Act16.「カフェテラス」



 目覚めると、見慣れたホテルの天井が見下ろしている。がこのセブンス領に来てから、早いもので五日目の夕方である。

 一日目は橙とアドルフと出会い、ここで起きているループ問題を知った。二日目はキルクルスの街を探索し、橙と前夜祭を楽しんだ。三日目は花屋の青年ユリリオに街を案内してもらい、夜にまた橙と祭りへ。……この日は別行動をしているピーターにも会った。彼の疲れた様子が少し気掛かりだったが、とりあえずは無事なことに安心した。

 昨日、四日目こそあの時計塔の近くまで行ってみようと、起きてすぐに林を進んでみたが、橙が言っていた“立ち入り禁止”は厳重なもので、番犬に追い払われてしまった。番犬といっても犬ではなく、監視カメラのついた四足歩行のロボットで、教国のロボット兵を彷彿とさせる不気味なものである。あれは一体誰が配置したのだろう?

 時計塔に行くという目的を果たせなかったは、何となしにいつも橙と会う場所にも行ってみたが、早い時間だとまだそこに彼女の姿はない。家で過ごしているのか、何をしているのかまでは確認することが出来なかった。

 すっかりやるべきことを失ってしまったは街に戻り、三日目と同じくユリリオの街案内を受けることにした。時計塔の詳しい話や、昨日聞けなかったことを聞いてみようと思ったのだ。彼が適役かどうかは分からないが、柔和な人柄で接しやすく、自分に好意的であるという点ではこの上ない。
 はユリリオとの会話を思い出す。

『時計塔が立ち入り禁止になってる理由って、何なんですか?』
『さあ……詳しくは知らないけど、内部はとても複雑で繊細な構造らしいから、壊されたくないんじゃないかな。時計塔は、侯爵夫人が心血を込めて作られた最高傑作だからね』
『え?時計塔は侯爵夫人が?』
『そう!侯爵夫人は素晴らしい技術者だから、きっとあれも普通の時計塔じゃないんだろうな。あの方の作るものはどれも魔法の道具みたいなんだよ。図書館にある“求めている情報を探してくれる検索機”もその一つで、本当に便利なんだ。情報量の調整はしてくれないけどね』
 ユリリオは鞄にぎゅうぎゅうに詰められた本に困った視線をやる。本を返しに行く彼に付いていった図書館で、人々が操作していたパネル型の機械がその検索機とやらだったのだろう。

『へえ!すごい人なんですね。侯爵夫人の時計塔ということは、周りに居た番犬ロボットも侯爵夫人のものなのかな……』
『番犬?……ちゃん、もしかしなくても、時計塔に近付いたんだね』
『え、あ、はは』 
 ユリリオは非難半分、羨望半分に『まあ気持ちは分かるよ。気になるよね』と頷いた。

『番犬ロボット、かあ。確かに侯爵様の工場では、警備ロボットや作業用ロボットも作っているみたいだよ。でも犬型なのはおかしいなあ。侯爵夫人は大の犬嫌いで有名で、侯爵様は“放し飼い禁止令”とか”野犬駆除”とか、徹底して犬を避けていたと思うんだけど』

『……へえ。侯爵夫人、愛されているんですね』
『そうだね』と、何故か照れてはにかむユリリオ。
 彼とは他にも色々な話をしたが、その中に特に何か重要だと感じるポイントはなかった。


 ユリリオと別れて、夜。四日目もは橙と出会い、二人で前夜祭に行った。彼女と会わない場合の展開を見てみようかとも思ったが――どうしても気になって会いに行ってしまった。

 橙との祭りは三回目だったが、一回として同じ夜はなく、毎回が新鮮で楽しい。寧ろ回を増すごとに楽しくなっている。それは、が橙への友情を一方的に育んでいるからだ。の中に積み重なっていく橙との思い出。それが素晴らしいものであればあるほど、勿体ないと感じた。どんなに素敵な夜も午前0時になれば、橙の中では無かったことになってしまうのだから。

