Act16.「橙とオレンジ(前)」



あやふやだった意識が、橙という他人を認識することで少しだけ定まる。はかろうじて、で居続けることが出来た。

「昼食はね、パンを焼きなさい!たくさんよ!分かったかしら!?」
若草色のドレスに身を包んだ橙が、後ろに控える数人のメイドたちに強い口調で命令する。けれどその表情は誰をも不快にさせない、親しみやすいものだった。メイドたちは橙の楽しそうな様子につられてクスクス笑っている。メイドの一人が一歩前に出て、丁寧過ぎるお辞儀をした。メイドの年の頃は、と変わらないくらいだろう。銀髪の髪を三つ編みにし、カチューシャのようにした少女だった。彼女はまるでダンスにでも誘うかのように、軽やかに橙の傍まで寄る。頭の後ろで結ばれた夕焼け色の大きなリボンが、彼女の動きに合わせてふわふわと揺れた。橙と彼女は髪の色も顔立ちも全く違うというのに、二人が並ぶとどこか姉妹のようだった。

―――何故かの姿はその場所の誰にも見えていないようで、誰とも目が合わない。自身、自分に目に見えるような体がある感覚は無かった。意識だけが漂っているような、安定感の無さ。しかし、不思議と不安は無かった。

「かしこまりました奥様。では、どのようなパンを焼きましょうか?先日頂いたアプリコットのジャムをたっぷり詰め込んだジャムパン?奥様のお好きな胡桃とチョコレートのブリオッシュ?バターロールにクリームチーズをのっけて召し上がられるのもお好きでしょう?ブルーベリーをたっぷり練りこんだブレッドもお勧めいたしますわ」
「そんなの決まってるわ。勿論……」
「はい。かしこまりました。“全部”でございますね?」
彼女は橙の考えを熟知しているようだった。橙が満足そうにそのメイドの手を取って、適当なステップを踏み始める。

「流石だわ。けど、忘れないでよね。デザートにはオレンジのタルトよ」
「はい。勿論でございますよ」
周りのメイドたちが楽器の代わりに手拍子を打って、橙と彼女の舞踏会を盛り上げる。天蓋付きのベッドやドレッサーが置いてあるこの部屋が、いきなり宮殿の大広間になったかのようだった。

「あなた、オレンジタルトだけは誰にも負けない美味しいのを焼くんだから。期待してるわよ、オレンジ」
「はい。この名にかけて。この夕空に誓って。あなた様の名に誓って!」
銀髪のメイドは芝居がかった口調で言う。どうやら彼女の名は“オレンジ”というらしい。変わった名前だな、という呑気な感想を抱けるほどには、は落ち着いていた。しかし一番気になるのは、橙が“奥様”と呼ばれていることだ。もしかしてここは未来の世界なのだろうか……?突拍子もない発想だが、もうこの際なんでもアリな気がする。彼女の外見が全く歳をとっていないという点は、この間得たこの世界での時間について、で説明できた。世界の時間と観測者の時間は異なるのだから。

「さあ、ちゃっちゃっと支度してちょうだい。そしたら―――どうせだもの、皆で楽しく頂きましょう!」
ダンスを終えた橙がパン、と手を打ち鳴らして言った。彼女のその提案にメイドたちがわっと喜びの声を上げる。は、もし仕えるにしても橙のような主人ならば毎日の仕事が楽しいだろうと、目を細めた。
(突然ダンスし始めたり、ミュージカルのようなテンションには付いて行くのが大変そうだけど……それもまた、楽しそう)

その時メイドの一人が「あ!」と思い出したかのような声をあげた。

「奥様、旦那様はお呼びしますか?」
旦那様、と言われて真っ先に思い浮かんだのがユリウスの顔であったことに、は自身で驚いていた。いやいやいや、それは非常にまずいだろう。
橙はちょっと眉根を寄せて唸ってから、笑い飛ばすように言った。

「いいわよいいわよ。折角女だけで楽しもうってのに、あんなむさい男が居たら邪魔でしょう?無粋ってもんだわ」
メイドたちは立場上堂々とは笑えずに、肩を小刻みに揺らす。

「さあ、パンを焼いてちょうだい!」
橙がそう言うと、メイドたちは一列になってお辞儀をし、キッチンへと駆けて行く。それから暫くも経たない内に甘い小麦の香りが漂ってくると、鼻腔を擽られた橙が匂いを辿るようにしてキッチンに顔を覗かせた。

“パン パン 美味しいパンを焼きましょう〜♪ パン パン パン!と手を叩く〜♪ おいしいパンが焼きあがる〜♪ 食べられないパンはフライパン〜♪”

キッチンではメイドたちがへんてこな歌を歌いながら、一人は粉をまぶし、一人は生地を練り、一人は竈でパンを焼いていた。は自分の意識も橙と共にキッチンへ移動してきていることに気付く。(……これじゃあまるで、憑依霊みたいじゃないか。監視カメラとかあったら、映ってるんじゃないの?)

