Act17.「パウンドケーキ」



 キッチンに近付いていくにつれて、幸せな香りが強くなる。カウンター越しにそっと中を覗くと、ピーターがなにやら真面目な顔で調理台に向かっていた。とマーマレードは絶対に水を差してはいけないと、更に息を潜める。

 彼の視線の先には四角いアルミのケーキ型があり、その中には、こんがり茶色の山が盛り上がっていた。ピーターは中の敷紙をそっと持ち上げ、型からケーキを外す。そうして木製の板の上に姿を現したのは、キツネ色のパウンドケーキである。いっぱい膨らんで、その背には亀裂が入っていた。あまりに美しい焼き上がりに、は潜めた息をごくりと飲む。……その時、彼の手が止まった。違和感を覚えたが顔を上げると、その赤い双眸とばちりとぶつかる。どうやら気付かれたらしい。

 笑って誤魔化そうか何か言い訳をしようか悩んだが、彼は文句を言うこともなくケーキの乗ったまな板を見やすいようにこちらに持ってきてくれる。そして目の前で、波型のナイフを入れていった。

「わあ」と思わず感嘆の声が出る。パウンドケーキは外側はしっかり焼き色が付いているが、断面は優しい卵色で、きめが細かくみっちり詰まっている。生地の所々にオレンジ色の粒が輝いており、それに気付いたマーマレードが嬉しそうな声を上げた。

「マーマレードジャムを使ってくれたんだね! 作り過ぎて余してたから、良かった。材料は足りた? ろくなもの残ってなかったでしょ」
「まあ、確かに」
 ピーターの不愛想な返答に、マーマレードは特に気を悪くした様子もなく「あはは」と笑った。が客席に居た間、二人は狭いキッチンで共に調理にあたっていたのだから、ある程度の関係性を構築していておかしなことはないが、は少し納得がいかなかった。やっぱりピーターは自分にだけ特別冷たいのだ。――と、思っていた。だから次の彼の行動に、は心から驚いた。

 皿に取り分けられたパウンドケーキが、コト、との前に置かれたのだ。はキョトンとして皿とピーターの顔を見比べる。彼はその視線に鬱陶しそうにした。

「もの欲しそうな顔してるから。いらないなら、」
「いただきます!」
 は今にも回収されかねないそれを慌てて自分の方に引き寄せる。てっきり見せ付けるだけ見せ付けていくのかと思っていたのだ。そのまま手掴みでぱくっと食べてしまいたい衝動に駆られたが、何とか踏みとどまり、先程片付けたばかりのカトラリーボックスからフォークを拝借する。

 そっと触れたフォークの先が、優しく沈みこんだ。柔らかくも存在感のある手応え。一口大に切ったケーキをフォークに乗せて口元に運ぶと、甘く芳ばしい香りが一層強くなった。まだ味覚に到達していないにも関わらず、既に美味しい。……いよいよ唇で触れ、口の中に迎える。カステラとは違うしっとりどっしりした食感で、バターと蜂蜜の濃厚な味がじゅわっと広がった。マーマレードジャムの甘酸っぱさが良いアクセントになっている。惜しみながら、しかし誘われるように歯を立てると、もう止まらない。頬の内側が痺れて蕩けるのが分かった。幸福感が喉を過ぎていく。

「美味しい〜!」
 ぱあっと輝く瞳。頬を抑え、喜びに震える。見たことの無い彼女の顔に、ピーターは不意を突かれた。黙ってじっとしているピーターに、二口目を食べ終えたがようやく気付いて首を傾げると、彼は急いで視線を逸らす。

「私も貰おうっと」
 マーマレードがフォークを勢いよく突き刺し、ばくりと頬張る。そして直後、彼女も歓喜の声を上げた。

「うーん、美味しい! 本当に料理上手だよね」
「知ってる」
 マーマレードの賞賛に、彼は当たり前だと言わんばかりだ。は三口目、四口目を味わいながら、彼らの決して多くはない会話を聞いていた。……どうやらピーターは料理が趣味らしい。中でもお菓子作りが好きなのだとか。だがこの街に来てからはそんな機会もなかったに違いない。仕事を手伝う報酬としてキッチンと食材を借りるというのは、そういうことではないだろうか。

 五口目、六口目……が最後の一口だった。最後の一口は一番美味しく、一番物足りない。が残念そうに空っぽの皿を見ていると、なんとパウンドケーキが蘇った! ピーターが彼女の皿に新たな一切れを乗せたのだ。は思いがけないおかわりに「ありがとう」と恥ずかしそうに笑う。その顔が再び幸せに蕩けていくのを、ピーターは難しい顔のまま、暫く見つめていた。



 *



 先に出て行ってしまったピーターを追いかけ、も店を出る。外はもう夜の入口だった。祭りの屋台が賑わいを増している。は手の中の物をポケットにしまった。それは店を出る時にマーマレードから握らされたバイト代である。自分が勝手にしたことだから受け取れないと断ったが、貰ってくれないと困る、と強引に渡されてしまったのだ。それも、ピーターが無視してさっさと店を出て行ってしまったので、二人分ある。この世界で初めて自分で稼いだお金、と思うと嬉しさがこみ上げるが、どうせ明日には消えてなくなってしまうのだろう……。