(こんなの嫌だ。いつまでも続けていられない)
 最初はゲームのように、街を探索するだけで何かアイテムやヒントが見つかるものだと、どこかで漠然と思っていた。だが現実は違った。何も進展がない。無駄にターンを浪費している。時間は減らずとも、自分自身が削れていく感覚があった。

 だからもう、勝負に出てみるしかない。


 ――そして迎えた五日目。は今夜橙に会ったら、自分の知っていることを彼女に話してしまおう思った。の予想では、このループには橙が深く関わっている。それは彼女の記憶喪失という状況が怪しいだけでなく、共に過ごしていく内に気付いた彼女の発するオーラにあった。
 祭りの人混みの中でも埋もれない輝き。他と比べ圧倒的な存在感。もしかすると、彼女は何らかのアリスネームを持つ“キャラクター”なのではないだろうか。もしそうなら、橙はきっとこの物語において重要な存在に違いない。

 橙に話すことで、彼女がどのような反応をするのか。それで何かが変わるのかは分からない。ただ、しない後悔よりもした後悔の方が意義があるだろう。

 は勢い良くベッドから起き上がり、いつもより念入りに身支度を整えると、自分以外誰も居ないその空間に「行ってきます」と明るく言って部屋を出た。独り言の趣味がある訳ではない。繰り返しの一日に逆らいたくて、少しでも変わったことをしてみただけだ。そうだ、スキップで街まで行こう。……いや、やっぱりやめた。

 キルクルスの街は、今日も今日とて祭りの準備で賑わっている。往来には見慣れた知らぬ顔ばかりだ。はまず、どこかで軽く食事を摂ろうと思った。すっかり気に入ったあのパン屋で今度はメロンパンを買ってみたかった。パンを食べながら、一日の過ごし方を考えよう。日暮れ前には橙に会いに行くとして、それまでの時間は街や林の探索に費やすか……それか図書館に……

 パン屋に近付いたの耳に、ガシャンと耳障りな音が響く。いつものことだ。知っていた筈なのにうっかり驚いてしまい、は悔しく思った。続いて男の怒号。振り返ると向かいのカフェテラスでは、客に怒鳴られているマーマレードの姿。その足元には割れた食器と可哀想な食べ物が散乱している。聞き取りにくい男の話を聞くに、料理の提供が遅かった上にどうやら注文と違っていたらしい。
 パン屋の女主人が様子を見に出てきて、気の毒そうな声を出す。

「ありゃあ……マーマレードちゃん、大変そうだねぇ。忙しい日だっていうのに、給仕のバイトさんが熱でお休みらしいのよ」
 女は前と同じ言葉を再生した。
 はマーマレードの、その同情を誘う後ろ姿を見つめる。腕を組みながら「いや、でも、ううん」と唸るに、女主人は不思議そうに首を傾げた。

 横暴な客が怒りに任せてマーマレードにコップの水を浴びせる。は「ああ」と息を吐くと、意を決したようにカフェテラスに向かって歩き出した。メロンパンはまた“明日”にしよう。



 *



「コーヒーとアイスティー、たまごサンドとカレーライス、お待たせいたしました!」
 テーブルの上に置かれたメモ用紙と照らし合わせながら、注文の品を並べていく。出来立ての料理に綻ぶ客の顔を見て安堵し、はメモ用紙を回収すると、今度は別のテーブルに注文を取りに行った。……結局、見ているだけというのには我慢がならなかったのである。
「もしよろしければお手伝いさせてください」と申し出た時のマーマレードの驚きに満ちた顔は、を爽快な気分にさせた。

 エプロンを借り、マーマレードから大まかに接客の説明を受けて分かったが、この店には説明が必要なだけのシステムが確立していなかった。客の来店から席への案内、注文の受付け、料理の配膳と会計。その一連の流れが定まっていない。聞けば食い逃げにも困っているという。こんな状態でよく今までやって来れたものだと思うが、普段はちらほら近所の人が訪れるくらいの静かな店らしい。祭りで観光客が増え、キャパシティオーバーになっているのだろう。

