Act18.「彼女の機能不全」



 暗い林の中、月明りだけを頼りに走るは、何度か木の根に躓きそうになった。もし今ここで怪我をしたら、その傷は明日の自分にも残り続けるのだろうか。ピーターの言うように自分達がループの例外であるなら、その可能性は充分ある。今日が無かったことにならないなら、毎晩屋台で食べ過ぎるのも恐ろしい……いや、屋台の食事は街の構成物であるから、リセットされるのだろうか? だとすると今の自分を動かしている栄養源は何なんだ?

 そんなことを考えている内に、いつも橙と遭遇する場所に辿り着いていた。だがそこに彼女の姿はない。それもそうだろう。この場所に偶然通りかかるだけの橙が、こんな時間まで留まっている筈もないのだ。少し考えれば分かったことだが、分かっていてもきっと自分の目で確かめようとしただろう。

(今夜こそ、橙に踏み込んだ質問をしようと思ってたのにな)
 勝負は明日に持ち越すしかない。は肩を落としその場を後にしようとした。その時、近くでガサリと草の揺れる音、小さな息遣いが聞こえる。ハッとしてそこを見ると、木陰には誰かの姿があった。その人物は今眠りから覚めたような顔で、胡坐をかいて、伸びをしている。

(……どうして、まだここに居るの? なんで)
 信じられない、と立ち尽くすを、橙が眠く蕩けた半目でじとっと睨んだ。

「遅かったじゃない! 待ちくたびれたわ」
「へっ……えっ!? あ、あの、橙、わたしのこと分かるの?」

「……誰よ!?」

 その返答に、は盛大にコケたくなる。これがギャグなら心行くままにオーバーリアクションを見せることができた。だがギャグではない。橙の目は真剣そのものである。は誰だと問われ、何と答えようか悩んだ。また『観光で来たのですが、道に迷ってしまって』と答えるべきだろうか。しかしもうそれは必要ない気がした。

「わたしはだよ」
「そう。アタシは橙よ……あら? さっきアタシの名前呼んでなかった?」
 どうして知っているのかと、訝し気な表情を浮かべる橙を躱して「そうだったかな」と曖昧に笑えば、橙は素直に煙に巻かれてくれた。

「一緒に、前夜祭に行こうよ」
 がいきなりそう誘っても、やはり元気な二つ返事が返ってくるのだった。

 橙はこんな時間まで一人で何をしていたのか。にはもう、その答えが分かっている。彼女はまだ出会う前の知らない相手を待っていたのだ。自分の存在が橙に変化を生じさせていることを、は確信している。
 今の橙の様子に、保守的なアドルフがどういう反応をするか考えると恐ろしく、橙が家に寄っていくと言ったら離れた場所で待っていようと思ったが……いつもより遅い時間だったことと、早く祭りに行きたい気持ちが急いたのか、今回の橙は真っ直ぐ街に向かっている。それはそれで、娘を探しに来たアドルフと鉢合わせになるかもしれない、との心は落ち着かなかった。

 こうして二人は、四回目の前夜祭へと繰り出すのだった。



 *



 と橙はいつものようにお揃いの髪飾りを付けて、屋台を巡る。橙が選ぶの髪飾りは、回を増すごとにのお気に入りランキングを更新していた。橙の方がどうかは分からないが、似合っているという尺度でいえば彼女も今日が一番である。

 屋台の食べ物は今日も今日とて魅惑的だったが、は連日の食べ過ぎが蓄積されていたらとんでもないことになる……といつもより抑えることにした。しかし橙が「もう食べないの?」と不満そうに唇を尖らせて、隙あらば何かと口に食べ物を突っ込んでくるため、思うようにはいかなかった。

 橙に差し込まれたポテトフライを、困り顔でもぐもぐするに、誰かが声をかける。振り返るとそこには、つい先程ぶりのマーマレードが居た。彼女を前夜祭で見かけたことは無かったが、面識がなかったから気付けなかっただけだろうか?

ちゃーん! 今日は本当にありがとね! おかげで前夜祭を楽しむ余裕ができちゃった!」
 なるほど、いつもは疲れ果てて祭りどころではなかったのだろう。店じまいのあとは自分の部屋でぐっすりだったに違いない。は思いがけない後日談(当日だが)を知ることができて嬉しくなった。「それは良かったです!」と笑顔で返す。マーマレードにすぐ立ち去る様子もなかったため、は橙に彼女のことを紹介しようと思った。

「橙、こちらはね、」
 橙の方を見たが、驚きで固まる。

 橙の顔はまるで幽霊でも見るように青褪めていた。唇は微かに震え、見開かれた目はマーマレードに釘付けになっている。この二人は知り合いだったのだろうか、と思ったが、対するマーマレードは同様に驚き、戸惑っていた。

