Act14.「彼女の機能不全」



この禁じられた図書室は本当に静かだ。外界と切り離されてしまったかのような錯覚に陥る。ああ、それはあながち間違いとは言えない。この街は、確かに他との繋がりを断たれた孤独な異空間なのだから。けれど孤独は嫌いじゃない。孤独は時たま、わたしにその存在を崇高なものであるかのように思わせた。そこは他の存在に穢されることのない、わたしだけの清浄の地……なんてことを語りたい訳ではない。要はただ、静かである、ということなのだ。

さて、“時間くん”について知った気になったところで、例の橙の設計図に酷似した書面について話を戻そう。はピーターの手元の羊皮紙をそっと隣から覗き込んだ。あれ、なんか良い匂いがする。彼は香水を付けていたりするのだろうか。わたしって何の匂いがするんだろう。辛うじて石鹸だろうか。は小さく溜息を吐いた。

「ああ……橙の持ってた設計図って、こんなに、その……複雑なものだったっけ?」
「多分、あれはこれの一部分だけを拡大して、詳細化したものだと思うんだ」
ピーターが図の一部分を指でなぞって囲む。心なしか彼の口調が優しいような気がした。この距離で冷たくされても困るけれど。

「これって、本当に地図みたいだね。“時計塔”っていうくらいだから人が入れるんだろうし」
はぼんやり感想を述べる。それは本当に、地図のようなのだ。いくつもの四角い部屋があり、複雑に入り組んだ道があり、……これは階段だろうか……そしてそれらの中心に、一際大きな部屋がある。その部屋を突き抜けるようにあるのは大きな―――丸?……歯車?

(驚いた。これは時計“塔”というよりも、大きな時計そのものだ)
大きな時計。どこか既視感を覚えるのは、気の所為ではない。は遠いような少し前の様な過去に、思いを馳せる。

まだ、わたしが小学生の頃のことだ。夏休みになるとよく、田舎に住む紫の祖母の家へ彼女と共に遊びに行った。両親のことは少しも話したがらない紫だが、その人に関しては嬉しそうに色々と話して聞かせてくれた。もその人の事が好きだった。いつも穏やかで優しくて、気品のある人だった。
けれどは、その人の家にあった大きなガラスの柱時計が一等好きだった。中が透けていて、廻る歯車がとてもよく見えた。紫の祖母が畑に出かけ、紫が畳の上で昼寝をし、家中が静寂に包まれたとき、その歯車をたった一人で眺めているのが好きだった。涼やかな時間の流れるあの場所が好きだった。昔の事で記憶はぼんやり輪郭程度しか保たれてはいないが、それでも、この書面に書かれているものは時計の中身なのだという確信は持てる。記憶の中の者と比較するには、ここに描かれたものはあまりに規模が大きく、複雑ではあったが。

『これは何の図なの?』
橙にそれを訊いた事がないわけではない。それも一回ではない。しかし彼女の答えは毎回ぶれる事はなかった。

『ほんとね、アタシ、何を書いたのかしら』

その設計図は、彼女が書いたものだという。頭の中に浮かんだものをそのまま図面に起こしたのだろう、と他人事のように話していた彼女だったが、それにしてはあの図は綿密すぎないか。一体彼女の頭の中には何があるというんだ。……ああ、そうか。

「橙は、無意識に頭の中にあるものを図に起こしたんだって言ってた。橙の頭の中に、―――時計があるのね」
言い終えてから、はハッとした。自分が何を思ってそれを言葉にしたのか、分からなかったからだ。頭の中に時計があるだなんて、意味が分からない。言葉通りの意味だとして現実的に考えればそれは非常に、……ああ、痛そうだ。ピーターが変なものを見るような目でを見る。

「君がこの世界のことをどこまで理解しているのか、僕にはさっぱり分からない。君は自分の思考回路を分かり易く表にまとめるべきだ。そしてそれを、配って歩けば良いと思う」
「欲しいの?」
別に。と、彼からの返事は早かった。結局わたしは何も理解できていないということか、とは落胆し、これからどうしたものかと首を回す。

「彼女に時計のこと、訊いてみなよ。君の存在は少なくとも彼女の中では特別なものなんだから」
「え?な、何をどうやって訊くの?」
「何って……君が今、言ったんじゃないか。頭の中に時計があるって。どうやって彼女が時間くんからその権利を得たのかは分からないけど、それを無視するなら、そういうことになるんだろうね」
は何と言って良いのか分からず、どこか遠い目で、静かに燃える電気の炎の先あたりに目をやった。頭の中に時計がある、というのは彼曰く、が理解している部分の方だったらしい。うわあ。この世界の基準表が欲しい。