 はこんな状態に一人増えたところで、焼け石に水だと思った。そこで接客のパターンを作る。まずテーブルが空いたところに、新たな客を誘導。注文が決まったら呼んでもらい、承るとその場で会計をしてしまう。食い逃げ防止策だ。そして注文内容とテーブル番号を書いた紙を二枚用意し、一枚はテーブルに置いて、もう一枚は厨房のマーマレードに渡す。マーマレードは書かれた品物を用意し、完成したものをが番号のテーブルに運ぶ。メモに注文内容の証明があることで、店と客双方の認識に齟齬が発生することも防いだ。食事が終われば客はそのまま席を立ち、は空いた席を片付けて、待っている客を案内する。……仕組みができると、一気に店が店らしくなったと感じた。この方法だと追加の注文が受けにくいところが難点だが、効率重視で諦める。

 他人の店で勝手な真似をし過ぎているという自覚、後ろめたさはあるのだが、マーマレードがキラキラとした目で「接客は任せた!」と言うので、問題はないだろう。

「いらっしゃいませ、こちらの席へどうぞ!ご注文がお決まりでしたらお呼び下さい」
 ちょうど食事時だからか客足は増える一方だ。忙しくしているに気付く余裕はないが、店の回転が良くなったのを見て、今まで素通りしていた人々も客になっているのだった。

 は久しぶりの“労働”の感覚に高揚していた。元の世界でアルバイトをしている時は一定のやりがいはあるものの、それと同じくらい面倒に感じていたというのに。……暫く離れていたことで恋しくなったのかもしれない。そんな思いに浸っている暇もなく、また新たな客の気配。店内にまだ空きはない為、置いてあるリストに名前を書いて待っていて貰わなければならない。

「いらっしゃいませ!そちらのリストに……あ」
 は自分の顔が引き攣るのがよく分かった。店先ではピーターが腕組みをして、不可解なものを見る目をしている。睨んでいるという程攻撃的なものではないが、それでもは逃げ出したくなった。アリスの件もループの件もそっちのけで、祭りを楽しんだりカフェで働いたり……ふざけているのかと責められても仕方がない。

「お、お一人様ですか?」
「君……何してるの」
「ここのお店、人手不足らしくて。良かったら一緒に手伝っていく?」
 は彼が自分の軽口に呆れて、どこかへ行ってくれることを期待した。しかし思った以上に冷たい視線を返されて後悔する。そして彼の予想外の回答に、更に後悔することになるのだ。

「いいよ。でも条件がある」
(えっ、嘘でしょ……?)
 と、心の中で呟いた驚きは、どうやら声に出ていたらしい。「嘘じゃない」とピーターは言った。何か厄介な条件でも突き付けられるのかと思ったが、その条件はに対するものではなく店に対するものだった。『手伝う代わりに、営業終了後にキッチンを貸して欲しい』という謎の条件を、マーマレードは人を疑うことを知らない顔で受け入れ、ピーターは彼女の傍で調理を手伝い始める。突然やってきて料理なんて出来るのか、と疑わしく思うをよそに料理提供のスピードは段違いに早くなり、料理を取りに行く度、マーマレードの感嘆と賞賛の声が聞こえていた。

「……なにごと?」
 はまだ信じられないという顔で、出来立てほやほやの料理をトレーに乗せる。そうしている内に、また次の料理が出来上がった。

「ほら、ボサッとしてないで。早く運んで」
 やけにエプロン姿の似合うピーターが、ふてぶてしい顔で言う。は若干投げやりに「はいはーい」と返事をして、客席に向かった。自分が言い出した事ではあるのだが、後からやってきて偉そうにされるのはなんだか癪だった。悔しかった!