「ねえ、あなた大丈夫? 随分顔色が悪いけど」
 マーマレードがの後ろに立つ橙を心配そうに覗き込む。が、橙は彼女の視線にビクリと肩を揺らせると、さっと顔を伏せてしまった。胸元でぎゅっと握りしめられている手は、力の入れすぎで指先が赤くなっている。酷く怯えた様子の橙に、は訳が分からないまま、とりあえず二人を引き離した方が良さそうだと判断した。マーマレードに失礼にならないよう、さりげなく二人の間に入って壁になると「ちょっと具合が悪いのかもしれません。わたしが家まで送っていきますから、大丈夫ですよ」と言って、橙をそこから連れ出した。

 ひとまずどこか落ち着けるところに行こうと、は賑わいから遠ざかる。人気のない道に出た時、橙を引いている方の手がぐっと後ろに引っ張られた。橙が立ち止まったのだ。彼女は肩を上下させて荒い息をしている。どれだけ吸っても足りないというように、もがくように喉をぜいぜい言わせていた。苦しさからくる生理現象なのか感情の現れなのか、その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

 これは過呼吸だ、とは気付いた。だが実際に対処したことがなく、どうすればいいか分からない。紙袋を口に宛がうといいとか、それは逆効果だとか聞いたことがあるが、そもそもここにそんなものはないのだ。とりあえずその場にしゃがませ、背中に手をやり……さするのは良いのだろうか? 駄目なのだろうか? ……結局、手を置くだけ置いて祈ることしかできない。

 どんどん荒くなっていく橙の呼吸に、は橙が死んでしまうのではないかと気が気ではなかった。焦りが見せた幻か……“視界が歪んで見え、眩暈がした”。まるで真夏の陽炎みたいに、コーヒーの中に溶けていくガムシロップみたいに、空間が捩じれて溶けている。木々の葉が、それを揺らす風が、やけに急いでいた。キュルキュルと何かが巻き上がるような音――

 うっ、と橙がえずき、は我に返った。世界が元に戻る。今のは一体何だったのだろう? いや、今はそれどころではない。は「大丈夫、大丈夫だよ」と橙に声をかけ続けた。それは半ば自分に言い聞かせるものだった。

 一分、五分、十分……どれくらいの時間が経ったのか分からない。橙の呼吸はどうにか落ち着きを取り戻しつつあった。それに比例しても冷静になり「深く息を吸って」と助言できるまでになる。橙の目は虚ろで、こちらの声が聞こえているか分からなかったが、素直に深呼吸を試みているところから、恐らく届いているのだろう。

 それからまた暫く経ち、呼吸が正常になっても、橙はすぐには立ち上がれずぼうっと座りこんでいた。腕はだらんと下に降りている。早く連れて帰ってベッドに寝かせてあげるべきだろう。はぐったりしている橙の腕を担ぎ、背におぶろうとする。上手くおぶれる自信は無かったが、橙が無気力ながらに協力してくれたため、無事に背に乗せることができた。その状態から立ち上がるのは中々難儀だったが、それでもどうにか一度立ち上がってしまえば、歩くのはそれほど辛くなかった。

 自分とそう体格の変わらない少女を背負いながら、は街を抜けていく。背中越しに、まだ時々小さくしゃくりあげるのが聞こえていた。

 後ろの橙が静かな寝息を立て始めた頃、彼女の家が見えてきた。ちゃんと道を覚えていたことに安心する間もなく、は身体を強張らせる。家の外には、どこかに行こうとしているのか、どこかから帰って来たのか、アドルフが立っていた。大きなゴーグルで顔は窺えないが、それでも憔悴した雰囲気が滲み出ている。彼はとその背の橙に気付くと、物凄い勢いで駆け寄って来た。その様は凶暴な野犬の如く。唸りを上げ、噛みついてくる。

「橙はどうした、一体何があった!」
「じ、事情は説明しますから。とりあえず橙を部屋に……」
 橙が目を覚ましてしまいますから、と言えば、アドルフは渋々ながら黙った。彼は橙をそっとの背から掬い上げると、その荒い風貌からは想像もできないくらい丁寧に大切そうに、橙を家の中まで運んでいった。
 はその背が扉の奥に消えると、このまま帰ってしまおうかと思った。アドフルと一対一で会話をするのは気が引けるし、あの調子なら自分が責められかねない。……だが結局、橙のことも心配で立ち去ることはできなかった。橙を寝かせ終えたアドルフが戻ってくる。その全身からは、沸き立つ怒りが感じられた。