「分かった。訊いてみる」
と、言ってしまったものの、自信の程はなかった。きっとユリウスはもう、が橙に関わる事を良しとはしないだろう。(ぶっちゃけ、あの威圧感は胃にくるんだよなあ)

「よし!わたしが橙担当、あなたはユリウスさん担当ね」
の言葉に、ピーターは包み隠さず嫌そうな顔をした。それどころか、言葉に出して表明していた。が、それ以上拒む事はなかったから、恐らく大丈夫だろう。
しかしその日彼らの家に戻ってからもそれという機会を得る事はできず、結局橙への問いかけは持ち越された。チャンスはいくらでもあった筈なのに、おかしいとは思ったのだが、―――まさか事態が“そこまで”理解の範囲を超えたものだとは思っていなかったのだ。



*



22,221回目の朝、朝食を終えたは日課になりつつある散歩に行くべきか、橙と二人きりになるチャンスを窺うべきか、悩んでいた。けれどユリウスはを警戒しているのか、自室に篭ることなくリビングの椅子にどしんと構えている。少し離れた場所には何を考えているのか分からないピーターが居るが、きっとが強引な手で橙に迫ればその協力ぐらいはしてくれるだろう。だがは、あくまで事を穏便に運びたかった。
ただ質問するだけなのだから、チャンスならきっといくらでもある。まずは相手を油断させなくては。と、都合の良い理由を付けて自らの日課を優先させる事に決めたは、そそくさと玄関の扉を開けた。そして、愕然とした。

(なんで、なんで)

扉の向こう側は、夜だった。
今、空は橙色に染まったばかりで、朝食だって食べたばかりだというのに!さっきまで居たリビングの窓からは、あんなにも赤い夕陽が差し込んでいたというのに!まだまだ夕方が続く筈なのに!なのに何故、外はこんなにも暗いのだろうか?
起きてはならない現象に、は気味が悪くなってその場から動けなくなった。想像もした事が無い、ありえない話だ。それは世界そのものが悪意を持ってを騙そうとしているようで、妖怪、物の怪の類よりもずっと、恐ろしくて計り知れない。せめてその恐ろしい光景を見なくて済むように、とにかく扉を閉めたかった。だが指先ひとつ、動かすことがままならない。……何か、この金縛りを解くきっかけが欲しい。
ふと、視界の端に地味な花が一輪だけ挿された花瓶が映る。少しでも動くことが許されたなら、あの花瓶を持って、水を被ろうじゃないか。そしてその冷たさに驚いて、恐怖を忘れるんだ。

ガシャン!

突然手だけが勢いよく動いて、花瓶を棚の上から払い落とす。もう自分の体さえままならないようだ。大きな音に、張りつめていた糸が切れる。止まっていた時間が再び流れ出す。割れた花瓶から飛び散った水は、驚くほどに床を跳ね、の期待に応えるようにその身を濡らした。はその冷たさに、安堵する。少し後退すると靴の下で欠片が砕ける音と感覚。初めて室内で靴を履く文化に感謝した。
やがて意識が外に向けられると、は橙が慌てて駆け寄ってくるのに気が付けた。

!大丈夫!?」
「あ……ごめん。花瓶、割っちゃったんだ。ごめん」
いいわよ別に、とか、そんなことより怪我はないか、とか。心配してくれる優しい言葉が聞こえたような気がしたが、はそれどころではなかった。橙の後ろに目をやれば、彼女と同じように音で駆けつけたピーターが外の暗闇に目を見開いている。その後ろに立ち尽くすユリウスも、微動だにしなかった。

ただ変わりないのは、一人の少女だけ。

「ああ、もう……こんなに濡れちゃって。今お風呂の用意するから。一緒に入りましょ」
ああ、うん……と、ろくに働いていない頭で空ろな返事をした後で、はようやく彼女の言葉に動揺した

「い、一緒に入るの!?」
「何、恥ずかしがってるのよ。女同士なんだから別にいいじゃない」
「い、良いけど…でも」
「いいならいいじゃない」
「そ、そうだけど…でも」と、は口籠る。裸の付き合いはまだ早い気がするが、しかしこれは―――二度とないチャンスだ。は薄っすら染まった頬を両手で軽く叩いて、背筋を伸ばした。