 マーマレードの店から少し離れたところで、大分見慣れた後ろ姿を見つけ、は駆け足でその隣に並んだ。より数分先に出ていった筈のピーターが、何故まだこんなところに居るのだろう? 何となくそれは、訊かなくてもいい気がした。こうして黙って隣に居ても舌打ちも文句も飛んでこない。脚のリーチの違う彼と無理なく並び歩けているのも、そういうことだ。

「今日は、ありがとう。マーマレードさんも感謝してたよ」
「君達に喜ばれる為にした訳じゃないよ」
「料理、好きなんだね」
「まあね。でも、もう手伝わないよ」
「……うん。わたしも、今日だけで満足かな」
 そう言ったを、ピーターが冷めた目で見る。

「君は何がしたかったの? “今日”なんて、ここではあって無いようなものでしょ。今回だけ手出ししたところで、あの店は何も変わらない」
 ピーターの言葉には言葉を詰まらせた。彼の言うことは尤もだ。2,000回以上繰り返す今日の、たった一回の気まぐれ、偽善。確かにそれも事実なのだが、それだけではない。だがは、それを上手く伝え切ることは難しいと思った。

「わたしは、昨日と違う今日にしたかったんだよ」
 は遠い目で、予定調和の街を眺める。

「この街は今日を繰り返していて、何か行動しても明日には無かったことになっちゃうけど……全く同じじゃない。変化は起こせるし、起きてる……と思う」
 自分の声で紡がれるあやふやな言葉に、は苛々した。頭の中にあった時にはもっとしっかりしたものだったように思うが、外に出ると途端にバラバラ散らかってしまう。何も言わずに前を見て歩き続けるピーターから、彼がどう思っているのかを察することはできなかったが、は言い訳がましく続けた。

「えっと……ほら。最初に街に来た時、皆から変な目で見られなかった? あれってわたし達が元々この一日に居なかったからだと思うんだけど、今はもう見られないよね。皆、わたし達に慣れてる。それって繰り返しの中でも変化はあるってことだと思う」

 初めてこの街に来た日、街の人々はまるで幽霊を見る目でこちらを見ていた。あれはいつもの日常に紛れ込んだ異物へ、違和感を抱いたからだろう。今、人々がそのような視線を向けてこないのは、彼らが自分達の存在を知っているからだ。知っていると言ってもそれは無意識下の、潜在的な認識なのだろう。意識の上では、先日出会ったユリリオもまた初対面に戻っていたし、恐らくマーマレードも明日には自分達のことを忘れるに違いない。

「少しでも違うことをすれば、もしかしたら明日が変わるかと思って」
「それがアレ?」
「うん……いや、ごめんなさい。正直、そこまで深く考えていませんでした」
 そう、結局……今話した事は嘘ではないが、言い訳だった。困っていたマーマレードに声をかけたのは、砂漠の花に一度だけ水をやるように、飢餓で苦しむ子供に一枚のチョコレートを差し出すように、根本的な解決に至らないその場しのぎの偽善である。

 ただあの疲れ切った横顔を見ていて、そうすべきだと思った。体が勝手に動いてしまったのだ。彼女の様子には積もり積もって、今にも崩れ落ちてしまいそうな危うさがあった。……やはり潜在的な蓄積があるのかもしれない。よく見れば、祭りで騒ぐ人々の顔も皆どこか疲れを感じさせた。思い込みだろうか?

「そっちは、最近どう? 何か変化なかった?」
 気まずさを誤魔化す為にそう尋ねると、ピーターは「突然、働かされた」とぶっきらぼうに答える。は「それはそれは」と苦笑した。

「付き合わせてごめんね。……あーあ。明日にはあの店、またテンテコマイなんだろうな。お客さんも食材もお金も元通りに戻って……あっ、そういえば不思議なことに、ホテルの鍵は無くならないんだよね。契約も毎回ちゃんとされているし。あれってどうやったの?」
 ループの中においては、出会った人には忘れられ、買った物は消えてしまう。だがピーターから受け取った物は別だった。

「簡単なことだよ。“昨日から”予約しただけ。過去に泊っていたことにしたいなんて、妙な顔はされたけど、その様子じゃ上手くいったみたいだね」
「じゃあ渡してくれたお金は? あれも消えてないよ」
「……最初の16月7日を構成するもの以外には、ループの力が及ばないのかもしれない」
「構成するもの? その日にこの街に居た人とか、物とかってこと?」
 いまいちよく分からないが、部外者である自分達や自分達の持ち込んだものは例外ということなのだろうか?

