟く。分かったのは、今の出来事が未来の事などではなく、過去の記憶だったという事だ。つまりあれが、このループの理由。原因。
橙はきっとこの凄惨な事実に耐えられなくなり、記憶を消した。けれど彼女は無意識に、この時間をやり直そうとしている。大切な友人が……オレンジが死ななくてもいい未来を作ろうとしているのではないだろうか。

「でも、そんなことが可能なの?」
無意味に誰も居ない空間に言葉を紡ぐのは、こうでもしていないと、自分を保っていられないような気がしたからだ。

パリン。すぐ背後で、砕け散ったシャンデリアの破片を踏む音がした。は振り返り、顔を強ばらせる。そこには、あの化け物が居た。
怪物はに手を伸ばす。混乱しながらも、とにかく彼の腕の届かないところまで距離をとろうと後退さるの目の前で―――

一陣の黒い風が空間を切り裂いた。

は目を見開く。

その鋭い風は、に伸ばされた歪な腕の肘から先を吹き飛ばした。風が描く軌跡を辿れば、そこにはライフルを構えたピーターが立っている。かつて恐怖の対象であった銃を構える彼の姿は、その軌道線上に自分が居ないと知った今では、とても頼りがいのあるものだった。は彼の存在に安堵している自分に驚く。いつのまにか、彼にそれほどまでに信頼を寄せていたようだ。

は化け物の痛みに喘ぐ声に怯みながらも、ピーターの元まで走る。

「……なに、ちょっと目、赤いよ」
ピーターはの変化に目敏く気付いて、そう言った。暗闇でよく働くその目は、とても視力が弱いとは思えない。は見られているのが嫌でそっぽを向く。

「あなたに言われたくない」
「僕の目が赤いのは元から―――、」
言い終える前に腕を折られた怪物が再び迫り来たので、彼は応戦しない訳にはいかなかった。一発、二発……。銃弾を撃ち込まれた黒い巨体はようやく動きをやめて、その場に横たわる。肉の焦げた嫌な臭いは、しなかった。

冷静な表情を保ちつつもどこか殺気立っている彼に、は恐る恐る訊ねる。

「さっきの映像みたいなの、あなたも見た?」
「……見たよ。もう何回も見てる。毎回同じ部分じゃないけど、同じ日の映像をね」
「一体何であんなものが見れちゃうの?ここはどうなってるの?」
は警戒するように、探るように周囲を見回す。その間にもピーターは天井に張り付いている一匹に気が付き、それを撃ち落とした。ぎょろっとした目玉がぺしゃんと……いや、見ないでおこう。

「ああ、そういえば。ここがどうなってるか、それを、言い忘れたんだ」
「あなた、ここに入った時に何か言いかけてたもんね……」
「なんか間に合わなかった。で、その件だけど……この屋敷の中だけは、この街のどの部分とも違って、大きな矛盾があるから時間のループが出来ないんだ。だから時間が歪んでて、構えてないとすぐに取り込まれる」
は彼の言う“矛盾”が何であるかに気が付いて、一気に気持ちが沈んでいくのを感じた。
この街のループとはやり直すことではない。まるで同じ時間が巡っているかのように、演じているだけのこと。ならば、矛盾というのは……。

「死者は蘇りはしないってことか。だから、この屋敷の中はこんなに滅茶苦茶なんだね。……オレンジが死んでしまったから。欠番を出したこの屋敷はあの日を再現できない。だから実体の無い、幻影だけのあの日を繰り返しているって?」
の言葉にピーターは頷いた。

「それは……虚しいな。だとしたら、このループは無意味じゃないか」
は静かに目を伏せる。どう足掻いたところで、死者を蘇らせることなど出来ない。それは覆ることのない定理で、絶対的であるべきものだ。しかし、こんな妙ちきりんな化け物が居たり、時間の概念が理解不能だったりするこの不思議な世界なのだから、少しくらい融通を利かせてくれても良いのではないかと思ってしまう。

「それで……あれは、何?あの、―――黒いの」
「今更?」
が潰れた黒い塊を指差して訊くと、ピーターは少し驚いたように言った。はへへ、と誤魔化すように笑う。……だって、知りたくなかったんだ。今だって知りたくないし見たくもないけど、そんなこと言ってる場合じゃないよね。ここまできちゃうと。

「あれは……アリスの悲観。アリスの悲しみが具現化したもので……“グリーフ”と呼ばれてる」
「悲しみが具現化?……いや、大丈夫。認識で確立する世界だよね、分かってる。ちょっとは慣れてきたよ……でも、」
は言いたいことがまとまらないのか、なりそこないの言葉を口の中で咀嚼した。と、油断している内にまた一匹二匹と、アリスの悲観と呼ばれる化け物がたちを取り囲み始める。
ライフルを構えるピーターの横で、は転がっていた椅子を拾い上げて“悲観”に投げつける。ブン、と空気を切る音がして、固い椅子が勢い良く化け物の顔にめり込む。ピーターが少し驚いたように、を見た。

「でも、悲しむんだったらもっと静かにして欲しいよね。シクシク泣くとかさ。こんな暴力的で攻撃的な悲観を生み出した親の顔が見てみたいよ!」
ピーターはああ、と微妙な相槌を打った。先日、彼自身も全く同じことを思ったものだったから。