「貴様、橙に何をした」
 は生まれて初めて『貴様』などと呼ばれた気がした。

「何もしていません。前夜祭に行くまでは、いつも通り元気だったんです。でも前夜祭で、ある人に出会ってから様子がおかしくなって……」
「その者とは誰だ。誰かが橙に危害を加えたのか!」
「違いますよ! その人はただ、わたしに声を掛けてきただけです。でも橙はとても怯えている感じで……急いでその場を立ち去ったのですが、途中で過呼吸になってしまったんです」
「声を掛けられただけで、そんなことになる訳がないだろう!」
「わたしに言われても困ります! その人は橙のことを知らないみたいでしたが、橙は知っていたのかもしれません」
「だから誰なんだ、そいつは!」
「街のカフェテラスの店主さんですよ! マーマレードさんっていう!」

 がその名を口にすると、アドルフは最初はピンと来ていないようだったが、何か思い当たることがあったのか徐々に顔を暗くした。は彼につられてヒートアップしていた自分を落ち着けながら、尋ねる。

「何か、ご存知なんですか?」
「お前には関係のないことだ」
「とてもそうは思えません」
 何? とアドルフは口元を引き攣らせた。は続ける言葉を悩む。ループ問題に巻き込まれている身として、その原因に関わっていそうな橙は、無関係と言える存在ではない。ただ……そうではない。言うべき言葉は、心が強く感じているのは、それではない。

「橙は、わたしにとって大切な友達です。関係ないなんてことありません」
「……もうこれ以上、橙に関わらないでもらえるか」
 たっぷり余白を取って告げられたそれは、最初の晩にも聞いたものだった。は全く進展の無い彼に苛々する。

「それはどうしてですか? 橙のことで知られたくない秘密があるからですか? 時間のループが終わってしまって、何か不都合があるからですか?」
 捲し立てるに、アドルフの纏う空気が変わった。激しさが鳴りを潜め、凍てつく敵意を感じる。は“やばい”と感じ、一歩後ずさる――

 と、その時、頭上に違和感を感じて上を見ると……空が薄赤い。夕方が訪れつつある。まだ日が暮れてから数時間も経っていないというのに、夜が明けようとしていた。「いつのまに……?」唖然とそれを見上げるに、アドルフは「フン」と鼻を鳴らす。

「見ろ。これが貴様の不用意が招いた結果だ」
「どういう、ことですか」
「これが最後の忠告だ。橙にこれ以上関わるな」
 アドルフも突然の空の変化に、気を削がれたのだろう。彼はそれだけ言うと家の中に戻り、乱暴にドアを閉めてしまった。残されたは整理の追いつかない頭で、とりあえずずっとそこにいる訳にもいかず、街に向かって歩き出す。

 ――マーマレードと出会い、尋常ではない様子で過呼吸を起こした橙。数時間分を早送りして明けてしまった夜。アドルフはそれをの所為だという。橙の状態と時間が密接に関わっていることは分かるが、仕組みが分からない。そもそも人間が時間をどうこうできるものだろうか? 時間を操作できる者なんて……

『あ』と、は心の中で声を上げた。時間を操作できる唯一の存在が、この世界には居るのではなかったか。そう、“時間くん”という存在だ。それが白ウサギや眠りネズミと同じく“キャラクター”で、誰かが時間くんという役割を演じているのだとすれば、それが橙だということはないだろうか?

(頭がこんがらがってきた……)
 時間、時間くん。それについて考える時に、自分の世界での時間の定義や常識に惑わされてはいけない。この世界の時間を知ろう。知りたいことを知るには、やっぱりピーターも言っていたように図書館が良いだろうか。

 林と街の境界。そこで戻ってきたを迎えたのは、ピーターだった。木に凭れて不機嫌そうに腕を組んでいる。彼はを鋭く睨んで「君、何したの」と言った。当然、時間の早送りに気付いているらしい。は「あー」とぐったりした。(誰も彼も何故わたしの所為にしたがるのか)

「さっき、侯爵様にも同じこと言われたよ。わたしに何か出来るわけないでしょ。でも気になることはあったよ」
 は昨晩の橙の様子を簡単に説明し、橙の異常が早送りの原因ではないかという見解も話した。

「それで、どうする気?」
「図書館に行ってきます」
「は……? なんで」
「あなたが言ったんでしょ。時間くんについて知りたいなら、図書館にでも行けばいいって」
 の言葉に、ピーターは何か言いた気な顔をしたが、結局何も言うことはなかった。それはまるで、姿も声もない誰かに諭されたかに見え、は眉を顰める。何にしろ、やはり彼から時間くんの話を聞くことは出来そうにない。

「じゃあ、またね」
 はそれだけ言って、ピーターの前を通り過ぎる。

 立ち去るの後ろ姿は、いつもさっぱりしたものだった。振り返ることの無いその背をピーターが見ていると、頭の中で“声”が『僕について調べるんだってさ! 付いていってみようよ』と無邪気に言う。ピーターは特に嫌そうにすることもなく、彼女の後を追っていった。 inserted by FC2 system