やがて支度が終わると、ガーベラの花が綺麗に咲き誇るテラスで、昼食会が始まった。真っ白な長方形のテーブルの上には、大きな木の籠。その上にはたくさんのパンがピラミッドのように積まれ、傍らには色取り取りの宝石のようなジャムのビンが並んでいる。まるでパンパーティーである。食事の時間は、楽しげに、賑やかに過ぎていった。

「―――オレンジ、見てよ、小鳥がやってきたわ!参加したいのかしら!」
「ふふ。奥様の声に驚いて、逃げてしまいましたよ」
「もう、失礼しちゃうわね」
橙とオレンジは顔を合わせて笑い出す。橙は他のメイドたちに対しても親しげに接していたが、彼女に対しては特別に心を許しているようだった。はそんな二人の姿に、自分と自分の親友を重ね合わせて、懐かしく、恋しくなる。
……公爵の娘とメイドの、身分違いの友情か。微笑ましいじゃないか。

が心穏やかにその光景を見ていると、突然視界かぶれ始める。まるで古いビデオテープを再生しているようだ。ががっ、と画面は砂嵐になる。彼女らが見えなくなる。まるで始めのノイズが目にも見えるようになったみたいだ。



「―――あいつ、嫌いなのよ」

(……!?)

何事も無かったかのように突然映し出されたのは、オレンジが数人のメイドと薄暗い一室で話している場面だった。一瞬別の人かと疑ったが、彼女のように美しい銀髪の少女は滅多に居るものではない。疑念を抱かずに居られなかったのは、その表情。先程とは打って変わって、穏やかさの欠片も無い。今の、低くゾッとするような冷たい声も、どうやら彼女のものだったようだ。

「確かに煩わしい小娘よね。公爵夫人だかなんだか知らないけど、称号に見合った知性も品性も無いじゃない!この間、お客様をおもてなしした時の話は聞いたかしら?」
「いいえ?何々?今度は何をやらかしたの、あの子!」
「なんと、フィンガーボールの水をごくごく飲んじゃったのよ!」
あははは!と、不快な笑いが起こる。他人を馬鹿にして貶める、性質の悪い笑いだ。

「あ、あとさっきもまたよく分からない機械を作って、油で手を真っ黒に汚してたんだから!」
「汚いわね〜。あんなのが公爵夫人だったら私なんて女王様よ!」

……彼女らの会話に上がっているのは、間違いなく橙だろう。メイドたちの顔をよく見れば、どれもこれも先刻の昼食会に居た顔ぶれだ。は先程とは違う意味で目を細める。
(―――これだから女ってのは!)
少しでも自分と親友をその姿に重ねてしまったのが悔やまれてならなかった。

「ユリウス様もどうしてあんな子が良かったのかしら。あんな田舎娘のどこが」
「何も称号に合わせて結婚することなんてなかったのにね」

(……ん?)
ユリウスが、結婚?橙と?今まで二人が親子であると信じて疑わなかったは「なんでだよ!」と突っ込みを入れたが、冷静に考えれば、違う。だって彼女らは、公爵夫人が橙だと言っているのだ。じゃあ……彼らの血は繋がっていないのか。そのことに少し安心するも、すぐにあの二人が夫婦であるという事と、橙が公爵夫人であるという事に対する驚きが頭を占める。

「どうせあの女が汚い手を使ったに決まってる!」
オレンジが壁を殴った。彼女のただならぬ様子に、周囲の空気がピシ、と固まる。ユリウスの名を出したメイドに、他のメイドがこそっと耳打ちをした。「オレンジの前ではユリウス様とあの子のことは禁句よ」。その良く通る無意味な内緒話に、オレンジが「黙りなさいよ!」と怒声を上げる。

「その名前で呼ばないで!オレンジなんて、あいつとお揃いのこんな名前、大嫌いなんだから!」
その剣幕に引き気味のメイド達は、それぞれに用事を思い出したという言い訳をして、そそくさと去っていった。一人残されたオレンジはもう一度壁を殴る。綺麗な銀色の髪は、少し乱れていた。

「なんで、ユリウス様はあんなやつを!私なんて、あいつが現れるずっと前から……ずっと、前から……」

は、橙を擁護する気持ちで抱いていた彼女への敵対心が、一気に萎んでいくのを感じた。ああ、そうか。彼女はユリウスに恋情を抱いているのか。と、それに気付いてしまった途端、彼女の方がよほど可哀想な人のように思えてしまったのだ。一方的に観ているだけの人に同情するなんて失礼極まりないが、はその痛切な表情に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


また、景色が変わる。切ない悲しみの余韻を残して現れたのは、二度目の橙の寝室だった。
inserted by FC2 system