「こいつ……この方たちは、何をするためにここに居るの?」
「最初の晩のことなら、意味なんて無い。グリーフの目的は世界の崩壊。そして一体化。この国を悲観で埋め尽くしてしまうのが存在理由だからね。世界の基盤を崩すのには、称号持ちは邪魔だったんでしょ。でも今の彼らは、称号を持たない公爵夫人の居場所を知ることもできずに、ここで歪な繰り返しに参加している。ただ、暴れまわるだけの存在だ」
影からまた、影よりももっと濃い漆黒が生まれて体を揺らせた。

「グリーフについて詳しいことは分からないけれど、どうやら彼らはこの空間を余計にややこしくしている存在みたいだ。現に、彼らの数が減るに連れて君が見たような映像ははっきり鮮明になっていく。最初は三次元ですらなかったんだよ」
「ええ……本当に?(立体じゃない映像、ちょっと見てみたかったかも)」
「本当に。もしかすると、彼らはあの子が認めたくない過去を受け入れて、希望を見出すことを避けてるのかもしれない。……まあ僕の考えすぎだと思うけど。でも、このまま役名を放棄した状態が続くと、いずれ彼女は消滅する。そしてその消滅、世界の均衡の崩壊こそ、彼らの望む一体化だ」
「……ううん」
は唸る。彼女にはまだ悲観とやらの存在がよく分からず、彼らのその行動にどこまでの意味があるのかも分かりかねたが……つまり、自分だけ悲しむのは嫌だから、皆も悲しめちゃえ、ということだろうか。それより―――橙が消滅してしまうだって?

は今度は蜀台を拾い上げて、構える。狙いを定めて、投げる。隣では重たい銃声が響いていて、腹の底まで震えるようだった。

「で、つまりこれから、どうすればいいのかなあ」
「とりあえず、害悪の原因は排除しなくちゃいけないと思うけど」
ならば、ここでどこからともなく湧いて出るこのグリーフとかいう化け物を相手にし続けなければならないと?いや、違う。それでは根本的な解決にはならない。彼らが悲しみの具現化ならば、物事はもっと単純な筈だ。

「妙なことを訊いてしまったね。するべきことなんて決まってるのに」

わたしは、橙の悲劇の夜の重要な部分を垣間見てしまった。彼女のループの原因も恐らく当たっている。だったら、これ以上全ての幻影を明らかにしてしまわなくてもいい。相手の一から百までを知らなくても、何か重要な“一”を知っていれば、踏み込める。あまり気分のいい方法じゃないが、気遣っていられる程余裕のある状況ではない。


「橙に、元に戻してもらおう」
は、まだそこら中に蔓延している悲劇の夜の破片を、睨み付けて言った。ピーターは「え?」と聞き返す。

ジャックは、グリーフを“自然現象”だと言っていた。そう。心を有した観測者が居る限り、彼らは消えるどころか増幅し続ける。アリスの悲観だなんて言われているが、例え彼女のそれでなくても、どこにだって彼らは居るのだ。の中にも、彼らは居る。だからこそ彼らを完全に倒してしまうことなど不可能なのだと、は知っていた。
それに今は、こんな化け物に感けている場合ではない。グリーフの目的は世界の一体化。それは即ち崩壊であり、現在の消滅。けれどそれを望んでいるのは、そもそも彼ら自体ではないのだから。

「早く、元の時間に帰らなくちゃ」

でないと、間に合わなくなる。敵は―――アリスだ。アリスを討てば、彼らも直に消えるだろう。わたしがアリスを捕らえる為、その為には、橙に悲しみに向き合ってもらわなければならない。

は壁にかかっている絵の額縁を取り外して、悲観的な化け物にブーメランのように投げつけた。化け物は額縁を避けたけれど、奇跡のように額縁はカーブを決めて、さっくりと後頭部に突き刺さる。すごい!ミラクル!!

その時突然地面がぐらぐら歪んで、次の瞬間には屋敷は見違えるほどに綺麗になっていた。目を凝らせば、屋敷の目覚めの幻影がもやもやと流れ始めようとしている。場面が切り替わろうとしているのに、それがただの幻影だと客観的に認識したわたしは、もう取り込まれることは無かった。ただの3D映像を眺めているみたいだ。(アトラクションみたい)

「吃驚した。なんで突然?」
「夜が明ける頃だからね。また矛盾した一日をやり直しはじめたんだ。……で、君はこれから、どうするの?」

はじっと前を見ていた。そこにはまだ、あの化け物が居る。彼らは、夜までは襲って来ない。襲って来れない。形の変わらない赤い瞳が、ねめつけるようにを見ていた。それはまるで責めるような瞳だった。(……責められる謂れなんてないのに!)

「橙に、話をしに行くよ。もう今日でこの日は何回目なの?」
「多分……22,222回目だ」
「わあゾロ目!それならきっと大丈夫。今日、解決するに決まってるね!」
そう言い切ったの瞳には、確信と覚悟があった。彼女は勢い良く、夕方に飛び出していく。
ピーターは彼女の滅茶苦茶な理屈に呆れていたが、程なくして「やれやれ」とその後を追った。
inserted by FC2 system