「心の準備は出来ています」
「そんなのいらないわよ!」
ああ、橙の唐突な提案の威力で、恐ろしさなんて微塵も残らないほど吹っ飛んでしまった。
橙は風呂の準備をする為に家の奥へと入っていって、その場から居なくなる。は彼女から借りた箒で割れた花瓶の破片を片付けながら、残った二人に乾いた笑いを洩らした。

「これって、どういうことなんだろうね」
「……時間軸が乱れて、間隔を飛び越えたんだと思う。よく考えれば、僕は昨晩も“無かった”ような気がするんだ。もう、この時空間は長く持たないんじゃない?」
確かにも、昨晩は存在そのものが無かったような気がしていた。「そうかも」と同意するの手から、ピーターが箒と塵取りを奪い取る。

「ほら、いつまでそんな格好でいる気?風邪ひくよ」
「あ、有難う」
確かに、水で濡れた所為か少し寒い。片付けを代わってくれるらしい彼に礼を言ったは、自身を抱いてぶるりと震える。そして、少し離れたところで立ち尽くしている大男に目をやった。
ユリウスの口は、体の大きさに似合わず小さく震えている。しかし、いくら待ってみても彼の口から言葉が出てくる事はなかった。恐らくと橙が二人になることを避けたいのだろう。が、こればっかりは彼にはどうにもできない。まさか一緒に来る事などできる筈もないのだから。
自分が彼よりも優位に立っていることに気が付いて、はすれ違いざま、意地の悪い笑みをニヤリと浮かべた。そしてまた、調子に乗った余計なことを言う。

「聞きました?もう、長く持たないんですって」
彼の肩が跳ねた様な気がした。しかし何を言ってくることも、してくることも無かった。もう、今のままの生活を続けることが不可能だと悟ったのだろう。何もしないでいることは即ち破滅を意味するのだと。そう。この街も、この国も、皆同じ。何もしなければ、全てが終わってしまう。

“お前の所為だ”
彼から大分離れた頃、背中にそんな言葉が刺さったような気がした。ただの責任転嫁だろう。蚊に刺されたような、痛みだった。




白い湯気が二人の肌を隠す。チャプンと湯面が波立つ音がした。何度も使わせてもらってはいるが、やはりはこの風呂には慣れることができない。浴槽が裏庭、つまり外にあるのだ。いくらか壁や立て簾に囲まれているといっても、開放的過ぎる。まあ、天上に広がる星空は絶景だが。

「突然一緒に入ろうなんて、どうしたの?」
「別にいいじゃない。そんなことどうだって」
どうだっていいことだろうか。二人が浸かるにはギリギリの小さな浴槽の中で、一糸纏わぬ姿で向き合うことが、果たしてどうだっていいことだろうか。は気恥ずかしくなって湯に浮かべられた松の葉をさりげなく自分の方へと寄せた。松葉浴は、神経痛やリウマチ、腰痛、五十肩に効果があるらしい。

「ねえ、橙」
呼べば、彼女は何よ、とわたしの目を見る。その表情が少しきついのは、やはり橙も少しは恥ずかしいのではないだろうか。

「あの……ユリウスさんのこと、好き?」
口をついて出た問い掛けは、本当に訊きたいこととは違っていた。出来るだけ早く本題に入りたかったが、どう切り出すべきか何も考えてはいなかったのだ。だから、気付けばこんなにも素朴な問いが口から生れ落ちてしまっていた。親子なのだから好きも嫌いも今更無いだろうにとが橙を見やれば、予想外、彼女の顔は夜にも関わらず夕陽色に染まっていた。

「べ、別にそんなんじゃないわよ!なんでアタシがあんな人のことなんか!勘違いも甚だしいわ!!」
彼女は一気にそう捲くし立てたが、そこから先は言葉に成りきっておらず何を言っているのかよく分からなかった。は橙のその反応に、聞かなければ良かったと後悔する。

は初めてユリウスに会った時から、橙を見つめる彼の視線が、父親のそれにしてはいやに熱っぽいものであることに気が付いていた。そもそも彼が橙の父親であるという話について、信憑性はいか程だといえるだろうか。橙は記憶を失っているのだから、なんだっていくらだって、言い放題だ。確かに、ユリウスは橙を大切にしている。だが、それに何の見返りも求めていないと決め付ける事は出来るだろうか。
だから本当は記憶の無い真っ白な橙に、直接的ではないにしろそれとなく警戒心と危機感を持つように忠告をしておくべきかもしれないと、心の隅では思い続けていたのだ。部外者の自分がそこまでお節介を焼いて良いものか、は今の今まで悩んでいたが―――橙のこの反応を見てしまえば、この件についてはやはり他人が軽々しく踏み込んでいいものではないように思えた。

