Act15.「綻び」



突然訪れた夜は、に不安と焦燥を与えた。
風呂上りの髪をドライヤーで乾かしながら、は手の平サイズの銅鏡に映る自分を見ている。銅の鏡は鏡石よりも鮮明に姿を映してくれ、使い勝手が良く気に入っていた。この鏡は、どういう訳か“ガラスの鏡は危険”であるからと、ジャックから贈られたものだった。彼なりの詫びの気持ちも入っているに違いない。
の頭に、化け物と対峙するジャックと、心配そうな顔の常盤、突然居なくなった自分を探しているだろう黄櫨の姿が浮かぶ。彼らが今どうしているかとても心配だというのに、それでいて現状が何も出来ずどうにもならない絶望的な状況であるというのに、その鏡が映し出すのは不思議と活き活きとした自分の顔だ。今ここでそれを認めるのは不謹慎かもしれないが、それでもここには“しなければならない何か”とそれに立ち向かう“自分”が居る。だって、そうでしょう。今までの人生でこれほど何かを怖いと思った事はないし、何かに責任を持った事なんてなかった。けれど、今は違う。選べるだけの道はなく、不安と焦りでいっぱいだったが、後悔をする気はなかった。

髪が乾いた。隠されるように埋め込まれたコンセントからアダプタを引き抜いて、コードをまとめて束ねると、台所の横の小さな物置に戻す。1階には誰も居なかった。ユリウスはまた部屋に篭っているのだろうか。橙は自室で髪を乾かすと言っていた。ピーターはどうしたのだろう。そういえば彼は……屋根の上に居るのだっけ。なんでまたそんなところに、と思いつつもの足は自然と二階に、そして二階の廊下に一つだけある窓へと向いていた。窓を開ける。開けた窓から身を乗り出して、周囲の壁を辿って上を見る。ここからでは、屋根の上がどうなっているのかはさっぱり見えなかった。

(さて、行ってみますか)

運動神経に特別な自信は無かったが、高所恐怖症ではない。塀や屋根に足をかけて、なんとか屋根の上に顔を出す。と、先程から物音で気が付いていたのだろう。訝しむような顔のピーターがを待っていた。彼はこちらが何も言わずに手を貸してくれるほど優しくはないし、で人に素直に助けを求めるような性格じゃない。だから、最後の一踏ん張りも、自分の力でのぼり終える。

「何しにきたの」
「報告、かな」
多分、それが目的なのだろう。だが、それだけではない気がした。はタン、と屋根を踏む音を楽しむ。屋根の上には何故か湯気立つコーヒーカップ。その隣に、コーヒーを抽出するパーコレータ。その他には何も無い。彼がここでどのように過ごしているのかが、気になるところだ。ピーターは静かに、の次の言葉を待っている。

「時計のこと……橙に、訊いてみたんだけど」
報告するの表情と声色から、ピーターは早々に結果を悟ったようだった。その様子は“やはり”と言わんばかりで、責める色は一切ない。

「うん……駄目だった。何回訊いても、訊く前の時間に戻されちゃうの。それからは、ただ同じ瞬間を繰り返すだけでさ」
は屋根から転げ落ちないよう、気を付けながら緩やかな坂に腰掛ける。ピーターは彼女の報告内容には特に触れず、「飲む?」とパーコレータを指差した。が頷くと、彼はどこからともなく新しいコーヒーカップを取り出し、その手に持たせる。そして、熱いコーヒーを並々と注いだ。入れ過ぎ入れ過ぎ!とは慌てて制止し、零れないように慎重に、口元に寄せる。息を吹きかけて冷ましてから一口啜ると、香ばしい味が口いっぱいに広がった。ブラックだからすこし苦かったが、酸味はあまり無く飲みやすかった。

「ありがとう、美味しい。……わたしさ、毎晩橙がフラフラしてる……篝火の道の向こうに、行ってみようかなあって思ってるんだ。なんか危ない感じがしたんだけど、そこに行けばきっと何か分かる気がするんだよね」
ピーターは少し驚いたような様子で、「へえ」と言った。

は正直、あの篝火の先には行ってはいけないような気がしていた。橙の向こう側に蠢いていた黒い影は、ジャックやエースの手を煩わせていた化け物と同じなのだ。そこに待ち受けるのは紛れも無い“危険”だろう。嫌な予感しかしない。
しかし、嫌な予感がするという事はそれだけの何かがあるということで、それは例えば、ゲームのラスボス直前の予感のようなものではないか。ならば、その先にエンドがある。だから、しっかりと装備を整えて、望むべし!

