Act17.「橙とオレンジ(後)」



ひそやかな夜に、控え目なノックの音が響く。とっくに足音を聞きつけてその来訪者を待ち詫びていた橙は、返事もせずに寝間着姿のままドアを開ける。

「いらっしゃい!」
「あらまあ、はしたないですよ、奥様。許可さえ下さればわたくしが自分で開けましたのに。それに、もしわたくしではなく殿方でしたならどうなさるおつもりです?こんな恰好で……」
ドアの先に居たのは、オレンジだった。二人きりだからか、彼女の態度に昼間ほどの恭しさはない。寝間着のまま飛び出してきた橙を窘めるその口調には呆れが混じっていたが、表情は姉のように優しいものだった。彼女は片手で、そっと橙の乱れた襟元を直す。彼女のもう片方の手には、ティーポットとカップを乗せたお盆があった。それを見て橙がはしゃぐのを、オレンジはより一層穏やかな瞳で見る。しかし、景色が変わる前のオレンジを見てしまったには、その光景は息をつくことの出来ないものであった。

「さあ、奥様。こんなところでは何ですし、」
「そうね、中に入ってちょうだい」
そう言ってオレンジを招き入れようとした橙が、思い出したようにくるりと振り返って、悪戯な顔で尋ねる。

「ねえ、二人の時は、どんな約束だった?」
「……あらまあ。ごめんなさいね、橙。これでいい?」
「そう、それでいいのよそれで。敬語も、それに“奥様”なんてのも、全部ナシなんだから!あんた、何回言っても中々直らないわね」
蜂蜜色のランプの光に照らされて、二人の少女はクスクス笑った。

二人の約束。それは、夜だけは主人とメイドではなく、“友人”として一緒にお茶を飲むことだったらしい。彼女たちはベッドの上で紅茶を飲み、すみれの砂糖漬けを食べる。そして、他愛ない話題に花を咲かせる。そこには、何の隔たりもなかった。
彼女たちの話題は尽きない。朝、草露が輝いていていかに綺麗だったかということ。目覚めのお茶が、いつもより少し美味しかったこと。干した布団からお日様の匂いがしたこと。ガラスの窓に、虹が映っていたこと。彼女達のお喋りの様子は、とても楽しく心踊る様だというのに―――それが真実のものでは無いなんて、は知りたくは無かった。
やがて橙が恋の話題を振った時には、はさも自分が当事者であるかのように身を固くしてしまったが、オレンジは少しも動じない。

「私は、興味ないわ」
「ええ〜?嘘よ!だってあなた、いつも恋してるみたいに綺麗だもの」
意地悪な顔をした橙が「正直になりなさいよ」と言って彼女を肘でつつく。は叫び声
を上げたくなった。(やめてくれ!お前、他に話題あるだろ話題!)

「本当よ。私、恋なんてしたくないの」
オレンジは悲しげに目を伏せて、小さな声で言った。しかし、橙はそんな彼女の様子に気が付く気配も無い。

「勿体無いわ。オレンジ、すごく可愛いのに」
「私は、あなたみたいな友人と楽しくお茶会が出来れば、それで満足だわ」
「―――まあ!欲張りねえ」
二人は笑い出した。少なくとも橙は心から、オレンジとの時間を楽しんでいるようだった。何を言っても言われても面白いようで、箸が転げただけでも笑い出してしまいそうな様子である。そんな彼女を見守るオレンジは、今、何を考えているのだろう。

「でも、あんたが正解かもねえ。男なんて、本当に面倒だもの!」
オレンジはその言葉にピタリと笑うのをやめた。橙は不機嫌な顔を作って、明らかに愚痴を聞いて欲しそうにしている。オレンジはどこかぎこちなく「また何かあったのね」と、橙が切り出しやすいようにした。鈍感な橙は、オレンジの些細な変化には気付けない。

「だって、ねえ!聞いてよあの人ったら……!!」

それから暫く、橙の口から夫であるユリウスへの不満が尽きることはなかった。聞き上手な“友人”はやれやれと肩を竦めながらも、うんうんと頷いてあげる。それが彼女の役目だった。
しかし橙の愚痴は、どれもこれも惚気ともとれるようなものばかり。本人にそのつもりはなく、本当に怒りを感じているのだとしても、話の節々は円満な夫婦関係を物語っていた。

「まあ、今がとっても楽しいから良いんだけどね!夜か夕方しか無くなってしまったから、こうやってあんたと居られる時間が長くなったんだもの」
「ふうん。そういう甘い言葉は、旦那様に言って差し上げたらいいのに」
「イヤぁよぉ」
「何がイヤなのよぉ」
赤面する自分をからかう“友人”から逃れようと、橙は分厚い掛け布団に潜り込んだ。オレンジは、丸く膨らんだ布団を冷たい目で見下ろす。ベッドの横の小さな丸テーブルの上で、ティーカップが今にも零れそうにカタカタ揺れていた。

「イヤだったら……じゃあ……私が」
オレンジがぼそぼそと呟く。彼女は今、それを口に出してしまっていることに気が付いているのだろうか?そして、それを口にしてしまったらどうなってしまうのかも。
はオレンジの為にも、その自棄になっている口を塞いでやりたくなった。