「ごめんね」
何とも思っていない風を装って謝るを、橙はただ恨めしそうに睨んで「何よ、何よ」とブツブツ言った。

はどうなの、彼とは」
彼、というのは恐らくピーターのことだろう。橙は自分に振られた話の仕返しであるように、ニヤニヤとに詰め寄った。この年頃の子が好みそうな話題ではあるが、先程から橙はユリウスが父親であるということを忘れているのだろうか?

「知り合い以上、友達未満。顔見知りという表現がちょうどいいんでしょうね」
は動じることなく、淡々と答えた。橙はその回答がよほどつまらなかったのか、不満そうに唇を突き出す。

「そんなの、つまらないわ」
「うん、顔を見ただけで君がそう思ってるってことはよく分かるよ」
が苦笑交じりに言う。橙はそれからもまだ勘ぐるような事を二・三口にしたが、の誘導で次々に話題を変えさせられていった。二人は歳相応の女の子らしく、のぼせる寸前までいろいろな話に花を咲かせた。橙は楽しそうにしていたが、はといえばおちおち楽しんでもいられない。いつ、例の話を切り出すべきか。そのことばかりを気にしていた。

「さ、そろそろ上がりましょ。もう喉がカラカラだもの」
話を引き延ばすことにが限界を感じ始めていた頃、橙はとうとう湯から上がってしまった。は慌てて飛び出て、その後を付いていく。少しだけ頭がくらくらした。橙が籠のタオルを手に取る。このままでは折角のチャンスも無駄になってしまう。この時は若干自棄になっていて、彼女の手を取ると、そのまま強引に振り返らせた。橙は目を丸くして驚いている。彼女の胸は、白かった。

「なっ、なに?」
「一つ訊きたいことがあるの。君は、“万年時計”を知ってる?」
言った。ようやく言った!はその問いを言い切ったとき、既にやり終えた気になり、安心感と達成感を味わっていた。しかし暫くの間の後、橙はもう一度、「なに?」を繰り返す。どうやら聞こえていなかったらしい。は内心肩を落としながら、今度はもう一度はっきりと、それを紡いだ。

「……君は、“万年時計”を知ってる?」
橙の顔は、驚いた顔のまま固まる。は彼女の口に全神経を集中させた。しかし意外に、橙の口は何事も無かったようにあっさりと開く。

「なに?」
最初、彼女は“それは何なのか”という意味で、そう言っているのではないかと思った。何も知らないという回答なのだと。しかれども、それにしては妙な違和感が残った。はもう一度、同じ問いを繰り返す。

「君は、“万年時計”を知ってる?」
「なに?」
「……“万年時計”を知ってる?」
「なに?」
は彼女の様子にある一つの結論を出して、青褪めた。


――――――時間が、これ以上先に進まない。

彼女の“なに”は、よく聞けばが腕を掴んで振り返らせたことに対しての“なに”のままだった。時間はがその問いを口にすると、それ以前まで遡ってしまう。足元に視線を落とせば、腕をつかまれた衝撃で橙が落としたタオルが、床すれすれに浮いている。

「万年時計を、」
「なに?」
何か変わるかもしれないと思い何度もその問いを口にした。けれど彼女の返答は次第に早送りになっていくだけ。無限ループ。まるで、ホラー映画のようだ。

「………なんでもない」
パサリと、タオルが床に落ちた。橙はようやく、「何よ、吃驚するじゃない!」と怒った。しかしが小さく震えているのに気が付いて、その肩に触れる。

「寒いの?大丈夫?」
その時は気が付いた。橙の手も、不安そうに震えていた事に。どうして彼女が一緒に風呂に入ろうなどと言ったのか。それはもしかして、彼女の精一杯の救難メッセージだったのかもしれない。彼女の心の奥に隠れた無意識下の彼女自身も、もう同じ一日を繰り返すことに限界がきているのかもしれない。彼女は、助けを求めているのかもしれない。

は肩に触れた橙の手に、自分の手を重ねた。



「大丈夫。これは、武者震いだから」
一度言ってみたかったの。このセリフ。
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