「と、いうことで行こうか」
「ああ、行ってらっしゃい」
「………一緒に、さ」
ピーターは聞こえなかったふりでコーヒーを啜っている。も、コーヒーを啜った。湯気で熱くなった顔を冷まそうと夜空を仰ぐと、満天の星空に目が奪われる。宝石箱をひっくり返したみたい、なんて言ってみたいが、生憎こんなにたくさんの宝石が入った宝石箱などお目にかかった事が無い。こんなに綺麗な星空も、初めて見た。空気が澄んでいるからだろうか。屋根の上で、遮るものが無いからだろうか。今にも“降りだしそうな空模様”だと感じた。

「別に、いいけどね」
「うん。ありがとう」
メイシャの店の手伝いも、図書館の件もそうだったが、彼は意外と協力的だ。きっと彼自身の目的と合っていて、そのついでに付き合ってくれているのだろうが、それでも確かには彼を信頼しはじめていた。だから、今回だってきっと、一緒に来てくれると思っていた。
は空になったカップをピーターに返して、星空を背負うように立ち上がった。

「大丈夫!せめて足手纏いにはならないようにするから」
と、言った直後に足を滑らせて屋根から落ちそうになる。ピーターに腕を掴まれてなんとか体勢を立て直したは、恥ずかしそうに笑った。彼は、先行き不安そうに溜息を吐いた。



*



カツン、カツン。踵の高い橙の靴が、夜の街に足音を響かせる。その後ろを彼女に気付かれないように、とピーターが尾けていた。
「ぶっちゃけさ、傍から見たらわたし達二人何してるんだろうって感じだよね」
と、が小さな声で言ったが、彼は目だけで“静かにしろ”と返すだけだった。

橙が立ち止まる。また、あの悲しそうな瞳だ。まだ駄目、また駄目と繰り返して、泣きそうな顔をする。そして「もう一回」と呟いた後は、やはり何事も無かった顔で来た道を戻っていった。残されたとピーターは、ちらりと視線を合わせる。

「行こう」
橙の視線の先の道へ。黒い影の向かう先へ。のその言葉にピーターは小さく頷き、一歩前に出ると、の知らない道へ彼女を導いた。

ピーターの先導で、二人は黒い影たちと鉢合わせにならないように他の道を行っていたが、こちらが近道だったのか、辿り着いたのは誰も居ない静かな城だった。は月に蒼く照らし出されたその建物を見上げる。テーマパークにでもありそうな、大きなお城だ。ジャックといいユリウスさんといい、なんてところに住んでやがるんだ。

「ここを、橙は見てたの?」
「公爵と公爵夫人の城だよ。早く、入ろう」
「……ユリウスさんと、橙のお母さんの?」
は口にしてからハッとした。夫人はお目にかかった事が無かったが、少なくともご存命のように窺える。だとしたら、親子内での三角関係が生まれる事になるんじゃないだろうか。うわあ、ドラマみたい。
でも、だとしたら、まだ夫人に会う覚悟が出来ていなかった。会ってしまったら別世界のドラマのような関係図が余計に生々しく、現実的になってしまうようで、そう思うと気が引ける。だがピーターが無遠慮に重そうな門を開いてズカズカと進んでしまうので、には付いて行くより他無かった。けれどやはり何らかの心構えをしておくべきだったのだ。それをしたところで何が変わるという訳でもないが、少なくとももう少し平静でいられたかもしれない。「忘れてたけど」というピーターの忠告らしき言葉は、少し遅かった。


一歩、敷地内に足を踏み入れた瞬間だった。の意識はバラバラとビーズの糸を解いたように散らばってしまう。散らばったというのは文字通りの意味で、は個としての自分の存在を忘れてしまいそうになる。

泣きだしたい。
怒りだしたい。
笑いだしたい。
……叫びたい!
こんな感覚は初めてだった。そもそも、それをどこで感じているのかさえ掴めない。突然、意味の無い夢の中へ放り出されたようだった。さっきまで目の前にいたピーターの姿も、見えない。


「……よ……ね」



暗いのか明るいのか分からないその空間に、誰かの声が響いた。しかし不快なノイズが混じり、何と言っているのか聞き取れない。そもそもそれは、空気を震わせて耳に入ってくる音だったろうか。それすら定かではない。

「……い……わよ!」

なんだか、聞いたことのあるような声だ。それもつい最近。さっきまで。この声は……、

「ほんっとうにいいお天気だわ!こんな日はテラスで昼食にしましょうよ!ええ、決定!」



………橙?
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