「え?今、何か言ったかしら?」
橙が少し眠くなって来たのか、布団の下からくぐもった声で訊いた。

カタカタ。カタカタ。カタカタガタガタ。

「私だったらあんたよりも、もっと―――!」

ガタガタ。

ガタガタガタ。

窓ガラスが枠から抜けてしまいそうな程、揺れている。風も無い夜なのに、ガタガタガタと揺れている。オレンジはただならぬ何かを察し、続きを言うのをやめて息を潜めた。

ひたひたひた。澄ませた耳に、聞いたことも無いような音が入ってくる。音は、ドアの向こうの廊下を這っている。遂に、耐え切れなくなったガラスは音を立てて割れ、欠片となったそれが、二人の居るベッドへと降り注いだ。は思わず目を閉じる。

二人の少女の悲鳴が響いた。

橙は被っていた掛け布団の隙間から、部屋中の空気が細かなガラスを含んでキラキラと輝いているのを見ていた。も、自分を通り抜けていく光の破片を、見ていた。キラキラキラ、さらさらさら。……何が、起こったというのだろうか。
放心状態でそれを眺めていた橙が、自分の体の上で苦しそうに上がる呻き声にはっとして、体を起こす。も、何のガードも無かったもう一人の存在を思い出しそちらを見て………目を見開いた。

橙は、自分の目が信じられないようだった。は橙のその二つの目玉を抉り取ってしまって、楽にしてあげたい気持ちに駆られる。けれど抉り取られてしまったのはその目ではなかった。

「痛、い……よ。ねえ、だい、だい。私の顔、どうなってる?」

橙が耐えられなくなり、口元を押さえた。
それはそうだろう。だって、彼女は橙の友達なのだから!先程まであんなに楽しそうに笑い合っていた、友達なのだから!口を尖らせてみたり、照れくさそうにしてみたり、それが例え真実ではないにしても、あんなに幸せそうに、綺麗に笑っていた可憐な少女だったのだから!!

「おかしいな……左目がちっとも見えないのよ。どうしてかしら……。ねえ橙、聞いてる?」

(違う違う違う!こんなの間違ってる。“こんなの”アタシの知るあの子の筈がない!!)

は橙の、あまりに酷い否定の言葉に憤りを感じた。それはとても、不幸な少女に掛けるべき言葉ではない。彼女に人の心はないのだろうか!―――と、思ったが……何かがおかしい。オレンジは橙の言葉に何の反応も示さず、橙の口も、少したりとも動いてはいないのだ。橙は、何も声を発していない。
(今のは……橙の心の声?)
は、自分の精神が橙に繋がってしまったのだと悟った。意識だけの憑依霊のような存在ならば、取り込まれても仕方がないのかもしれない。それとも、ここからが隠された“真相”のお披露目会、本番だということか。

(違うわ!違う、違うんだから!)
橙は、本当はそれが誰だか分かっていながらも認められず、逃げるようにベッドの上を後退さる。ペキッ、っと掌にガラスの破片が刺さるが、今の彼女には「痛い」という言葉さえ出せなかった。目の前の“血塗れのメイド”はそんな橙に不安そうな顔で手を伸ばす。橙はギョッとした。

真っ赤に染まった給仕服。頭に突き刺さったままのガラス。裂かれた瞼からは止めどなく鮮血が溢れ、眼球を濡らしている。
血溜まりに浸された目を直視することが出来ず、橙は目を瞑り、身を縮めて、両手で耳を塞ぐ。これは悪夢だ、間違いない。

(きっとアタシはさっき布団に包まったまま、眠ってしまったんだ。そうだ。そうだ。そうなんだ!そうでないと駄目なんだ!早くこんな夢醒めてしまえ!聞いてるの夢魔!早くこんな夢を終わらせろと言っているのよ!!)

けれど恐怖に震えた彼女の体を優しく包み込んだのは、夢にしてははっきりとした、確かな温もりだった。それは、彼女の良く知る温もりだった。橙とリンクしているも、その本物の暖かさを感じて、泣きたくなる。

「……良かったわ。あなたに、怪我が無くて……ほんとうに、よかったわ」
嘘でも、こんな状況でそんな事が言えるだろうか?はオレンジのその優しすぎる言葉に、橙と共に涙した。橙は、いつもオレンジが淹れてくれる紅茶みたいに温かくて優しいその声に、ゆっくりと顔を上げえる。しかし、近くで見る変わり果てたメイドの顔に思わず、その体をベッドの上から突き飛ばしてしまった。体が床に落ちる鈍い音と、彼女の体がガラスを砕く音。上がる悲鳴。橙は、気がおかしくなりそうだった。

突き飛ばすつもりなんて無かったのだ。ありがとうって言って、それから、早く手当てしないとって、それで、それで……。頭がくらくらして、眩暈と吐気がした。床の上では親愛なる友人が痛みにもがき苦しんでいる。臆病な自分の所為で、苦しんでいる。