 店の中をがまわり、客がまわり、時計の針がまわる。注文の内容はがっつりボリュームのある食事から、次第に軽食へ。ランチタイムが終わると客足も落ち着き、テラスではお茶の時間を楽しむ人々が穏やかに過ごしていた。マーマレードの店はいつも日暮れ頃に閉店すると聞いていたが、今日は食材が残り少ないとのことで、もう店じまいをするらしく、今居る客が最後の客だった。

「ごちそうさま」
「またのお越しをお待ちしております!」
 満足気な客を丁寧に見送り、は店先に『CLOSE』のボードを掛ける。全て空席になったテラスを見て、達成感に包まれた。マーマレードが店の中から顔を覗かせ、を手招きする。

「お疲れ様!冷たい飲み物をどうぞ」
「有難うございます」
 は、彼女からよく冷えたグラスを受け取った。カランと氷が立てる音が何とも心地よい。グラスの中で透き通る茶色。香ばしい独特の香りは麦茶に似ているが、オレンジの輪切りとミントが浮いていて特別お洒落な飲み物に見えた。底にはジャムが沈殿している。橙の家でも甘い麦茶もどきを出されたが、この街では流行っているのかもしれない。

 ……口に含むと、まろやかなお茶の味に優しく癒された。甘酸っぱさがアクセントになっている。ジャムはマーマレードジャムで、ほろ苦い。橙の家で出された時は飲み慣れない味だとしか思わなかったが、これが本物なら、かなり好きな味だ。清涼感に疲れや火照りが一気に冷まされ、は思わず「はあ」と声を漏らした。

「美味しいです……」
「それは良かった。さあ、客席の片付けは私がやっておくから、ちゃんは休んでいて」
 マーマレードは沢山働いた後にも関わらず、いつもとは違う血色の良さで活き活きとしている。

「大丈夫です、片付けも手伝いますよ。……あれ?そういえばあの人は?」
「ああ。ピーターさんには約束通り、キッチンを貸しているところだよ。なんか料理がしたいらしくて。食材がろくに残っていないのが申し訳ないけど」
「さっきまで料理してたのに?」
「好きなように作るのとは違うんじゃない?」
 ピーターがそこまで料理好きだとは知らなかった。はとりあえず店内の掃除をしながら、彼が満足するのを待ってみようと思った。彼は自分に待っていて欲しくなどないだろうが、一人で立ち去るのは何となく違う気がする。

「マーマレードさん。今日は本当に、色々と勝手なことをしてしまって、ごめんなさい」
「とんでもない!二人のおかげで大助かりだったよ!アルバイトの子が突然熱で休んじゃって、なのに観光のお客さんがいっぱい来て……もう私、慌てちゃって」
「流石に、一人であれを全部対応するのは無理ですよね。席を減らすとかメニューを絞るとかしないと……あ、」
 また勝手な口出しをしてしまった、とは口を閉じる。だがマーマレードは気分を害した様子もなく、素直に「なるほど」と頷いていた。

ちゃんはしっかりしてるなあ。うちのお姉ちゃんみたいだ」
「お姉さん?」
「そうそう。私、すっごい要領悪いから、昔からしっかり者のお姉ちゃんとよく比べられてたんだよね」
「へえ、マーマレードさんにはお姉さんが居るんですね」
 それは本当に何気ない会話だった。は彼女の姉に大した興味はなく、それ以上深堀りする気もない。ただの相槌のつもりだった。しかしマーマレードはの言葉に目を丸くして、こてんと首を傾げる。

「ん?居ないよ。姉なんて」
「えっ?」
「あはは、やだなあ。今、私なんか変なこと言ってたよね。気にしないで」
 そう言って笑うマーマレードには、どこも怪しいところがない。何かを誤魔化しているようにも、無意味な冗談を言っているようにも見えない。それが不気味だった。

 はグラスの中身を飲み干すと、マーマレードと共に店内を掃除して回る。掃除中も彼女とはお喋りをしたが、もう妙な会話が繰り返されることは無かった。がそれを忘れかけ、店内の掃除も終わりかけの頃……キッチンから甘い香りが漂ってくる。それはお日様にバターを溶かして蜂蜜をかけたみたいな、なんともうっとりする匂いで、二人は掃除の手を止めて顔を見合わせると、そこに吸い寄せられていった。 inserted by FC2 system