「でも、時間って今ここに流れているものの事でしょ? 全ての物に等しく影響がありそうだけど」
「君は、時間を何だと思ってるの?」
「えっと、改めて言われると……こう、空気みたいな」
 分かった気でいて疑問さえ抱かなかったものを、いざ説明するとなると難しい。何もない宙をまるっと撫でるに、ピーターの反応は虚しい程、無である。

「時間は物で、人で、街だよ。物が壊れる、水が乾く、人が老いる。物質や人の変化を認識すると、対象の時間が進む。変化が認識されない限り時間は進まない。この街は16月7日から変化を認識していないから、時間が進まないんだと思う」
 ピーターの難解な言葉はの頭をすり抜け、ろくに残らなかった。反応の薄い彼女に何の手応えも感じなかったのか、ピーターが面倒そうに眉を寄せる。

「16月7日にとって変化でしかない僕らは、きっと対象外なんだってこと」
「なんの、対象外?」
「ループの。現に僕たちは繰り返していない」
「繰り返していない? 繰り返してるじゃない」
「繰り返しているのは周りの環境だけでしょ。僕たちは変化してる。君は、昨日も一昨日も別物として認識してるだろ」
 ピーターの口調が投げやりになってきたのを感じて、は少しは分かったフリをすべきかと思った。そう努めようとすると、実際にいくらか分かった気になる。

「街全体が変化を認識していないから、同じ一日のままなんだね。じゃあ皆に大きな変化を感じさせたらループが終わるってこと?」
「いや。何者かがこの街の認識を遮っている限りは、無駄だと思うよ」
「認識を遮る? そんなことが出来るものなの?」
「僕たちには、普通は出来ない」
「誰なら、どんな特別な存在なら出来るの?」
「……時間を操ることが出来るのは“時間そのもの”だけだよ」

「時間そのもの? あ、もしかしてそれって……“時間くん”?」
 はその存在を思い出した。そう、確か、この世界の時間には人格があるらしいのだ。以前お茶会の時に黄櫨が、常盤は時間くんに嫌われて時間を止められている、と言っていたのを思い出す。が時間くんの名前を口にすると、ピーターは僅かに目を見開いた。(ビンゴ、だろうか?)

「時間くんってどういう存在なの?」
 しかしそう聞くと、ピーターは口を閉ざして顔を顰める。まるでうっかり余計なことまで話してしまった、という反応である。

「ねえ、そんな苦虫みたいな顔してないで教えてよ」
「苦虫を噛み潰した、でしょ。苦虫みたいな顔ってどんな顔なの」
 鋭い突っ込みに思わずが笑うと、ピーターは何とも言えない微妙な顔をした。

「君、なんか馴れ馴れしくない? 態度も言葉遣いも」
「だって、慣れちゃったんだもん」
 そういえば、いつから彼に敬語を使うのを止めていたのだろう? ジャックの屋敷に居た頃は、もっと丁寧に話しかけていた気がする。本当に、いつの間に、こうなっていたのだろう。

「敬語で話した方がいいですか?」
「別に、どうでも」
 どっちでも好きな方を、という優しい言葉ではない。どっちでも関係ない、どうでもいいという突き放した言い方だが、はそれも特に気にならなかった。本当に慣れてきたみたいだ。「ところで時間くんって、」と話を戻そうとするを、ピーターがぴしゃりと遮る。

「時間くんについて、僕から話すことはないよ。勉強したいなら、図書館にでも行けば良い。この街にもあるでしょ」
「えー……」
 今、ピーターからそれ以上話を引き出せる気はしなかった。それでも彼にしては充分すぎるくらい話してくれたのだから、一旦は良しとすべきかもしれない。とりあえず時間くんという存在にヒントがありそうである。は明日にでも図書館に行ってみようと思った。


 それからの道は一つの会話も無かったが、互いにやけにのんびりと歩いていた。空を見上げると青黒い夜空が広がっている。はもう暫く見ていない真昼の青空が恋しくなった。昼か夜、どちらかしか訪れないのだとしたら、自分はどちらを選ぶだろう。爽やかで明るい昼の空。静けさと星の煌きをもたらす夜の空。恐らく、どちらかを選ぶことなど出来ない。

(……ん? 夜?)
 はしまった! と思った。もういつもなら橙と一緒に、街に向かっている頃だ。いや、祭りを楽しみ始めた頃かもしれない。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。まずい!

「大変、遅刻だ、行かなくちゃ!」
 突然慌て始めたに、ピーターが「は?」と足を止めて、シンプルな驚きを浮かべる。「何?」と訊く彼に、普通は“どこへ?”と訊くものなのではないだろうかとは思ったが、一文字分短い方を取ったのだろう。彼らしい。

「橙との待ち合わせに、遅れちゃう!」
 そう言い終えるか否か、は既に走り出していた。

 ピーターは呆気に取られてその背を見送る。待ち合わせという言葉が指す意味は、何だっただろう?
 彼女が居なくなるのを見計らって『話しすぎだよ』と誰かが釘を刺した。ピーターはその声を無視して、空になった自分の隣を見る。そこにはまだ彼女の体温が残っているようだった。 inserted by FC2 system