(ああ、こんなに残酷なのが、悪夢な訳ない)

これは、現実だ。

これが橙の何らかの罪に対する応報なのだとすれば、その罪は幸せ過ぎたことにあるだろう。彼女は今ある幸せが、未来永劫続くものだと思い込み、油断していたのだ。
不変のものなど無いこの世で、夢物語をいつまでも信じていた臆病で幼い少女は、大切な宝物さえ、錆付いてしまったなら怖くて触れることができない。綺麗なものだけに包まれていたい、ずるい女の子。

「だい、だい?」
ベッドの下で自分を呼ぶ声に、橙はただ涙を流した。どうしていいか分からない。いや、分かっている!!橙はようやく我に返って彼女に手を差し伸べようとした。だがしかしその瞬間、得体の知れない不快感に部屋中の空気が支配され、体が硬直する。

まるで少女達の悲鳴に誘われたかのように、ヒタヒタと集まってきた何かが、ドアを隔てた向こう側にひしめき合っているようだった。(何かが、居る)
は彼女らよりも一歩先に、その正体を知ってしまった。

(あいつらだ……あいつらが、来た!)

橙は首だけを回し、そちらに目をやる。ドアは、向こうからの重みで軋んでいた。「ああ!」橙は思わず大きな声を上げてしまう。鍵が、開けっ放しじゃないの!!
今から駆け寄ったところで間に合うかは分からない。しかし、恐怖で固まっていた体は更なる恐怖によって突き動かされた。橙はベッドの上から飛び降りて、素足のままガラスの茨の上を走り、扉に手を伸ばす。けれど、ようやく、やっとの思いでカギに手を触れた瞬間、ノブが回り、扉が外側へと遠ざかっていった。


ざわざわざわ。それは、黒く、不気味で、不吉な何かだった。
橙はその正体不明の姿に愕然と立ち尽くす。その大きな黒い塊は時々真っ赤な穴をぽっかり空けたので、そこから覗く滑りある肉と黄ばんだ歯に、橙はそれが口なのだと知った。どこから出てきたのか、長い長い腕が彼女に向かって伸びる。彼女は咄嗟に身を引いて、先程まで居たベッドの上へと飛び乗った。腕は行く先を見失って少しの間ぐねぐねと彷徨う。目は、無いようだった。
しかしそんなものは必要ないとでもいうように、それらは気配を読むことに対して恐ろしく優れていた。次から次へと黒いものは部屋に入り込み、巨大な闇として橙に近付く。状況を知らないベッドの下のオレンジが、不穏な空気によろめきながらもなんとか這い出て立ち上がった。そして、突如灯りの下に現れた見知らぬ化け物に、再び喉を潰すような甲高い叫び声を上げる。

一体どうして、何がどうしてこうなったのだろうか。恐怖を通り越して感覚を失ってしまった橙は、自分に伸びる真っ暗な腕をただ呆然と、なす術も無く見ているだけだった。はその様子を、この間の自分に似ていると思った。
ふっと音も無く、歪な形の黒く長い指先が彼女の細い首に触れる。それは、酷く冷たくて、触れられただけで身体中を巡る血が凍ってしまったのでは無いかと思う程だった。無意識に彼女の口が誰かの名前を、描く。いつもは鬱陶しかったものが、今は酷く恋しかった。夢でも幻でも良い。目を瞑れば求めているものが見えるかもしれない。と、橙が閉じた瞼の外側で、――――――火花が散った。

橙の周りを囲んでいる化け物に負けず劣らない巨体の男が、大きな斧で天蓋の柱ごと、闇を切り、潰したのだ。細切れになった闇を振り払った男は、厳粛な声で妻に無事かと問うた。橙が求めたその幻は、目を開けても擦っても、一向に消える様子はない。

「ア、 アタシは無事よ……でも、オレンジが!」
ユリウスの登場で大分安心したのか、割とはっきりとした口調で橙が言う。ユリウスが振り返るよりも先に、オレンジはその場に立ち上がってしゃんと姿勢を伸ばす。も橙も、そんな彼女に心から驚いた。

「ユリウス様、わたくしはご心配には及びません。一刻も早く奥様を、安全な場所へ!」
ユリウスはその凄惨な姿に顔を顰めたが、彼女のプライドを崩さないために敢えて気遣う言葉はかけなかった。

「……分かった。二人とも、行くぞ」
「はい!ユリウス様!」
三人は化け物を押し退けるようにして、部屋から出る。オレンジはせめて彼の前では強く美しくあろうと、痛む足に鞭を打って、走った。身体はボロボロで、本当ならば立っているのがやっとだろうに。は橙の中で、彼女の美しさに、見とれていた。

(あ……)
はそこで初めて、彼女の瞳が橙の髪よりも美しい赤黄色だったことに気が付く。燃えるようなオレンジ色。黄金色に輝き。マリーゴールドのように可憐に美しく咲き誇るその姿は、とても強く、そして儚げに見えた。



しかしその美しい花は、この悲劇の夜、重たく悲しい闇に、


―――手折られてしまうのだ。
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